第54話 GW3日目(2)これって、恋なのかな

 出だしからトラブルが起こってしまったデートだったが、俺は気を取り直して美玖とゆっくりお台場を散策した。


 最初に向かったのは遊園地の観覧車。お台場のシンボルとも言えるそれに乗るため、列に並んだ。美玖を落ち着かせてやりたいと思ったからだ。カップルや家族連れが周りを囲む中、俺たちは何気なく手を繋いだまま、静かに話をする。


「お台場って、いつも人がたくさんいるんだな」


「うん、色んなものがあるからね。観覧車とか海とか、写真映えするスポットも多いし」


「そうだな。美玖も写真映えしそうだしな。後で俺だけの撮影会でもするか」


「……ヒロっち、恥ずかしいからそういうのやめてよ」


 そう言いながらも、美玖は嬉しそうだ。少しずつ、いつもの彼女らしさを取り戻しているのが分かる。


 観覧車に乗る順番が来た。俺たちはゆっくりと揺れるゴンドラに乗り込んだ。

 以前乗ったのは東京ディスティニーランド。その時は向かい合わせに座ったが、今度は隣に密着する形で乗り込んだ。寄り添って手をぎゅっと握ったまま、ゴンドラは上昇していく。窓の外には東京湾と、遠くにレインボーブリッジが見える。


「ヒロっち……」


 密着したまま俺の胸に顔をうずめる美玖。


「なあ美玖、景色、めちゃくちゃ綺麗だぞ」


「見てみる」


 美玖は俺からあまり離れずに、ひょこっと顔を出して景色を眺める。


「わぁ……すごい綺麗」


「だろ?」


 ふと美玖に目をやると、ベタだが彼女の横顔がその景色以上に美しいと思ってしまった。


「ちょっとは落ち着いたか?」


「うん。やっぱりヒロっちは私の精神安定剤だね」


「人を薬扱いするな」


 『ていっ』と美玖のおでこに軽くチョップをする。


「いたたっ……ふふふ」


 美玖の笑顔が段々と戻ってきた。


「やっぱり、久しぶりにこうやって出かけてよかった」


 すっかり落ち着いたようだ。

 俺はカバンから、持ってきたインスタントカメラ『撮るんです』を取り出す。


「あ! 『撮るんです』だ! ヒロっち流石~! ねぇねぇ、ここで一緒に写真撮ろうよ。ここなら背景もバッチリだし」


「もちろん。美玖と一緒なら、どこでも映えるだろうけど」


「もう、ヒロっちってば!」


 彼女は俺の肩を軽く叩いた。だが、そんな何気ないやり取りが、心地よかった。いくつか写真を撮りながら、ゴンドラがゆっくりと頂上に近づき、俺たちは高い位置から東京の景色を見下ろしていた。都会の喧騒から少しだけ切り離されたこの空間が、二人だけの特別な場所に感じられた。


「はぁ、落ち着く~。こういう時間って、大事だよな」


「うん、私もこうやってヒロっちと一緒にいられて、すごく嬉しい」


 美玖はまた俺にの隣に寄り添い、そっと肩に頭を預けた。俺はその温かさを感じながら、彼女の髪を優しく撫でた。


「さっきはびっくりしたけど、もう大丈夫」


「それなら良かった」


 観覧車がまたゆっくりと地上に近づいていく。さっきの緊張感が嘘みたいに、俺たちは静かに、だけど確かに繋がっている感じがした。




 観覧車から降りた俺たちは、そのまま遊園地の広場へと向かっていた。お台場の広い敷地の中には、様々なアトラクションやショップが並んでいて、高校生のデートにはもってこいの場所だ。


「ヒロっち、こっちに行こうよ!」


 美玖は俺の手を引っ張りながら、色んな店を見て回りたがっていた。さっきと違ってテンションが高い。さっきのナンパの出来事を引きずらないでいるようで、少し安心していた。


「おっ、あれ可愛い! ねぇ、ヒロっち、見て見て!」


 美玖が指さす方向を見ると、ショップのウィンドウに可愛い小物がずらりと並んでいる。キーホルダーやアクセサリーが多く、どれもデートスポットならではの雰囲気を醸し出していた。特に目を引いたのは、カップル向けのペアアイテムだった。


「ん? ペアキーホルダーか?」


「そう! お揃いのキーホルダーとか、私たちにピッタリだと思わない?」


 美玖がそう言って、俺の腕をぎゅっと抱きしめてきた。しっかりと彼女のやわらかい部分が押し付けられる。それだけで俺の鼓動は早くなってしまう。彼女の前では、自分が40過ぎのオッサンであることを忘れそうになってしまう。


「ペアか。確かに、お揃いってなんかいいよな。前に買ったブレスレットも今日してきてるし」


 ブレスレットを着けた腕を出すと、美玖も同じようにブレスレットを着けた腕を重ねてくる。


「そうでしょ? だから、今度はキーホルダーとか、他にもお揃いのものが欲しいなって思ってたの!」


「キーホルダーか……まあ、悪くないか。何かいいやつ選んでくれるか?」


「もちろん! でも、ヒロっちも良いのがあったら教えてね」


「んー、あ、そうだ。せっかく携帯を買ったんだし、携帯のストラップなんてどうだ?」


「おお、ヒロっちそれはナイス提案だよ! お揃いのストラップ!」


 手を繋いだまま、俺たちはショップを物色していく。美玖は嬉しそうに、いくつかのアイテムを見比べている。小物を手に取っては真剣な表情を浮かべ、次々と選別している姿は、モデルの仕事をしている彼女らしいなと感じた。


「これ、どう? シンプルでカッコいいし、ヒロっちにも似合うと思う!」


 美玖が選んだのは、シルバーの十字架があしらわれたストラップ。シンプルでありながらお洒落なデザインで、俺の好みにもピッタリだ。


「お、いいじゃん。確かにシンプルで飽きが来なさそうだし」


「でしょ? じゃあこれに決まり! お揃いのストラップ~」


 美玖はニコニコだ。

 二人でペアストラップを購入した後も、美玖は次々とお店を回りたがった。彼女はウィンドウショッピングが好きらしく、店の外に並ぶ服やアクセサリーに興味津々だった。


「そうだ、ヒロっち。今日せっかくだから、服も買わない?」


「服?」


 美玖がじっと俺の服装を見てくる。今日のコーディネートは特に問題はないと思っていたが、美玖としては不満があるのだろうか。


「いや、ヒロっちはカッコいいけど、もう少し今風にしたらもっと素敵だと思うんだよね。私、選んであげるからさ、行こうよ!」


 強引に引っ張られながら、俺はしぶしぶ服屋に連れて行かれる。彼女が選ぶ服なんて、どうせ自分には似合わないだろうと思っていたが、試着室から出た俺を見た美玖の表情を見て、それが間違いだったことに気づいた。


「うわっ、ヒロっち……すっごく似合う! ねぇ、鏡見て!」


美玖が選んでくれたのは、黒のジャケットにどこかストリートっぽい雰囲気のTシャツ、少しワイドなジーンズ、そしてシンプルなキャップ。全体的にカジュアルな雰囲気を持ちながら、どこか洗練された感じがする。


「確かに……悪くないな」


 自分ではあまり意識していなかったが、スポーツに打ち込んだ細マッチョな体とそれなりに高い身長で、俺は『だいたい何を着ても似合う男』になっていたのだ。


「へへっ、でしょ? これで次のデートもバッチリだね!」


 彼女は得意げに笑いながら、俺を何度も見上げてくる。その姿が愛らしくて、思わず俺も笑ってしまった。




 お台場でのデートも終盤。俺と美玖は、屋台が立ち並ぶ通りを歩いていた。遊園地やショップ巡りでひたすら楽しんだ後、少しお腹も空いてきたところだ。美玖の足取りは軽く、俺の隣を歩きながら、あちこちの屋台を興味津々に眺めている。


「ヒロっち、あそこのたこ焼き美味しそうだね!」


 美玖が指差した先には、屋台のたこ焼きが湯気を立てている。香ばしい匂いが漂い、たこ焼きのソースが食欲をそそる。


「いいね、たこ焼き。行こうか!」


 俺が笑顔で答えると、美玖はうれしそうに頷き、二人でその屋台に向かった。注文を済ませると、店のおじさんが手際よくたこ焼きを作ってくれる。美玖はその様子を興味津々で見つめていた。


「たこ焼きって、どうしてこんなにおいしそうなんだろうね。見てるだけでお腹が鳴りそう」


 美玖がそう言うと、ちょうどたこ焼きが焼き上がり、おじさんがソースをかけると、湯気とともに香ばしい香りが漂ってきた。


「お待たせ!」


 屋台のおじさんが渡してくれたたこ焼きを二人で分け合いながら歩く。美玖は一口かじると、目を大きく見開いて声を上げた。


「んん! 熱っ!でもおいしい!」


 少しふーふーしてから、また一口。


「やっぱりこういう屋台のご飯って、特別だよな」


 俺も一口食べる。外はカリッとして、中はふわふわ。美玖の言う通り、アツアツだが旨い。


「ヒロっち、あれも食べたい!」


 美玖が次に目をつけたのは、屋台の焼きそば。屋台のあちこちに彩られたお祭りのような雰囲気は、まるで二人だけの特別な時間を演出しているかのようだ。次々と目に映る食べ物に美玖がテンション高く反応する姿を見て、自然と笑みがこぼれる。


「そんなに食べて大丈夫か? 昼も結構食べただろ」


 そう、昼はレストランでパスタやサラダを食べたのだ。割としっかりと。

 俺が少し心配して言うと、美玖はふくれっ面をしてみせた。


「だって、今日は特別なんだもん! ヒロっちと一緒なら、全部おいしく感じるんだよ!」


 無邪気に笑う美玖の顔を見ると、その言葉に嘘はないんだろうと感じる。俺も思わず笑ってしまう。


「分かったよ。じゃあ、次は焼きそばに行こうか」


 俺が言うと、美玖は嬉しそうにまた手を引っ張って、焼きそばの屋台へと向かった。焼きそばを買ってから、二人でベンチに座り、ゆっくりと食べ始める。


「ねえ、ヒロっち、次はどこ行こうか?」


 焼きそばを食べながら、美玖がふと聞いてくる。夕暮れ時の空は、少しずつ夜へと色を変えていく。


「そうだな、暗くなってきたし、夜景を見に行こうか」


 お台場といえば、やっぱり夜景が綺麗だ。そんな提案をすると、美玖は大きく頷いた。


「夜景かぁ……ロマンチックだね。ヒロっち、私と夜景なんて見て、本当に大丈夫? ドキドキしちゃわない?」


 美玖はいたずらっぽく微笑んで俺を見る。


「まあ、するだろうな。そっちはどうだ?」


 俺が軽く返すと、美玖は笑いながら、ほんの少しだけ顔を赤くして焼きそばを食べ続ける。


「私も、しちゃうよ」


 美玖は小さく答えた。




 どこにでもあるたこ焼きや焼きそばも、美玖と一緒に食べるとなんだか特別なものに感じる。ファストフードや屋台飯は普段なら何気ない食事だが、美玖と一緒に食べることで、それぞれの味わいがより深く感じられる。ドキドキがスパイスのように作用するのだろうか。


「ごちそうさまでした」


 食事を終えた美玖がぽつりと感謝の言葉を口にする。その何気ない仕草だけでも、ドキッとしてしまう。俺は美玖に惹かれている自分に気づいていた。


「さあ、夜景の方に行こうか」


 美玖が頷き、俺たちは夜景を求めて歩き出した。




 辺りが段々と暗くなり、お台場の象徴的なレインボーブリッジが、目の前で点灯して輝き始めた。美玖と俺は、海沿いの遊歩道をゆっくりと歩きながら、都会の光が水面に反射する美しい夜景を眺めていた。日中の活気ある雰囲気とは打って変わって、夜の静けさが俺たちを包み込んでいる。


「ねえ、ヒロっち、見て! めちゃくちゃ綺麗じゃん!」


 美玖が満面の笑みで指を差す。夜景の前で無邪気に笑う彼女の姿は、いつも以上に輝いて見えた。


「そうだな。こんな綺麗な夜景、なかなか見れないよな」


 俺も彼女と同じ景色を見つめながら、そう返す。


「でも、夜景よりもヒロっちとこうして歩いてる方が……私にとっては特別かな」


 美玖の声が少しだけトーンダウンして、普段の明るさから急にしっとりとした響きに変わった。俺は一瞬、彼女が何を言いたいのか分からず、視線を横に移す。


 美玖の目は、夜景ではなく俺をじっと見ていた。その真剣な瞳に、一瞬だけドキッとする。


「美玖……」


 俺が何かを言おうとした瞬間、彼女は突然、俺の手を握り、ギュッと力を入れて引き寄せた。


「私さ、ヒロっちともっとこうして一緒にいたい。離れたくないんだ」


 彼女は真剣な表情のまま、俺を見つめ続けている。これまでの楽しいデートの空気が、一気に緊張感を帯びたように感じられる。


「俺も……美玖と一緒にいるのは楽しいよ。でも、焦る必要はないだろ?」


 俺は彼女を安心させようと思って、そう言葉を選んだが、美玖は微笑みを浮かべながら、首を横に振った。


「焦ってないよ、ただね、私は我慢なんてしたくないだけ。マナミンみたいに遠慮とかできないし……私、ヒロっちのことが本当に大好きなんだもん」


 その瞬間、彼女は俺の手をさらに引き寄せ、俺の肩に頭を預けるように寄りかかった。


「美玖……」


 俺は、どう返していいか分からず、ただ彼女の肩越しに夜景を見つめるしかなかった。


 しばらくの間、二人の間に沈黙が流れた。けれど、それは重苦しいものではなく、どこか心地よい静けさが漂っていた。美玖の体温が伝わってくる感覚は、今までとは違う特別な感情を俺の中に芽生えさせた。


「ねえ、ヒロっち……」


 突然、美玖が顔を上げ、俺の目をじっと見つめてくる。彼女の顔は夜の光に照らされて、とても綺麗だった。


「ん? どうした?」


 俺が聞くと、美玖は少しだけ悪戯っぽく笑いながら言った。


「ねえ……キスしてもいい?」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の心臓がドクンと大きく跳ねた。


「え……」


 驚きと戸惑いで言葉が出ない俺に構わず、美玖はさらに言葉を続けた。


「聞いたよ。マナミンはキスしないって言ってたんでしょ? でも、私はそんなの我慢できないもん。遠慮もしないから、覚悟してよね、ヒロっち!」


 彼女はそう言うと、何もためらうことなく、俺に顔を近づけてきた。


 一瞬、彼女の唇が俺の唇に触れた。


 柔らかくて、温かい感触が、心の奥まで染み渡るように感じた。思わず目を閉じてしまう俺を感じ取ったのか、美玖はさらに優しく唇を重ねた。周りの時間が止まったかのように、二人だけの世界に閉じ込められたような錯覚さえ覚える。


 優しく甘く、それでも貪り合っていた二つの唇が離れ、銀の糸がツーッっと消えていく。


「やっぱり……ヒロっちって、キス上手いよね」


 美玖が小悪魔的に微笑みながら、俺の顔を見つめる。


「いや、そんなことないだろ」


 俺は照れくさくて、顔を背けようとするが、美玖はしっかりと俺の腕を掴んで離そうとしない。


「もう、顔を背けないでよ。今夜は私と一緒なんだから、もっとちゃんと見つめてて」


 美玖が甘えるように言うその言葉に、俺はただ笑うしかなかった。


「分かったよ、美玖。今夜はお前のペースに付き合うよ」


 そう答えると、美玖は満足そうにまた俺に寄り添ってきた。夜景が美玖の背後で輝き続ける中、俺たちはそのまましばらく黙って夜の街を眺めていた。




 しばらくして、俺は美玖を家まで送るため、二人でゆっくりと歩き始めた。

 道すがら、俺たちはほとんど言葉を交わさなかった。ただ、美玖は俺の腕にしっかりと自分の手を絡め、身体を寄せて歩いている。その様子に、俺は何も言わず、彼女のペースに合わせてゆっくりと歩を進めていた。


「ねえ、ヒロっち……」


 不意に、美玖がぽつりと口を開いた。


「ん? どうした?」


 俺が顔を向けると、美玖は少しだけ視線を下げたまま、何かを考えているようだった。


「今日は楽しかった?」


 美玖の声には、いつもの明るさではなく、どこか不安な響きがあった。その瞬間、俺は美玖の心の中で何かが揺れているのを感じた。


「もちろん楽しかったよ。美玖と一緒にいる時間は、いつも特別だから」


 俺は素直に答えた。それが本当の気持ちだった。


「そっか……よかった」


 美玖は安心したように笑顔を見せたが、その目はまだどこか切なげだった。夜の街灯が彼女の顔を照らし、その影がかすかに揺れる。


「でも、ね……私、もっとヒロっちに近づきたいんだ。もっと、私だけを見て欲しい……」


 美玖が弱々しい声で呟いた。いつもの自信満々な彼女とは違い、その言葉には深い不安と切実な願いが込められていた。


「美玖……」


 俺はその言葉を受け止めるが、どう返すべきか分からなかった。俺自身、心の中で彼女への特別な感情が芽生え始めているのは感じていた。だが、それを明確に言葉にするのはまだ早いような気がして、ためらってしまう。


 美玖はそれに気づいたかのように、そっと俺の腕を離して一歩距離を置いた。そして、ふっと微笑んだ。


「ごめんね、なんか変なこと言っちゃった。私、ヒロっちのことを大好きすぎて、ちょっと焦っちゃったのかも……」


 その微笑みは、少し寂しげだった。いつも強気で、何でも自分から動く美玖が、こんなに脆く見えるのは初めてだった。


「美玖……お前の気持ちは分かってるよ。でも、今はまだ……」


 俺はなんとか言葉を絞り出しながら答えた。


「うん、分かってる。でも、遠慮するつもりはないから。私はマナミンやクロちゃんとは違う。遠慮とか、我慢とか、そんなの私のスタイルじゃないもん」


 美玖はそう言って、再び俺の目を見つめた。その瞳には、もう先ほどの不安はなく、決意に満ちた光が宿っていた。


「……だから、覚悟してね、ヒロっち。私はこれからも、ずっとこうやってグイグイ行くよ。ヒロっちが私だけを見てくれるまで、絶対に諦めないんだから」


 美玖の強気な笑顔が戻った瞬間、俺は彼女がどれだけ真剣に俺のことを考えているのかを改めて実感した。いつも軽く見える言動の裏には、こんなにも深い想いが込められていたのかと。


「美玖……」


 俺は思わず彼女の名前を呼んだ。何を言おうとしているのか、自分でも分からなかった。ただ、美玖の真剣な気持ちを無視することはできなかった。


「だから、ね……キスとか、もっとしたいんだよ」


 突然、美玖が俺の胸に顔を埋めるようにして言った。俺のシャツの胸元に彼女の温かさが伝わる。


「ヒロっちのこと、私が一番にしたいんだから……もっと触れていたい、もっと近くにいたい……それが私の本音」


 彼女の声がかすかに震えているのが分かった。俺は無意識に彼女の肩に手を置き、そっと抱きしめた。


「美玖……お前の気持ち、ちゃんと伝わってるよ。でも、焦らなくていい。俺も美玖のこと、特別だと思ってるし、だからこそ、ちゃんと大事にしたいんだ」


 俺がそう言うと、美玖はゆっくりと顔を上げて、じっと俺の目を見つめた。


「……ほんとに?」


 その言葉には、純粋な期待と不安が入り混じっていた。


「ああ、だから……これからも一緒にいよう。焦らず、ゆっくりでいいからさ」


 俺はそう言って、美玖の髪を優しく撫でた。


「……ヒロっちって、ほんとに優しいよね。だから好きなんだよ……」


 美玖がそう言って微笑んだ時、俺は彼女の顔が少し赤くなっているのに気づいた。




 美玖の家の前に着いた。アパートの玄関には明かりが温かく灯っていて、彼女が帰る時間が近づいているのを感じた。


「……ありがとう、ヒロっち。今日は本当に楽しかった」


 そう言うと、美玖は俺の胸にもたれかかった。


「俺も楽しかったよ。また、こんな日があるといいな」


 俺がそう答えると、美玖は顔を上げニヤリと笑った。


「次はもっとラブラブにしちゃうから、覚悟してね!」


 彼女の笑顔に、俺は思わず笑ってしまった。


「お前、ほんとにグイグイくるな。まぁ、いいけどさ……それが美玖らしいし」


 俺がそう返すと、美玖は満足そうに頷いた。


「じゃあ、またね、ヒロっち。またすぐに会えるでしょ?」


 美玖が軽く手を振って、玄関に向かう。俺はその後ろ姿を見送りながら、胸の中で芽生えた新しい感情に戸惑いを覚えていた。


 美玖の特別な存在感。それが俺の心に深く刻まれた瞬間だった。


「ああ。おやすみ、美玖」


 前の人生での元妻との長い不仲な生活、そしてブラック企業での仕打ち。

 壊れてしまった俺の心が少しずつ修復されているのを感じる。


「これって、恋なのかな……」


 俺は小さく呟き、彼女が家に入るまでその背中を見つめ続けた。

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