六章 相談

 「そう。なんだか余計なアドバイスをしちゃったみたいね。ごめんなさい」


 理緒との『デート』から数日後、悠司は事の顛末を洵子に話した。


 「いえ、大壁さんのせいではないですよ。彼女が、理緒が変なだけで」


 悠司はため息をついた。


 「それで彼女さんは今どんな調子なの?」


 悠司は、理緒の最近の行動を記憶に思い起こす。


 彼女は宣言通り、悠司の情報を徹底的に管理する行動に出ていた。仕事が終わっても、必ず部屋にやってきて、パソコンやスマートフォンをチェックしていた。通話履歴や、LINE等のSNSメッセージにも目を通す始末。そのせいで、いちいち日向出版関係の情報を消さなければならなかった。この電話の通話履歴も実は危険なのだ。


 悠司の説明を聞いた洵子は、気を使うように訊く。


 「原稿のほうは大丈夫なの?」


 悠司は、電話越しに肩をすくめた。


 「何とか描いてますよ。依頼を受けた以上は、必ず寄稿します。それに、隠しフォルダにしているから、今のところばれる心配はありません。毎度ハラハラしますけど」


 実際、悠司の対策は功を奏していた。いつまで持つかは不安だったが。


 「それも大切だけど、私が言ってるのは、新人賞に応募するための原稿のことよ。もうギリギリでしょ? 間に合うの?」


 洵子の質問により、悠司は陰々滅々たる気分に包まれる。


 「描こうとはしているんですが……」


 理緒の毎日の『ちょっかい』のせいで、モチベーションが削がれ、全く進んでいなかった。あとほんのちょっとで完成なのに。


 「事情を知っているから、こっちの原稿は少し遅らせてもいいわ。彼女の行動がエスカレートしたのも、私の責任だし。だから、賞への原稿を優先させて」


 洵子は、心からこちらを心配しているようだ。熱いものが胸から込みあがってくる。


 「ありがとうございます。なんとか完成させます」


 しかし、実際の問題点は、理緒なのだ。彼女の件を解決しなければ、新人賞応募の原稿は前進が難しい。つまりそれは、自分の夢が遠のくことを意味する。


 気分が落ち込み、悠司は押し黙った。こちらの心情を慮ってか、洵子も口をつぐんでいるようだ。


 静寂がしばらく続く。


 洵子のほうも、良い解決策は考えつかないらしい。『段階的暴露療法』が失敗に終わった今、兵法家のように、おいそれと起死回生の案が閃くはずがなかった。


 結局、そのあと洵子は、励ましの言葉だけに終始し、通話を終えることになった。

 スマートフォンをポケットに戻すと、悠司は、それまでいた窓際から離れ、廊下を歩き出す。


 定時を過ぎた『松宮商事』の廊下は、それでも大勢の社員が行き交いしていた。営業部の人間らしき社員の男が、電話をしながらエレベータに乗り込む姿が目に映る。この時間から外回りらしい。ご苦労なことだと思う。


 悠司は、廊下から自身の部署があるオフィスへと戻った。そこも、残業中の社員の怨念のような熱気が立ち上っていた。


 現在、『松宮商事』は繁忙期を迎えており、まさに鉄火場だ。悠司も含め、南原や先輩社員の新島など資材調達部の面子も、ほとんどが残業である。


 悠司は、自分のデスクに座り、仕事を再開した。


 「数馬、今までなにしてたんだ?」


 仕事を再開してすぐ、隣のデスクから、新島が訊いてくる。非難ではなく、単純な質問であるようだ。


 「ちょっと野暮用があって……」


 悠司はお茶を濁す。新島はそれ以上言及せず、ふうんと頷くと、作業に戻った、彼の目の前には、発注書が山積みだ。


 悠司は、ちらりと課長席のほうに目を走らせる。


 視線の先には、理緒がいた。彼女も残業でデスクに座っている。理緒もこちらを見ており、目が合うと理緒は、嬉しそうにウィンクを行った。


 悠司も、少しだけ口角を上げて応じる。そして、ふと心の中で思う。もしかすると、彼女は悠司が席を離れていたことを、ずっと気にしていたのかもしれない。すぐに理緒と目が合ったことが、その証左ではないだろうか。


 あとで、追及される恐れがある。用心したほうがいいだろう。もっとも、ちゃんと洵子との通話履歴は消去してあるが。


 悠司は作業に戻る。しかし、なかなか集中できなかった。気がつくと、上の空で、別のことを考えてしまう。理緒の件が、胸の内で濁りのように漂っているせいだ。


 それでもなんとか、根性で作業を続ける。


 ようやく全ての仕事を仕上げ、時計を確認したときには、すでに午後十九時を回っていた。


 悠司は帰り支度を整え、デスクを立つ。いまだ発注書に忙殺されている新島と、あとは理緒から押し付けられた入出管理証の山に悪戦苦闘している南原に挨拶を行う。彼らは、判で押したように恨みがましい顔を作り、悠司を見送った。


 オフィスの出口に向かう際、悠司は理緒の様子をちらりとうかがった。彼女は、席を外しているらしく、どこにも見当たらない。他の部署にでも赴いているのか。


 どっちみち、理緒は、仕事終わりに悠司のアパートへ訪れるのだ。気にしても仕方がないだろう。


 廊下に出て、エレベーターへ向かって歩いていると、佐奈とばったり出くわした。


 「数馬君、今から帰り?」


 佐奈も、これから退社の様子だ。悠司は首肯する。


 「さっき仕事終わったからね」


 悠司は少し緊張しながら、答える。だが、普段のように、赤面症の症状が出そうになることはなかった。心の中の不安定な気持ちが容量を逼迫し、赤面症が入り込む余地を奪っているせいだ。


 「早いね。南原君はまだ残業でしょ?」


 「あいつは、仕事を押し付けられただけだから」


 「まだ課長から目の敵にされてるんだ」


 佐奈は、悠司の隣に並び、エレベーターの前へ立つ。ふわりと、香水のような良い匂いが鼻腔をかすめた。


 ほどなくして、エレベーターがやってくる。二人は一緒に乗り込んだ。他に乗員はいない。


 下降するエレベーターの浮力を感じながら、悠司は今日、この先の展開を考え、辟易する。


 おそらく、今日も理緒は悠司の部屋へやってくることだろう。そして『管理』するのだ。


 そのせいで、依頼を受けたアダルト漫画も好きに進められないし、なにより、新人賞へ応募する原稿が、仕上がらないのだ。


 悠司は小さく息を吐いた。理緒から告白された当初は、喜び勇んでいたが、気がつくとこの有様である。一体、何の因果だろうか。


 「……じょうぶ?」


 悠司は、はっと顔を上げる。隣で、佐奈が不安げな眼差しをこちらへ向けていた。


 「なに?」


 悠司は動揺しながら訊く。ついトリップしてしまい、佐奈が隣にいたことを忘れてしまっていた。


 「数馬君大丈夫? なんだかぼーっとしてるよ」


 悠司は手を振って、はぐらかす。


 「なんでもないよ。ちょっと疲れているだけ」


 だが、佐奈は納得しないようで、眉根を寄せている。


 「なにか悩みでもあるの?」


 「いや、べつに」


 「少し前から、数馬君、様子が変だったよね?」


 悠司は、ぎくりとした。まさか悠司の心情を察している者がいるとは思わなかった。しかも、こんな身近に。


 「え、そうかな?」


 悠司は、目を逸らし、階数パネルを見つめる。


 下手をすると、理緒との関係性が発覚してしまうおそれがある。誤魔化したほうがいいかもしれない。


 だが、突然の指摘であるため、上手い言い訳を考えようにも、なに一つ思いつかなかった。


 悠司が口ごもっている姿を、佐奈はじっと見つめている。


 やがて、彼女は驚くべきことを口に出す。


 「もしかして、前納課長との間に何かあったの? 数馬君、あの人と付き合っているよね?」


 まさかの正鵠を射た質問に、悠司は度肝を抜かれる。


 「な、なんでそのことを……」


 言ったあとで、悠司は口をつぐむ。思わず、認めるような言葉を口走ってしまっていた。


 佐奈は頷く。真剣な目だ。


 「なんとなく、わかってたよ。数馬君の雰囲気で」


 今度こそ、自身の顔が赤くなっていることを、悠司は自覚した。ちゃんと隠せていたと思ったのに。


 佐奈が知っていたとなると、他の人間はどうなんだろう。南原や新島は? もしかすると、けっこう広まっているのかもしれない。


 佐奈は、ずっとこちらを直視している。赤面症が出ている現状、あまり見られたくはなかった。


 「俺と課長が付き合っている話、他に誰か知っているのか?」


 佐奈のほうを見ずに、悠司は訊く。


 「多分、私だけだと思うよ。そんな話している人いないし」


 悠司は、ほっとする。だが、問題が解決したわけではなかった。


 佐奈は続いて質問を行う。


 「それで、なにがあったの?」


 悠司は首を振る。


 「篠澤さんが気にするようなことじゃないよ」


 悠司が苦し紛れにそう言うと同時に、エレベーターが一階に到着した。


 扉が開き、悠司は先に降りる。さっさと佐奈から離れたかった。


 エレベーターを出て、歩き始めた悠司を佐奈が背後から呼び止めた。


 「待って、数馬君」


 悠司は無視をし、会社の玄関へ向かってホールを直進する。佐奈が追いかけてくる気配を感じた。


 社屋から出る寸前、追いついた佐奈が言った。


 「私、相談乗るよ。同じ会社の同僚なら色々と事情もわかってて話しやすいでしょ?」


 悠司ははっとして立ち止まり、振り向く。佐奈は眉宇に憂いを込めていた。どうやら本気でこちらを心配しているようだ。


 悠司は、気がつくと首を縦に振っていた。



 館内駅前に新規オープンしたケーキショップに、二人は入った。以前、チラシを貰ったことのある例の店舗だ。


 店内は混雑しており、女子高生の集団や、OLが目に付く。


 悠司たちは、かろうじて空いていた一席に着席した。メイド服のような制服を着用した女性店員がやってきて、注文を取る。


 悠司は紅茶とチーズケーキを、佐奈はコーヒーとチョコケーキを注文した。


 店員が立ち去ったのを見送ったあと、佐奈が口火を切る。


 「いい店ね。よく来るんだ?」


 「いや、前にチラシ貰ったから、気になってて」


 「店員さんの制服、可愛いもんね」


 今のピリピリした雰囲気を和ませるための佐奈のジョークが飛び出す。


 悠司は肩をすくめた。


 「そんな理由で選んだわけじゃあないよ」


 「うん。冗談。数馬君がそんな人じゃないことくらいわかってる」


 「そう。それならいいけど」


 悠司はほっと息をつく。佐奈はいつもの調子であるため、悠司は心が落ち着いていくのを感じた。


 佐奈はこちらを見つめながら、大きな目を細めて、微笑む。


 そして、真面目な顔つきになった。


 「じゃあ、課長との件、話してみて」


 本題へと突入した。前置きがあったため、少しだけ話しやすくなった気がする。


 「えっと、ちょっと前のことだけど」


 悠司は、理緒との一件をはじめから話した。


 告白をされ、付き合い始めたことから、彼女の性嫌悪症についてや、『段階的暴露療法』を実践したことなど。それから、悠司がアダルト漫画を描いていることも、全て伝える。


 話を聞き終えた佐奈は、眉根を寄せた。


 「前納課長、そんな人だったんだ。堅物だとはわかってたけど、そこまでひどいなんて……」


 「病気なんだよあの人は」


 悠司はため息をつく。


 佐奈は、少しだけ考え込む仕草をした。大きな目を、何度かしばたたかせる。


 顔を上げた彼女は、疑問を口に出す。


 「そういえば、課長は、数馬君のどこを好きになったのかな?」


 悠司は口ごもった。あまり触れられたくない部分だ。理緒が悠司を好きになったのは、悠司が赤面症であり、その点を『純情』だと誤解したからである。


 そのため、馴れ初めを話す場合、自身の赤面症について、カミングアウトが必要であった。自分のコンプレックスを吐露することは、とてつもなく羞恥心を覚えてしまう。赤面症だと知った佐奈は、どう思うのだろう。


 だが、相談した手前、その点を秘するわけにはいかなかった。中途半端ならば、相談しないほうがましな状況である。


 悠司は、まずは前提として、自身の赤面症について、佐奈へカミングアウトした。


 「その、実は俺、赤面症っていう症状を持ってて……」


 すると、佐奈は思いもかけないことを口にする。


 「うん。知ってるよ」


 彼女は、あっけらかんと答えた。驚いたのは、悠司だ。


 「知ってる?」


 悠司は素っ頓狂な声をあげてしまう。そして、反射的に周囲を気にした。幸い、誰もこちらを注視していなかった。


 悠司は、声をひそめるようにして、訊く。


 「知ってるってどういうこと?」


 「そのままの意味だよ。悠司君、話しかけたり、おしゃべりしてたら、時々赤くなってから」


 悠司は、うっと怯む。羞恥心と動揺が、煮込んだスープのようにごちゃ混ぜになり、胸の内に渦巻いた。


 まさか、赤面症のことをとうに知られていたとは……。他の人間も同じように、気づいているのだろうか。


 そして現在、まさに問題の赤面症が発症していることを悠司は自覚した。今、顔が赤くなっているのだ。当然、佐奈も視認できているはずだ。


 悠司は、目線を落とした。恥ずかしくてたまらなかった。


 その時、注文したお菓子と飲み物を盆に載せた店員がやってきた。酒を飲んだように、赤くなってる自分を見て、この店員はどのような顔をしているのか。変だと思われているのかもしれない。


 悠司は、顔を上げることができなかった。メイド服のみを視界の隅にとらえたまま、注文したケーキやコーヒーなどが目の前に並べられていくのを見つめていた。


 店員が立ち去ったところで、ふと笑い声が聞こえる。どうやら、佐奈が微笑んだらしい。


 佐奈は、穏やかな声を発した。


 「赤面症のことなら、気にしなくてもいいと思うよ。むしろ、可愛らしくて私は好きだな」


 「え?」


 悠司は、顔を上げる。佐奈は優しげな表情をこちらに向けていた。佐奈の意外な発言。気を使っただけかもしれないが、赤面症に対し、肯定的な意見を言われるとは思わなかった。


 そういえば、理緒も角度は違えど、赤面症には肯定的な反応を示したと言ってもいいだろう。


 いずれにしろ、まずは赤面症という前置きは話した。あとは本題だ。


 悠司は、現在、自分の身に降りかかっている『災難』について佐奈へ伝えた。理緒が性嫌悪症を患っていることや、悠司が漫画家を志望していること、アダルト漫画を描いていることなど。そして、赤面症が理由で、理緒と付き合い始めたことも添える。ただ、『あの時』のことについては話さずにいた。


 話を聞き終えた佐奈は、得心したというように、目を細める。


 「そっか。前納課長も数馬君の赤面症の部分を好きになったんだ」


 「あ、ああ。そうみたい。とても『純情なな人』だと思ったって」


 「課長の意見、わかるよ。赤面症の人、純粋そうだもん」


 佐奈も理緒と同じ感想を述べるが、それは誤解だ。


 悠司はため息をつく。


 「でも、実際は違うんだよ。ただ赤面がちょっとしたことで出るだけで」


 「それを純情だって言うんじゃない?」


 「アダルト漫画を描いている男が、純情であるはずがないよ」


 「それはそうかもね」


 佐奈は、納得したという面持ちになった。そして、言葉を続ける。


 「でも、やっぱり、他の男の人よりも純情な部分があるからこそ、赤面症が出るんだと思うよ。そこは、恥ずかしがることじゃないと私は思うけどね」


 「そうかな」


 悠司は、首を捻る。佐奈は、やはり赤面症ついて肯定派のようだが、正直なところ、本当に自分が純情かどうかは判別つかなかった。


 しかし、次第に気持ちが落ち着いていくことを悠司は自覚した。悩みを伝え、自分のコンプレックスを掘り下げたことで、かえって平常心を取り戻すきっかけになったようだ。赤面も随分と薄れていることだろう。


 一瞬、間が開いたことで、佐奈は目の前に置かれてあるコーヒーを飲んだ。悠司も紅茶を飲む。香ばしい味が、喉に染み渡った。随分と自分は喉が渇いていたことを、その時悠司は知った。


 「だけど、そのアダルト漫画が問題なんだよね」


 佐奈は、コーヒーカップを置き、細い顎に手を当てて言う。


 「もしも、アダルト漫画を描いていることがバレたら、大変なことになるって」


 「多分ね」


 悠司は、理緒の剣幕を思い出す。彼女は性的なコンテンツを忌避しているが、それを作り出している存在を最も嫌悪していた。


 「なにをされるかは、定かではないけどね」


 悠司は、再び紅茶を一口飲んだ。



 「アダルト漫画を描かないって選択はないの?」


 佐奈の質問と同時に、近くの席に座っていた二人組みの女子高生のうち一人が、こちらをちらりと見たことがわかった。先ほどから『アダルト漫画』の単語が飛び交っているために、気に留まったらしい。


 悠司は、声量を下げた。


 「しないね。今のところは。俺を評価してくれた出版会社や編集者の人に恩があるし、ちょっとした収入源にもなってるから」


 佐奈は「そう」と頷く。佐奈に言ったことは、本心だ。洵子にも宣言したように、アダルト漫画を描かない選択肢はない。


 佐奈は言葉を継いだ。


 「だからといって、課長と別れても、後が怖いし、ベストは前納課長の『性嫌悪症』が解消することだけど、それも難しいってことね」


 悠司は首肯した。


 佐奈は眉根を寄せ、うーんと唸る。


 「確かに難しい話ね。数馬君が思い悩むのもわかるわ」


 佐奈は、まるで自分のことのように、深く憂慮しているようだ。やはり、佐奈は優しい女性なのだろう。


 しばらく沈黙が流れる。店内の喧騒が、やたらと耳に響いた。オープンしたばかりなので、今の時間帯でもまだ席は満杯だ。


 悠司が、チーズケーキを一口食べたとき、佐奈はふと疑問を口にする。


 「そもそも、どうして前納課長は、そこまで性に関して潔癖なんだろうね」


 悠司は、虚をつかれた思いがした。


 確かに、佐奈の疑問は、至極当然のものであった。理緒の性嫌悪症の異常な点ばかり着目していたせいで、根本的な疑問すら湧かなかったのだ。


 「課長、いつくらいから、性嫌悪症になったのかな」


 佐奈は、独り言のように呟く。


 悠司は、理緒のこれまでの行動を思い起こした。もしも、昔――例えば学生時代――から、彼女があのような行動を取っていたとしら、どこかの段階で問題が生じているはずだ。


 少なくとも、社会人としては致命的な欠点だといえるだろう。彼女が、南原のような軟派な男を目の仇にしていることから、かつて誰かは理緒の異常性に気づいた者もいるかもしれない。


 「理緒は前に企画部にいたな」


 彼女は、企画部から資材調達部に転属してきていた。以前の部署ではどうだったのか。


 前、佐奈と一緒にいた同僚がそれについて説明していた気がする。確か、今と同じく、業務に対し厳格であったとのことだ。そして、言い寄ってきた男を、ことごとく足蹴にしたという。


 もしかすると、もっと詳しい事情を知っている人間が企画部にいるかもしれない。理緒の性嫌悪症の原因がわかれば、対処はしやすくなるだろう。上手くいけば、解消への糸口をつかめる可能性も出てくる。


 佐奈も同じことを考えていたようだ。こちらをまっすぐ見据えた。


 「企画部の人たちに、話を聞いたほうがいいかもしれないね」


 佐奈は提案する。悠司は頷いた。


 「そうするよ。機会を見て、尋ねてみる」


 「私も協力するから」


 佐奈は力強くそう言った。悠司は首を振る。


 「そこまでして貰う必要はないよ」


 佐奈は、テーブルに身を乗り出すようにして、こちらへ真摯な眼差しを向けた。


 「大丈夫。相談に乗った手前、簡単に引くに引けないし。協力させて」


 「篠澤さんに迷惑かかるよ」


 佐奈は胸を張った。


 「私のことは気にしないで。それに、女性がいたほうが、色々と話を訊きやすいでしょ?」


 悠司は、少しだけ悩む。佐奈の言うことは正論だ。それに、協力してくれる者がいるのは心強かった。


 悠司は、頭を下げた。


 「わかった。協力を頼む」


 佐奈は、告白を了承されたかのように、嬉しそうに微笑んだ。



 「今までどこにいたの?」


 佐奈と別れ、自宅のアパートに戻った悠司を理緒は鬼の形相で出迎えた。


 「連絡したのに!」


 理緒は、部屋の前で怒鳴る。手にはスマートフォンを持っていた。


 「ごめん」


 悠司は謝罪するが、理緒は許さない。


 「なにしてたの?」


 「ちょっと人と店で話してて」


 「人って誰?」


 「偶然、学生時代の知り合いと駅で会ってさ。近況報告も含めて、ちょっと話し込んじゃった」


 真っ赤な嘘だが、判明する恐れがない内容だろう。


 だが、理緒は信じない。


 「女と会ってたのね?」


 「違う。男だよ」


 「正直に話しなさい。今のあなたは性欲にとらわれてつつある汚い男なんだから」


 理緒は唾を飛ばしながら、怒鳴る。悠司は押し黙った。こうなってしまっては、簡単に理緒は引き下がらないだろう。


 理緒は、手を突き出した。


 「部屋に入って、スマートフォンを見せて。それに、パソコンもチェックするから。それから説教ね」


 理緒は大声で喚く。近隣に、自分たちのやり取りは筒抜けだろう。


 悠司はため息をつきそうになる。これでは、今日も漫画制作は進まないだろう。賞の応募はもうギリギリだ。


 悠司は、部屋の鍵を解錠し、扉を開けて中に入る。理緒は後ろに続いた。


 「そうだ。今度この部屋の合鍵を作るわ。今日みたいに遅くなったら外で待たないといけないし、部屋を調べたいときにいつでも調べられるから」


 理緒の言葉を、背中で聞きながら、悠司はできるだけ早く、理緒のことを調べ、対処しなければと、心に固く誓った。

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