第10章: 秋空に揺れる心

1. 文化祭の朝


朝日が昇り始めた9月上旬の土曜日、千紗は早めに目覚めた。今日は桜ヶ丘高校の文化祭。彼女の胸は期待と緊張で高鳴っていた。


「千紗、起きた?」


美佐江の声が聞こえ、千紗は返事をする。


「はい、起きてます」


千紗は窓を開け、深呼吸をした。秋の空気が肺に染み渡る。


(今日、きっと何かが変わる)


そう感じながら、千紗は制服に着替え始めた。鏡の前で髪を整えながら、浩介との会話のことを思い出す。


(こーちゃん…「俺には大切な人がいるんだ」って…)


その言葉を思い出すたびに、千紗の胸が締め付けられる。期待と不安が入り混じり、喜びと恐れが交錯する。


(私のことだと思っていたのに…でも、もしかしたら…)


朝食を取りながら、千紗は昨夜の将人との会話を思い出していた。将人が熱心に語っていた量子コンピューティングとシミュレーション技術のこと。その話に触発され、千紗は健太郎に話しかけた。


「お父さん、量子コンピューティングって、現実世界を変えることもできるの?」


健太郎は一瞬考え込むような仕草を見せてから答えた。


「理論上は可能だが、倫理的な問題も多いんだ。なぜ急にそんなことを?」


「ううん、ただの好奇心…将人くんが昨日、面白い話をしてくれて」


千紗は曖昧に答えたが、心の中では将人から聞いたシミュレーション技術のことを考えていた。(もし、現実を変えられるなら…)


学校に到着すると、すでに多くの生徒たちが準備に忙しく動き回っていた。体育館の前を通りかかったとき、千紗は村上先生と用務員の会話を耳にした。


「昨日から照明の調子が悪いみたいですね」


「ええ、今朝点検したんですが、大丈夫そうです。念のため、文化祭中も様子を見ておきます」


千紗はその会話を聞き流し、教室に向かった。


「千紗ちゃーん!」


振り返ると、佳奈が手を振っていた。彼女は「シュレディンガーのメイド」の衣装を身につけていて、とても可愛らしい。


「佳奈ちゃん、その衣装似合ってるね」


「ありがとう!千紗ちゃんも早く着替えようよ」


二人で教室に向かう途中、将人と出会った。


「おはよう、千紗さん、佳奈さん」


将人は少し緊張した様子で千紗を見つめていた。昨日の告白のことを思い出したのか、千紗も少し気まずさを感じる。


「将人くん、昨日はありがとう。量子コンピューティングの話、すごく面白かった」


将人は少し照れたように微笑んだ。「僕こそ、熱心に聞いてくれてありがとう」


その時、浩介が走ってきた。


「おはよう、みんな!」


浩介は千紗の顔を見るなり、少し赤面した。千紗も思わず目を逸らす。二人の間に流れる空気に、佳奈と将人も気づいたようだった。


「よーし、みんなで頑張ろう!」


佳奈の元気な掛け声で、4人の気持ちが一つになる。しかし、その裏では複雑な感情が渦巻いていた。


教室に入ると、クラスメイトたちがすでに準備を始めていた。「量子カフェ」の看板が掲げられ、机は並べ替えられてカフェの雰囲気が出ている。


千紗は自分の担当である量子をイメージしたお菓子の準備を始めた。浩介は「量子もつれコーヒー」の仕込みに取り掛かる。将人は量子コンピューターの展示コーナーの最終確認をしている。


準備に追われる中、千紗と浩介の視線が何度も交錯する。言葉を交わす暇もないほどの忙しさだが、二人の間には言葉以上のものが流れていた。


(こーちゃん、私に何を話すつもりなんだろう…)


千紗の心は期待と不安で揺れ動いていた。そして、浩介も同じように千紗を見ては俯く。その様子を、佳奈と将人がそれぞれ複雑な表情で見守っていた。


準備が整い、いよいよ文化祭の開始時間が近づいてきた。村上先生が教室に入ってきて、最後の確認をする。


「みなさん、準備はいいですか? 今日という日を楽しんでください。そして、安全第一で」


先生の言葉に、クラス全員で「はい!」と元気よく返事をした。


千紗は深呼吸をして、自分に言い聞かせるように呟いた。


「よし、頑張ろう」


そして、文化祭の幕が上がった。千紗たちは、この日が特別な日になることを願っていた。しかし、その日が彼らの人生をどのように変えるのか、誰も予想だにしていなかった。



2. すれ違う二人


文化祭が始まって数時間が経ち、「量子カフェ」は大盛況だった。千紗の作った量子をイメージしたお菓子は評判がよく、浩介の「量子もつれコーヒー」も人気を集めていた。


千紗は厨房で新しいバッチのクッキーを焼きながら、時折カフェスペースに目をやった。浩介の姿を探している。


(こーちゃんと話さなきゃ…でも、今は忙しすぎる)


千紗の頭の中では、浩介の言葉が何度も繰り返されていた。「俺には…大切な人がいるんだ」その言葉の意味を考えるたびに、千紗の胸が締め付けられる。


(私のことだったら…でも、違うかもしれない…)


一方、浩介も接客の合間を縫って千紗を探していた。二人の視線が合うと、お互いに微笑みかけるものの、すぐに目を逸らしてしまう。浩介の心の中でも、葛藤が渦巻いていた。


(ちーに話さなきゃ…でも、どう言えばいいんだ)


「千紗ちゃん、もう少しクッキー作れる?」佳奈が忙しそうに声をかけた。


「うん、わかった。すぐ作るね」千紗は答えながら、ふと佳奈の表情に気づいた。彼女の笑顔の裏に、何か複雑な感情が隠れているように見えた。


将人は量子コンピューターの展示コーナーで熱心に説明をしていたが、時折千紗と浩介の様子を気にしているようだった。彼の眼差しには、諦めと決意が混ざっているように見えた。


「千紗さん」将人が千紗に近づいてきた。「少し休憩を取ったら? 僕が代わりに…」


「ありがとう、将人くん。でも大丈夫。まだ頑張れるよ」千紗は微笑んで答えた。


将人は少し寂しそうな表情を見せたが、すぐに笑顔に戻った。「そうか。でも、無理はしないでね」


昼過ぎ、ようやく少し落ち着いた頃、浩介は千紗に近づこうとした。


「ちー、ちょっといいか…」


浩介の心臓が高鳴る。(やっと二人で話せる…)


しかし、その瞬間、別のクラスの友人が浩介を呼んだ。


「おい、浩介!バスケ部の出し物、手伝ってくれないか?」


浩介は躊躇した。千紗との大切な会話のチャンスだ。でも、友人を無下にもできない。


「わかった、行く」浩介は諦めたように答えた。千紗に向かって申し訳なさそうに微笑むと、友人についていった。


千紗は浩介の後ろ姿を見送りながら、胸がもやもやした。


(話したいことがあるって…一体何だろう)


時間が経つにつれ、千紗と浩介はますます忙しくなり、二人きりで話す機会を見つけられずにいた。互いを求めながらも、すれ違い続ける二人。


午後3時頃、千紗はようやく少し休憩を取れそうになった。彼女は浩介を探そうとしたが、彼の姿が見当たらない。


「佳奈ちゃん、こーちゃん見なかった?」


「え?浩介くん?さっきまでここにいたけど…」佳奈は少し困惑した表情で答えた。そして、小さく付け加えた。「千紗ちゃん、浩介くんと何かあったの?」


千紗は一瞬言葉に詰まった。「ううん、ただちょっと…」


その時、校内放送が流れた。


「桜ヶ丘高校2年1組の浩介くん、至急体育館にお越しください」


千紗は不安な気持ちになった。(こーちゃん、どうしたんだろう…)


彼女は体育館に向かおうとしたが、そのとき新しい客が入ってきて、また仕事に戻らざるを得なくなった。


千紗と浩介は、お互いを求めながらも、すれ違い続けていた。二人の間には、まだ言葉にされていない想いがあった。そして、誰も知らない運命が、静かに近づいていた。


体育館では、用務員が照明を再度確認していた。「やっぱり少し揺れているな…」彼は首をかしげながら、はしごを降りていった。その不吉な予感は、誰にも気づかれることなく、静かに忍び寄っていた。



3. 運命の瞬間


文化祭も終盤に差し掛かり、「量子カフェ」の忙しさもようやく落ち着いてきた。千紗は深呼吸をしながら、教室の窓から外を眺めていた。秋の夕暮れが近づき、空がオレンジ色に染まり始めている。


「千紗ちゃん、お疲れさま!」佳奈が笑顔で近づいてきた。「もうすぐステージ発表だね。楽しみだなぁ」


千紗は微笑んで頷いたが、その目は教室の入り口を見ていた。浩介の姿を探しているのは明らかだった。


佳奈はその様子を見て、少し寂しそうな表情を浮かべた。「千紗ちゃん、浩介くんのこと…好きなの?」


千紗は驚いて佳奈を見た。「え?あ、それは…」言葉に詰まる千紗に、佳奈は優しく微笑んだ。


「いいんだよ。私も…浩介くんのこと好きだったけど、千紗ちゃんの方が似合ってると思う」


「佳奈ちゃん…」千紗は友人の優しさに胸が痛んだ。


その時、将人が静かに二人に近づいてきた。「浩介くんなら、さっき体育館に行ったよ。準備を手伝っているみたいだ」


「そっか…」千紗は少し寂しそうな表情を浮かべた。


将人は千紗をじっと見つめた。「千紗さん、浩介くんとちゃんと話した方がいいよ。後悔しないように」


千紗は将人の言葉に驚いた。昨日、彼女に告白したばかりの将人が、こんなことを言うなんて。


「将人くん…」


「僕は…千紗さんの幸せを願ってるんだ」将人は少し寂しそうに、でも優しく微笑んだ。


その時、校内放送が流れた。


「まもなくステージ発表が始まります。各クラスの代表者は体育館に集合してください」


千紗は決意を固めたように立ち上がった。「私、行ってくる」


「うん、がんばって」佳奈が千紗の背中を軽く押した。


廊下を走る千紗の胸の中で、様々な感情が渦巻いていた。浩介への想い、佳奈への友情、将人への感謝。そして、自分の本当の気持ち。


(こーちゃん、話したいことがあるんでしょ?私も…私も話したいことがあるの)


体育館に着くと、そこにはすでに多くの生徒が集まっていた。千紗は人ごみの中を縫うように進み、浩介を探した。


そして、ついに見つけた。ステージの袖で、浩介が他のクラスメイトと話をしていた。


「こーちゃん!」千紗が声をかけた瞬間、浩介も千紗に気づいた。


「ちー?どうしたんだ?」浩介の顔に驚きと期待が浮かぶ。


「あのね、話が…」


しかし、その時ステージ上からアナウンスが流れた。


「では、2年1組の発表を始めます」


「あ、俺たちの番だ」浩介が焦った様子で言った。「ごめん、ちー。発表が終わったらすぐに…」


そう言って、浩介はステージに上がっていった。千紗はステージ袖で、浩介の発表を見守ることにした。


(これが終わったら…きっと)


千紗の心臓が大きく鼓動する。この瞬間が、彼女たちの運命を大きく変えることになるとは、誰も知る由もなかった。


体育館の天井では、古い照明器具が微かに揺れていた。用務員が不安そうに見上げていたが、誰もそれに気づかない。まるで、これから起こる出来事を予兆しているかのように。


千紗は浩介の発表を見守りながら、自分の気持ちを整理しようとしていた。そして、ステージ上の浩介を見つめる彼女の目に、強い決意の色が宿っていた。



4. 突然の悲劇


ステージ上での2年1組の発表が終わり、大きな拍手が体育館に響き渡った。千紗は胸を躍らせながら、袖から見守っていた。浩介の姿を目で追い、彼がステージを降りてくるのを待っていた。


「ちー!」浩介が千紗に向かって歩いてきた。彼の顔には安堵と期待が混ざった表情が浮かんでいる。


「こーちゃん、さっきの話の続き…」千紗が言いかけたその時だった。


突然、耳をつんざくような金属音が響き渡った。二人が驚いて上を見上げると、体育館の天井から大きな照明器具が落下してくるのが見えた。


時間が止まったかのように感じた一瞬の後、浩介の叫び声が響いた。

「危ない!」


浩介の動きは驚くほど素早かった。彼は咄嗟に千紗を押しのけた。


「こーちゃん!」


千紗の目の前で、照明器具が浩介を直撃した。轟音と共に、体育館中がパニックに陥る。


「きゃあああ!」


「誰か!誰か先生を呼んで!」


「救急車!早く救急車を!」


周りの悲鳴や叫び声が、まるで遠くから聞こえてくるように感じられた。千紗の世界は、目の前で倒れている浩介だけになっていた。


千紗は、自分が動けないことに気づくまでに数秒かかった。ショックで体が凍りついたかのようだった。やっと、震える足を動かし、浩介に近づく。


「こーちゃん!こーちゃん!」千紗は震える手で浩介に触れようとする。


「ち…ちー…」浩介が弱々しい声で呼びかけた。「大丈夫…か?」


「私は大丈夫だよ!こーちゃんこそ!」千紗の目から涙があふれ出る。状況を理解するにつれ、恐怖と悲しみが押し寄せてきた。


浩介は微笑もうとしたが、痛みに顔をゆがめた。「よか…った…」


その時、佳奈と将人が駆けつけてきた。


「浩介くん!千紗ちゃん!」佳奈が叫ぶ。彼女の顔は真っ青で、震えが止まらない。


将人は冷静さを保とうとしながらも、明らかに動揺している。「先生たちを呼んでくる。救急車もすぐに来るはずだから…」彼は素早く行動に移った。


佳奈は周りの生徒たちに声をかけ始めた。「みんな、落ち着いて!先生が来るまで、ここから離れないで」


千紗は浩介の手を握りしめた。「こーちゃん、しっかりして。すぐに助けが来るから」


浩介は千紗を見つめ、何か言おうとしたが、言葉にならない。彼の意識が徐々に遠のいていくのが分かった。


「こーちゃん!こーちゃん!」千紗の叫び声が体育館に響く。パニックと恐怖が彼女を包み込む。


周りでは先生たちが駆けつけ、生徒たちを落ち着かせようとしている。将人が医療スタッフを連れて戻ってきた。佳奈は他の生徒たちを整列させ、場所を空けようとしていた。


救急車のサイレンが近づいてくる中、千紗は祈るような気持ちで浩介の手を握り続けた。彼女の中で、恐怖、悲しみ、そして後悔が押し寄せてくる。


(こーちゃん…私がもっと早く話していれば…私たちの大切な時間が…)


涙が止まらない。千紗は浩介の手を両手で包み込み、その温もりが消えないよう必死に祈った。彼女の頭の中は、浩介との思い出でいっぱいだった。幼い頃の約束、日々の何気ない会話、そして今日、伝えようとしていた想い…全てが走馬灯のように駆け巡る。


「こーちゃん…お願い…死なないで…」


千紗のか細い声が、騒然とした体育館に消えていった。この突然の悲劇が、彼女たちの運命をどのように変えていくのか、誰にも分からなかった。ただ、千紗の心に深く刻まれた浩介への想いだけが、この瞬間、彼女の全てだった。



5. 白い病室


救急車のサイレンが近づき、やがて体育館に到着した。救急隊員たちが素早く浩介の元へ駆け寄り、応急処置を始める。千紗は浩介の手を離したくなかったが、佳奈に優しく引き離された。


「千紗ちゃん、医療関係者に任せよう」佳奈の声は震えていたが、千紗を支えようとする強さがあった。


将人は先生たちと話をし、すぐに千紗たちの元へ戻ってきた。「僕たちも病院に行こう。先生が許可してくれた」


三人は救急車の後を追うように、タクシーで病院へ向かった。車内は重苦しい沈黙に包まれていた。千紗は窓の外を見つめながら、浩介の無事を祈り続けていた。


病院に到着すると、浩介はすでに救急処置室に運ばれていた。三人は待合室で息をつく間もなく、慌ただしく駆け込んでくる足音が聞こえた。


「浩介は!?浩介はどこ!?」泣きながら叫ぶ女性の声に、千紗たちは振り返った。


「浩介君の、お父さんとお母さん…?」将人が小さく呟いた。千紗は我に返り、浩介の両親だと気づいた。


大輔は妻の春香を抱きしめながら、千紗たちに尋ねた。「一体何があったんだ?浩介が事故に遭ったって聞いたが…」


将人が一歩前に出て、落ち着いた様子で説明を始めた。「文化祭の最中に体育館の照明器具が落下して…浩介くんが千紗さんを庇って…」


大輔と春香は息を呑み、千紗を見つめた。千紗は言葉を失い、ただ涙が止まらなかった。


「千紗ちゃん…」春香が優しく千紗の肩に手を置いた。「あなたは怪我なかったの?」


千紗はかすかに首を横に振った。「浩介くんが…私を…」そこで声が詰まり、また涙があふれ出た。


数時間後、ようやく医師が現れた。全員が息を呑んで医師の言葉を待つ。


「手術は無事に終わりました。しかし…」医師は言葉を選ぶように間を置いた。「患者さんは昏睡状態に陥っています。いつ目覚めるかは…わかりません」


その言葉に、待合室全体が凍りついたような静けさに包まれた。


「面会できますが、お一人ずつでお願いします」


浩介の両親が先に病室に向かい、その後、千紗たちにも順番が回ってきた。


千紗が白い病室に足を踏み入れたとき、そこにはたくさんの医療機器に囲まれ、静かに横たわる浩介の姿があった。


「こーちゃん…」千紗は浩介のベッドサイドに近づき、そっと彼の手を握った。


(こんなはずじゃなかった…今頃私たち、お互いの気持ちを…)


千紗の頭の中で、今日一日の出来事が走馬灯のように駆け巡る。朝の期待に胸を膨らませていた自分、文化祭での忙しさ、そして…あの瞬間。


「こーちゃん、私…」千紗は涙ながらに話し始めた。「私、ずっと言いたかったの。こーちゃんのこと…好きだって」


返事はない。ただ、心電図の規則正しい音だけが部屋に響いていた。


「だから…だから、目を覚まして。私たちには、まだたくさんの約束があるでしょ?」


千紗は浩介の手をしっかりと握りしめた。そして、彼女の脳裏に、将人から聞いたシミュレーション技術のことが蘇った。そして、健太郎との会話…量子コンピューティングで現実世界を変える可能性…


千紗の目に、決意の色が宿り始めた。まだ何も具体的なアイデアはなかったが、浩介を救う方法を見つけ出すという強い意志が、彼女の心に芽生え始めていた。


「こーちゃん、必ず助けるから。だから…待っていて」


千紗はそっと浩介の額にキスをし、静かに病室を後にした。彼女の心には、新たな決意と希望が芽生えていた。そして、この決意が彼女をどこへ導くのか、誰にもまだ想像がつかなかった。



6. 永遠の別れ


浩介の手術から3日が経過した9月中旬のある日、千紗は放課後すぐに病院へ向かった。秋の気配が感じられる風が、彼女の髪を優しく揺らしていた。


病室に入ると、春香が浩介のベッドサイドで静かに座っていた。


「こんにちは、春香さん」千紗が小さな声で挨拶した。


春香は千紗に気づき、疲れた笑顔を向けた。「あら、千紗ちゃん。また来てくれたのね」


千紗はベッドに横たわる浩介を見つめた。相変わらず、彼は目を覚まさない。窓の外では、秋の夕陽が赤く空を染めていた。


「こーちゃんは…?」千紗は恐る恐る尋ねた。


春香は悲しげに首を横に振った。「まだなの…」


その時、病室のドアが開き、医師が入ってきた。彼の表情は硬く、千紗の心に不安が走った。


「浩介くんの両親の方はいらっしゃいますか?」医師が尋ねた。


「主人は仕事で…」春香が答える。「何か…?」


医師は深刻な表情で春香を見た。「実は…浩介くんの脳の活動が…」


千紗は息を呑んだ。医師の言葉の一つ一つが、彼女の心に突き刺さる。


「このままでは…」


春香が泣き崩れる。千紗は呆然と立ち尽くしていた。


(こんなの…嘘だ…)


その夜、千紗は自室で泣き続けた。美佐江が心配そうに声をかけてきたが、千紗は返事をする元気もなかった。窓の外では、秋の虫の鳴き声が聞こえていた。


翌日、学校に向かう途中、千紗のスマートフォンが鳴った。春香からだった。


「千紗ちゃん…浩介が…」


春香の声が途切れる。千紗の足が止まる。黄色く色づき始めた銀杏の葉が、彼女の足元に落ちていた。


「浩介が…亡くなったの…」


その言葉を聞いた瞬間、千紗の世界が崩れ落ちた。周りの景色が一瞬にしてモノクロームに変わったかのように感じた。


数日後、浩介の葬儀が行われた。千紗は佳奈と将人に支えられながら、式場に向かった。秋の澄んだ空が、まるで彼らを見守るかのように広がっていた。


式場には多くの人が集まっていた。クラスメイトたち、先生たち、そしてバスケ部の仲間たち。みんなの顔に悲しみの色が浮かんでいる。


千紗は浩介の遺影を見つめた。そこには、いつもの優しい笑顔の浩介がいた。


(こーちゃん…どうして…)


佳奈が千紗の手を握る。将人も静かに寄り添う。


式が進む中、千紗の中で何かが変わっていった。悲しみと共に、強い決意が芽生える。


(私が…私がこーちゃんを救わなきゃ)


将人から聞いたシミュレーション技術のこと、健太郎との会話…全てが千紗の中で繋がっていく。


式が終わり、人々が去っていく中、千紗は静かに浩介の遺影に向かって呟いた。


「こーちゃん…必ず助けるから。だから…待っていて」


佳奈と将人は千紗の変化に気づいたようだった。二人は心配そうに千紗を見つめる。


秋の風が、千紗の髪を優しく撫でていた。この日を境に、千紗の新たな物語が始まろうとしていた。浩介を救うため、そして彼女たちの幸せな未来のために。



7. 秋雨の中で


浩介の葬儀から数日が経った9月下旬のある日、千紗は窓際に座り、外の景色を見つめていた。秋雨が静かに降り続け、木々の葉が少しずつ色づき始めているのが見えた。


学校は休んでいた。美佐江と健太郎は心配そうに千紗を見守っていたが、彼女は誰とも話そうとしなかった。


そんな時、玄関のチャイムが鳴った。


「千紗、佳奈ちゃんと将人くんが来てくれたわよ」美佐江の声が聞こえる。


千紗は返事をしなかったが、しばらくして部屋のドアがノックされた。


「千紗ちゃん…入っていい?」佳奈の優しい声。


千紗は黙ったまま。しかし、ドアはゆっくりと開いた。


佳奈と将人が部屋に入ってきた。二人とも心配そうな表情を浮かべている。


「千紗ちゃん…」佳奈が千紗の隣に座る。「みんな心配してるよ」


将人も静かに近づいてきた。「千紗さん、無理をする必要はないけど…僕たちに話してくれないか?」


千紗は初めて二人の方を向いた。彼女の目は赤く腫れていた。


「私…こーちゃんを助けられなかった」千紗の声は震えていた。「あの時、もし私が…」


「違うよ、千紗ちゃん」佳女が千紗の手を握る。「浩介くんは千紗ちゃんを守ったの。それが彼の選択だった」


将人も頷いた。「浩介くんは…君のことを大切に思っていたんだ」


千紗の目から再び涙があふれ出た。「でも…でも私は…」


佳奈は千紗を抱きしめた。「泣いていいんだよ。私たち、ずっとそばにいるから」


将人も静かに千紗の肩に手を置いた。


千紗は、ようやく堰を切ったように泣き崩れた。佳奈と将人に支えられながら、彼女は心の中にあった悲しみを全て吐き出した。


雨の音が部屋に響く中、三人は長い間そうしていた。


やがて、千紗の泣き声が収まってきた。


「ありがとう…二人とも」千紗は小さな声で言った。


佳奈は優しく微笑んだ。「当たり前だよ。私たち、友達でしょ?」


将人も頷いた。「僕たちは、いつでも千紗さんの味方だ」


千紗は二人を見つめた。そして、ふと思い出したように言った。


「ねえ…私、こーちゃんを助けたい」


佳奈と将人は驚いた表情を浮かべた。


「どういうこと…?」佳奈が尋ねた。


千紗は真剣な眼差しで二人を見た。「将人くん、前に話してくれたシミュレーション技術のこと…あれで何かできないかな」


将人は困惑した表情を浮かべた。「それは…理論上は可能かもしれないけど…」


「お願い、将人くん」千紗の目に決意の色が宿る。「私、こーちゃんを取り戻したい。そのためなら、何だってする」


佳奈は心配そうに千紗を見つめた。「千紗ちゃん…」


部屋の中に沈黙が流れる。外では雨が激しさを増していた。


千紗の決意、佳奈の心配、将人の葛藤。三人の思いが交錯する中、新たな物語の幕が上がろうとしていた。


「わかった」将人が静かに言った。「僕にできることがあるか、調べてみる」


千紗の目が希望の光を取り戻す。佳奈は不安そうだったが、千紗の手をぎゅっと握った。


「私たち、一緒に乗り越えていこう」佳奈が言った。


三人は互いを見つめ、静かに頷き合った。窓の外では、雨が少しずつ小降りになっていた。まるで、彼らの新たな決意を祝福するかのように。


秋の雨が洗い流していくのは、単なる夏の名残だけではなかった。それは、千紗たちの悲しみであり、同時に新たな希望の始まりでもあった。

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