第33話 大晦日

...託すべき時が来たと感じています。これまでの経験を次のリーダーたちに引き継ぎ、日本がさらなる発展を遂げることを願っています」


**伊藤が静かに頷き、答える。**

「井上外相、あなたの貢献は計り知れません。国民もまた、あなたの尽力を高く評価していることでしょう。今後の健康と平穏をお祈りします」


**井上が一礼し、会議室を後にする。**


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### 新たな外交方針の模索


**場面:外務省の会議室**


 井上の辞任を受け、伊藤と内閣のメンバーたちは、新たな外交方針について議論を重ねていた。特に、アメリカやヨーロッパ諸国との関係強化が引き続き重要視されていた。


**伊藤が力強く語る。**

「井上外相の後任には、彼の志を継ぐ人材を配置しなければならない。我々は日本の国際的地位をさらに強固にするため、引き続き努力を続けていきます」


**外交官たちが賛意を示し、議論が熱を帯びる。**


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### 未来への展望


**場面:日が沈む東京の街並み**


 1887年は、日本が大きな転換期を迎える年となった。井上外相の辞任、新憲法の施行、そして国際社会での日本の立場が問われる中、伊藤博文は希望を持って未来を見据えていた。


**伊藤が夕日を眺めながら、静かに呟く。**

「これからの日本は、変わり続けなければならない。しかし、我々が築いた基盤があれば、未来は明るいはずだ」


 その言葉は、国の未来を担う若い世代に向けたものであり、これからの日本の発展に寄せる強い信念を表していた。


 

9月28日 - 黄河流域で洪水被害、死者90万人以上


10月4日 - 図画取調掛が東京美術学校に、音楽取調掛が東京音楽学校に改称


10月17日‐横浜市が日本最初の近代水道として、給水開始。

10月31日 - リムスキー=コルサコフ「スペイン奇想曲」初演(ペテルブルク)

11月29日 - ロンドンで血の日曜日事件(Bloody Sunday)

11月29日 - 米国が真珠湾をハワイ王国より獲得

12月1日 - マカオの統治権をポルトガルが清より獲得

12月2日 - 仏グレヴィ大統領辞任

12月9日 - 吾妻橋開橋式(隅田川初の鉄橋)

12月10日 - 東京ホテル設立(1890年に帝国ホテルとして開業)

12月19日 - 日本橋蛎殻町で大火(焼失1690戸,中島座より出火)

12月25日 - 保安条例公布(即日実行)

12月28日 - 新聞紙条例・版権条例改正

 

 大晦日、伊藤は井上馨を思い出していた。

 長州藩・井上光亨(五郎三郎、大組・100石)と房子(井上光茂の娘)の次男として、周防国吉敷郡湯田村(現・山口市湯田温泉)に生まれる。


文武を志したのは12,3歳の頃からであった。山口の学者2人に文学の修養を受けただけでなく、武芸においては弓術を山縣十蔵に、槍術を小幡源右衛門に学んだだけでなく、剣術や馬術も学んだ。


加えて井上家では男女を問わず農作にも勤しんでいた。小作人が田地の小作料の減量を求めるような際でも、それを叱責することはなく代わりにその田地を受け取り、父の井上光亨をはじめとして、耕作を行っていた。そうした『士分』というものにとらわれぬ家だったので、井上は幼少の頃から米の耕作から、味噌・醤油・酒の製造にも通じ、割烹・漬物の作り方にまで精通していた。山口での修養を終えた頃に、家の方針で萩城下へ兄の井上光遠(五郎三郎)と共に家を借り、ふたりで自炊しながら藩校明倫館に通うこととなった。


嘉永4年(1851年)に兄とともに藩校明倫館に入学。なお、吉田松陰が主催する松下村塾には入塾していない。安政2年(1855年)に長州藩士志道氏(大組・250石)の養嗣子となり、一時期は志道聞多(しじ ぶんた)とも名乗っていた。両家とも毛利元就以前から毛利氏に仕えた名門の流れをくんでおり、身分の低い出身が多い幕末の志士の中では、最上級ともいえる家格の武家出身者であった。


ちなみに明倫館の再興はペリー来航の2年前であった。黒船の来航を受け、江戸より長州に帰国した藩主毛利敬親は益々の文武の振興を行うこととした。また身辺の侍衛には最も精鋭と自身で考えた者を置くことにし、その考えにより藩主敬親の命により井上は御前警備の任につくことになった。以降、井上は親衛隊士として、藩主の出府毎に従事するのが常となった。同年10月、藩主毛利敬親の江戸参勤に従い下向することになった。


 江戸の長州藩校有備館は、江戸においても広く知られていたが、井上はそこでもさまざまな学問や武芸を修養している。そのうち、井上は他藩士と同様に撃剣修行として斎藤弥九郎の塾に通学することを許されるほどの腕前となっている。斎藤弥九郎は神道無念流を教える練兵館という塾を開いており、この時期では塾頭・師範代に桂小五郎(のちの木戸孝允)がいることが有名である。また文久元年には江戸へ遊学に来ていた、同じ長州藩出身の高杉晋作も練兵館の稽古に出ている。


 この頃から井上は海外の技術について学ぶ必要性を感じ、安政5年には蘭学と砲術を学ぶために、藩から正式に許可を貰っている。この当時まだ英語は主流ではなく、代わりに蘭学を岩屋玄蔵に就くことで、砲術は江川英龍に入塾することで学んだ。江川英龍は桂がペリー来航後すぐに、斎藤を通じて兵学・砲術を学びに行った相手である。桂はペリーの2度目の来航の際に江川の付き人として実地見学にも行っていた。斎藤と江川という共通の師を持っていることと、安政6年に桂が井上の通う有備館の御用掛に任じられていることから、少なくともこの時期までには井上と桂は深い交流を持っていたものと考えられる。


 また安政5年には、長州の上屋敷で蘭学書の読会が開かれ、そこで村田蔵六(のちの大村益次郎)が兵学書の講義を行っている。これが契機となり、村田の才覚を見込んだ桂は長州藩士として村田を迎えることに尽力した。この事は岩屋が肥前に帰国してしまうこととなり、蘭学を学ぶことが出来なくなってしまっていた井上にとって願ってもないことであった。井上は何としてでも蘭学を学び続けたいという意志を貫き、密かに藩主敬親に申請を続けており、そのため、万延元年に正式に長州藩士となった村田の存在は大きかった。


 万延元年(1860年)、桜田門外の変が起こり国内に緊張が走った折には、各藩藩主は登城往来においてさらに警戒を高めたが、敬親も同様であった。そこで敬親は直に井上を御手廻組の小姓に引き上げ、通称の聞多を与え、藩主の周辺の警戒を厳戒態勢にするための一員として信任した。さらに国元へ戻る敬親に追従した井上は、鋭意進められることとなった藩政改革の中で、兵制に重きを置くこととし、西洋の銃陣を練習に用い、自身もその操練に日夜励んでいた。その後、文久元年5月に教練用掛から手練れと言えるまでになった者の面々を、藩政に注進しており、井上もその選に入ることとなった。


 同年7月には敬親の養嗣子毛利定広(のちの元徳)の小姓役に転じることとなり、再び江戸入りを果たしている。当時は尊王攘夷の論が盛んであったが、井上の攘夷論は趣を異にしていた。井上は海軍興隆の意見を強く持ち、攘夷の実行には海軍力が不可欠とし、精々海外の艦隊を波打ち際で留める程度しかできない現状では、真の攘夷とはならない。よって、海軍を興すことこそが国防の第一であるとし、その研究をはじめている。これがのちの英国留学にも繋がった。

 

 井上は海軍力の必要性を強調しつつも、国内の政治情勢に対しても鋭い洞察を持っていた。尊王攘夷の思想は全国に広まり、過激な攘夷派が外国勢力に対する攻撃を行う中、井上は冷静に情勢を分析していた。彼は、単純な攘夷論では国を守ることができないと確信しており、むしろ西洋の軍事技術や知識を取り入れることが重要だと考えていた。


 井上の主張は、当時の多くの攘夷派からは受け入れられなかったが、長州藩内でも次第に彼の意見に耳を傾ける者が現れるようになった。その中には、同藩出身で後に明治政府の重鎮となる人物も多く含まれており、井上の見識が彼らに大きな影響を与えることとなる。


 その後、井上は藩の命を受けて、さらなる知識を得るために海外留学を志すようになる。当時の日本は、欧米列強との不平等条約に苦しんでおり、国力を高めるためには、まず欧米の技術や制度を学び取る必要があると感じていた。特に、海軍力を高めることが国防の要であると確信していた井上は、英国への留学を決意する。


 1863年(文久3年)、井上は幕府の命で横浜にて英国行きの準備を進める。しかし、当時の政治情勢は非常に不安定であり、彼の留学計画にも多くの困難が立ちはだかった。それでも井上は、長州藩の将来のために、また日本の独立を守るために、この海外留学を果たすことを最優先とした。


 同年、ついに井上は英国に向けて出発する。彼の英国留学は、単なる知識の吸収にとどまらず、日本の近代化に向けた重要な一歩となり、その後の日本の海軍発展に大きな貢献を果たすこととなる。井上は、この留学を通じて欧米の最新の技術や制度を学び、帰国後、それらを日本に導入することで、長州藩の力を高め、ひいては日本全体の近代化を促進していく役割を担う。


 明治時代の大晦日は、近代化が進む一方で、伝統的な日本の年越し行事も色濃く残っていました。街の風景は、和と洋が入り混じり、行き交う人々の服装も、着物を身にまとった者や、洋装に身を包んだ人々が見られました。新しい時代の波を感じながらも、年末の空気にはどこか懐かしい雰囲気が漂っています。


寺院や神社では、除夜の鐘が鳴り響き、108つの煩悩を祓う音が響き渡ります。参拝客は、その鐘の音を聞きながら、清らかな心で新しい年を迎えようと集まります。家々では、家族がこたつを囲みながらおせち料理の準備を進め、年越しそばを食べる習慣も当時から受け継がれていました。


また、都市部ではガス灯や一部では電灯が灯され、洋風建築の家々が近代的な雰囲気を醸し出していました。しかし、大晦日には町の至るところで行われる歳末市がにぎわい、多くの人々が買い物を楽しみつつ、新年に向けた準備を整えていました。


人々は、普段忙しい生活を一旦忘れ、家族や近隣の人々と共に新年を迎える喜びを分かち合い、近代化の進む中でも古き良き日本の風情を残した大晦日の夜を過ごしていました。

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