第4話

 エファルとハンナが神の森の前に到着したのは、ハーロルトの屋敷を脱した夜からその通り五日ほど経った頃だった。


 目の前の髪の森は、新緑と深緑の葉が絡み合って天に向かって豊かに、放射状にのびていた。


「一見すると、他の森とさほど違いはないように存ずるが」


「たしかにそう見えますが、実は神の森は、特殊な結界があるのです。それを上手く潜り抜けないと、永久にさまようことになります」


「その前に、腹ごしらえと参ろう。食糧もつぎ足しておかねば、路頭に迷うことになり申そう」


 神の森の周辺には、意外な事に宿屋が点在している。神の森は、この大陸の中でも景勝地となっていて、観光客が大陸中からやってくるからで、中には神の森の枝を追って持って帰ろうとする不心得者がいたりする。


「城の桜を懐かしく思う」


 エファルが、神の森を見てそう言った。


「たしか、ヒトヨシ、でございましたわね」


「左様。故郷の桜も、かように大きく、広く咲き誇っておった。望郷の念は思うまい、そう思えども、故郷忘れがく、思いは禁じ得ぬ」


 エファルの狼の目尻から涙がこぼれた。ハンナがハンカチを手渡すと、かたじけない、とエファルは目尻を抑えた。


「ひとまず、宿を抑えましょう。路銀は十分にありますから」


 ハンナは一番近くの宿に入ると、エファルもそれに続いた。

 宿屋では、火の入っていない囲炉裏を旅人や吟遊詩人、あるいは酒好きの連中で賑わっていて、宿のあるじはそれを店のカウンターの中から眺めている。あるじはハンナとエファルを見つけると、近くへ来るよう手招きした。


「疲れたろう。一晩銀貨で十枚、二人だから二十枚ってところだが」


「ええ、お願いするわ。それと、食糧を十日分、二人ね」


「しめて銀貨で四十枚だが」


 ハンナは懐から小さな革袋を取り出し、手を入れて銀貨を掴むと、勘定してあるじに渡した。


「……、こりゃ珍しい。狼族とはね」


「エファル、と申す。お見知りおき願いたい」


「あ。……ああ、エファル、さんね」

 あるじは戸惑っていた。ハンナが、

「ここではあまりご自分の事は話さない方がよろしいですよ」


 と助言をくれたので、エファルは口に手をあてた。それを聞いていた酔客が、

「そこの狼族、エファル、とかいったか。こっちへきて一杯どうだ」


「まことにかたじけのう存ずる。では、一度部屋に入りし後、お相手願いたい」

「あ、おう。……なんだか分からねえが、来るんなら、早くしろよ」


 エファルとハンナは同じ部屋に泊まることになった。荷物を置き、ハンナが扉を施錠すると、エファルは囲炉裏の近くにあった椅子に座った。すると、例の酔客から木のジョッキを渡され、並々と注がれたのは、泡立ちの良い麦酒であった。


「これは」

「これはな、ここいらあたりの名物の麦酒だ。狼族は、酒はイケるのか」

「いや、以前は酒はよく過ごしたが、ひとまず」


 木のぶつかる鈍い音の後、エファルはちびちびと舐めてみた。生前、武士の頃に過ごした酒とは違う、苦みのある味だったが、元より酒にはこだわらないエファルには、新しい発見になった。


「おうおう、イケるじゃないか」

「狼族というのは、生肉以外は食べられぬが、酒はさほどに悪くないのであれば、これも良きかな」


「エファル。……、だったな、お前さん」

「左様」

「狼族にしちゃ随分と面白い話し方をするね。奇妙というか、なんというのか」

「ああ、これは申し訳ござらぬ。お気に障るならば」


「いやいや、別にどうってことはねえよ。ただ、面白いね、あんた」

「左様でござるか。……、一つ、謡でも吟じようか」


 エファルは手拍子を自ら始めると、こぶしを利かせ、あるいは伸びやかな声で謡った。ハンナを始め、宿の連中は分からないのでただただ茫然と聞いていたが、エファルの喉の良さにうっとりとし始めた。そして謡が終わり、

「お粗末でござった」

 と言ったとき、宿中から万雷の拍手がなった。


「どういう歌だ、そりゃ」

 酔客の一人が尋ねてきたので、人吉の城下で流行っていた謡であることを話した。

「う、うたい?」


 当然、酔客は聞いたことがないはずで、エファルのいうことに何もかも戸惑っていた。


「ま、まあ。楽しけりゃそれでいい。ちなみに、どういう意味なんだ」

「さきほどの謡は、女遊びをしたことの無い商家の若旦那が女に入れあげて、店を追い出されるという話でござる」

「……、なるほど、面白い話だな、そりゃ」

 酔客は笑いながらまた酒を飲み始めた。


「素晴らしい声でしたねえ」

 今度は、竪琴を持った吟遊詩人がエファルの隣に座った。ハンナが宿のあるじから渡された料理をエファルの前に置く。エファルには生肉が置かれた。


「私は、アーフェルタインといいます。旅をしているエルフでしてね、その声を好きになりました。どうですか?これから私のベッドで一緒に。……」


 お待ちください、とハンナが止めようとすると、アーフェルタインは、

「おや、人間のお嬢様がいらしておいででしたか」


「あーふぇるたいん殿、貴殿のお気持ち、重々承知仕り候なれど、それがしは衆道の気、これなく、また故郷に妻子のある身故、お断り申す」


「それは残念でしたね。でも、私は諦めませんよ。……そうですね、貴方について行くことにしましょう」


「お気持ちはありがたいが、何故」

「それは、貴方の声に惚れたからですよ。無論、それだけではありません。貴方の行く先をともに歩めば、なにか途方もない景色が見れそうな気がします」

「途方もない景色、でござるか。それが見せられるかどうか分からぬが、よろしくお願い申す」

「こちらこそ」

 アーフェルタインが手を差し出すと、エファルはじっと手を見つめた。


「こういう時は、握るのですよ、エファルさん」

「なるほど」

 エファルは差し出ている手を握った。


「狼族の肉球は柔らかくて気持ちのいいものですねえ」

 アーフェルタインがにっこりすると、エファルは、

「よしなにねがいたい」

 といった。


 エファルとハンナは宴が終わって、部屋に戻った。

「あの、エファル様」


「いかがした」


「あのあやしいエルフと一緒に行くのですか?」


「ハンナ殿は嫌がるであろうな」


「当然です。エルフなんて見境なく襲いかかって来るんですから」


「あのえるふとか申す者共は、そのような者たちであるのか」


「ええ、信じられないでしょう」


「いや、さほどに抵抗はない。人吉でも衆道の者は少なからずおり申した。その者も妻子のある身でござった」


「あの、衆道っていうのは?」


「衆道というのは男色のことでござる。つまり、男同士で契ることでござるよ」

 ハンナは目を見開き、あんぐりと開けた口を手でふさいだ。


「エ、エファル様は、まさか」


「ああ、いや。それがしは衆道の気はござらぬでな、興味もない。故郷にいる妻のあけびと小太郎を考えると、とても衆道に手を出す気はござらぬ」


「その方がいいです。でも、なんで一緒に行くことにしたのですか?」


「あーふぇるたいん殿がえるふと聞き及び、ハーロルト様がそれがしに教えてくれたことを思い出したのだ」


 ハーロルトが生前、エファルに神の森について話したことがあった。神の森にはエルフが住んでいて、神の森を抜けるにはエルフの助けがいる、ということ。さらに、神の森には魔獣もいて、それが番人のような役目をしていて、結界とあいまって、それが神の森の不可侵性を担保している、というようなことだった。


「それゆえ、えるふを味方に点ければ、神の森を抜けることが出来るのではないか、と考えた次第」


「なるほど、エファル様は凄いですね」


「さにあらず、偶さか思い出したまでのこと。むしろハーロルト様に感謝せねばなりますまい。もう休まれよ、明日の朝出立いたすでな」


 エファルがそう言い終えた時には、ハンナはベッドの中で寝息を立てていた。


 翌朝、太陽が白い光を伴って地上から顔を出したころ、エファルはあくびをしながら目を覚ました。


 すでにハンナは出発する手続きを終えていて、ハンナの隣にはアーフェルタインが待っていた。


「おお、エファルさん。さあ出発しましょう。それで、どこに行くのですか?」


「あーふぇるたいん殿、実は、それがしとハンナ殿はあの神の森を抜けて、ムーラに向かいたいのでござる」


「なるほど、たしか、バディストン公国に不穏な動きがありましたからね、亡命というわけですか」


「そのようなものでござる。神の森に向かう道筋を立てていただきとう存ずる」

「それは、構いませんが」


 といいつつも、アーフェルタインからはっきりとした言葉が聞こえてこない。

「私が、旅のエルフだということを憶えていますか?」


「無論、いくら酒を飲んでおっても、そのようなことは忘れようはずがない」


「私が旅のエルフになったのは、その神の森から出るためだったのですよ。つい先だって出て来たところだというのに、こうも早く帰るとは」


「あーふぇるたいん殿、旅に出てからどのくらいになられる」


「まあ、ざっと二百年ほどでしょうかね。神の森を出て二百回ほど日を拝んでいますからね」


「えるふ、というのは長命でござるな」


「神の森のエルフに、寿命はありません。殺されたり、病気にかかったり、しなければね。……、御大にはどう話すか考えておりませんが、ひとまず神の森に入りましょう」


 と、宿を出た時、入れ違いで入って来た者がいた。その者は、額や服に汗がびっちりとついていて、走ってきたのは明白だった。


「大変なことが起きたぜ」


 とその者がいうのには、バディストン公国が神の森に侵攻しようとしている、ということだった。途端に、アーフェルタインの顔が変わった。

「急ぎますよ。時間がありませんから」


 ハンナもこの時ばかりは文句を言うことをせず、エファルも何も言わずに従った。

「なんで、ラグランス公王は、神の森を襲うのでしょうか」

 ハンナの疑問に、アーフェルタインが答えた。


「前々からムーラを手中におさめたい、という野望がラグランス公王にはありましたからねえ、神の森を襲うというのは単なる駄賃代わりではなく、エルフ達の力を奪い取るつもりかあるいは、魔獣を捕縛しようとしているのか。いずれにせよ、バディストン公国の軍事力を強化することが目的かもしれませんね。いくら外界との接触を好まないために結界を張っているとはいえ、破られるかもしれません。その前に、神の森の皆を助ける必要があります」


「無論のこと、それがしも助力いたそう」


「ありがとう。ただ、軍勢はまだ来ていないようですから、先手を打てる時に打てた方がよいでしょう」


「『先んずれば人を制す』と申す。一刻も早い方がよかろう」


「ええ、そうしましょう」


 アーフェルタインは、周囲を探りながら歩いている。それは、エファルたちを神の森に迎え、ムーラに出る、その為の入口を探しているためだった。


「神の森への入口は変幻として、一つの所に留まるわけじゃありませんからね、内から外へは容易でも、外から内へ戻るのは厄介なんですよ」


「まことに申し訳ない、まさかそのような仕儀になっていようとは考えも及ばなんだ。言われてみれば、理に叶ておるな」


「そういうことなのです」


 アーフェルタインはしばらく神の森の周辺を歩き詰めた。そして、微かに変わっている場所を見つけると、ここですよ、とハンナとエファルを呼んだ。


「おそらく、ここから入れるでしょう。行きますよ」


 アーフェルタインは二人の手を握り、その変わっている場所に足を踏み入れた。

 三人が入った後、その場所は元の森の姿に戻って消え失せた。

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