吸血鬼の食事

いつものように家にあがりこんだ部長だが、今日はなにやら様子がおかしい。アカメを追いかけ回すこともなく両手で自分の目を塞いで、呼吸は荒く、吸血鬼になってから輪をかけて白くなった頬がうっすらとピンクに火照っている。


「日射病ですか?」

「違うの。なんていうか、その……弘明くんの首筋を見てたら、美味しそうって思っちゃって」

「は?」


 とんでもないことを言い出した部長に、ぼくは思わず身を引いた。


「そのまま見てたら、思わず噛み付くのを抑えられないような気がして」

「まるで抑えられているようには見えませんけど……。というか、指の隙間から、真っ赤な目が覗いてるんですけど」


その獲物を狩る獣のような目つきに、ぼくは首筋を手でかばった。


「だって吸血鬼なんだもん。吸血鬼が血を飲むのは生理現象なんだよ! だからちょっと、ちょっとだけでいいから吸わせて!」


 開き直った部長が、ものすごい速さで迫ってきて、瞬く間にぼくを押し倒した。そして、手足をからませて、暴れるぼくの体を完全に固定した。


 至近距離で、部長の熱い吐息が顔にかかる。


 抵抗しようともがくが、あまりの力で手足を抑えられ、ぴくりとも体が動かない。なんだこの力。いくらぼくが非力とはいえ……・あっ、吸血鬼の怪力か!


「ちょ、はなしてくだ……んー!んー!」


 口すらも塞がれた。


「おとなしくしてて。大丈夫、痛くしないし、すぐ終わるから。干からびるほど吸ったりしないから」


 耳元で、部長の囁き声がぞわぞわと耳をくすぐった。


「だから、弘明くんは天井のシミでも数えてればいいの」


 息は荒く、顔は火照り、瞳孔は開いている。部長は明らかに興奮し、理性を失っているようだった。


 部長はもう喋ることをやめて、ただ荒い息遣いだけがぼくの耳に伝わる。


――食べられてしまう。


 尋常ではない様子の部長に、「血を吸われる」ではなく、「食べられてしまう」と、ぼくは本当にそう錯覚した。


 熱い吐息のかかる場所が、耳から首筋へと移動した。


 ああ、もうダメなんだ。ぼくはそう悟って、目を閉じ、全身から力を抜いた。華奢で、やわらかい体をした女の子に組み敷かれる無力感に、ぼくは思わず涙が零れそうになった。


「うー!」


 ぼくを窮地から救ってくれたのは、アカメだった。

 アカメは部長を突き飛ばして、そのまま部長の体を抑えつける。


 そして、なにかをぼくの方へと放り投げた。慌ててキャッチしてみると、それは哺乳瓶だった。


 部長は「血ぃ!弘明くんの血ぃ!」と叫んで暴れている。


「なるほど、これが吸血鬼の、吸血衝動ってやつなのか……」


 でもアカメがこんな状態になったことは、いままで一度もなかった。


 以前、部長が立てた「ミルクとおしゃぶりで吸血衝動を解消できるのではないか」という仮説。それは、本当に合っていたのかもしれない。ぼくはアカメが部長を抑えている間に急いでミルクを作り、そして哺乳瓶を暴れる部長の口に突っ込んだ。



「この度は醜態を晒してしまい、まことに申し訳ありませんでした……」


 我を取り戻した部長は、ぼくらに対して土下座していた。


「うー!」とアカメが責めるように声を張り上げる。


「今まで食事どうしてたんですか?」

「アカメちゃんと違ってわたしは普通に今まで通りの食事もできてたし、問題ないって思ってたんだけど。でも……」


 今日、いきなり吸血衝動が爆発したと。


「だって、だって急だったんだもん!」


 部長は顔をあげて逆ギレしだした。


「今日ふと弘明くんの首筋を見たらね、ドクンって、まるで心臓が跳ねるみたいな感じがして、そしたら急に喉が乾いて、弘明くんの血が吸いたくて吸いたくて仕方なくなって、抑えられなくて……つい」


 人に襲いかかっておいて、「つい」で済ますな。メチャクチャに怖かったんだぞ。


「まあとりあえず、ミルクを吸って吸血衝動は収まったんですよね?」

「……」


 なぜか部長はなにも答えなかった。


「部長?」


「実は……まだ弘明くんの血を吸いたいって気持ち、ちょっと残ってる」


ぼくは思わず後ずさり、アカメはぼくをかばうように前に立ち両手を広げた。


「うー!」

「で、でもこれは普通に我慢できる衝動だから!大丈夫だから!」


 部長は弁解するように手をわちゃわちゃと動かした。


「もっとミルク飲んだ方がいいんじゃ……おしゃぶりもしゃぶっててください」

「その、なんとなくわかるんだけど、ミルクを吸ってもおしゃぶりを吸ってもこの欲求は完全には無くならないと思うな」

「それ、おしゃぶりをしゃぶるのが恥ずかしいというだけの言い訳……じゃないですよね?」

「違うよ!」


 部長は吠えた。うーん。この反応は嘘じゃ無さそうだ。


「あくまでも、吸血衝動を抑えるだけで、無くなりはしないんだと思う。もちろん、これはわたしの感覚の話だから、実際はわかならいけど」

「要するに、『どうやっても我慢できない!』から、ミルクを飲めば『我慢できるけど、吸えるものなら吸いたい』ってレベルに落ち着くってことですか?」

「す、吸わせてくれるの!?」


 部長は四つん這いで這ってきて、すがるように上目遣いでぼくを見上げた。


「いや、普通に嫌ですけど」

「で、でもわたしは一度も吸ったことがないからこんなに求めてしまうだけで、一回吸ってしまえば、こんなものかって衝動も収まるかも」


しかし一度吸って、やっぱり美味しいからと我慢ができなくなってしまうという逆の可能性もあるわけで。


「うー」


「でも、でも」とまだなにかを言おうとぼくにしがみつく部長をアカメが間に入って引き離した。


 その様は、握手会で規定の時間を超えたらファンを引き剥がすベテラン警備員みたいに貫禄があった。やっぱりまだダメそうなので、部長の口におしゃぶりを突っ込んでおく。


「ちなみに理性が飛んでたときの記憶、残ってるんですか?」

「それは……うん」


部長は耳を真っ赤にした。


「部長もあの痴女みたいな振る舞いはさずがに恥ずかしかったんですね」

「痛くしないとか、すぐ終わるとか、天井のシミでも数えていればとか、別に狙って言ったわけじゃないから! わたしはただ血を吸いたくて冷静じゃなかただけで……」


 部長は、完全にテンパっていた。


「それ以上説明されると、こっちまで恥ずかしくなるんで、もう黙ってもらってもいいですかね」

「うん……」


 部長は、静かにおしゃぶりをチュパチュパとしゃぶり始めた。

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