第29話 元の楓は戻らない。

「……紫乃さん、私がどう思ってるのか知らないって言ってませんでした?」

「十八歳になるまでの養育者への好意を素直に受け止めるのはなあ」

「れ、冷静な判断……」


 そして中学二年生くらいから日記の勢いはひとまず落ち着き、少しずつ巫女としての仕事の話が増えていく。巫女業の悩みや相談については、楓も紫乃さんも長文で真剣にやりとりをしている。


 日によって温度差が激しい。

 楽しいことが二、三行の日もあれば、びっしりと愚痴が書いてあったり。

 進路について紫乃さんと喧嘩したのか、あまり書いていない日もある。


「大学行くの、嫌がったんですね私」

「せっかく進学校行ったんだから、だいぶん説得したんだけどな」


 日記の中の私は、年月を経て少しずつ変わっていく。

 紫乃さんは私に淡々と、変わりなく向き合ってくれていたようだ。

 生き生きとした、私と紫乃さんの十八年はとても幸せそうだった。


「……全部読むのはちょっとしんどそうなので、一旦休憩します」


 胸がいっぱいになりそうになって、私は日記を閉じた。

 そして改めて日記とアルバムへと目を向ける。

 中身の濃さを知るとよりいっそう、アルバムも日記帳も迫力を帯びたものとして感じられた。整然と並んだアルバムも、キャビネットにびっしりと詰まっているノートも、まるで記録しなければと切迫感に駆られているかのようだ。


「……元の私、よほど記録魔だったんですね」

「俺を残して逝ったあと、読み返しやすいようにしてくれたんだよ」


 私は思わず顔を上げた。

 紫乃さんは当たり前のことのように微笑む。


「楓の思い出は残せる限り全部取ってある。これまでの人生のもの、全て。記憶を失う前の楓も、俺に残すためのものをたくさん集めてくれていたんだ」

「……途方もない量なんじゃないですか?」

「そうだな。この屋敷の蔵に収めているけど途方もなく多いよ。でも、それのおかげで楓のいない時間を過ごすことができるしな」


 紫乃さんが一冊の日記帳を手に取り、表紙を愛おしむように指でなぞる。


「記憶を失う前の楓は、とにかくいろんなことを記録に残してくれていた。動画も、写真も、何より一番必要なのは日記だって言って。幼稚園でノートを作った日から毎日、ほぼ欠かさず」


 ここにはあまりに濃密な時間が詰まっている。

 紫乃さんが抱えているのはこの部屋のものだけではない。

 これまで生まれては死んでいった、全ての楓をこの人は抱えている。

 愛情の途方もない重さに気づいて、胸が苦しくなった。

 当たり前のように傍にいながら、紫乃さんはどれだけの思いを重ねているのか。


わたしは、途切れず常に生まれ続けていたんですか?」

「違うよ。不定期に生まれ直す。一つ前の楓は三百年前かな、ちょっと長かったよ」

「……じゃあ、その間は?」

「思い出を振り返りながら、ずっと楓に会えるのを待って生きてたよ。楓の居場所を残すために、世の中の流れに置いていかれないように、俺はずっと居場所を作って待っていた。楓は普通の生まれ方はしない、人間の血縁を断たれた生まれ方をする。楓に幸せに生きて貰うためには、社会に居場所を残しておく必要があった」


 想像の何倍も、紫乃さんは一途だった。

 ─初めて、紫乃さんが少しだけ怖いと思った。


「……愛が思ったより重くて怯えてます」

「たいしたことないさ、俺は土地神だ。神の愛は絶対で真実だ」


 紫乃さんは私の頰を撫でる。私は自然と、その手を受け入れた。

 慈しむように、愛おしむように、紫乃さんは私がここにいるのを確かめる。


「愛している、楓」


 撫でられるうちに、紫乃さんの態度の意味が理解できていく。

 彼は私がいるだけで得がたい幸福を感じているのだ。傍にいる、それだけでいい。

 育ての親であることや、恋人であること、夫婦であること、そんな枠組みを全部包み込んだ、神様としての愛情があるから─だからこそ、今生きる人間である私が受け止めやすい枠組みを選ばせてくれているんだ。

 私がいきなり抱きついて好きだと言っても、彼はそのまま受け入れるだろう。

 逆にお父さんとして接して欲しいといえば、それもまた受け入れてくれるはずだ。

 絶対的な神様の愛情が大前提としてそこにある。

 ならば形など、なんでもいいのだろう。多分。


「私、あまり過去の自分の情報に触れたくなかったんです。特に自分の気持ちに」


 ぽつぽつと、私はここを避けていた理由を口にした。


「私は私の、今の心であなたに向き合うためにも過去は逆に邪魔かなとも思いつつ、でも過去を全部無視するのも違うようで……でも、見てよかったです」

「そう思えるものを見つけたんだな?」

「元々のわたしは、次に引き継ぐ準備をしていました。それは紫乃さんのためでもあり、きっと─次のわたしが新たな関係性を紫乃さんと築けるようにだと思います。過去の私と今の私は別の人なんだって、背中を押してもらえた気がしました」


 

 今の私は、元の楓ではない。

 けれど彼女がここまで記録しているのは、いつか次の楓に上書きされても、自分がここにいたという記録だ。

 次が来るのが早すぎたかもしれない。

 彼女にとってだっただろう。

 でも。

 私は私として、紫乃さんに向き合っていいんだ─向き合うべきなのだ。

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