第1話 捨てる神あれば拾う神あり 2



午前中のみで終わった高校生活の初日から家に戻ると、ヒカリは昼食も取らず


自室の中に閉じこもっていた。


ベッドの上に置いたスマホの前で正座し、オーディションの結果を待つ。


ぐぅ~~と空腹を促す音が室内に鳴り響いたが、食事中に結果が来るのは何か


嫌だったので我慢する。


(……でも、夜まで通知が来なかったらどうしよう……)


結果は今日中とは聞いているが、それが何時になるかまでの指定はなかった。


もし自分の考え通り通知が遅い時間に来るのだとしたら、あと何時間以上も


この空腹感と死闘を繰り広げなければならない。


ならばさっさとお昼を済ませてしまったほうが……とそこまで考えて、ヒカリは


ブンブンと勢いよく頭を左右に振った。


(ダメダメ!こういうのは初志貫徹が大事なんだから!それに途中で誘惑に負けたら


運が逃げちゃう気がするし!)


両手の掌で自身の頬をパンパンと叩き気合を入れ、再び真っ暗なスマホの画面にのみ


集中しなおす。


「…………」



「……………………」




「…………………………………」








「……………………………………………………………………」




そしてヒカリの意識が悟りを開けそうになるほど無と同化しかけた頃――


ピロリン♪


メールの着信を知らす音が鳴った瞬間、ヒカリはかるた取り名人にも負けぬ神速で


スマホへと右手を伸ばすと、それをすくい上げて両手で持ち直した。


(き、来た!!)


メールの件名でそれがオーディション結果の通知であるのが間違いないことを確認


すると、ヒカリは緊張で震える指先でスマホを操作しながら開封していく。


そして――本文を声に出しながら読み進める。


「二次選考の結果ですが……」


そこで一旦、ヒカリの口が止まる。


その口が再び動き出すまで、静かに――小刻みに何度も震えていた。


「厳選なる審査の結果……不合格…………と…させて……いただきました……」


そこまで読んで、ヒカリの手の中からスマホがベッドの上へと滑り落ちた。


指先から……唇からも震えが全身へと伝染していき、肩がいななく。


「……また……ダメだった……」


ポツリ……と呟いた言葉と同時に頬を伝った一筋の涙が零れ落ち、シーツに小さな


染みを作る。


その小さな染みが次々と生まれ、やがて一つの大きな水溜まりへと変わっていく。


その間――ヒカリはピクリとも動かず、ただ己の無力さに打ちひしがれながら


両手をきつく握りしめたまま止まらない嗚咽の声を漏らし続けた。






――気がつけば近所の児童公園でブランコに座っていた。


部屋でさんざん泣き散らかした後の記憶は曖昧だ。なんとなくではあるが、


家を出る前に母親からお昼ご飯は食べないのかと聞かれた気がする。それに対し


自分はいらないと答えた気が……


(そんなこと……どうでもいいか……)


ブランコに揺られながら天を仰ぐと、赤く泣き腫らした両目に眩いばかりの


太陽の光が降り注いできた。


今の自分の心とは真逆の、雲一つない青空。


その景色はあまりにもキラキラと輝き過ぎていて、ヒカリは直視できずに目を


閉じた。


「やっぱり……私なんかじゃ無理なのかな……」


誰にでもなく弱音を漏らす。


今回で10度目のオーディション落選。そのうち二次選考で篩いから落とされたのは


7回。


どれも審査員の前で歌やダンスを披露しての結果である。


そこで認めてもらえないというのはヒカリにとって、お前にはアイドルとしての


才能がないと突きつけられているような気分であった。


……いや。実際にそうなのであろう。


審査する者は歌やダンスといった技術だけでなく、それ以上にその子がアイドルと


して輝ける原石であるかを見極める。


それは決して努力でどうにかなる物ではない――天からしか与えられぬ才能。


自分にはきっとそれが無いのだ。


「……はぁ……」


自然とため息が口から漏れた。


一度や二度の不合格ならば、まだ自分を信じて頑張れた。努力を続けられた。


けれど、冷静になって現実が見えてくる回数だけ転んでしまうと、立ち上がる力が


失われてしまう。 


それは夜の闇が徐々に昼の光を覆い隠すように。


静かにゆっくりと――しかし確実にヒカリの心を蝕んでいた。


――その瞬間。


ドクンッ!


なんの前触れもなく突然――心臓が大きく跳ね、ヒカリは反射的に閉じていた両目


を見開いた。


世界が回る。


比喩ではなく、見えている景色が360度回転するように何度も。グルグルと。


そして次の瞬間には全身から力が抜けていき、自分の意思では指先一つすら


動かせなくなってしまう。


(しまっ……た……。最近はなかったから……油断してた……)


それはヒカリにとって初めての経験ではなかった。


むしろ、よく知っていると言ってもいいくらいだ。


物心ついた頃からの付き合いである【こいつ】は、極限まで心が弱まった瞬間を


見計らって必ずと言ってもいいほど姿を現す。


堕ちた心を狙い、闇と共に蝕もうとする悪魔。


医師からも原因不明と診断されている――謎の発作。


(……あ……今回のは……ちょっと本気で…マズい……かも…………)


意識が遠のいていく感覚に襲われながら、しかし何も出来ぬまま力を失ったヒカリの


体が乗っていたブランコから崩れて落ちていく。


(誰……か………助け…て…………助…け…て………)


視界から光が失われてゆく。


闇が自分を吞み込んでゆく。


(ナミ……おねえ……ちゃん……)


そして、最後の抵抗として――


それが叶わぬ願いと理解しながら、心の中で大切な人の名前を呼んだ――その瞬間


だった。


「キミ!大丈夫かい!?」


誰かの声が聞こえ、地面に向かって倒れていた自分の体が途中で支えられたことに


気づいた。


「あ…………」


自分に向かって必死に呼びかける声と体を支える腕の力強さに、遠ざかっていく一方


であった意識が徐々に取り戻されていく。


気がつけば、まだ浅くだが息もできるようになっていた。


視界は――まだゆらゆらと揺れる感覚が残っているが、この程度なら少し休めば


治まると経験から知っている。


「しっかりするんだ!僕の声が聞こえているかい!?」


自分を抱き支えている腕に一段と強く力がこめられてくるのが伝わる。


大きな男の腕。


まるで幼い頃、同じように発作で倒れた時に抱きかかえられた父親の腕のようだと


ヒカリは感じながら、その手を返事の代わりに弱々しくも握りしめた。


「……大丈夫……です……。心配をおかけして……すみません…でした……」


「――!待っていなさい!今、救急車を呼ぶから!」


よれよれのスーツ姿と眼鏡をかけた、歳は――アラフォーといったところだろうか。


年齢だけでなく、ぼさぼさの髪も休日の父親にそっくりだと思えた男がズボンの


ポケットからスマホを取り出したので、ヒカリはその手が119とボタンを押す前に


自分の手を触れて制した。


「本当に大丈夫です……から……。


発作は初めてじゃありません…し……家も…近所なので……」


「しかし……」


「少し休めば……元通りになりますから……」


「…………」


男は迷ったが、ヒカリの意識がはっきりとしているのと声を発する息遣いが


少しずつであるが落ち着いてきているのを確認すると、「……分かった」と頷いた。


「だが、このままにしておくよりも……。よし、ちょっと動かすよ」


男はヒカリの返事を待たずに体を支えていた腕の位置を動かすと、そのまま


お姫様抱っこで持ち上げた。


そしてブランコのすぐ近くにあった木製のベンチまでヒカリを運ぶと、その上に


仰向けになるようそっと寝かせた。


「どうだい?横になったほうが少しは楽だろ」


「はい……。本当に何から何までありがとうございます……」


「お礼なんていいさ。僕はたまたまここにいただけだからね」


優しい笑みを浮かべながら男はそう言うと、ヒカリから少し離れ、スーツの下に


着たYシャツの胸ポケットから煙草を取り出して火を点けた。


電子タバコが普及した今の時代では喫煙者も少なくなってきた紙煙草を一服し、


ふぅ~と紫煙がヒカリの方へ向かないよう気をつけながら吐き出すと、携帯灰皿の


中に吸殻を落とす。


「何か辛いことでもあったのかい?」


ふと、煙草を吸い続けながら男がヒカリに尋ねてきた。


「公園に入って来た時から沈んだ顔をしてたからさ。もしそうなら言葉にして


吐き出してみるといい」


「……………」


「自分の中に抱えこんでしまっている辛さっていうのは、なかなか人には言えない


ものさ。特に親しい人になればなるほどね」


けどね、と男は言葉を紡ぐ。


「ここには赤の他人である僕しかいない。それでも言いずらいのなら、


僕が立ち去った後にそうすればいい。


そんなことでって思うかもしれないが、案外そうするだけで大分違ってくるものさ」


そう言うと男は短くなった煙草を咥えたままヒカリの言葉を待った。


しかしヒカリが口を開くことはなく、煙草だけが少しずつ短くなり――


フィルター手前のギリギリまで吸いきった煙草を携帯灰皿の中に放り込んだ、


その時だった。


「……私……アイドルになりたかったんです……」


ポツリ……と。春風に吹かれれば消えてしまいそうな小さな声でヒカリが呟いた。


「ステージの上でキラキラと輝く、あんな素敵な存在になりたくて……


でも……無理でした……。気づいちゃったんです……私にはそんなふうになるのは


無理なんだって……」


仰向けに寝たまま、遠く感じる空を真っ直ぐ見つめながら語るヒカリの言葉を


男も彼女へは顔を向けず、前へ向けたまま無言で聞き入っていた。


「歌で、ダンスで沢山の人達を元気づけられる格好いいアイドル……。


あの人みたいになりたくて、ずっと努力してきたつもりでした……


でも……どれだけ努力したって才能がなければ意味がないんだって……気づい


ちゃったんです……


だってもう10回もオーディションに落ちてるんですよ……?笑っちゃいます


よね……ここまで現実を突きつけられないと理解できなかったなんて……」


そこでヒカリの両目から溢れた涙が顔の側面を伝い、ベンチの木目にポタポタと


零れ落ちる。


「どうして……どうして思っちゃったのかなぁ……!


凡人の私なんかが、あの人みたいなキラキラ輝くアイドルになれるなんて…!!」


右腕で涙が止まらなくなった両目を隠すように覆い、己の無力さに苦しみ歪んだ口


からは嗚咽が溢れる。


そのまま二人しかいない小さな公園には、ヒカリの泣き声だけがいつまでも止まらぬ


音として流れ続けていた。


「……少し、そこで待っていてくれるかな」


男はそう言うと二本目の煙草に火を点け、公園の外へ向かって歩き出した。


ヒカリも遠ざかっていく足音で、男がどこかへ行ってしまったのだと分かっていた。


けれどそれも仕方ない。


こんな赤の他人からすればどうにも出来ない、しかも無駄に重い話を聞かされたの


だ。


嫌気がさして逃げてしまっても無理はなかった。むしろ最後まで聞いてくれたことに


感謝したいくらいであった。


そう――思っていたのだが。


しばらくしてから再び足音が聞こえ、それがこちらに向かってきていることに気づき


ヒカリは驚いた。


一瞬違う人かとも思ったが、微かに鼻に感じた煙草の匂いが先程の男であることを


確信へと変えた。


「お待たせ。少しは落ち着いたかい」


腕で両目を覆ったままなので男がどんな顔でそう言ったのかは分からない。


ただ、何かを顔の右側に置かれた音がした。


気になったヒカリは右腕をずらして顔だけをそちらへと向け、やっと涙が止まって


きた目で確認する。


「……おしるこ……?」


それは自販機で売っている缶のおしるこであった。寒くなるとあったか~いの


コーナーに置いてあるアレである。


「心が疲れている時は温かい物と甘い物が一番の特効薬ってね」


そう言う自分は無糖の缶コーヒを開けて飲んでいた。どうやら男はそこまで心が


疲れていないらしい。


「冷めないうちにお飲み。あっ、体は起こせるかい?」


「はい……もう大丈夫です」


ヒカリの動きはまだ弱々しかったが、それでも自力でなんとか上半身を起き上がら


せる。


そして置かれていたおしるこの缶を両手で包み込むように持とうとしたが、思って


いた以上に熱くて一度放し、徐々に手に慣らすため持ったり放したりを繰り返す。


「……いただきます」


やがてちょうどいい熱さになってきたのを確認すると缶を開け、少しずつ口の中へと


流し込んでいく。


思っていたよりもスープのようにサラサラとした甘い汁と共に小粒の小豆が喉を


通り、昼食がまだで空腹だったのを思い出した体と心を一気に満たしていくのが


実感できた。


「美味しい……」


ほっと一息をつくとはまさにこのことを言うのだろう。


確かにこれは今の自分には特効薬だとヒカリは思いながら、強張ってしまっていた


顔が自然とほぐれて緩んでいくのを感じていた。


「やっと笑ったね」


「あ……。すみません……こんなところまで気を遣わせてしまって……」


「なに。僕がしたくてしてることだ。キミが気にする必要はないよ」


そう言って男も初めてヒカリに顔を向けて笑ってみせる。


そこでふとヒカリは先程まで彼の前で恥ずかしい姿を見せてしまっていたのを


思い出して恥ずかしくなり、真っ赤になった顔を隠すように彼から背けた。


「ところで一つ聞いてもいいかな?」


「えっ!? あ、は、はい。なんですか?」


「キミがアイドルを目指した理由。さっき言っていた【あの人】ってのが


誰なのかなと気になってね」


「ああ。それはナミお姉ちゃん……伊座敷いざしきナミさんです」


「……なるほど、彼女か。確かに凄いアイドルだったものね」


男は一瞬だけ愁いを帯びた目をしたが、しかしそれもヒカリが気のせいだと思って


しまうほど本当に一瞬で、すぐさま元の表情に戻ってしまう。


「ナミさんのこと、知っているんですか?」


「むしろ日本に住んでて知らない人のほうが少ないんじゃないかな。


なんと言っても引退した今も伝説のアイドルとして語り継がれるくらい、超が付く


ほどの有名人だしね」


伊座敷ナミ。


18歳の時にアイドルとして芸能界にデビューし、そのファーストシングルが


いきなり音楽配信総合ランキングで1位を獲得。これが伝説の幕開けであった。


アイドルという枠に収まりきらない圧倒的な歌唱力。さらには他のアイドル達の


追随を許さない洗練されたダンスパフォーマンス。


それらを最大限に活かせるライブコンサートを開催するたび、彼女はトップアイドル


への階段を一段も二段も飛ばし続け、瞬く間に駆け上っていった。


さらに彼女の才能はマルチに及んだ。


演技をさせれば本職の俳優すらをも唸らせ、初めて主演を務めた映画では邦画として


異例の歴代全ジャンル興行成績8位という快挙を成し遂げた。


テレビに出演すれば軒並み高視聴率を稼ぎだし、CMに起用されれば商品は店頭から


消える。


ありとあらゆる業界が伊座敷ナミというスーパースターの効果を求め、激しい争奪戦


を繰り広げた。


その人気が全盛期を迎えた頃には、日本で暮らしていて伊座敷ナミを見ない日は一日


たりともないと言われたほどである。


そこまでして彼女が老若男女問わず人気を獲得できた理由は、なんといってもその


人柄ゆえであろう。


裏表のない竹を割ったような性格。どれだけ結果を出しても決して驕らず、常に努力


を続ける姿勢。


なによりも空前絶後のスーパースターでありながら、どこにでもいそうな普通の


少女だと感じさせる親近感が誰からも愛され、彼女を国民的アイドルとして確立させ


ていったのであった。


そして――デビューから4年目。


満を持して、日本最大規模のイベント会場である東京スーパーアリーナでの公演が


決まる。


最大収容人数7万5千人。超一流と認められたスーパースターのみが上がることを


許されるステージは、彼女にとって遅かったくらいだと言われた前評判通りチケット


は大争奪戦の末、完売となった。


誰もがそのライブでまた一つ伝説が生まれると信じて疑わなかった。


――だが、そうはならなかった。


ライブ前日。


伊座敷ナミ――突然の引退発表。


引退の理由は心因性失声症。


つまり声を出せなくなったしまったのであると、会見を開いた当時の


担当マネージャーの口から悲壮に染まった声で語られた。


突然の。なんの前ぶりもなかった本当に突然の引退発表に業界だけでなく


日本中に激震が走った。


そして会見の場に伊座敷ナミ本人が不在であったこと。それどころか所属事務所の


関係者が顔に怪我を負った彼女の担当マネージャーのみであったことが様々な憶測を


呼んだ。


所属事務所とのトラブル説。


なんらかの事件に巻き込まれた説。


妊娠説。逃亡説。死亡説。etc…etc…


おおよそ思いつく限りのゴシップが出尽くしたが、引退発表の会見以降、伊座敷ナミ


が消息の一切を絶ったこと。そして彼女と繋がりのある関係者が誰一人として


その件に関して口を開くことがなかったことにより、真相は未だに謎のままとされて


いる。


――唯一。


伊座敷ナミという太陽が消え去った。


それだけが事実として残り、絶対的な輝きを失ったアイドル業界は後継者不在による


長い冬の時代へと突入していくこととなる――






「本当に凄い子だったよ……あの子は……」


何かを思い出しているかのように。男は遠い目で過去の記憶を眺めているような


表情で呟く。


「それに……私、約束したんです。いつか二人ともアイドルになって、一緒の


ステージに立とうって」


そんなぼんやりとしてしまっていた男の意識を我に返したのは、ヒカリが何気なく


語った言葉であった。


「……その話、詳しく聞かせてもらえないかな」


「えっ?は、はい……構いませんけど……」


急に真面目な顔と声色になった男の変化にヒカリは驚きつつも頷き、


「でも、聞いても面白い話じゃないと思いますよ?」


苦笑いを浮かべ、そう前置きをしてから、彼女――伊座敷ナミとの約束について


語りだした。



【続く】

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