2-9 獣人ネシャ
その子供──ネシャは今日の戦利品を懐に抱え路地に入ると、一度だけ通りの方を振り向いて誰も来ていないことを確認し一息ついた。
孤児院を抜け出したネシャが生きる
種族特有の身体能力と、その種族には類まれな手先の器用さでこの日まで生きてきたネシャは
ネシャは路地にペタンと座り込んで戦利品を地面にばらまく。
宝石がはまった装飾品や硬貨が入った巾着、ネシャはその
その点、硬貨であれば多少の言い訳は効く。それに宝石は足がつきやすい、と聞かされた。
騎士に捕まったら孤児院に逆戻りだ──その考えが浮かんだ瞬間、ネシャの全身の毛が震え立つ。
硬貨以外の物を捨てるのは惜しいが、安全には変えられない。それに今日の
そう思いながらも、無意識の内に宝石に見惚れてしまっていたネシャは後ろに人が立っていることに気付かなかった。
ネシャが背後の人物に気付いて振り返った瞬間、その顔面に男の拳が飛んできた。
明らかに子供に対する暴力としては度が過ぎている。
それをもろに喰らってしまったネシャは明滅する視界が空を映した事で自分が地面に倒れたと知る。
逃げなければ──ネシャは痛みを堪え、四肢に力を入れて立ち上がろうとする。しかし逃がすまいと男は腹を蹴り上げる。
起き上がりかけで防御や回避も出来ないところにクリーンヒットした蹴りでネシャは悲鳴を上げる事も出来なかった。
成人男性による
ネシャは吐き気を催して胃の中を地面に出してしまう。もっとも、ここしばらくは何も食べていなかったため、胃液が垂れただけではあったが。
抵抗の意志が全くなくなったネシャを満足そうに見下ろした男は言った。
「てめぇ、俺からスリやがったな?」
「ごめんなさ──」
すでにネシャの頭には逃亡や反抗といった思考は消えている。心が折れたのと同時にそれらも消えてしまった。
あるのはこの場から生きて逃げるために
謝れば許してもらえる──ネシャは地面に這いつくばりながら謝罪を続ける。
「か、かえしますっ……お金も宝石もっ──」
しかしその思いが叶う事は無かった。男は謝罪され、懇願された事にさらに興奮し、執拗に腹に蹴りを打ち込む。
ネシャは今までスリが見つかって痛い目に遭う事が無かった。
見つかったとしても身体能力で逃げ切ることが出来たし、そもそも見つかること自体が稀だった。
今まで成功経験が続いた事と、今回は目を奪われる宝石が多かったせいでネシャは油断しきっていた。
その代償は大きかった。腹への蹴りが二桁に達し、ネシャは失禁していた。その小水には血が混じり、内臓部へのダメージが深刻であることを表している。
そこまでして男は気が済んだのか、ネシャが広げていた戦利品を片っ端から自分の懐に仕舞っていく。痛みと吐き気で何も考えられなくなったネシャでも
この男は自分の物が盗まれた訳ではなく、スリを狙う強盗だったのだと。
小耳にはさんだことがある。スリが他人から金品を盗んだ後を
まさか自分が標的だったなんて──ネシャはこれからはもっと上手くやろう、そう考えていたが、戦利品を物色し終えた男の目がまだ
そういう類の人間か──暴力をふるう事が大好きな人間。嫌というほどネシャが見てきた人間。
彼にとってスリからの強奪はあくまでおまけに過ぎないのだろう──ネシャは再度始まった容赦ない暴力にか細い声で叫んだ。
「やめ──」
だが発言は許さないとばかりに男はネシャの頭を強く踏みつける。頭蓋が圧迫される痛みにおもわず悲鳴を上げた。
ネシャの考え通り、彼は弱者をいたぶることが好きだった。反抗できない立場の者を一方的に殴打できた時の快楽は何にも代えがたい。
だがこのご時世、法があり番人である騎士がいる。そのため容易に暴力は振るえない。
そこで彼が思いついたのが
男性であれば声が出なくなるまで痛めつけ、女ならば犯した上で痛めつける。
スリは暴力を振るわれても騎士に届け出ない。だから多少やりすぎだとしてもお咎めは無い、おまけに金品も得られる──この
この世は弱肉強食で狩るか狩られるかなのだ、男はそう思いながら、ネシャの顔を思い切り蹴り飛ばした。
ネシャの幼い口からは折れた歯が飛びだし、固い地面に転がる。
何度か気を失ったが、その度に痛みで目が覚める。目が覚める度に口の中一杯に広がる血の味と、殴られる痛みで吐き気に襲われる。
そんな地獄の繰り返しの中、すでに悲鳴を上げれない程に弱ったネシャは蹴られた時に噛んで千切れた舌で必死に助命を乞う。
「ゆる
果たしてその祈りが届いたのか、ここいらで勘弁してやろう、と男は暴力の行使を中止する。
だがその目は蹴りの衝撃で帽子が外れたネシャの頭部に集中した。
そこには長く帽子を被っていたせいで折りたたまれた小さな獣の耳があった。
「なんだ……お前……
男は嬉しそうに笑った。そして今度は一発目、二発目と同じように
ネシャはその衝撃に今まで手加減されていたのだと悟った。そして折れた肋骨により呼吸困難になり、地獄が再開された事に絶望した。
「だったら、
獣人──人であり人種では無いもの。もちろん
彼らを保護する法もあり、
しかし現実は違う。亜人たちは未だ差別の対象であり、
この男もその例に漏れず、他のソドム共和国民と同じく亜人全般を嫌っていた。過去には何度も亜人たちへの暴力──それも死に至る程の暴行で逮捕されている。
男はネシャの
事実、男は獣耳をちぎろうとしていた。
それまでとは違う、体の一部が千切れる痛みにネシャは大粒の涙を流して悲鳴を上げる。
ネシャの瞳は思わず表通りの方へと向けられる。そして悲鳴で潰れ掛けの咽喉で「助けて」と叫んだ。
絶対にそれは言わない。ネシャはそう決心していた。
一人で生きると決意した日から、誰かに助けを乞う事は絶対にしないと決めた。しかしその覚悟は暴力によってあまりにも脆く崩れ去った。
だが覚悟を捨ててまで叫んだネシャの声に反応する者は誰もいなかった。そもそも表通りを行き交う人々はトラブルの起こっている路地に目など向けない。
たとえ向けても面倒はゴメンだとばかりに目を逸して──獣人ならなおさら──立ち去ってしまうのだ。
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