消えゆく夕焼け(長編版)

音瀬 りょう

前章

プロローグ


 ヒュウッ……


 ——海風。


 ボクはいま仰向けになっていて、空をぼうっと眺めていた。胸の上の帽子が飛ばされないように、手に力を入れる。

 吹き抜ける草の匂い。ボクは思いのほかこういう匂いが好きらしい。息抜きをしようとすると、自然とここへ足が伸びてしまう。


 ボクの転がる傍にはクロッカスが咲いている。ようやくこの街に春が来たことの証左。とはいえ今は4月の初旬だから、暖かくなるのはもう少し先のことだ。けど、むしろ少し寒いくらいが閉塞感から解き放たれる感じがしていいのかもしれない、なんて。


 ひとつ深呼吸をした後、空から視線を外して街の方に目をやる。ボクがいる場所はちょっとした丘になっていて、ルーヴニエ——『平原』の名前を冠する街——とその港までが一望できる小さな公園。

 ここには今日も何人かピクニックに訪れている。いつも風が強いことを除けば、ここはそういうことにちょうど良い。そう、風を除けば。

 いつ来てもみんなそれに難儀している様子だけど。


 ……まぁ、ボクには関係のないことだ。ため息をついて、また空に向き直る。


 羊の群れに似た巻積雲の形を見た後、ボクはそっと目を閉じた。できることならこのまま眠ってしまいたいという衝動に駆られて。


 今は積極的に何かをしたい気分じゃない。案外、ここでの日向ぼっこも悪くないのかもしれない。どこかでランチを食べたら、またここへ戻って寝ていようか。夕方まではそれで時間を潰せるだろう。

 有意義な過ごし方とはとても言えないけど、すでに大事な予定を無視してここへ来ている以上、それにこだわっても仕方がない。


 午後の行動を決めて、ボクはもう一度深呼吸をした。太陽と風の塩梅あんばいがちょうどいい。こんな日に家族とピクニックに出かけることができたら、どんなに幸せだろうか。そうでなくとも、家のベランダでゆっくり本を読んだり……


 懐かしい。思い返せば、私は父さんと時々ここへピクニックに来ていた。いつかまた来たいと、思っていたのだけど。


 ……ここの夕焼けの景色、もう一度見てみようかな。


 ふと、頭の中にアカネ色の景色が顔を出して、そんな考えが浮かんだ。一度だけ、父に連れられて見たのを覚えているんだ。ワルシャワからこの街に来たばかりのあの頃、何かの用事が長引いてしまった帰りに。

 まぁ今思えば、あれはそれほど綺麗なものでもなかった。クラクフ(ポーランドの古都)の旧市街や、紅葉の季節の湖水地方に比べれば取るに足らないもの。


 それでもあの光景を鮮明に覚えているのには、何か理由があるのだろう。確かめてみるのも——


「ユーリア様、こちらにいらっしゃいましたか」


 ——……う


 そんな想像に胸を膨らませていたとき、ボクは突然横からの声に現実に引き戻された。誰のものかはすぐに分かる。ボクのよく知っている人の声。


 ボクの……ささやかな計画が……


 即座に逃亡の失敗を悟る。ボクの考えていた、小さな逃避行の形が崩れていく音が聞こえてくる気がした。彼はボクが、今1番見つかりたくない相手だから。


「……爺や」


 眩しさに眉を寄せながら、ボクは後ろ髪を引かれる思いで目を開けた。そのまま視線をボクの計画を壊してくれた犯人に向ける。目の前には、老人がひとり。綺麗な目をしていて、少ししわがれた声の。

 彼は我が家の使用人のひとりだった。それも祖父の代から仕えてくれている古株らしい。しがない中流階級の家系でしかない我が家に。


 ボクは半分彼に育てられたようなものだ。この人には、ボクは恐らく一生勝てないのだろう。父を言いくるめることはできても、爺やが出てきたら敵わないから。


「……どうしてここが分かったの?」


 ボクは彼にそう聞いた。


「貴女と父君を知っている者なら、まずここが思い浮かぶかと」


 あ。


 ……爺やの答えには心当たりがある。家を抜け出すにしたって、どうやらボクの思考は少々安直すぎたらしい。


「お嬢様。心中お察ししますが、このままでは列車に間に合わなくなってしまいます。どうか」

「えー」


 爺やが急かすようにこちらに手を伸ばす。横目でそれを見ながらも、ボクはまだぼんやり雲を見ていた。

 行かなければいけないのは分かっている。今日遅刻することが、どれだけ重大なことなのかも。


 ……けど、ボクは嫌だ。


 ボクは少し、上着の襟を手繰り寄せた。今日はもう何をする気にもなれない。向こう1週間はこんな調子な気がする。何の意味もなく、雲を眺めているだけ。

 そう、雲を眺めているだけで十分だ。春のポーランド。空の雲は変化に富んでいて、ずっと見ていても飽きない。頭の中を空にして、嫌なことも——


「——ユーリア様、早くお越しください。お願いです」


 爺やの口調が段々と咎めるようなものになってきて、ボクは顔をしかめてしまった。彼の言うことはもっともだ。ボクが全面的に悪いのだから。


 それでも……


「……誰が、なんか行きたがるもんか」


 ボクはそう言ったきり、爺やと反対の方へ体を向けた。


 ある人物のことを思い浮かべる。まず特徴的なのはくすんだ色の金髪で、次に印象に残るのは少しエキゾチックな容姿だろうか。ボクの父はハーフだったけど、どちらかと言うとドイツ人の血が強く出たらしい。


 あの人が器用なのか不器用なのか、結局最後まで結論を下せなかったと思い出した。父は頭がいい。祖母は大学を出ていたと言うから、そこから貰ったものだろう。大抵のことはそつなくこなしてしまうから、一般的に言えば器用な方なのだろうか。

 けれどいくらなんでも、"ジビエを食べに行こう"なんて突然言って、娘を狩りに連れ回すのはありえないと思う。それも当時8歳の娘を。まぁ、おかげで射撃の成績に関しては優秀になった訳だけども。


 ……薄情な人だ。ボクはあっという間に天涯孤独になってしまった。


 エーリヒ・ヴェーデル。それが父の名前。彼は憲兵(軍の中の警察組織。一般の警察の役割を担うこともある)で、少佐としてそれなりに尊敬を集めていたらしい。将来も期待されていたと聞いている。このことに関しては、単なるお世辞かもしれないけど。


 ボクがその訃報を受け取ったのが、つい3日前のこと。名誉の戦死だったのならならまだ納得できたかもしれない。でもあの人と言えば、ただの治安維持任務中に殉職したらしいのだ。これがまた、何とも納得しづらくて。


「……行きたがる人など誰もいませんよ。しかし遅かれ早かれ、向き合わなければならないことです」


 爺やはそう言った。


「そうかもね。でも、」


 ……ボクは父さんの遺体すら見ていないんだ。


 出かかったその一言は、胸の内に留めておいた。彼は、傷が酷かったらしい。通夜の時さえそれはずっと棺の中に入っていた。それで、どうやって父がいなくなったことを実感すればいいのだろう。

 あの人は仕事柄、長く家を空けることが多かった。そのせいで、今でもしばらく経てばふらっと帰ってきてしまいそうな気さえするのだ。


 あるいは、葬式が終わればその死を実感できるのだろうか。ミサを捧げて父の人生最後の儀式を見届け、彼の魂を死後の永遠の生命へと送り出せば。


「ユーリアお嬢様」

「……分かったよ、ごめん。困らせたいわけじゃないんだ」


 再三の爺やの声にボクはついに諦めて、重たい腰を上げた。服についた枯れ草を払ってから顔を上げると、ちょうどボクの住む市街地が目に入る。ルーヴニエ。バルト海に臨む軍港都市。ボクはそれを一目見て、そばに転がっていた自転車を拾った。


 爺やがいるから帰りは徒歩になる。少し……面倒だ。ここ数日で疲れてしまった。あまり体を動かしたくない。


「行こうか」


 かと言って、歩く他ないのは変わらないのだけど。ボクは帽子を被り直して、爺やに声をかけた。軽い倦怠感に、自転車へ体重を預けながら。あぁ、自分の貧血が恨めしい。


 ……横目に映る、もうもうと煙を吐く軍艦。整然と並んでいるレンガ造りの街並み。それらは相変わらず少し薄汚れている。ボクには、以前と今日の何が違うのか分からなかった。

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