アラクネの最期
池里
第1話 優母と愚父
「恭太。気を付けていってらっしゃい。」
あの暖かい母の愛をいつから見失ってしまったのだろう。もう何度、無くした愛情を試したのだろう。僕の母への愛情が母自身に疑われたからなのか。
何度自分は被害者の振りをして母の心に傷をつけたのだろう。そして何度同じことをしてはならないと自分を裏切り続けたのだろう。こうして何度も傷ついた僕と母は昔のように、軋むことのない親子としての時間を過ごすことができるのだろうか。
僕は貫地谷恭太。十六歳の高校一年生の平凡な少年だった。部活動ではずっとやりたかったバトミントン部に所属し、それなりに高校生活を楽しんでいた。朝早くに家を出て部活動に参加していた僕は優しい母に毎日見送ってもらっていた。僕の母は未婚のまま僕を育てている。十五歳で僕を妊娠、出産し随分苦労したようだ。僕の子育てがひと段落したところで看護学校に通い始めた母は子育ても勉強も怠ることなく努力し、看護師となった。母は母なりに、僕に不憫な思いをさせたくないと経済的に不安の少ない医療専門職を選んだようだった。
母は、貫地谷舞耶。三十歳には見えないほどの童顔で、反抗期のない僕も僕だが一度も声を荒げて怒ることのない本当に優しい母だった。小学生の頃、友達から母のことを「白衣の天使」と言われ、自分の母のことながらその通りだと心から思った。
母は家の近くの精神障害者専門のグループホームに勤務していた。夜勤もある施設だが、母は僕との時間を大事にしたいと日勤のみ働いていた。小学生になり少しずつ成長するにつれ、母の体に時々傷ができていることに気が付いた。僕が聞いても母は確信に迫ることは何も教えてくれなかった。そんなある日、中学生になった僕たちの家に招かれざる客がやってきた。
客は僕の実の父親らしい。母からはろくなことを聞かされていなかった。
未婚なのには理由があるのだろうと薄ら感じてはいたが実際に会うと僕が今まで会ってきた人間とは全く違った種類に見えた。
「やあ、ここって貫地谷舞耶の家だよね?」
急に訪ねてきた母の知人らしき男に恭太は小さく頷くような返事しかできなかった。
「お前が恭太?なんだよ、舞耶にそっくりだな。」
ずかずかと部屋へ勝手に上がり込んできた彼は瀬戸と名乗った。恭太の横を通ったその男からはかなり強い酒臭が漂っていた。
「あの、母に何か用ですか。今買い物に行っているのですぐには戻らないと思います。」
そう不愛想に言う恭太を見上げた瀬戸はニヤリと嫌らしく口角を吊り上げ、ゆっくり立ち上がった。そのまま恭太に近づき、いきなり恭太の髪を掴んだ。
「…‼なにすんだよ。」強い大人の力で捻り上げられ、恭太は声を出すので精一杯だった。
「お前の父親なんだよ、俺。舞耶に何回も連絡したけど無視されてこうやって会いに来たら、まるで他人みたいに話しやがって。」
抗うことのできない強い力と、初めて対する大人の怒りに恭太は身動きが取れなかった。
「父親…?」
「ああ、そうだよ。俺らは中学の時に付き合ってたけど卒業してから舞耶が消えた。 後で聞けば妊娠してたっていうから驚いて調べたんだよ。学校に通ってるときに何度か舞耶に会ってもらえるように言ったがずっと返事がなかった。看護師になったって聞いて務めていた病院に会いに行ったら、ストーカーだなんだと言われ、接近禁止にされた。自分勝手だよな。俺は舞耶を大事に思ってたのにな。」瀬戸はより強く恭太の髪をひねり上げた。
恭太は目に涙を浮かべ瀬戸の手をどかそうとするが力が強く手を放すことができない。ぎりぎりとひねり上げられる瀬戸の手にひっかいて傷をつけるので精一杯だった。
玄関を強く開ける音が聞こえ、舞耶が帰ってきた。目の前の異変に形相を変え、舞耶はすぐに行動した。
「恭太に触らないで‼」
瀬戸にものすごい勢いで体当たりをした舞耶はそのまま恭太をかばうように立ち塞がった。酔っぱらっているらしい瀬戸はよろめき、背中を強く打ち付けた。痛みが強いのか激しく咽せこんでいる。
「今すぐ、消えて。」
舞耶は静かに言い放った。瀬戸の打ち付けた音に驚いたのか、隣に住む女性がインターホンを鳴らした。
「すみません、警察に通報してください‼」
舞耶は大きな声で言い、瀬戸が逃げようとしたところに大きく足を振り、蹴りを入れた。急所に入ったようでさらに瀬戸は苦しんでいる。床に突っ伏した瀬戸をみて、舞耶は恭太の方を振り返った。恭太の頭から血が流れているのを見て慌ててタオルを持ってきた。そのまま出血している箇所を強く抑えさせ、キッと瀬戸を睨みつけた。
「よくも自分の息子にこんなこと…。」
恭太は激しく痛む頭を押さえながら、本気で怒る舞耶を視界に捉えていた。
恭太を支える細い腕は小刻みに震え、歯を軋ませる音が恭太まで聞こえてきた。立ち上がりかけた瀬戸の顔面をもう一度蹴り上げると、瀬戸はあまりの衝撃に意識を失ったようだった。舞耶は妊娠するまでは空手を習っており、体の使い方は玄人だった。数分で警察が駆け付けた。そのまま暴行の現行犯で逮捕され、瀬戸は連れていかれた。
「恭太、ごめん。怖かったね。頑張ったね。こんな思いさせてごめんね。」
恭太の頭皮は皮膚が引っ張られ、一部剥がれてしまったために出血していた。
「ううん。母さんが守ってくれたから。」
恭太も舞耶も泣かなかった。二人とも辛抱強い性格だが、恭太は内心恐怖と悔しさで一杯だった。その後瀬戸は舞耶に対する数回目の暴行ということで実刑判決を受け、警察から舞耶に対する強い接近禁止を言われた。
「恭太が大きくなって、少しのことでも傷つかないくらい強くなったらあの父親のこと言おうと思ってた。ごめんね、恭太の父親のことなのにずっと秘密にしていて。」
恭太は首を振った。あの瀬戸の様子をみてただ事ではないのは感じ取っていた。
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