第30話 知っているか、紺屋町では、ぬか炊きは歩く
「楓の迷いが消えたのならよかった」
頭を撫でようとする紫乃さんの手をやんわり押しのけ、私は顔を見上げた。
「でも一つ気になることがあります」
「何?」
「朝の夜さんとの話です。愛情結構重たいの自覚してくださいよ。なんで離れられること前提で話しちゃうんですか? 無理でしょ絶対」
「無理だとしても耐えるさ。楓が幸せになれるのなら、さみしさを受け入れるのも悪くはない」
「今時、地方の女の子ってほとんど上京しちゃいますからね。土地神様として、自分から遠く離れた場所に私が行くの耐えきれるんですか?」
「あっ……た、耐えるさ。大学だって県外も勧めてたし」
言いつつも瞳が僅かに泳ぐ。
あやかしの移住に手を貸している側の神様でありながら、私が土地まで離れる想像にはうろたえるのが、この人らしくない脇の甘さだ。
可愛い、と思う。
私が笑っているのに気付いたのだろう。紫乃さんが口を覆って目をそらす。
「仕方ないだろう、これまで楓が離れたことなんてなかったから……」
私は溜息をついた。
この神様は、自分自身の気持ちに無頓着すぎる。
「もう……最初から、私たちが結婚するのは決定事項だってくらい、言い切っちゃえばいいのに」
「楓の自由は守りたいし、時代に合わないことをして嫌がられるのは本意じゃないからな」
紫乃さんの眼差しが暗く陰る。
「それに……今時の神ならともかく、俺の時代の神は基本的に、人間に対して理不尽の塊でしかない。だから……自分も、人を人と思わない古代の神としての感覚を思い出してしまったら楓を壊してしまいそうで、怖い」
「壊すって……」
紫乃さんの眼差しが、私を射貫く。
先ほどまでとは違う金色に輝く瞳は、明らかに人とは違う。
「楓を、己の意のままにしてしまいそうになる。愛しいと言いながら手足を捥ぐように、愛すると言いながら閉じ込めるように。……そこまで墮(お)ちるくらいならいっそ、楓が他に幸せを見つけるのを見守れる父親でありたい。でも……」
「難しそうなんですね」
「……意外と、難しいかも」
言いにくそうに告白する紫乃さんは、ひどく人間くさい。
「まあ、いろいろあって。あれみたいになりたくはないから」
「もしかして喧嘩別れしたっていう、筑紫の筑のほう」
「あれは悪い意味で昔の神なんだ。記憶が奪われたとき、実は……」
そのとき。
部屋の外からいい匂いがもれてきた。自然と二人とも外を見る。
「……何作ってんですかね、煮物の匂いがしますけど……」
「がめ煮でも作ってるのか……?」
私たちは顔を見合わせた。
シリアスな話題に割って入った美味しそうな匂いは、全ての緊張感を奪い取っていく力があった。
味の暴力。新鮮な食材と腕のいい料理人に作られた、全力の家庭料理。
「……行きましょうか。話に全く集中できません」
「そうだな、続きは午後にも話せるしな」
私たちは出した日記帳やアルバムを片づけ、ものすごくいい匂いがする庭のほうへと向かった。
◇◇◇
庭はなぜか、がやがやとした煮物会場になっていた。
長テーブルが置かれ、いわゆるスタンディングスタイルでぞろぞろと片手に煮物が入った器、片手に升酒であやかしや神霊の皆さんが引っかけている。紫乃さんが呆れた様子で言う。
「すっかり
「なぜ……」
私たちに気づいた羽犬さんが手を振る。腕まくりして忙しそうだ。
「ああ、楓ちゃんに紫乃!」
「どうしたんだ、これ」
「小倉から山ほど筍が届いたんよ。合馬の筍。んで冷蔵庫に直送じゃなくてわざわざ足を運んできてくれてさ」
「それはありがたいですね」
「違う違う、あいつらはしご酒のついでで来ただけなんよ。ったく昼間っから角打(かく う)ちで引っかけてきやがって。だからいっそ庭で煮物作って、声かけて来てくれるみんなに振る舞おうかと思ってね。酔っ払いが一人いるなら、百人いても同じってな」
庭に集まったあやかしや神霊の皆さんは見慣れた顔ぶれ以外も結構いる。
先ほどまでの静かな空気とは打って変わって、庭はわいわい楽しい会で盛り上がっていた。
「私たちも挨拶してきますね、筍持ってきてくれた人に」
「さんきゅー」
羽犬さんと別れて、私は庭の一角、羽犬さんに言われた人々のもとに行く。
おひな様のような豪奢な十二単を纏った美しいお姉さんたちが、カニさんたちと一緒に池のほとりに腰を下ろして升で一杯引っかけている。
「筍ありがとうございました~」
「ひーっひっひ」
「うわあだめだできあがってる」
「楓ちゃん記憶消えたんだって? なになに、飲みすぎた?」
「まだ十八歳なのでお酒のせいじゃないですよー」
「うふふふ目が回るまるで壇ノ浦(だん の うら)で沈んだときのようだわ」
「酒呑みゃあどこだってみやこってなあへへへがめ煮うめー」
「持ってくると羽犬が料理作ってくれるからいいのよねえ~うふふふふ美形の手料理は最高だわ」
「壇ノ浦ってまさか皆さん」
「だめだ、できあがってるしブラックジョークが過ぎる、挨拶したから離れるぞ」
紫乃さんが私を彼女たちから引き離す。
カニさんたちがうっかり煮物に落ちて美味しいカニ煮にならないことを祈りつつ離れると、手足が生えた食器と箸が私たちのもとにてこてこと歩いてやってきた。
「こんにちは、がめ煮です」
「自分は焼き筍です」
「小倉から来ましたぬか炊きです」
「あっどうも」
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