九十四日後・昼

 師匠も忙しくなる時季になってもう久しい。吹き付ける風は乾いていて冷たく、道行く人は襟を立て、あるいはマフラーを巻き付けながら、忍び寄る将軍の軍靴ぐんかの音を聞いていた。

 今日、白金しろがねは珍しく一人だ。羽金うこんは検察庁に呼び出され、一条いちじょうは今日も単独行動中だった。日曜出勤の代休を消化中の彼は、現在自宅でぼうっと過ごしている。午前中は各局が長い枠を使って報道の名を冠したエンタメ――という皮を被った、ポリティカルな番組が数字を競って戦っている。各局とも看板キャスターに人気芸人や大物タレントを採用して視聴者への訴求に力を入れている。内容が偏向していることで有名な番組もあるものの、総じてテレビを情報の拠り所にしている層の耳目を集めることには成功していた。


 そんな番組の中の一つを、白金は大して面白くもなさそうに、濃いめのブラックコーヒーを飲みながら眺めていた。現在コメンテーターが討論しているのは、つい先日発覚したばかりの衝撃的なニュースについてだった。


〝幼稚園教諭、怒りと涙の告発! 町ぐるみでいじめを隠蔽いんぺいか? ムラ社会の闇を追う!〟


 テロップの見出しにはそう書かれている。概要は隣県で発覚した痛ましいニュースだった。女児がリーダー格の男児によって階段から突き落とされ、後頭部を強打して意識不明の重体になった事件が発生し、それを園ぐるみで隠蔽いんぺいしたあげく、真相を明らかにしようとした教諭を強制的に休養させて事態の収拾を図った事件が発生していたというのが話のあらましだった。問題の男児の家庭が町の有力者で、例年多額の寄付を園に対して行っており、その有力者から強い要請を受けていじめの隠蔽いんぺいを行っていたことを、幼稚園教諭が告発したのだった。

 聞けば聞くほど痛ましい事件であり、同時にコメンテーターやキャスターたちのポジショントークが繰り広げられるという意味でも痛々しい。

 その後、女児は奇跡的に意識を取り戻し、通常の生活にも戻ることができたそうだ。しかし外傷が原因か心因性なのか不明ながら失語症しつごしょうを発症してしまい、話すことができないらしい。一人の女の子の人生を大きく狂わせておきながら、自己保身のためにそれを隠蔽いんぺいしようなど、白金の正義感が許さない。もし俺が担当なら徹底的に真相を究明してしかるべきむくいを与える。白金はそんなことを考えながらワイドショーを観ていた。

 しかし、白金がさらに気になったのはその話より、続いてどこかの医学部教授がVTRでのインタビューに応じていた、その会話内容だった。


『女児は階段の上から突き落とされて後頭部を強打、昏倒したとのことですが、数メートルの高さを落下し後頭部を床に叩きつけたら大人でも命に関わります。それでなくとも脳挫傷、外傷性くも膜下まくか出血など、重篤じゅうとくな怪我を負うリスクは無視できません。考えるまでもなく重大な事故を隠蔽いんぺいなど、これは教育現場の安全と信頼を根底から揺るがす大問題でしょう――』


 警察官として、落下事故や事件などはそれなりに経験してきている。その見地から言えば、人間とは打ちどころが悪ければ一メートル落ちただけでも死ぬのだ。まして体ができていない幼児が数メートルの高さを、しかも突き飛ばされて勢いよく落下し、報道の話どおり後頭部を強打したのであれば〝死なないほうがおかしい〟状況ではある。


「……それで意識を取り戻し、あまつさえ普通の生活に戻れたいうんは奇跡やな」


 さらに話は続いたが、こっちのほうが〝ワイドショー好みな〟内容となっていた。


隠蔽いんぺいを指示した有力者は、孫の男児による突き落とし事件後、肺水腫はいすいしゅで窒息死〟


 しかもこの近辺で同様の症例での死亡者が少なくともあと二人いると、キャスターは盛大に報じていた。あおり立てることに関しては一級品だが、少なくともいじめ事件の顛末てんまつ肺水腫はいすいしゅは関係ないだろう。これに踊らされる視聴者は滑稽こっけいであると同時にかわいそうにもなってくる。白金はそんなことをひとりごちながら、煙草たばこに火をけた。最近誰かしらがこの部屋を訪れて、しかも禁煙者ばかりなので我が家ながら肩身の狭い思いを味わっていたが、何の気兼ねもなく紫煙しえんを楽しめるのはやはり気持ちがいいものだ――彼は天井に目をやりながら煙を吹き付け、今日の予定を考え始めた。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 日用品買い出しのため外出がてら、最近確認していなかった郵便箱を開けた白金は、案の定そこでくしゃくしゃに潰されたDMやらチラシやらの無駄紙を選り分けながら、間に挟まっておぼれかけていた茶封筒を救出した。切手は貼っていない――つまり、誰かが直接ポストに直接投函したということになるが、白金はそんなことに意識を向ける余裕を与えられなかった。


「こ、この字……日下くさかさん……!?」


 消息を絶って久しい日下の字だ――ひと目見て悟った白金は、急ぎ足で自分の部屋に戻り、荷物を乱雑に置いて封筒を破る。


「なっ……どういうこっちゃ、日下さん! あ、あんた、どないなつもりで……!」


 文面を読み進める白金の表情に驚愕きょうがくと困惑がにじみ出る。それは――日下から白金へ宛てて送られた、謝罪と別離わかれの手紙だった。


 ~~~~~~~~~~~~~~~~


 拝啓 白金和弘しろがねかずひろ様、


 突然このような形での連絡となってしまって、慚愧ざんきえなく思う。

 本来なら君に直接会って話をすべき所だが、このような形でしか君に伝えられないことを、どうか許して欲しい。

 君にも文句の一つや二つ、いや、今回はそれどころでない数の文句があるとは思う。

 ただ、今の私に君の言葉を直接受け取ることはできない。その資格もない。

 しかし、君にだけはどうしても、どのような形ででも謝りたかった。


 今まで私は一条にかくまわれていた。

 君ももうアレと繋がったと聞いたので言及するが、白蛟しろみずちはとてつもない存在だ。

 私も上牧隆偉かんまきりゅういの事故を発端とした一連の事故事件、その顛末てんまつについて一条から聞いている。

 今の君なら十分に理解できるだろうが、この事故や事件はもはや我々のごとき人間の常識で推し量れるような単純なものではない。


 私は一条に助けを乞い、そのおかげで今も生きながらえている。

 今後はどうなるか現時点では分からないが、一条はもうそろそろ解決できると言っていた。

 私としてはその言葉を信じて待つしかできない。

 そして、私は一条に助けてもらう見返りとして、彼女からとあることを要求された。

 申し訳ないがその内容について、私は墓場まで持っていく覚悟だ。

 教えたところで君に信じてもらえるとは思えないし、私自身もいまだに信じられていない。

 それに俺は警察官として、人間としてやってはならんことをしてしまった。これについても君に話すことはない。何があっても、誰にも伝えない。伝えられない。

 いずれにしても私はもう手遅れだ。


 話はそれるが、君は私から文字化けをしたメールを受けとったと聞いた。

 誓っていうが、私からそのようなメールを君に送信したことはない。


 今まで連絡を取らなかったのは、単に連絡が取れる場所にいなかったというのと、このまま失踪しっそう者として消えるつもりだからだ。

 署の同僚や家族のことを思うと忸怩じくじたる思いだが、これは俺の矜持きょうじの問題だ。

 さっきも言ったが俺は一警察官として、一人の人間として、取り返しのつかないことをした。

 自分の命が懸かっていたとはいえ、これだけのことをしでかしてもなお、何くわぬ顔をして生きることは、どうしても許せない。

 とはいえ、私は死にに行くつもりはない。

 ここではないどこかで、自分が背負った罪を贖いながらひっそりとやっていくつもりだ。

 自分勝手もはなはだしいことだとは理解しているが、君にだけはどうしても伝えたかった。

 そして、どうか、探さないで欲しい。


 もう一度言わせてほしい。

 私は君に謝りたかった。できれば直接土下座どげざをしたかった。

 あまりに酷すぎる災難に君まで巻き込んでしまって申し訳ない。

 あの日に戻れるなら、署の喫煙ブースでベラベラと軽口を叩いた自分を殴ってやりたい。

 どうか一条を信じて、もう少しだけ辛抱して欲しい。

 もちろん、君の親友という検察官にも、多幸たこうあれと祈らせていただく。


 最後になるが、今までこんな私に付き従ってくれて、本当にありがとう。

 警察官学校時代から、君のことは本当に素晴らしい人材だと思っていた。

 どうか、これからも、私の分まで、生きていってくれ。


 余談になり、そして重ねての助言になるが、一条の言葉は何をさておいても信じていい。

 あの女は自分の思考と言動に齟齬そごがありすぎる。簡単に言えば必要なことも軽々しく口にはしてくれない。そういう人なんだ、分かってやってくれ。

 聡明な君ならもう気づいているかもしれないが、この話は幾重にも折り重ねられた〝裏〟が存在する。一条はそれをすべて解きほぐして依頼を解決しようとしているだけに過ぎない。

 誤解を生むような言動や行動はあるが、どうか寛大に見守ってやってくれ。

 ただし何ごともそうだが、信じすぎると足元をすくわれることも忘れてはならない。

 これがかつての君の教練官きょうれんかんとして伝える、最後の言葉だ。努々ゆめゆめ忘れるな。


 そして願わくば……君が一生、こちら側にこないことを、心から願っている。


 敬具


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「……日下、さん――」


 白金は日下から送られた手紙をしわができるほど強く握りしめ、深い哀しみと激しい怒りに震えた。死ぬつもりなどないと書いておきながらどう読んでも〝遺書いしょ〟にしか見えなかった。


「――日下さんは何も悪くない。悪いのは何人もの人間を殺して回る殺人鬼さつじんきだ。人外ジンガイか否かは関係ない――」


 そして、今しがた日下から送られてきた手紙の内容について一条に問いただしたい――そう考えた白金は一条に個別で『話がある』とメッセージを送る。するとすぐに『日下のことなら何も話すことはない』と返信があり、突き放される形になってしまった。


『誤解を生むような言動や行動はあるが、どうか寛大に見守ってやってくれ』


 日下の手紙に書かれた一文が白金の焦りと苛立ちをなだめる。とはいえ、彼女はあまりにも何も話してくれなさすぎだ……白金はそんな不平を飲み込み、今日は気分転換に外で食おうとコートを羽織って家を後にした。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 霜のついたジョッキを傾け、ビールをあおる。突き出しの小鉢をつまみ、泡と苦味が残った口の中に放り込んで、頬を緩めた白金は、改めて自分がいる店を見渡した。

 五人は並べない狭いカウンターで、椅子はない。厨房ちゅうぼうは対面式で、二人立つと手狭になる。以前一条に連れられ、その味に感動して、いつか一人でこようと思いながら実現できなかったあの立ち飲み屋まで足をのばした白金は、静かな一人飲みに興じていた。


「そういやお客さん、前に一回レイちゃんときとったお客さんよな」


 初老の店主が気さくに話しかける。他に客もおらず、距離感が普通の店と比べても近いこの立ち飲み屋ではよくある光景だ。白金はまだその距離感に戸惑いながら、ぎこちない苦笑いを浮かべて応対した。


「ええっと、そのレイちゃんいうのは――」

「ああ、あのめっちゃ可愛い、赤ジャージの子や」

「一条さんですか。一度この店に連れてきて貰って、味が自分好みやったんで今度また一人でこようと思っとったんですよ」

「はは、そりゃおおきになあ。ウチもこの店継いでもうそろそろ一年やけど、前の大将の味を追いかけながら必死にやっとるとこでねえ……それを美味い言われたら元気出ますわな」


 話を聞きながらおでんの大根を割る白金だが、内心でその内容を意外に思った。これだけの年季が入った店をリフォームもせずそのまま受け継ぐのも、まだ目の前の店主が厨房ちゅうぼうを構えて一年経っていない――ということも。しかも、前の大将の味を追いかけながらというからには何かそこに特別な事情がうかがえる気もしている白金だった。


「珍しいですね、前のオーナーから店をそっくりそのまま、味から何から引き継ぐというんは何ぞ事情でもおありやったんですか」

「んー……あんまこういうん人に言う話ちゃうねんけどな、まあ他に客もおらんし、あんたはあのレイちゃんのツレでもあるから、まあええわ。実は――」


 そう前置きした店主の口から語られた話は、確かに他人に気軽に言える内容ではなかった。むしろ、今こうして白金が気軽に聞けるような話でもなかったのだが、そこはこの地方特有の〝話したがり〟な気質が影響しているのかもしれない。


 店主は去年まで店を切り盛りしていた大将の常連でもあり、商売敵でもあった。彼は近所で似たような立ち飲み屋を経営していたが、今年の頭ごろになって大将夫妻が相次いで首を吊り亡くなってしまったのだと。この店のファンは自分や一条を含めかなりの人数がおり、大将が亡くなった状況も相まって〝このまま店を潰すのは忍びない〟という話が持ち上がった。結局店主が自分の店を移転するという体でこの店を受け継いだ――というのがあらすじだった。


「――」

「いや、すまんなお客さん。せっかくの酒も飯も冷めてもうたやろ」


 白金はその話を聞いて、とある違和感に襲われていた。夫婦が相次いで首を吊り、死亡――そこだけ切り取れば、まるで自分たちが今追いかけているあの話とそっくりだ……と。

 もう少し状況や詳細を聞いてみるか――と思いかけた彼だったが、こんな話を深く掘り下げるのは趣味が悪いと思い直す。公務中ならいざしらず、今はただの客だ――


「――娘さんも大概ひどい目にったって聞いちゃいたけどねえ……本当に大将たちは災難が続きっぱなしやったわな――すまんなお客さん、湿っぽくなっちまって。お詫びにレンコンのきんぴらサービスや。こいつが前の大将の一番やったんやで」


 そう言い添えられながら突き出された小鉢は、絶品といって差し支えない味付けだった。

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