九十日目

 今日も雨が降っている。そろそろ夜が一番長い時期に差し掛かっていて、何より――もしも美桜みおが元気であれば、あの子の誕生日ももうすぐだ。しかし警察からは何の続報もなく、俺の心は目に見えてすり減っていた。

 警察と言えば、広瀬ひろせという刑事さんが言っていた最上天道さいじょうてんどうさんの事故の件、あれから警察の連絡はきていない。てっきり家宅捜索かたくそうさくか何かで警察が押しかけてくると思っていたんだが。

 ――しかし、そんな些末さまつなことはどうでもいい。明奈あきながもっと大変な目にっていた。


『えっ、明奈が、階段から――!?』


 義父から連絡があり、明奈が実家の階段から転げ落ちて入院してしまったと。足首をひどくひねった以外、母子ともに無事だったのは不幸中の幸いだったと、義父が伝えてくれた。

 玲央れおうしない、美桜は消え、明奈が倒れ、挙句あげくの果てにまだ見ぬ我が子まで神の国へと連れていかれてしまえば、今度こそ俺の――そして明奈の心は粉々に砕け散ってしまう。

 そうならなかったことを喜ぶべきなのは分かっていても、俺たちが置かれた現状を考えるとどうしても素直に心を安んじられない。

 雑念だらけの俺は今、珍しく舞い込んできた大型案件の依頼メールへの返信を書いている。この所仕事量も少なくなってきて生活に不安が生じてきていたから本当に助かる話だ。しかしやはり他のことに気を取られているせいだろう、返信の文面が中々まとまらなかった。何とか送信を終えた時には、すでに脳と目と首と指が休息を訴えてきていた。

 何も考えられない頭と焦点の定まらない視線でPC画面を見つめていた俺の耳に、階下からインターホンの音が鳴り響いた。


「……ん……誰だ、一体……」


 俺はまるで意思なきゾンビのようにフラフラと階段を降り、誰がきたのか確認した。画面に映ったのは、やつれた顔をした水島みずしまさんだった。


《今さら済まん。君に大事な話があるんや。どうか聞いてくれんか》

「……あなたたちとお話することはこちらにはありません」

《頼む、後生ごしょうや、聞いてくれ。この通りや、土下座どげざでも何でもする、いや、します》

「……大事な話とは一体何でしょうか」

《石碑と、わしら自治会のことについてや。ホンマに今さらやとは思うが聞いて欲しい》


 俺はそのまま無視してインターホンを切り、お引き取り願おうと思ったが、ここまできたらもう水島さんでも誰でも、文句の一つや二つをぶつけても構わないという気持ちがふつふつと湧き出てもきた。一瞬だけ逡巡しゅんじゅんしたあと、俺は家の門を開けて水島さんを招き入れた。


 日中も肌寒さが際立ってきた時期、家に招き入れて何も出さないというのも気持ち悪いので俺は面倒だと思いつつ緑茶をれて出す。水島さんはリビングの椅子に浅く座り、所在なげに座って膝を軽く揺すっていた。その表情には緊迫きんぱく感と罪悪感がないまぜになっている。


「それで、お話とは」

「うん……先ず土田つちださんや木下きのしたさんの葬儀に君を呼ばんかったことについて、わし個人として謝罪する。あれはな――」

「その話はすでに伺っておりますし、水島さんに謝罪の必要はありません。他にご用件は」

「あ、ああ……火戸ひど君から聞いたんやったな。ほなら、その火戸君から他にどんなことを?」

「とりとめもない話ですよ。主に七五三しちごさんのことを教えていただいたり、ですかね」

「自治会が今真っ二つに割れている、という話は?」

「……さあ、正直私には興味がないので」

「そうか……いや、ホンマに済まなかった。今日はそんな話をしにきたんやなくての」


 そこで水島さんは一口だけ緑茶に口をつけ、喉を湿らせる。神妙な面持ちは崩れていないが何やら思い詰めた表情が際立ってきていた


「……これから話すことは、本来なら君には伝えてはならんことやった。しかしことがここに至っては、もはやそないなことをしとる意味もない。先に言うておくが、この話を聞いた君にどれほどの罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせられようと、わしは甘んじて受けよう。せやから、どうか君に、怒りをしずめて欲しいんや。許して欲しいんや」

「……おっしゃっている意味が分かりませんし、本題を聞く前に怒りをしずめるとか許すとかもない。すべてはお話の内容次第です」

「……そうやな。わしとしたことが、自分のことしか考えとらんかった。君の言うとおりや」

「確認したいのですが、その話をお伺いすることで、水島さんが前にこの家から逃げるようにいなくなり、説明をするといって結局今まで何の連絡もなかった理由、そして土田さんを始め自治会の皆さんから何故冷たく当たられるようになったかの理由などの疑問は晴れますか」

「恐らくな。わしは包み隠さず説明させて貰うつもりや」

「ではお伺いします。特に金本さんが何故あんなことになったのか、興味はありますので」

「――分かった。んじゃ、落ち着いてよく聞いてほしい」


 そういって水島さんは重苦しい空気を振り払うこともなく、そのまま重苦しく語り始めた。


 ~~~~~~~~~~~~~~~~


 そもそも、君も家を購入する際に疑問に思ったかもしれんがな、この敷地と石碑が切っても切り離せんというんは、ただの方便やった。嘘じゃあらへんけど〝公共の土地とするには〟と但し書きが入る。手続きが煩雑はんざつやし、分筆ぶんぴつして登記簿とうきぼも色々やらなあかんから面倒やけどな、切り離すこと自体はやろうと思やあできるんや。じゃあ何故この土地から離さんのかというと〝自分らがやくをひっ被りたくない〟に尽きる。つまり、この土地の主にそういうんを押し付けてしまおうっちゅうんが魂胆こんたんやった。


 何でそないな話になるかっちゅうんは、これも長い話になるが聞いて貰いたい。元々ここは江戸時代から続く大地主が持っとった土地やったのは土田さんから聞いとったな。詳しい話はわしもホンマに分からんのやが、石碑はこの土地に勧請かんじょうされた――早い話が招かれた氏神うじがみ様をまつっとるもんやった。元々この一帯はその大地主さんが持っとった農地やったらしくてな……水害が頻発ひんぱつしたもんで、それをしずめるためと称して勧請かんじょうしたと、わしは爺から聞いておった。ただ、その氏神うじがみ様は大昔に荒御魂あらみたまやったっちゅう話で、人々から恐れられてまつられ、捧げ物を贈られたりして人々の暮らしに寄り添っていただいた結果、信仰が始まったそうや。水を操る力で川や水路の氾濫はんらんしずめていただくっちゅう、どこででもよく聞く由緒ゆいしょがあった。

 ただ、元々が荒御魂あらみたまやったもんで、タダで人間の願いを聞き届けるちゅうこともなかった。人身御供ひとみごくうをしとった時代もあったらしい。その供養として、敷地内の個人墓地を持っていたと聞いたことはあるが、わしも詳しくは教えて貰えんかった。


 その家には一つだけいわくがあってな。〝この家に住まう男児おのこは数えで五つを生きられぬ〟という話やったということも聞いとる。ああ、玲央君についてはホンマに痛ましいことをした。ほんで、申し訳なかったと思うとる。わしらは、玲央君が亡くなった理由を知っとるからな。うん、君がそないして怒るのも痛いほどよう分かる。やけど今は座って、話を聞いて欲しい。終わった後でまだその気持ちがあるならナンボでも殴ってええから、今は頼む。


 実は、前に住んどった方の息子夫婦が、その息子二人……家主から見れば孫をな、相次いで亡くしとっての。偶然かは分からんがその兄弟は二人ともまんで五つを迎える誕生日の前日に、病をわずらって亡くなった。これは火戸君も知っとる話なんや。二人の子供の最期を看取みとったのは火戸君やってな。それで神経が参ったんやろう、息子夫婦は嫁方の実家に越していったんや。


 ともかく自治会の面々にはこういった話を信じとる連中が今も多い。土田さん、木下さん、金本さんなんぞは典型的やった。火戸君は完全否定しとったが、わしは半信半疑はんしんはんぎ程度やった。しかし、前のご家庭の子供が五つの前に次々と亡くなっていったんはまぎれもない事実やった。ほんで、周りのモンはそういうやくを背負いたくないと、全部この家に閉じ込めとった訳や。

 その代わり、この一帯は災害もなく、平穏で幸福な生活が約束される。洪水も地すべりも、凶作も虫害も起こらない……そう言い伝えられてきた。わしらはそれを守り伝えるため、この土地にあらゆるやくをひっかぶって貰っとった……ちゅうことや。


 次に、わしがあの時何を見たか――やな。

 実はな、この家の門の裏側に大きな石があるやろ。うん、てっぺんがちょっととがっちょる、あの石や。あの石の上にな……立っとったんや。何が、と聞かれても、説明のしようがない。どう形容したらええのか、言葉がまったく思いつかんのや。絵にも描けないおぞましさやった。君らが振り返った時には消えとったが、アレは間違いなくそこに〝った〟としか思えん。

 アレは間違いなくわしをにらんどった。いや、アレがにらめる訳がないのは理解しとるんやが、にらまれたという感覚が確かにあったんや。何を言うとるのか分からんか。わしにも分からん。とにかくこの世のものとは思えん何かやったことだけははっきりと言える。どう言葉にすればええのかさっぱりなだけなんや。頭ん中で雑音が入るみたいになるんよ。


 んで、それをわしは土田さんに相談したんや。ほんなら土田さんが『この話は他言無用』と言ってきてな。せやからわしは君に説明にくることがでけんかった。

 その後土田さんに呼ばれて『要石かなめいしがずれとる』と言われた時も、わしには意味不明やった。その時になって要石かなめいしがあったっちゅうことを知ったからな、わしも。どれがその要石かなめいしなんかはわしにも分からんのや、ホンマに済まんけどの。ともかくその時に『今後は石碑を供養しても意味がない。むしろ今の状態で祝詞のりとをあげればこっちに跳ね返ってくるかもしれん』なんぞと言われたもんやから、わしは流石さすがに恐ろしゅうなって、それから来れんようになってもうた。君のことを避けとったんも、こっちにやくが降り掛かってくるかもしれんと考えたら、どうにも顔も合わせられんかったんや。心の底からひどいことをしたと、今は思うとる。済まんかった。


 それが今になって話をしにきたのは何故か、か。うん、これも手前勝手で本当に済まんが、土田さん、木下さん、そしてこの間も金本さんが喉を詰まらせて亡くなったやろ。ああ、君は火戸君から聞いとらんかったんか。死因は心臓麻痺とかやのうてな、窒息死やったらしいわ。まるで溺死できしでもしたかのように、気管と肺に水が溜まっとったと言うとった。特にこの三人は君やご家族に対して強硬な態度で臨んどったのはわしも見とった。流石さすがにやり過ぎちゃうかと言うてはおったんやけどな、金本かねもとさんのアレがわしにとっては決定的やったな。浅ましいのは重々承知の上で、君に頭を下げて許しを乞うくらいしか、もうわしに助かる術はないやろうと思うて、こうして恥を忍んで話を聞いて貰っとる。


 その金本さんなんやが、土田さんが亡くなった時分から葬式でも道端でも『あれはのろいや、わしらは全員あの家に、あの子に殺されるんや』と言い始めてな。木下さんが亡くなった時は大騒ぎやった。通夜もえらいことになっとったしな。遺影いえいは割れるわ、柱がミシッパキッとか激しく音を立てるわ、香炉こうろまで割れるわで、ホンマに大変やったんや。しまいにゃ金本さんが廊下であの子を見たてパニック起こしてな、泡吹いて倒れてもうた。それからや、金本さんが強迫観念にとらわれて異常な行動をするようになったんは。


 最後に一つ、これも伝えておく。この家の敷地にある石碑とは別にな、土田さん、火戸君、木下さん、金本さん、そしてわしの家にもそれぞれ石碑がある。その石碑は君の家を取り囲むように建てられておってな、世話の仕方も君の家にあるモンとは異なっとるんや。その意味も済まんがわしには分からん。ただ、念入りにやくをこの家だけに閉じ込めとるちゅうのは、まず間違いないやろと思っていい。元々この石碑も昔の大地主の敷地にあったと若い時に聞いた。土地を分譲した時に、それぞれの家に分けられたっちゅう話なんやけどな、その理由も由来ゆらいもわしは聞かされておらん。ただそういうことがあったとだけ伝えておきたい。


 ここまで聞きゃあこの土地には悪意が渦巻いとるっちゅうのが分かるはずや。


〝美味しい所だけそっくり頂いて、厄介事は全部君らに押し付ける〟


 ――わしはもう、悔い改める。心の底から謝罪したい。ホンマに済まんかった。命惜しさに面の皮が厚いことをしてしもうたとは思うが、わしはホンマに後悔しとるんや。


 あと、火戸君なんやがね――

 あんまし信用せんほうがええ思うで。あの人が一番得体の知れん人や。色々わしらのことを言い立てたとは思うけどな、わしはあの人が一番恐ろしゅう感じとるよ。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 色々と信じがたい話を聞いた。水島さんが何度も頭を下げて謝ってきたのにも閉口したし、そんなことを聞いたからといって気分が晴れるなんてことも一切なかった。ただただ胸糞むなくそ悪い気分にさせられたのと、今後の身の振り方を真剣に考えないといけないという何も救われない現実を突きつけられただけだった。


「……せっかく自分の家が持てたと思ったのに――」


 俺はずっと自分の部屋で、何も開いていないPC画面の壁紙を見つめながら時を過ごした。日が西の山に隠れ、空を独占しているどんよりとした雨雲が暗灰色あんはいしょくから光を失っても、部屋の電気をける気にはなれなかった。時々変な異臭や不気味な気配が襲ってくるこの家も、今は何だか怖く感じられなかった。とにかく、何も考えたくなかった。

 蛙の鳴き声がどこからか聞こえてくる。季節外れかと思ったが意外とそうでもないらしい。普段なら鬱陶うっとうしいその音も、俺の黒ずんだ心を洗い流してくれる旋律のように聞こえてきた。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 夜がふけ、クロノアの様子がおかしくなった。とうとう陣痛が始まったらしい。俺は産湯を用意し、何が起きても大丈夫なように備えてからクロノアが引きこもっている押し入れの奥に意識を集中させつつ、彼女の邪魔にならないように細心の注意を払った。

 こうして何か他のことに気を回せるという状況が、今の俺にはありがたかった。


 明奈にはメッセージで『子猫が産まれそう』とだけ送っておいた。既読きどくマークはついたが、返事は返ってこなかった。少しさびしいが、彼女の状況を考えると仕方がなかった。

 数時間が経って日が変わり、丑三うしみつ時も過ぎ去った頃、押し入れの中の様子をうかがってみた。隙間から獣と血の臭いがつんと立ち込めていて、どうやら出産がもう始まっていたみたいだ。猫の出産は時間がかかるとどこかの記事で読んだので、あんまり彼女を刺戟したくはないが、少しだけふすまを開けて見てみると――


「あ、ああ――そんな――」


 俺は激しい衝撃と困惑と、悔恨かいこんの念に身を包まれた。


 クロノアは一心不乱いっしんふらんに生まれてきたばかりの子猫を舐めていた。クロノアの近くには合計で六匹の子猫が生まれていた――ただし、ほとんど動いていなかった。

 六匹のうち五匹は黒猫だったが、四匹が死産だった。残る一匹は三毛猫で、その二匹だけが必死に震えながら母親の体温を求めていた。クロノアは死んでいた子猫たちを起こそうとしてずっと舐め続けていた。胎膜たいまくとへその緒を噛みちぎり、早く起きなさいと言わんばかりに頭を舐め続けた。このままでは三毛猫もどうにかなってしまうのではという強迫観念にとらわれて、俺はその子猫をそっと手で抱き上げ、クロノアの鼻に寄せた。スンスンと臭いを嗅いだあと、その子たちを優しく抱きかかえてから二匹ばかりをずっと舐め始めた。俺はその間他の四匹を抱き上げた。

 俺はタオルに乗せた子猫たちをデスクの上に置き、自分の部屋のワーキングチェアに座って呆然ぼうぜんとも悄然とも唖然あぜんとも、そして憤然ふんぜんともつかない感情に身を委ねていた。

 最初からしっかり見守って、何かおかしいことがあればすぐに動く態勢を整えていれば……

 時々送りつけられる不思議なメッセージや、キッチンに立ち込める異様な悪臭、石碑を巡る自治会との衝突や美桜の幼稚園でのトラブル。さらには、そこから町内を巻き込んだ自治会の実権を巡る派閥争いの泥沼に足を引っ張られ、精神的、体力的に限界を越えていたとしても、やはり目の前で動かない生命を見ると、自分がもっとしっかりしていたらと痛感させられる。

 とりあえず後日、できれば明日にでも動物病院に連れて行ってクロノアと赤ちゃんの様子を確認しよう。その間、死んでしまった子猫たちはどうするか――


 結局俺は、何のなぐさめにも励みにもならないことにずっと思いわずらわされ、精神がごりごり音を立てて削り取られていった。

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