死体に愛された男 早瀬瑛光シリーズ

宝力黎

第1話 事故

 大音響と共に猛烈な勢いで前に飛ばされた。その瞬間、エアーバッグが作動し、押しつけられて呼吸が止まった。意識が遠のくのを感じた。虚ろな風景の中、ルームミラーに動くものが見えた。駆け去っていく人影だ。そこで意識を失った。


 けたたましいサイレンと共に救急車が近づいてきて早瀬瑛光は意識を取り戻した。見れば周囲を人々が取り囲んでいる。身体は痛んだが、どうにかドアを開けることは出来た。

「いつつ……」

 クルマの外に出ると、救急隊員が駆け寄ってきた。

「動かないで!大丈夫ですか?痛いとこはありますか?」

 早瀬は大丈夫と応え、その場に膝をついた。見ると、幹線道路上に二台のクルマが互いに大破して止まっていた。一台は早瀬の乗っていたベンツだが、もう一台はベンツの数メートル後ろで白煙を上げているワンボックスカーだ。フロント部分は完全に潰れ、まるで犬のパグのように見えた。

「私よりも、向こうの人を――もっと酷いはずですから」

 救急隊員は頷き、言った。

「大丈夫です!向こうにも隊員が行ってますからね。あなたも怪我してますね?首は?頭痛はありますか?」

 そう言った隊員のもとに「隊長!」と言って駆け寄ったのはもう一人の救急隊員だ。隊員は首を横に振っている。だが、その顔には当惑の色があった。

 早瀬の方は命に別状なさそうと判断し、隊員二人は連れだってワンボックスカーへ向かった。

「ちょっとこれ、どういうことでしょうか?」

 隊員が言う。隊長も《それ》を見て顔を歪ませた。背後から顔を出したのは早瀬だ。

「あ、ちょっと!向こうに行ってて!あなたを病院に運びますから!」

 そう言うのも聞こえない様子で早瀬は呟いた。

「これ――栄進党の立川幹事長?」

 隊員は驚いて振り向いた。ワンボックスカーの助手席には寝袋に入れられた男がいた。男の顔には血の気が無い。早瀬は見間違えてはいない。ここ最近連日のようにニュースで見る顔だ。気づいた隊員たちは大騒ぎを始めた。無線で連絡を取っている。その立川はどう見ても死んでいた。隊員が脈と瞳孔反射を見ている。半開きの寝袋から立川の右手が覗いていた。事故の衝撃で飛び出したように見えるが、早瀬はその手を凝視した。

――この手は……。

 よく観察したかったが退くように言われ、路肩で待機した。救急隊員は右往左往している。数分で覆面パトカーが回転灯を付けて到着した。降り立った巨体を見て早瀬は項垂れた。それは先方も同じだった。

「ま・た・か・よぉ!なんでお前はいっつも俺より先に現場にいるんだよ!」

「知りませんよ…。それに私は今回も被害者なんですよ?もう少し労ってくれてもいいんじゃないですか?峰田先輩」

「今回も――ってのが多過ぎだ!」

 所轄時代、早瀬の先輩刑事だった峰田はがっくりと項垂れた。だがすぐに顔を上げた。

「被害者?なんだそりゃ」

 早瀬は事故車両を指さした。後部に損傷を受けたベンツが路肩にあった。

「お前のベンツじゃ無いか。オカマ掘られたんか?」

「その表現は今どき――」

「うるせえよ!それよりお前…」

 言いかけた峰田を遮る叫びが聞こえた。

「峰田刑事!」

 ワンボックスカーの方から峰田を呼ぶのは所轄の新人刑事らしかった。峰田が歩き去ると、早瀬は呟いた。

「政権与党の大立て者が変死――ねえ」

 早瀬は静かで鋭い眼差しをワンボックスカーに送った。


「逃げたぁ?」

 峰田の怒声に早瀬は耳を塞いだ。

「デカいですよ!先輩の声は」

「うるせえ!そんなのはいいんだよ!」

 峰田の口癖だ。早瀬は頷いた。

「逃げました。見えてましたし」

「運転手が逃げるのをみすみす見逃したってのか?お前、何やってんだよ!」

「すいませんが先輩、私はもう刑事じゃ無いんですよ?それに追突されて気が遠くなっていく中の話です。無茶言わないでくださいよ」

「それで!男か女か!どっちに行った?走ってか?それとも仲間か何かのクルマで――」

「気が遠くなっていったって今言いましたよね?」

 峰田は舌を打った。

「すみませんね、お役に立てなくて」

 早瀬はそっぽを向いた。

「ただ――」

 考え込んだ早瀬に峰田が詰め寄った。

「ただなんだ?なにかあるのか?言え!」

「いえ、ただ少し気になることなら」

 峰田を押しのけ、早瀬は大破したワンボックスカーに近づいた。早瀬を知らない若い警官が遮ろうとしたが、峰田が手で制した。早瀬はクルマの運転席側に立った。寝袋の遺体は既に救急車に運び込まれている。搬送先が決まり次第出て行くはずだ。

「逃げた奴は、クルマの後方に走って行ったんですけど、なにかこう――」

 早瀬は自分の足を見た。

「片足を――うん、右足かな。引きずっていたような」

「右足を――?」

 峰田は新人刑事に「足に怪我を負った奴が病院に駆け込んでないか当たれ!」と指示を出した。

「ねえ先輩」

 声に振り返ると早瀬はクルマの中を覗き込んでいた。視線は空になった助手席に向いている。

「立川さんなんでしょ?あれ」

 峰田は返事をしない。

「栄進党の」

 峰田は苦い顔を見せた。

「搬送されるみたいですけど、検視は終えたんですか?」

「ああ、まあな」

「現状死因は?」

「言えるか!」

「親指のことは?」

 峰田は目を見開いた。

「お前……」

「覗き込んだ時見えました。右の親指が根元から切断されていましたよね?あ、捜査妨害とか言わないでくださいよ?事故の被害者として加害者がどんな人で――って、単にそれだけの意味で見に来たんですから」

 峰田は言葉も無い。

「運転手は逃走。右足は怪我を負った模様。助手席には与党の大立て者が変死体で乗せられていて、その親指は切り取られていた」

 にらみ合った。

「なんでしょうね、これ」

 峰田が言い返そうとすると若い刑事が駆け寄った。

「まずいです。マスコミが聞きつけて集まり始めました」

「来たってもう死体はねえのに、ご苦労なこった」

 峰田が早瀬に向き直った。

「いいか早瀬、首を突っ込むなよ?わかったな?お前は病院行ってムチ打ちでも何でも治してもらえ!ベンツは車両保険入ってんだろうから保険屋に連絡だ!いそげ!俺はもう行く。じゃあな」

 片手を上げて鑑識課員の方に去って行った。

「あの」

 見ると若い刑事が早瀬を見ていた。

「峰田刑事のお知り合いですか?」

「まあね。見ての通りあんまり好かれてないけど」

「早く帰れ!」

 遠くから峰田の声が飛んだ。

「ほらね。あ、キャリーカーだ。ベンツも証拠品としてとりあえず署に持って行かれるんだろうから、クルマを呼ぶしかないなぁ」

 そう言い、肩をすくめてその場を離れた。

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死体に愛された男 早瀬瑛光シリーズ 宝力黎 @yamineko_kuro

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