短編読み切り集 誰かと誰かの小さな物語

鬼塚れいじ

第1話 お題:ドラゴン 「架空のはずの」

 ――お前って、ドラゴン信じるタイプ?


 そう唐突に聞かれてボクはゆっくりと目を瞬き、突然話しかけてきた男を見上げる。

 椅子に座っていたボクの隣に立っているその人は、話しかけてきたくせにボクではなく目を細めて窓の外を見ていた。

 滅多に学校に来ないその人は同じクラスに所属はしているけど、今まで一度も話などした事が無く何故急にボクに話しかけてきたのかが分からなかった。

 しかも言われた言葉の意味が分からない。

 ボクはかけている眼鏡を下から指で押し上げて位置を調節しながら、その人から視線を逸らす。逸らした先には予習をしていたノートの隅に小さく描かれた変な生き物の姿。

 きっとそれを見て声をかけてきたのだろう、と思うのだけど、彼の瞳は全くボクなんて見ていなかった。

「……信じるも、信じないも、架空の生物、だし……」

 彼の言葉に随分と間を開けてボクがそう答えると、彼は頭上で緩く笑ったような気配を見せた。

 ボクとしては彼の口からそんな架空生物の名が出て来る方が不思議で、ちらりと視線を上へ向けてもう一度彼の顔を下から見上げる。

 窓から入り込む初夏の爽やかな風が、人工的に染められた肩まである明るい髪の毛を緩くなびかせている。

 頻繁に生活指導の先生からその髪色を注意され、怒られ、呼び出されている彼はそれでも頑としてその髪色を変える気はないようで、反省と称して行われる停学を繰り返している。もちろんその学生にあるまじき髪色だけが原因ではないのだけども。

「架空の生物、か。まぁ、そうだよな」

 相変わらず視線は窓の外に向けたまま、彼はボクの返事にそうバリトンの声で答え、フッと笑う。

 彼が一体何を言いたいのか、ボクと何故こんな雑談にもならない会話をしているのか分からずボクは予習をしていたノートを閉じて鞄の中にしまう。

「そろそろ塾の時間だから……」

「俺さ、見た事あるんだよな。ドラゴン」

 よくわからない奇妙な空気と会話を断ち切るようにボクが椅子から立ち上がると、彼はその長い髪を掻き上げてようやくボクと視線を合わせると突然彼には似つかわしくない突飛な事を言い始めた。

 その言葉の意味を理解するのに数秒ほどかかり、ボクと彼は不本意ながら見つめ合う形となる。

 そして初めて気が付いた。

 彼の瞳の色は、日本人には珍しい赤みがかった茶色で。その色になにか胸がチリチリするような痛みを覚える。

「……?」

 胸の奥に突然湧き上がった理由の分からない痛みにボクは視線を揺らし、胸のあたりを自身の手でシャツごと握り締めた。

「……餓鬼の頃にさ、親の理不尽に耐えられず家出した時、同じように家出をしてきたヤツと二人で、見たんだ」

 ボクの返事も反応もどうでもいいのか、彼は勝手に何かを語り始める。

 そしてその手をすっと持ち上げ窓の外を指さす。

「こんな風に空が金に輝いている夕日の中、そいつと二人、あの裏山で空を駆けるドラゴンを確かに見た。しかもそのドラゴンは語り掛けてきてさ」

「……そう……」

 胸の中のチリチリとした痛みが更に強くなり、ドクン、ドクンと心臓が強く打つ。

 彼が指さしている方向へ瞳を向け、陽が落ちかけて空気の色まで黄金色に輝いている窓の外を見る。

 その光景はあまりにも美しくて、幻想的で、まるで現実ではないような、そんな気がした。

「そいつと約束したんだ。またドラゴンと会える日に、一緒に逃げよう、って」

「……」

 ボクは押し黙る。

 黄金色に輝く窓の外。それはただ夕日の色が空気に反射してそう見せているだけだと、特別な意味などないと分かっていても、胸が苦しくなる程の美しさだった。

「なぁ。相変わらず、なんだろ。お前も」

 外を指さしていた手が、ボクの頬へと伸ばされる。

 そしてそこに貼ってある血の滲んでいるガーゼに薄く触れた。

「あの時もお前は包帯と、ガーゼと、ばんそうこうだらけだった。俺と同じように」

 じっと赤茶色の瞳がボクの瞳を覗き込み言った言葉に、ボクは思わず頬に伸ばされていた手を払いのけた。

「違うッ!!!」

 自分で自分の声に驚く。

 そして視線を左右に揺らした後、自身を落ち着かせる様にボクは長く息を吐いた。

「……これは転んだんだ。キミが思っている様な怪我じゃない」

「……俺は怪我の理由なんて言ってないぜ? ただ、俺と同じ、といっただけだ」

「……ッ!」

 彼に指摘され、ボクは思わず動揺する。

 目の前ではあの時のように悪戯っぽく笑う彼がいて、ボクは唇を噛んだ。

「ドラゴンなんて、もう、いないよ。あれは子供時代に見た、幻覚だ。だからボクは行かない」

 そして、きっと次に彼が言うだろう言葉を予測し、先回りをして答える。

 途端に彼は弾けるように笑った。

 あぁ、この笑顔。覚えがある。

 あの時、この笑顔に出会って、ボクは生きる事を決めたんだ。

 チリチリとした胸の痛みが、ぐじぐしとした膿むような痛みへと変わる。

「そっか。じゃあ俺ひとりで行くわ」

 もう幻影を追いかける年でもないのに、彼は笑いを顰めると少しだけ真剣な顔つきになってボクの顔を見てそんな事を言う。

 そして、窓の方に向けて歩き出す。

「……待って!」

 彼の手が窓枠にかかり、窓の鍵を開け、その開け放たれた窓に身を乗り出したのを見て、思わずその腕を掴んでしまう。

 彼がどうなろうとボクには本来関係ないはずなのに。

「……キミが言う『逃げる』って……」

「ばぁか。んな訳ねぇだろ」

 彼がしようとした事に心臓がどきどきと早鐘の様に打ち、荒く息を吐く。だけど彼は目の前で黄金の光にその髪の毛を溶かしながらボクの心配を笑い飛ばした。

 そんな彼の態度に目をすがめて睨みつければ、彼は視線を窓の外へと向け、くいっとその顎を動かしてボクの視線を誘導する。

 彼の視線と顎の先に視線を向け、ボクは息を呑んだ。

「……どらごん……」

 暫く唖然とした後、ようようでてきた音はそれだけだった。

 そこにいたのは黄金色に輝く、あの日、彼と共に見た、架空の……架空の筈だった生物。

 ノートの隅にいつも描いていた不思議な生物。

 目を見張り声を無くしているそんなボクの腕を今度は彼が強く握る。

「どうする? 架空の生物が目の前にいるんだぜ?」

 くすくすと悪戯っぽく笑う彼にゆっくりと視線を向け、ボクは何を言うべきかを考える。

 だけど、結局なんの言葉も浮かばずボクはただ彼に向けて泣きそうな顔をして微笑んだ。

 そして彼もまた言葉を発することなくボクの腕を引っ張り、窓枠へとその足をひっかけ、躊躇することなくそこからボクと共に空へと飛んだ。

 黄金色に輝くドラゴンはその背にボクたちを当然の様に受け止め、そして、ばさりとその背についている大きな羽を力強く羽ばたかせ、あっという間に学校が小さくなり、ボクたちが住む町も遠く背後へと霞んでいった。



 夜の闇と、朝の光の合間を縫って飛び、ボクたちは初めて全てから解放され、自由を得たのだと理解した。

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