船呼ばい

壱原 一

 

幾日か雨が続いている。峠が崩れて道が埋もれ、麓から医者を呼ぶには舟で川を渡るほかない。


雨漏りのするあばら家で、湿気た布団に収まって、子供がぜいぜい喘いでいる。


細くやわい髪が汗でへばり、額も頬も真っ赤だ。夕べまで不快を訴えてしくしくのたうっていたのに、今朝はもう声が嗄れ、寝返りも打たない。


婆様は飲ませた薬湯の効きを焦らず待てと言う。効かねば天のお召しだからねんごろに送ってやれと言う。


なにをいう。


何を言うんだこの婆は。


俯く婆様を前に、憤然と立ち上がる。消沈してうなだれる女房を叱り、蓑と雨笠をまとう。


板間の暗がりに浮かぶ小さな布団を目に焼き付け、じっとりした木戸を引き開けると、土砂降りの雨音がなだれ込んできた。


降りしきる雨脚が、ざぶざぶと宙を洗って前も碌に見えない。


己を案じて引き留めたい。子供を憂いて行ってほしい。物悲しく苦しげな女房の肩を掴み、励まして、ぬかるみへ足を浸ける。


目を凝らし、両手を構え、足を摺って川原へ至る。広い川だが、お陰でこの雨にも水面は穏やかだし、何より渡り慣れている。


雨まみれで滑る櫂を握り、たぷたぷ波打つかさの中へ漕ぎ出した。


*


辺りにひしめく雨音と、足元を満たす川音で、耳が塞がる。目も利かない。


昼まだきの刻限の筈なのに、宵の口さながらに暗い。垂れ込める雲の具合ときたら、大きな熊か猪が体を横たえているようだ。


しきりに瞬いて目縁に溜まる雨粒を落とし、顔を険しくして対岸を睨み据える。


縦に斜めに走る雨の幕の奥に、丈高い棒切れがぼんやり見える。舟を寄せるための目印で、あれを目指して漕げば、対岸から麓へ下りて医者を呼びに行ける。


櫂を漕ぐ腕に力を込めたと同時、ふうっと雨音が遠のいた。周りが妙に軽やかに、そしてまた一層暗くなる。


異様に感じて空を仰ぐと、途方もない寸法の人影が、ちっぽけな小舟を見下ろしていた。


山が伸びたかと思うほど大きい。ざんざん降り注ぐ雨と、ただでさえおぼろかな日光を、まるきり遮っている。


子供が不器用に作った泥人形めいたなり。胴の割に頭が大きく、手足はひょろりとして、稜線は今ひとつ定まらずもやもやと揺らいでいる。


愕然と動けずにいると、そいつが手を伸ばしてくる。ぎょっとして、更に狼狽えることには、今の間に恐ろしく流されていた。


とんでもない失態に、肝が冷え切って縮み上がり、慌てて櫂を振るう。ここで流されては終いだ。幸いやつの動きはのろい。目印の棒切れも見えている。


莫迦に大きい手を避けて、強情な流れを遡る。あまりに意気を込めたので、腕と肩の筋がみしりと痛む。


一縷いちるの弱気が差した刹那、対岸に小さな灯が挙がった。人が掲げたくらいの高さで、こちらの注意を引く風に右へ左へと揺れている。


おうい。


おおーうい。


こっちだあ。こおっちい。


急げよう。早くう。


雨と川の音を貫いて、鋭いがらがら声が叫ぶ。きっと川向こうの者だ。場所がら横目に川上を見やるが、水面は依然おだやかで、鉄砲水の気配はない。


背後の化け物にたまげて、疾く逃げて来いと急かしているのだろう。


大声を聞き咎めたか、化け物がぐんにゃりたわみ、牛歩の動きを早めた。大きな手がのたのたと川下へ移る。舟を迎え受けて掬い取ろうという腹らしい。


追い迫る化け物を傘にして、いよいよ懸命に櫂を捌く。川はぼちゃぼちゃと流れる。傘の外でじゃらじゃら雨が降る。


早く。はあやくうーう。


急げよう。こおっちだよーお。


どんより暗い雨景色の先に、岸辺の草むらが近付く。目当ての棒切れが際立つ。膝まで草に埋もれた川向こうの者が、灯を掲げ、こちらの舟を呼ばわっている。


いいそげ、よおおーう。


こおっち、こっちいーい。


はああやくううう。


こおおっち、だよおーおお。


見える辺りの上の方から、大きな手の影が下りてくる。追い付かれる。掬い取られる。持ち上げられて、潰される。食われる。


焦りに焦って、必死になって、なりふり構わず櫂を漕いだ瞬間、ぶちっと嫌な音がして、腕が垂れ、手が弛み、櫂が川面へ沈んだ。


川向こうの船呼ばいが、わあっと喜びの声に変わり、それからげらげら笑い出す。


なぜ笑う。


おどろき腹を立てる前に、舟ががくんと横へ倒れ、眼下はごうごうの暗闇。垂直に落ちる川の音、壺で待ち構える水しぶき、押し込めるような木の茂みと、苔むした岩々が一息に迫る。


どうして。


いつの間にこれほど流された。確かに遡った筈なのに。


目印の棒切れを目指したのに。灯と呼び声を目指したのに。岸を目指していた筈なのに。


船べりから放り出され、突き出た枝に当たって、一転ひるがえり天を向く。


徒手を握って肩を落とす大きな人影が見えた。


荒々しい水の音が、頭の中まで流れ込み、後は何も分からなくなった。


*


子供がふっと目を開けて、合わせていた両の手を離し、立ち上がって祠へ背を向ける。


ちょうど歩いてきた女房が、物憂く不安そうな風情で、毎朝毎夕感心だねと、すっかり大人びた子供に告げる。


「お前、一から十まで無理して真似せずとも良いんだよ。生き物を殺すのは苦手だろう」


使い込まれた道具を負って、子供は頑なに首を振る。


己を思いやって雨の中とびだしていった。持ち主はもう帰らないだろう。


少しでも多くとって、食い扶持を稼がなくてはいけない。


行ってくると言い置いて、子供は裏手の山へ向かう。


山中で狐狸が吠える。


祠で地蔵が見ている。



終.

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船呼ばい 壱原 一 @Hajime1HARA

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