この吸盤フック、くっつかないんですけど

 タクシーのエンジン音が静かに車内に響く中、夜の街並みが窓の外をゆっくりと流れていく。後部座席の乗客はぼんやりと窓の外を見ていたが、ふと何かを思い出したかのように、持っていた買い物袋に手を入れた。私はちらりとバックミラー越しにその動きを捉える。男性が取り出したのは、吸盤フックのパッケージだった。彼はそれをじっと見つめ、眉をひそめていた。



「これ、さっき買ったんですけど……」と、彼は少しためらいながら話し始めた。「前に使ったことがあるやつと同じような感じで、すぐ外れちゃうんじゃないかと思って……」言葉の端々には、期待と不安が入り混じった感情がにじんでいた。



 私は心の中で軽く微笑んだ。吸盤フックとは、また面白い話題だ。運転手という仕事柄、いろんな人と話す機会があるが、こうした日用品に関する悩みは聞いたことがなかった。



「吸盤フックですか?」と私は話を促すように言った。



「それ、実は吸盤の形が問題かもしれませんよ。タコとイカの吸盤の違いってご存じですか?」



 男性は私の言葉に驚いたように反応し、ミラー越しに私を見つめた。



「え? 吸盤にそんな違いがあるんですか?」



 私は軽く笑いながら答えた。



「はい、ありますよ。タコの吸盤って、全体でしっかりと吸い付くんです。吸盤の表面全体が吸着力を持っていて、非常に強力です」一息つくと続ける。



「それに対して、イカの吸盤は中央に小さな爪のような部分があって、物を引っ掛けて捕まえるのが得意なんです。吸盤フックも、安いものだとイカの吸盤に近い形状が多くて、どうしてもすぐに外れてしまうことがあるんです」



 男性は目を大きく開いて手に持っていたフックを見直し、少し苦笑いを浮かべた。



「なるほど……前に使ったやつも、まさにそんな感じでした。外れやすくて、全然役に立たなくて……形状が関係してたなんて、考えもしませんでしたよ」



「そうですね」と私はうなずきながら続けた。



「タコ型の吸盤なら、もっとしっかり固定されるかもしれません。次に買うときは、ちょっと形を気にしてみるといいかもしれませんよ。日常のアイテムにも、意外と細かな違いがあって、それが使い勝手に影響していることが多いんです」



 男性は再びフックをじっと見つめ、しばらく考え込んでいたが、やがて納得したように微笑んだ。



「そうか……次はタコ型の吸盤フックを探してみますよ。今までそんな風に考えたことがなかったです。目から鱗ですね」



「こちらこそ、少しでもお役に立ててよかったです」と私は軽く答えた。



 こうした何気ない会話の中に、ふとした学びが生まれる瞬間は、運転手としてだけでなく、副業で探偵をしている身としても、やりがいを感じるものだ。



 車が目的地に近づくと、男性はタクシーを降りる準備をしながら、「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にした。再びフックのパッケージを確認する姿には、さっきまでの不安が消え、どこか期待に満ちた様子がうかがえた。



 彼がタクシーを降り、ドアが静かに閉まる音が響く。車内にはまた静かなエンジン音だけが残った。何気ない日常の中にも、小さな謎が潜んでいる。そうした謎が解ける瞬間、それはささやかながらも確かな満足感をもたらすものだ。



 私は次の乗客を迎えるために、街の灯りに向かって車を走らせる。次に待っているのは、どんな話題だろうか。きっとまた、何気ない会話の中に、解き明かすべき小さな謎が隠れているはずだ。

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