九十日目
今日も雨が降っている。そろそろ夜が一番長い時期に差し掛かっていて、何より――もしも
警察と言えば、
――しかし、そんな
『えっ、明奈が、階段から――!?』
義父から連絡があり、明奈が実家の階段から転げ落ちて入院してしまったと。足首をひどく
そうならなかったことを喜ぶべきなのは分かっていても、俺たちが置かれた現状を考えるとどうしても素直に心を安んじられない。
雑念だらけの俺は今、珍しく舞い込んできた大型案件の依頼メールへの返信を書いている。この所仕事量も少なくなってきて生活に不安が生じてきていたから本当に助かる話だ。しかしやはり他のことに気を取られているせいだろう、返信の文面が中々まとまらなかった。何とか送信を終えた時には、すでに脳と目と首と指が休息を訴えてきていた。
何も考えられない頭と焦点の定まらない視線でPC画面を見つめていた俺の耳に、階下からインターホンの音が鳴り響いた。
「……ん……誰だ、一体……」
俺はまるで意思なきゾンビのようにフラフラと階段を降り、誰がきたのか確認した。画面に映ったのは、やつれた顔をした
《今さら済まん。君に大事な話があるんや。どうか聞いてくれんか》
「……あなたたちとお話することはこちらにはありません」
《頼む、
「……大事な話とは一体何でしょうか」
《石碑と、わしら自治会のことについてや。ホンマに今さらやとは思うが聞いて欲しい》
俺はそのまま無視してインターホンを切り、お引き取り願おうと思ったが、ここまできたらもう水島さんでも誰でも、文句の一つや二つをぶつけても構わないという気持ちがふつふつと湧き出てもきた。一瞬だけ
日中も肌寒さが際立ってきた時期、家に招き入れて何も出さないというのも気持ち悪いので俺は面倒だと思いつつ緑茶を
「それで、お話とは」
「うん……先ず
「その話はすでに伺っておりますし、水島さんに謝罪の必要はありません。他にご用件は」
「あ、ああ……
「とりとめもない話ですよ。主に
「自治会が今真っ二つに割れている、という話は?」
「……さあ、正直私には興味がないので」
「そうか……いや、ホンマに済まなかった。今日はそんな話をしにきたんやなくての」
そこで水島さんは一口だけ緑茶に口をつけ、喉を湿らせる。神妙な面持ちは崩れていないが何やら思い詰めた表情が際立ってきていた
「……これから話すことは、本来なら君には伝えてはならんことやった。しかしことがここに至っては、もはやそないなことをしとる意味もない。先に言うておくが、この話を聞いた君にどれほどの
「……
「……そうやな。わしとしたことが、自分のことしか考えとらんかった。君の言うとおりや」
「確認したいのですが、その話をお伺いすることで、水島さんが前にこの家から逃げるようにいなくなり、説明をするといって結局今まで何の連絡もなかった理由、そして土田さんを始め自治会の皆さんから何故冷たく当たられるようになったかの理由などの疑問は晴れますか」
「恐らくな。わしは包み隠さず説明させて貰うつもりや」
「ではお伺いします。特に金本さんが何故あんなことになったのか、興味はありますので」
「――分かった。んじゃ、落ち着いてよく聞いてほしい」
そういって水島さんは重苦しい空気を振り払うこともなく、そのまま重苦しく語り始めた。
~~~~~~~~~~~~~~~~
そもそも、君も家を購入する際に疑問に思ったかもしれんがな、この敷地と石碑が切っても切り離せんというんは、ただの方便やった。嘘じゃあらへんけど〝公共の土地とするには〟と但し書きが入る。手続きが
何でそないな話になるかっちゅうんは、これも長い話になるが聞いて貰いたい。元々ここは江戸時代から続く大地主が持っとった土地やったのは土田さんから聞いとったな。詳しい話はわしもホンマに分からんのやが、石碑はこの土地に
ただ、元々が
その家には一つだけ
実は、前に住んどった方の息子夫婦が、その息子二人……家主から見れば孫をな、相次いで亡くしとっての。偶然かは分からんがその兄弟は二人とも
ともかく自治会の面々にはこういった話を信じとる連中が今も多い。土田さん、木下さん、金本さんなんぞは典型的やった。火戸君は完全否定しとったが、わしは
その代わり、この一帯は災害もなく、平穏で幸福な生活が約束される。洪水も地すべりも、凶作も虫害も起こらない……そう言い伝えられてきた。わしらはそれを守り伝えるため、この土地にあらゆる
次に、わしがあの時何を見たか――やな。
実はな、この家の門の裏側に大きな石があるやろ。うん、てっぺんがちょっと
アレは間違いなくわしを
んで、それをわしは土田さんに相談したんや。ほんなら土田さんが『この話は他言無用』と言ってきてな。せやからわしは君に説明にくることがでけんかった。
その後土田さんに呼ばれて『
それが今になって話をしにきたのは何故か、か。うん、これも手前勝手で本当に済まんが、土田さん、木下さん、そしてこの間も金本さんが喉を詰まらせて亡くなったやろ。ああ、君は火戸君から聞いとらんかったんか。死因は心臓麻痺とかやのうてな、窒息死やったらしいわ。まるで
その金本さんなんやが、土田さんが亡くなった時分から葬式でも道端でも『あれは
最後に一つ、これも伝えておく。この家の敷地にある石碑とは別にな、土田さん、火戸君、木下さん、金本さん、そしてわしの家にもそれぞれ石碑がある。その石碑は君の家を取り囲むように建てられておってな、世話の仕方も君の家にあるモンとは異なっとるんや。その意味も済まんがわしには分からん。ただ、念入りに
ここまで聞きゃあこの土地には悪意が渦巻いとるっちゅうのが分かるはずや。
〝美味しい所だけそっくり頂いて、厄介事は全部君らに押し付ける〟
――わしはもう、悔い改める。心の底から謝罪したい。ホンマに済まんかった。命惜しさに面の皮が厚いことをしてしもうたとは思うが、わしはホンマに後悔しとるんや。
あと、火戸君なんやがね――
あんまし信用せんほうがええ思うで。あの人が一番得体の知れん人や。色々わしらのことを言い立てたとは思うけどな、わしはあの人が一番恐ろしゅう感じとるよ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
色々と信じがたい話を聞いた。水島さんが何度も頭を下げて謝ってきたのにも閉口したし、そんなことを聞いたからといって気分が晴れるなんてことも一切なかった。ただただ
「……せっかく自分の家が持てたと思ったのに――」
俺はずっと自分の部屋で、何も開いていないPC画面の壁紙を見つめながら時を過ごした。日が西の山に隠れ、空を独占しているどんよりとした雨雲が
蛙の鳴き声がどこからか聞こえてくる。季節外れかと思ったが意外とそうでもないらしい。普段なら
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
夜がふけ、クロノアの様子がおかしくなった。とうとう陣痛が始まったらしい。俺は産湯を用意し、何が起きても大丈夫なように備えてからクロノアが引きこもっている押し入れの奥に意識を集中させつつ、彼女の邪魔にならないように細心の注意を払った。
こうして何か他のことに気を回せるという状況が、今の俺にはありがたかった。
明奈にはメッセージで『子猫が産まれそう』とだけ送っておいた。
数時間が経って日が変わり、
「あ、ああ――そんな――」
俺は激しい衝撃と困惑と、
クロノアは
六匹のうち五匹は黒猫だったが、四匹が死産だった。残る一匹は三毛猫で、その二匹だけが必死に震えながら母親の体温を求めていた。クロノアは死んでいた子猫たちを起こそうとしてずっと舐め続けていた。
俺はタオルに乗せた子猫たちをデスクの上に置き、自分の部屋のワーキングチェアに座って
最初からしっかり見守って、何かおかしいことがあればすぐに動く態勢を整えていれば……
時々送りつけられる不思議なメッセージや、キッチンに立ち込める異様な悪臭、石碑を巡る自治会との衝突や美桜の幼稚園でのトラブル。さらには、そこから町内を巻き込んだ自治会の実権を巡る派閥争いの泥沼に足を引っ張られ、精神的、体力的に限界を越えていたとしても、やはり目の前で動かない生命を見ると、自分がもっとしっかりしていたらと痛感させられる。
とりあえず後日、できれば明日にでも動物病院に連れて行ってクロノアと赤ちゃんの様子を確認しよう。その間、死んでしまった子猫たちはどうするか――
結局俺は、何の
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