出来心の終着点 〜茨城の山々〜
早里 懐
第1話
出会いは突然だった。
10年ほど前。
ちょうどランニングを始めたころだ。
ほんの出来心で付き合いが始まってしまったのだ。
今となっては何を言っても言い訳にしかならないが、まだ付き合いが浅い頃はどうにか別れようと私なりに努力はしたつもりだ。
しかし、私の意志の弱さがそれを邪魔した。
早くに絶っておくべき関係だったのに…。
まさに不徳の致すところだ。
ダラダラと付き合いを続けた結果、お互いにとって近くにいることが当たり前のような存在になってしまった。
騙し騙し10年の月日を共に過ごしてきてしまったのだ。
全ては決断を先延ばしにしてきた私の責任だ。
もちろんこの事を妻は知らない…。
万が一、妻にこの秘密を知られてしまったらと思うと、自業自得ではあるが私はこの先の人生を痛みを感じずに歩んでいける自信がない。
ではなぜ、このような関係を続けてきたのか?
妻との関係がうまくいっていなかったのか?
いや、そんなことはない。
妻との関係は至って良好だ。
妻と2人で出かけることがとても多いし、会話も沢山している。
しかし、妻と一緒にいる時も"私の存在を忘れるな"とばかりに私に対して強い刺激を与えてくるのだ。
私と一緒にいたいという気持ちが目に見えて年々大きくなってきているようで、少しばかりの怖さを感じる。
あえてポジティブな表現をするのであれば、芯を強く持っているとでも言うのだろうか?
とにかく、変わらずに私に対して同じ気持ちを持ち続けているのだ。
しかし、こんな関係をいつまでも続けるわけにはいかない。
私は別れを決意した。
しかし、10年もの長い付き合いだ。
綺麗さっぱりと別れるのであれば、自力では無理だ。
酒の力が必要か?
いや、別れに酒の力を借りるほど私は落ちぶれてはいない。
そう思いながら私は某オンラインショップのサイトを開いた。
そして、あるものを購入するために検索欄に文字を打ち込もうとした。
その時だ。
この期に及んで今までの思い出がフラッシュバックしてきたのだ。
しかし、この先もこのような関係を続けるのは良くない。
私は震える指先で検索欄に文字を打ち込んだ。
う、
お、
の、
め、
パ、
ッ、
チ。
すると数多くの"魚の目パッチ"が表示された。
私は指先に力を込めて購入のボタンを押した。
そして、毛布をすっぽりとかぶり眠りについた。
風の強い夜だった。
数日後、私は山に登ることにした。
この左足の裏にある魚の目と一緒に山に登るのはおそらく最後になるだろう。
私はこの痛みを噛み締めながら登ることにした。
今日登る山は茨城県の"おかめ山"だ。
とても特徴的な名前だ。
バンジージャンプができる吊り橋として有名な竜神大吊橋の駐車場に車を停めて歩き出した。
始めから急登だ。
山に慣れるという優しさをこの山は与えてくれない。
しかし、私は地面を力強く踏み締めて歩いた。
自ずと魚の目は"私の存在を忘れるな"とばかりに足の裏に強い刺激を与えてくる。
硬い芯を持っているのだ。
その芯が私の足裏の神経を刺激してくるのだ。
騙し騙し付き合っていくため、何度か皮膚科で削ってもらったりもした。
しかし、年々目に見えて大きくなってきている。
そろそろこの痛みも限界だ。
そんな負の感情が私の心を支配しかけた時に竜神大吊橋を見下ろす赤岩展望台に到着した。
吊橋を見下ろす景色というのはなかなか見れるものではない。
更に、吊り橋の奥には延々と、まるで無数の大蛇が地を這うように山々の尾根が折り重なって見える。
とても壮大な景色に圧倒された。
赤岩展望台を過ぎると小さな集落に出る。
ここからしばらくは車道を歩くことになる。
この車道から再び登山道に入る分岐点は少しわかりにくい。
油断をしていると通り過ぎてしまう恐れがあるため注意が必要だ。
私はたまたま右手側を見ながら歩いていたため気づく事ができた。
再度山道を進んでいくと見晴らしの良い伐採地に辿り着いた。
景色を眺めながら登り続ける。
途中、渡渉ポイントを通り過ぎるとおかめ山東峰まではもう少しだ。
全身を使ってゴツゴツとした岩を登り、急登を駆け上がり、おかめ山東峰のピークに辿り着いた。
私は360°のパノラマに息を呑んだ。
雪化粧を施した那須連山や特徴的な山容の筑波山が一望できるのだ。
このような景色を拝むために私は魚の目の痛みに耐えて山に登っているのだ。
しばらくの間景色を眺め、私はおかめ山の西峰に向かった。
西峰もピークからの眺望はとても良い。
魚の目が完治した暁には妻と一緒におかめ山に登りたい。
そう思わせるには十分な魅力を持った山だ。
西峰を少し下ったところで軽食を取り、荷鞍山に向かった。
ここからは低山の縦走あるあるの急激なアップダウンを繰り返すことになる。
左足の裏側には相変わらずの痛みがある。
しかし、この痛みを伴う山行も今回で最後になるはずだ。
何故なら先日オンラインショップで購入した魚の目パッチが本日手元に届くからだ。
そんなことを知ってか知らずか、魚の目は私に対する攻撃の手を緩めることはなかった。
私も負けじと足を止めずに歩き続けた。
そのようなギリギリの攻防を続けていると荷鞍山のピークに着いた。
荷鞍山の山頂に眺望はなかったため、山頂標識の写真だけを撮影して、すぐに下山を開始した。
駐車場に戻った私はしっかりとホールドされた登山靴から足を開放した。
この瞬間がとても好きだ。
魚の目もきっと喜んでいるはずだ。
…。
…。
…。
そうだ。
私は魚の目とこのような感動を10年間共にしてきたのだ。
雨の日も風の日も、山に登る時も海に入る時も。
片時も離れることなく一緒にいたのだ。
そう考えると別れが惜しくなってきてしまった。
別れの決意が揺らいできてしまったのだ。
私は悩みながら家路についた。
家に帰った私は思い切って、この事を妻に打ち明けることにした。
魚の目との今後の付き合い方について妻に相談したのだ。
妻はしばらく無言だった。
そして重い口を開いてこういった。
「さっさと別れれば」と…。
…。
…。
思いの外あっさりとしていた。
10年間も妻に秘密にしてきた付き合いを告白したにもかかわらず、あっさりとしていたのだ。
あっけに取られた私は「はい」と言って、某オンラインショップから届いた魚の目パッチをそっと足の裏に貼った。
妻からの風当たりが強い夜だった。
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