1-9 記憶喪失
「記憶が無い?」
クワトロとエンディが驚いて口にした質問にレイは「あぁ」と頷いた。
「俺がここに来る前に何をしていたのか……思い出せない」
「ふむ」とクワトロはひげに手をやり考えこむ。その顔は由々しき事態だ、とでも言わんばかりに渋い。
「そもそも──俺が誰なのかも分からない」
目を閉じ、深く息を吐いたレイは続けた。
「俺がどこで生まれたのか、何をして生きてきたのか──チクショウ、
レイは仏頂面でそう吐き捨てる。
元の世界の知識はある。様々な国や文化、人種に言葉──そういった知識はあるのに、こと自分の素性になるとぽっかりと抜け落ちたように思い出せない。
その態度にエンディは彼と初遭遇した時の事を思い出す。彼は名前を呼ばれた時、少々困惑していた。
あれは自分の名前が分からなかったからでは無いのか。
そしてクワトロもレイの言葉を嘘とは思えなかった。
何より二人が彼の言葉を疑わなかったのは、かの有名な
その話を念頭にクワトロは口を開く。
「異世界からこちらにやってくる際に記憶を失う、というのは聞いたことがある」
レイは自分が元いた世界が『異世界』と呼ばれたことに妙な感じを覚える。
俺からすれば、こっちが異世界なんだが──レイはそれを口にせず、もっと重要な事を聞くために話しを促す。
「そうなのか?」
クワトロが言った『聞いたことがある』とはつまり俺意外でこの世界に来た人間がいるという事だ──レイがその考えに至ったのを悟るとクワトロは頷いた。
「過去にも君のように異世界からこちらにやってくる人間はいた。彼は君と同様に記憶を失っていた。」
クワトロはエンディの方をチラリとみる。その含みのある視線が気になったが、レイは無視して聞いた。
「過去にも俺みたいなやつがいたのか? それだったら話が早い。そいつはどうやって元の世界に戻ったんだ?」
「彼は戻っていない。彼はこちらの世界で生き、そしてこの世界で生涯を終えた。それも何百年も前にね」
「俺は……元の世界に戻れるのか?」
レイはそう聞いた。
記憶が無いのも元の世界の方にいたほうが治る確率は上がるだろうし、なにより魔法の世界なんてのは御免だ。
こういった事は勇者だとか英雄だとかがやるべきなのだ。
記憶こそ無いが、俺は
「残念だが……それは出来ない」
「
その考えにクワトロは首を振った。
「私は転移魔法学の専門家ではないが……少なからず他人よりは魔法について知っている立場にある。だが一度も実際に見聞した事がないのだ。こちらから
レイは小さく「クソ」と呟く。その悪態にエンディは一瞬、不愉快さを顔に出したがすぐにひっこめた。
「俺を召喚した奴ら──奴を見つけ出すしかないな」
レイは自分を襲ってきた三人を一人に減らした事を思い出し、そう訂正すると逃げた女の顔を脳裏に思い浮かべる。
唯一の手掛かりはその女だった。
「あの女を見つけ出せば何かわかるかもしれない」
「君を襲った一味の生き残りだね?」
クワトロの言葉にレイは頷く。
少なくとも、自分の名前を知っていた者に話を聞けば事態は進展するはずだ。女が見つからなくとも、殺した二人の死体を調べれば何かわかるはずだ──
「その女について何か手掛かりは? それに
「その事についてなんだが──」
クワトロはそこで言葉を切ると、ひげを撫でた。その言いにくそうな様子にレイは「何なんだ」と聞く。
「逃げ出した女性についてはまだ何も分かっていない。そして現場なのだが……エンディの報告を聞いてすぐに現場へ向かったが、何も残っていなかったのだよ」
「何も残っていないってのは──」
「死体はおろか、血痕や魔法陣の跡、そもそも生活した痕跡すらなかった」
「そんな──」
今度はレイが驚く番だった。それではあの出来事は全て無かったことになっているという事では無いのか──レイは嫌な予感が沸き上がるのを感じる。
「それじゃあ、俺の正体については全くの手がかり無しって事か?」
「残念ながらそうなる」
生活の痕跡を消すのはそう難しい事ではない。普段から
しかし死体の処分程難しいものは無い。
血痕なんてものはそう簡単に消えるものでは無いし、消せるものではない。特に今回のような突発的に作成された死体ならば尚更だ。
それをすぐに消せるような者とは──レイは思考するが、クワトロは安心させるように言った。
「あまり気を落とさないで欲しい。私も出来うる限りの協力はしよう。君が元の世界に戻れるように」
クワトロは穏やかにレイを慰め続ける。
「だがしばらくはこちらで暮らしてもらう必要がある。だから──」
レイは彼が言わんとすることが分かったため、その先を継いだ。
「不用意に出歩くな、か?」
クワトロはその言葉に深く頷く。レイは何故この男がここまで親切にするのか理解できなかったが、とりあえずは彼の考えに同調した。
この世界の事を何もわかっていない以上、出歩くのは危険極まりない。
それに狙われている以上、不用意に出歩いてわざわざ姿をさらす必要はない。
「その通り。私達がそばにいない時は不用意に外に出歩かないほうがいい。それに最近は街も物騒だからね。特に夜は痛ましい事件も起きている」
「食事なんかは──」
その言葉の途中で扉の先から「こんこん」と女の声が聞こえ、レイはそちらに視線を動かす。
開いた扉から入って来たのはクワトロと歳がそう変わらないであろう老婦人だった。
お茶目にノックの音を声で模した彼女は右手にお盆を、左手にレイが着ていた服を持っていた。
「あら、起きてはだめですよ」
老婦人は上体を起こしているレイを見ると目を丸くして咎めた。そしてベッドの隅にレイの服を置き、ベッドサイドのテーブルに食事の乗ったお盆を置く。
「彼女はフィーア、私の妻だ」
クワトロからそう紹介されたフィーアは「どうぞよろしくね」と上品な笑みを浮かべた。
「彼女が君の傷を治療したのだ」
レイは命の恩人に「そいつはどうも」と軽く挨拶をする。エンディはその応対が気に入らないのかムッとした表情をしたがすぐにひっこめた。
「いいのよ。それと体力が戻るように調合したスープを作ってきたから飲んでね」
ベッドサイドのテーブルに置かれたスープとパンを眺めているレイに向かってクワトロが言った。
「彼女はこの街──いや、この国一番の薬法師でね。正直なところ、彼女でなければ君の命も危なかっただろう」
夫からの褒め言葉にフィーアは「あらやだ、教師が良かったのよ」と照れたような身振りでクワトロに反応する。
「それに、薬が効きやすい体質で助かったわ。そうでなければ助からない程に酷い怪我だったから」
「そうは言ってもあの怪我を治療したんだ。誇らしいよ」
思わぬ
それに気付いたクワトロは一つ咳払いをし、厳格な顔に戻ると立ち上がった。
「この世界で必要な物──身分証は近いうちに作って持ってくる。食事も定期的に届けよう」
ほんの少しこの世界に触れただけだが、この世界でも
暮らしぶりは部屋の内装や食事を見るに中世と変わらないようなのに──そこで一つの疑問をクワトロにぶつけた。
「俺が
身を守るとはいえ人を殺したのだ。少なくとも官憲――この世界では騎士――に色々と探られることになるだろう。
そんな中でこの世界に存在しない人間だという事がバレたら厄介な事になるのは目に見えている。
そんなレイの考えを見透かしたクワトロはやはりそう来たか、という顔をして答えた。
「その
「そいつは安心した」
「それでは私たちはこれで失礼するよ」
そういって退散した三人を見送ったレイはベッドに横たわり天井を見上げる。
少なくとも今の段階では彼らは敵ではなさそうだ。だが油断はするな、とレイは
誰も信頼するな、流れに身を任せて紛れ込め──
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