午後7時

小学校の話です。4年生以降の児童は、任意に特設クラブへ参加できます。放課後や休日に運動や文化活動を行います。陸上競技、ミニバスケットボール、吹奏楽、合唱などです。

児童は、4年生の時、同じ学級の児童2名に誘われて、合唱クラブへ加入しました。

合唱クラブは、地域のコンクールの入賞争いの常連でした。このため、定期的に外部講師から集中指導を受けていました。

事前に保護者の承諾を得て、午後7時まで指導を受けます。

午後7時過ぎ、使用した音楽室の後片付けを終えたら解散します。校内は、音楽室最寄りの昇降口を除いて施錠消灯が済んでいます。児童は特設合唱クラブ員のみです。

児童らは、保護者の迎えの車で、または近所同士つれだって徒歩で下校します。

当日、児童の1名は、講師から、自身の鍵盤ハーモニカを持ち帰るよう指示されていました。ソプラノ、メゾ、アルト等、声域ごとのパートに分かれて練習する際の自パートの伴奏を、自宅で身に付けるためです。

したがって児童は解散後、下校する他の児童をよそに、自身の鍵盤ハーモニカを持ち帰るべく教室を目指しました。

児童は普段、近所同士の1名と連れ立って徒歩で下校しています。保護者から懐中電灯を持たされています。

懐中電灯を点した後ろから、当の1名に同行を申し出られました。

よって懐中電灯を手に、2名で教室へ向かいました。

*

夜の学校って怖くない？

怖い。電気つけちゃおうか。

音楽室は1階です。教室は3階です。消灯後、児童によるスイッチ操作は禁じられているので、暗いまま階段の上り口へ着きました。

階段は塗装の剥げたコンクリート製です。金属製の手すり柵が備わっています。どちらも硬く、角ばっているので、転んでぶつかり怪我をする児童が大勢います。

古いので仕方ありません。

上り口で階上を仰ぐと、1階と同じように、2階と3階でも、非常口誘導灯の緑色と、消火栓表示灯の赤色が、ぼんやり光っているのが手すり柵の奥に見て取れます。

階段は、半分のぼった後、踊り場で振り返って、もう半分を上ります。

上に用務員さん居るかな。

居ないんじゃない。鍵閉め終わってるし。分かんない。行こう。

うん。早くいこ。

懐中電灯で照らすと、そこばかりが眩しくなり、却って周りが暗がりへ沈むようでした。

ぱたぱた上履きを鳴らして2階を過ぎ、3階へ至る階段の半分を上った時、踊り場でねえねえと声が降って来ます。

つられて3階へ振り返り、懐中電灯を持ち上げた先で、俯せの児童が柵越しに笑顔を覗かせていました。

今この瞬間まで一緒に階段を上っていた児童です。

驚いて傍らを見ると、児童は隣に立っていました。

柵越しの児童を見上げ、顔面を強張らせ、頬をぶるぶる震わせています。柵越しの児童は笑っています。

ねえねえ、何してるの。

隣の児童は瞬く間に手足まで震え、ぽろぽろ泣き出しました。児童は、柵越しの児童と隣の児童を見比べて、困って、うっかり、懐中電灯を持っている方の手を、隣の児童に伸ばしました。

ねえねええ、なぁにしてるのお？

明かりを逸らしてはいけなかったかもしれません。3階の柵の辺りから、先ほどより間延びした声が踊り場に向けて下りて来ます。

なめらかに下りて来て着地します。

ねえねえ何してんのって。

着地した床の辺りから、苛立った険しい声がして、児童が息を呑むと同時、隣の児童に突き飛ばされました。

階段の半分を落ちて、2階の上り口でうずくまる間に、隣の児童が3階へ上り、教室の戸をがらがら開けて、閉めて、下りて来る音がしました。

大丈夫？立てる？取って来たから、帰ろ。

心配そうな表情で、恐る恐る助け起こされ、児童は、鍵盤ハーモニカを取って来た児童と、普段通り連れ立って下校しました。

*

翌日、児童の家へ、鍵盤ハーモニカを取って来た児童の親が、菓子折りを持って謝りに来ました。

いわく、我が子に、夜の学校が怖くて混乱し、児童を階段から突き飛ばしたと聞かされたそうで、平身低頭の恐縮ぶりでした。

児童の親は寝耳に水で、大した怪我がなかったからと、この件を親へ知らせていなかった児童を、厳しく叱りました。

保護者らと教職員らで、特設合唱クラブの活動が午後7時終わりは遅すぎると話し合われ、午後6時までに繰り上げられました。

鍵盤ハーモニカを取って来た児童は、特設合唱クラブを辞めて、学習塾も辞めて、そろばん教室も英会話教室も辞めて、学校を休みがちになりました。

小学校を卒業し、中学校に入学すると、髪を染め、鼻と唇にピアスを開けていました。

中学校を卒業する時、同級生らとカラオケへ行った帰りに、後ろから肩を組まれて、ねえねえ、何してんのと声を掛けられました。

暇ならこれから遊びに行くべと笑顔で誘ってくれましたが、門限だからと断って、それきりになりました。

誰と聞けませんでした。

終．