言語が先、思考が後

千織

第1話 言語により、知覚する世界が変わる

 この話は、私の経験から来る個人的なものであり、誰かや何かを否定するものではない。また、自分の言いたいことに最も近い表現をするに力点を置くため、読みやすくはない。


 まず、あらすじの通りである。具体的に知りたい方は、私の読書感想文1・2を読んでほしい。まだ、私が無防備、無自覚に書いているので読みやすいかと思う。


 さて、遊び半分で始めたハルキ文体模写を続けて、私に起こった変化について書き記していく。


 そもそも目的は決して村上春樹のようになりたいわけではなく、エッセイを読み、村上春樹自身に興味が出たから作品を読んでみたくなったのだ。エッセイも作品もシームレスだったので、期待通りだった。


 初めは非常に苦労した。私に無い言語、私に感知できない波長の細かさ。


 だが、続けていくうちに慣れてきたのか、内容によって書き方が変わっているのか、波に乗れるようになってきた。その差とは何か。


 ハルキ言語群に対する理解が進んだ。作品の中で、”他の言葉に置き替えられるが、そちらを使わない””その群には統一されたカラーがある”というのを感じた。


 作品自体の価値はもちろんそれだけではないが、自分にとってはそれに気づいただけでも大きかった。自分で書くときにも、細かな波長に意識を向ける姿勢が身について、一文で済ませていた内容を、追加で二、三行増やせる可能性が出た。また、表現したいことについて、ハルキ言語群を意識することで自分が納得する書き方ができるようになったと感じる。


 さらに、四六時中ハルキ文体に浸ることで、世界を認知する角度が変わった。夫からの話の、10センチ下、斜め45度にある似て非なる並行する世界が今までより明確に認知できるようになった。


 夫に言葉を返す時、そちらの世界――名付けるなら『透明な世界』――を表現する言語群を使う。すると、今までよりもより夫を分解し、段階を分けることができ、夫にも伝わっているようだった。


 これは、”人間の言語”ではできない。幾度も、人間の言語の限界は感じてきていた。人間の言語は手垢にまみれて、その本質を吟味されることなくコンビニエンスに使われている。ゆえに、思考もそれに引きずられる。


 気づきが起こっても、言語が追いつかない。言語化できないものは滞在する時間が短い。あっという間に消失してしまう。


 音楽でも、絵でも、運動でもいいのだが、気づきの状態をどれほど長く維持できるかだ。本来、身近で手軽であるはずの言語がそれを邪魔している。

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