愛しているから

安里紬(小鳥遊絢香)

第1話

 辺りに秋の気配が漂い、ヒンヤリした風が頬を撫でていく。空を見上げると、夜空には星が輝き始めていた。


 スーツ姿の悠人ゆうとは気持ち良さそうに深呼吸をし、視線を戻した。表情は清々しく、一週間の疲れなど、感じさせない。それどころか、幸せが滲み出るような笑顔を浮かべ、軽やかな足取りで、家路を急いだ。そこに、悠人の宝物が待ってくれているのだ。


「ただいま」


 玄関で靴を脱いでいると、トタトタと可愛らしい足音が近づいてくる。


「パパ! おかえりなさい!」

紗那さな、ただいま。今日もいい子だったかな?」

「もちろん! さなは、いっつもいい子だよ。だって、いい子にしてたら、パパとママがニコニコになるんだもん」


 五歳になった紗那は興奮しているかのように、その場でぴょんぴょんと跳ねると、それに合わせて、結った髪も跳ねた。ご機嫌な表情も、その仕草も、かわいい声も、すべてが愛おしく、胸が熱くなる。


 この光景は毎日のことで、当たり前のこと。そう言ってしまえば、それだけで終わってしまう日常の風景だが、悠人にとっては何度だって新鮮で、改めて幸せを感じる瞬間だ。


「ママ、パパが帰ってきたよ!」


 リビングに入ると、妻の美沙が微笑み、紗那、悠人へと順に視線を送った。


「おかえりなさい。紗那、パパが帰ってきて嬉しいね」

「うん! あのね、今日はハンバーグなんだよ。それでね、パパのくまさんハンバーグは、さなが作ったの!」


 紗那の表情が『褒めて!』と訴えてきて、悠人は小さく笑った。悠人はしゃがみ、紗那の目線に合わせて微笑を浮かべる。


「お手伝いができて、紗那は偉いな」


 悠人の言葉に、紗那は自慢げに胸を張った。


「紗那が作ってくれたなら、すごく美味しいだろうね。くまさんハンバーグ、楽しみだよ。ありがとう」


 紗那は満足そうな笑顔を見せると、キッチンの方へ走っていった。悠人は立ち上がり、美沙に視線を遣った。美沙は苦笑している。


「絶対にパパのハンバーグはくまさんにするんだって、張り切っていたのよ」

「本当にかわいいな。紗那の優しいところは、美沙に似たんだろうね」


 紗那に見せていた笑顔から、落ち着いた表情に変わった悠人が美沙を見下ろし、笑みを深めた。


 結婚して数年が経った今でも、美沙を見る悠人の目は付き合い始めの恋人を見ているような熱を孕む時がある。美沙はそれがくすぐったく、ほんのり色付いた頬を手で覆った。普段よりも熱くなっているのは、今でも恋しているからかもしれない。悠人がそうであるように。


「しっかりしているところは、悠人に似たんだよ」

「じゃあ、かわいいところは、美沙似だ」

「手先が器用なところは、悠人似」


 悠人と美沙は顔を見合わせ、同時に噴き出した。悠人が美沙を抱き締めようと手を伸ばした時、キッチンの方から紗那の呼ぶ声が聞こえた。


「待たせちゃったね。じゃあ、準備してくるから着替えてきて」


 美沙は苦笑すると、悠人に背を向けた。その後ろ姿を見送り、悠人は自分の手に視線を落とした。物足りない。愛する妻に触れ損なった手が、やけに冷たく感じる。


「俺は、こんなに寂しがり屋だったかな」


 思わず零れた呟きとともに、手をグッと握り締める。妻と娘が愛おしすぎるせいか、年のせいか。悠人は小さく息を吐いた。




 夕飯が終わり、リビングで寛いでいる時だった。


「紗那。今日は幼稚園でどんなことをした?」


 悠人の問いかけに、紗那は空を見上げ、「えっとねぇ」と今日の出来事を振り返る。すぐに思い出したことがあり、紗那の表情がパッと笑顔になった。


「今日ね、ゆみちゃんがお花をくれたの。そしたらね、けんちゃんがイモムシを持ってきて、私にくれようとしたんだ。お花は嬉しいけど、イモムシはびっくりしちゃって、『いらない!』って言っちゃったの」


 けんちゃんとイモムシの話をする時は、眉間にしわを寄せ、最後には唇を噛み締めた。


「紗那は虫が苦手だもんね」


 美沙の言葉に、紗那は頷いた。


「虫は嫌い。でも、けんちゃんが悲しそうな顔をしたから、『ごめんね』って謝った。『虫は苦手だから、もらえないよ』って」


 唇を噛み締めた理由がわかった悠人は、優しい笑みを浮かべ、隣に座る紗那の顔を覗き込んだ。


「紗那は偉いね。けんちゃんは、紗那が喜んでくれると思って、イモムシをくれたんだもんね。それを『いらない』って言っちゃったことを謝ったんだ。けんちゃんも、きっと紗那の気持ちをわかってくれたと思うよ」


 悠人は素直に感心した。まだ紗那は幼いのに、相手の立場に立って気持ちを察することができる。それだけじゃなく、自分が不快に思ったことでも、すぐに気持ちを切り替えて、謝ることができた。それは簡単なようで、とても難しいことだ。大人でも、できない人がいるかもしれない。


こんなにいい子に育ったのは、美沙のお蔭だ。仕事が忙しく、家事や子育てを彼女に頼り切っていることは自覚している。自分にできることは何でもやってきたつもりだが、美沙が普段してくれていることを考えると、全然足りない。


「美沙、ありがとう」


 不意に出た悠人の言葉に、美沙は驚き、目を丸くした。


「……どうしたの、急に」

「美沙の存在の大きさを改めて実感した」

「私だって、いつも悠人の存在の大きさを実感してるよ」


 二人の間に座る紗那は、見つめ合った二人の顔を交互に見て、ぷくっと頬を膨らませた。


「ずるい! 私も仲間に入れてよ!」


 悠人と美沙は思わず笑った。互いの存在の大きさを実感し合えているのは、紗那という一番大きな存在のお蔭なのに。


「紗那、大好き」

「パパも、紗那のことが大好きだよ」


 紗那の笑顔が弾ける。ぴょんと立ち上がった紗那は、両手で大きな円を描き、


「さなも、パパとママがこ~んなに大好き!」


と、言った。その様子を見て、悠人と美沙は笑い、つられて紗那も笑いだす。


(ああ、なんて幸せなんだろう)


 悠人は心の中で呟き、この言葉にできない多幸感を噛み締めた。



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