夢いずる海から、夢架けるうみへ

カッコー

夢いずる海から、夢架ける海へ

 

 

(一)※

穏やかな海だった。五月の空はその全てを高い灰色の雲に覆われていたけれど、風は肌に気持ちよく、水平線は空にとける様に霞んでいて、白い明るさの中で遠くの船がまるで陽炎のように海の上に浮いているのが見えていた。数羽の海鳥がその穏やかな風に舞っていて、砂浜に打ち寄せる波の静けさに吸い込まれて行くようだった。

この空白の時間の中に手を伸ばしてみても、ほんの少しだけ踏み出してみたとしても、何も変わらないのかもしれない。記憶の何処かにいつの日か忘れてきていたものの気配が陰の中に涙を落していくように、言葉の無力さを過ぎ去った時間の中に投げ入れていたのだ。それはすでに戻るはずのないものなのだけれども。

「私も、連れて行ってって云ったの」

夕暮れの海を見ながら僕は西海岸を南へ下って行った。口野を過ぎた頃から海の様子は少し変わってきていて、流れ出した風に雲が切れて潤んだ様な赤い夕陽が西の空を染めて、静かだった海に波の音を加えていた。左側は山が道路の際まで迫り、コンクリートで補強されている斜面が続き、それが途切れるころ民家が見えだして、漁村が姿を現した。幾つものカーブが続いて、ところどころ工事が行なわれていたけれど、行き交う車も少なくて、僕はいつも赤い夕陽を視界にいれながら静かな漁港や、海につきでた岬をゆっくりと過ぎて行った。僕は南へ行こうとしていた。その日僕は南へ行くことを選んだのだ。

僕はそこにある全ての物を注意深く見た。例えば窓ガラスをカーテンで覆われてしまった古い商店や、道路脇の草むらに置き去りにされて崩れかけたようにある小さな船や、海岸のごつごつとした大小の岩や、そこに取り残された様に巻かれてある汚れたロープなんかを。あの日、彼女が見たのかも知れないものを決して見逃さないように。

道は登りにかかっていて、幾つもの小さなカーブが続きながら山の中を這うように上がって行く。深い森が途切れると断崖にでる。見下ろすとそこには海が広がっていた。

「海が光っていたのよ」

海は光っていた。銀箔を散りばめたように輝きは果てしなく続き、僕の記憶の中にまでそれは入り込んできた。その輝きは僕の心の中に積み重ねられて仕舞われていたものを、陽射しが陰を消して行くように、ゆっくりと照らし出して行った。残されていた言い知れぬ思いが静かにこみ上げてきて、それは行き場を失った言葉のように波間を漂っていたけれど、それが何処へ行こうとしているのか僕には解らなかった。

やがて陽が西に傾き、白く薄い絹のような雲の向こうに遠くなると、その雲に滲む陰の揺らめきが海の波の上に降りてきて、儚く煌めいて、やがて待ち受けていたように、ある時間の終わりを宣告するような静かな闇が訪れようとしていた。そしてそれはそこにあったのだ。でも僕は車のヘッドライトをつけて、戸田の山の這うようにくねる狭い道を静かに上り続けた。行き着く場所のないような暗い木々たちの影に僕は覆われて、まだその影は陰にとけてしまってはいなかったのだけれども、言いようの無い不安が、名も知れぬ草の重なりや、木立の向こう側の深い闇の世界に、ある種の得体の知れない何かを感じさせずにはいられなかった。時々ヘッドライトが山宇都木の白いちいさな花の塊を明るさのなかに浮き出させて見せているけれど、それはまるで一瞬の夢のようで、儚く束の間に過ぎて行き、この世界とは異なる別の世界の中に消されてしまうようだった。その事がどんなに大切なものだったのかを僕は確実に気づいている。

夜の山道を走り続ける。全てを闇が支配する世界だ。闇の中に山が立ち、闇の中に海が沈んでいる。そして暗黒の空へと続いている。そして僕はその中にいる。その中にいて僕は呟くように語りかけてくる声を聞く。その声に導かれながら僕は進んで行く。何も迷うことは無い。考える必要だって無い。ただ進めばいいんだ。僕は何回も心の中でそう呟いていた。

「うれしくて、窓から手を出していたら、何か草の葉のようなものが指にあたって指が切れて、赤い糸のように血の雫が落ちたの」

赤い血の雫もまた暗い闇の中に落ちて行った。そしてその赤い血の広がりが記憶の闇を染めて行き、より深い闇へと変えていった。

その暗い世界を支配する沈黙の声を、少しづつ衣服に水がしみ込んでゆくように、やがてその衣服が体中に纏わりついてゆくように僕は感じてゆく。否応なしに記憶が小さな光の点となりそれは広がり始める。その光の点はあるときは赤くどろどろと広がり、またあるときは闇よりも深く黒く色を変えたりする。その血は僕の中にも流れている。細胞のひとつひとつにまで浸みわたり、僕の感情を流しながら意識を支配して行き、やがては全ての皮膚から滲み出してしまうのだ。

僕はヘッドライトが照らし出す闇の切り口をじっと見つめ続けながらそこに語られる、あるいは語られるはずの無かった言葉を心の中に感じる。幼い日にこの道の果てに置き去りにされてしまった時間がどれ程重く重ねられて行ったのか、そしてそこに留まってしまわなければならなかったのかを、声にできぬ嗚咽の中に吐き出し続けた。

『あなたのその血も同じなのよ』 

まだ八歳だった彼女の心はその言葉をどのようにして受け止め、受け入れていったのだろう。

『汚らわしい血が流れてる。』

僕にも同じ血が流れている、汚らわしい同じ血が。その血は母の心を奪い尽くし、彼女の感情を切り裂いて行った。暗闇を切り裂く鋭い光のメスのように。

『私は生まれてはいけなかった』

『だから生んだのよ、あなた達を』

『汚らわしい血の塊を、吐き出すの。』

時間は流れて行く。日は過ぎ、月は経ち、年が重ねられる。だがある日聞いた言葉はその声の僅かな響きとともに心の何処かに深く繋がり続けている。気づかぬうちにそれは少しづつ中枢へ向けて移動を始める。何かの不気味な小さな命をもちだすのだ。とても不吉な予感のように。そしてその言葉は七年という時間をかけて確実に、明確に、揺るぎもなく、彼女を切り裂いてしまった。

   

(二)※※※※※

 その日、僕がその知らせを受けたのは仕事に出かけようとしていた時だった。それは余りに唐突で不思議な言葉に感じられた。うまく意味を飲み込む事ができない。その言葉と妹との関連が繋がらないのだ。意識は混乱する事も忘れているように静かに流れているようだったが、既に体の中心では鼓動は激しく打ちだし、体中に重く血は流れ始めていた。仕事は後半の撮影に入っていて、時間はいくらでも欲しかったが、僕は呼吸を止められたような状態のままチーフディレクターにその事を連絡して休みをもらった。そしてそのまま僕は妹の通う看護学校の寮のある伊豆市へ向かうために駅へ急いだ。僕は東京駅からのぞみに乗った。伊豆市は僕たちの故郷だった。僕はもう一度車内の掲示板で時間と行先を確かめると、窓の外に目を向ける。意識が何か云い知れぬ不安なものを捉え出しているのを感じる。しだいに意識は震えだし、それは全身に伝わり広がり始めて行く。窓の外の風景が移ろい行く記憶の断片のように通り過ぎて行く。まるで時の狭間に巻き込まれながら過去のその時に戻ってゆくように。僕は体中の震えを抑えつけるようにシートにまるまり小さく蹲っている。この時が止まってしまう事を思いながら、あるいは今すぐにその場所へ着く事を願いながら。


(三)※※

「外で私を呼ぶ声がして行ってみると、白い洋服を着た母が車の傍に立っていたの。大きなつばのある白い帽子を被って」


「私はドライブに行くんだって、やっぱり連れて行ってくれるんだって直観的に思って、うれしくて急いで車に乗ったの」


「広くって真っ直ぐな道路を走っていたけど、車がいっぱいで動いたと思ったらすぐ止まって、でも風は少し強かったけれど空はとても綺麗で、青くって。窓を開けようとしたら母が閉めなさいって言って、音楽をかけたの。ゆったりとしていてとても穏やかで、ピアノやバイオリンや他に色んな楽器の音がしていた。外国の音楽だと思った。」


「その音楽を聴いていると気持ちがとても落ち着いて、穏やかな海の上に浮かんでいるようで、モーツァルトって母が呟くのが聞こえたわ。」


「車は幾度か角を曲がって、だんだん道が狭くなっていって、突き当たった所にある土手の前の広場に車を止めて、母がドアを開けた時海の匂いがして、私も急いで車から降りたの。」


「母が階段を上がって行って、私もすぐに追いかけて、上がった所にアスファルトの道があって、その道はずっと続いていて、何人かの人達が走っていて、何人かの人達が座っていて、みんな海の遠くの何処かを見ていた。」


「そこには松の木がいっぱいあって、果てもない海が見えて、大きな階段を降りると砂浜が何処までも続いていて、白い波が砂浜に打ち寄せては吸い込まれるように消えて」


「私は靴を脱いで裸足になってそっと水際まで近付いてみたんだけど、波は私の足を避けてでもいるようにすぐ近くまで来ると戻って行ってしまうの。」


「私は少し不安だったから母の手が欲しくって、振り返ると母はそこに立っていたけれど、海を見ているようでもなくて、ここではない何処かを、あるいはここにはない何かを見ているようで。」


「口元が少しだけ微笑んでいるように見えた。」



(四)※※※※

見覚えのあるおおよその風景が車窓に見えるようになる。何時だっただろう。この前僕が故郷へ帰った日は。もう随分前になる。二月の寒い日だった。妹から手紙が来て、その手紙に何故か僕は息苦しさを感じたのだ。来てはいけない時が来たような、知らなくてもいい事を知ってしまった時のような。

妹は叔母の家にひきとられてから6年が過ぎていた。僕は高校を卒業するとすぐ叔母の家を出た。そして遠く離れた場所で生活を始めた。確かに今の仕事は僕の憧れだったけれども、何故僕は妹を置き去りにしたのだろう。

一人残される彼女の事を、あの日僕は考えなかったのだろう。いや違う。僕は気づいていた。あの日から止まってしまった時間の中に一人で生き続けなければならなかった彼女の事を。そんな時間から僕は逃げたかったのかもしれない。僕は、僕の心の中の何処かの部屋のドアを閉めたのだ。彼女の微かな息遣いと小さな掌の震えをもっと小さな箱に入れて。

僕がその町を出てから決められたようにひと月に一度、妹から手紙が届いた。近況を知らせる手紙だった。楽しかった事や多少の不満も書かれていたがそこに不安な起伏は感じられず、ごく普通の平面さと平穏さがあった。僕に対する心配の言葉もあったけれど、孤独を感じさせる言葉は何処にも見受けられなかった。でもその手紙は違っていた。いつもきれいに四つ折りにされていたのにその手紙は何度か折り直されていて、書き間違えられた跡が黒く塗りつぶされていて、その中に母と云う文字が読みとれた。彼女は8才のあの日から母と云う言葉を一度も使う事はなかったのだ。不安だった。ダムの水が溢れ出すように様々な感情がとどまる事なく流れ出してきた。おそらくそれは(僕)ではなかったのかもしれない。

あの日から彼女は一年近い間ほとんど誰とも話をしなかった。言葉を失くしたと云うより、彼女の中で形作られた言葉がうまく出てこないように感じられた。学校に休学届を出さなくてはならなかった

。彼女はよく一人で近くの公園のベンチに座り、遠くの空や流れる雲を見ているようだった。僕は学校の帰り道だったから彼女を見つけると一緒にベンチに座った。時々彼女の目は涙でいっぱいになっていて、いくつもの虚無の色を梳かしたような雫がまだ幼い小さな手に落ちていった。僕の目に映る公園の風景はいつまでもそこに留まっているように見えた。僕の腕に触れる彼女の肩から、温もりが伝わっていたけれど、その温もりは僅かに震えているようだった。もしかしたら、彼女はいつもそこに、僕を待っていたのかもしれない。


(五)※※

「それから、私達はまた車に乗って松の木々の間の細い薄暗い道を通って、その道はそこだけが深く沈んでるようで、気持が吸い込まれそうで私は早くそこから離れたくて、母の方を見たの。何処へ行くのって聞いたの。車の窓硝子の向こうの陰の中に母の横顔が映っていた」


「海へ、行くって言ったようだった」


「とても遠い海へ行くって」


「車は余り広くない道をしばらくの間真っ直ぐに走っていて、運転席の母の向こう側にはずっと松の林が見えていて、私達の後ろには富士山があったから、私は南の方に行くんだって思った。そこには小さな町並みがあった」 


「初めて見る町だった。私はその見知らぬ小さな町を見て、その見知らぬ町の匂いを嗅いだ。何処かの家の誰かがその明りを消してしまったら失われてしまいそうな町だった。何もかもが土埃さえ残さずに」


「いろんな話をしたわ。友達の事、学校の事、ピーマンやゆで卵の事。ピーマンは臭いし、ゆで卵は口の中でぼそぼそして飲っくめなくって私大っ嫌いだったから」


「それから時々帰り道で見る小さな猫の事も。いつもあの坂道を下りた垣根の石の上にいるんだけど、手を伸ばそうとするとすぐに垣根の中に逃げ込んじゃって何処かへ行っちゃうのよ。茶色くてとてもかわいくて、とても脅えていて」


「私達は幾つもの風景を通り過ぎた。幾つもの港を、幾つもの岬を

、幾つもの船幾つもの真っ白な山宇都木(母に教えてもらった)を

、そして幾つもの風を」


「私はとても幸福ではしゃいでいたから解らなかったけど、母はほとんど喋らなかった。気がついたらと言うことだけど」


「変だなって思って何故か気づかれないように母の顔を覗いたら、母の髪が頬にくっついていて、西陽に光っていたの。」


「私達は西陽の中をずっと南へ向かっていた」


「その頬にあったものが涙だって気づいたのはそれを見たその瞬間だったけれど、私の心臓は激しく打ち続けて頭の中は混乱していて

、手が震えるのが解かった」


「母の目は見えなかったけどその口元には微笑みはなくて、ただ何かの陰が西陽の中で暗く深く沈んでいた。その時から私達はそこに着くまで一言も口をきかなかった。私はただ隣のシートの中に小さく身を縮めて震える手を握り絞めていた」


「西陽は朱く車を包み込み、直いっそう紅く、空を染めていた」


(六)※※※

 あの日の彼女の記憶は彼女のその目の中に潜む夕暮れの色を連れて、果てのない時間の傾きの中に押し込められてしまったようだった。目には見えない沈黙と言う壁の前に彼女はたった一人で佇んでいた。僕はいつも彼女の肩を抱き寄せながらその壁に沿って歩いた

。太陽の陽が強く射す時は木陰を見つけた。その道が草木に覆われていたら僕たちは別の道を探した。風に揺れる木々の姿を、窓硝子を伝う幾筋もの雨粒を僕たちはいつまでも見ていた。やがて夕闇が夜を連れて来ると、僕たちは音楽を聴いた。彼女は言葉のない、例えば静かなピアノの曲や、穏やかなバイオリンの曲を聴いていた。ベッドの上に座って窓の外に広がる夜を見つめながら、時間の過ぎ去るのを待っているようだった。彼女が眠ってしまうまで僕は傍にいた。その寝顔は目的の場所に着く少し前に止まってしまったような感じがした。いつこんな曲を聴いたのだろう。でもそれは僕にとっても一つの心のよりどころのようなものだった。そして彼女が眠ってしまったのを確かめると僕は部屋の明かりを消して、静かにドアを閉めた。それでも時々僕は僕のベッドの中に彼女の気配や温もりを感じる事があった。暖かい頃には朝起きると僕の部屋のソファーの上に毛布にくるまった彼女の姿を見つける事もあった。そんな時、僕はそっと彼女の身体を抱き寄せる。ほんとうにそっと、まるで吹き付ける風から蝋燭の炎を守る掌のように。そしてかすかな鼓動を僕は体に感じとる。何かを語りかけているように、あるいは知らせようとしているように。時間はゆっくりと進んで行った。空は高くその色を少し増し、涼しげな風が木立の間を吹き抜けて、寂しげな声をあげながら木々の葉を染めて、やがて北風がさらさらと啼きながら落ち葉を運んで、陽は南に傾き全ての影は西から北へ延びて行く。しかしそれはそこに忘れ去られた物たちではなくて、ある日輝かしい朝の光の中にあるためにあるべきものだった。暖かな午後に僕はよく彼女を散歩に連れ出した。箱根から天城へと続く山並が手に届きそうな程近くに見えていた。僕たちは長い坂道を下り、大きなカイズカイブキの垣根を曲がって公園の前を通った。何人かの子供たちが遊んでいた。スズカケの木が地面の上に広い影をつくっていた。滑り台も鉄棒もいつものようにそこにあった。時々僕たちはベンチに座った。そして小さな陽だまりが射し込んで来るのを待った。

そういうふうにして彼女の8才は終わり9才が過ぎて行った。その間に少しずつ言葉が繋がり始め、それと共に表情が形作られるようになっていったけれども、やはりそこには空白の時が在り続けていた。僕は僕の手をその中に差し延ばしてみても何にも触れる事はできなかった。そして僕にはこの町を離れる日が近づいていた。 



(七)※※※※

その手紙を受け取った日の夕方、僕は妹に逢うために故郷の町に帰った。僕の降りた駅はそのまま僕を受け入れてくれたようだった

。古いプラットホームのひび割れの痕も、その片隅に溜まっている枯れ葉も、錆ついてしまっているブリキ製の看板もあの日のままのようにそこにあった。僕はその空気をいっぱい吸い込んで、その空気の匂いを記憶の中に注ぎ入れた。数年と言う時間が過ぎ去っていた。僕はゆっくりと階段の下り口の方へ歩いて行った。僕がその薄暗い階段を下りかけた時、小学生位の少女が手摺りに捕まりながら母親と一緒に階段を上がって来ていた。少女は一歩一歩を確かめるように階段を踏み締めながら、僕もまた同じように、あるいは遠い記憶を辿るように、そして、やがてすれ違って行った。少女の細い髪が揺れていて、早い朝の霧の雫のような瞳が輝いていた。美しい形の小さな唇が微笑んでいるようだった。明るい声が背中に聞こえて、僕は立ち止まって振り返って見たけれど、もう少女の姿はそこには見えなかった。小さな駅の改札口を出て僕はその見慣れていた風景を見た。そこには何日か前に降った雪が建物の陰や木立の陰にまだ残っていて、強く冷たい風が僕を拒むように吹いていた。僕はその町並みをしっかりと覚えていた。何処の通りをどう行けばいいのか頭の中に描く事ができた。僕たちは叔母の家の近くにある公園で待ち合わせていた。


ーーー夕方になると私は時々母に連れられてその公園に行った。大きなスズカケの木があって、母はよくその木の下にもたれ掛かりながら夕暮れの空を見ているようだった。白い雲が夕陽に染まるとその朱色の影が何もかもを飲み込んでしまう。まるで目に見える私の周りの全ての物が燃えているみたいに。とても綺麗だった。私はいつも滑り台の上からその光景を見ていた。大きなスズカケの木の影と、それに寄り添う母の影がだんだんに長くなってきて滑り台の下まで伸びて来ると、私はその母の影に触れようとしてゆっくりと滑り下りる。だけど滑り下りた時にはもう母の影は私の手には届かない処まで行ってしまっている。私はただ遠ざかりながら薄れてゆくその影が陰に消えるまで見ていた。そうすると母はいつも私のところまで来て、手を差し伸べてくれた。でもその母の手はとても遠くにあるように感じられた。あの影のようにーーー。


(八)※※※※

僕はジャンパーの襟を立てた。幾つかの商店を過ぎて小さなビルを過ぎた。何処も静かで行きかう人の姿も少なくて、町全体が冬の中に沈んでいるようで、ここにいなければならなかった妹の姿がこの町の其処かしこに見えるような気がして僕は時々立ち止まったりした。ビルの入り口のガラス戸に白い影のようなものが映っていた。思い出したように僕は振り返った。冬の富士が見えていた。僕はその真っ白な冬の富士に背を向けて緩やかな坂道を上がって行った。15分くらいで僕はその公園に着く事ができた。

ポケットから出した手はとても冷たくて、両手に息を吹きかけると少しだけ手に温もりが戻ってきて、僕は両手を擦り合わせた。彼女はベンチに座っていた。白い毛のフードの付いた明るいグレーのコートを着て。僕は近くの自動販売機で温かい飲み物を買った。そして、彼女のいる方へ歩き出した。歩き出した僕の中の時間は僕の歩みよりも早く進んで行き、彼女の意識の中に注がれた。僕はあの日のように彼女の横に座って、それからゆっくりと空白の時間を重ね合わせた。ごく自然に、まるで求め合うみたいに。

彼女の規則正しい微かな息遣いを僕は隣に感じる事ができた。時々口元に息が白く小さな霧の塊のように見えては消えていった。僕たちの周りで時間はゆっくりと流れて行ったけれどそれは過ぎ去ったものを取り戻して行くような流れだった。遠い海の深い海底に沈んでしまった疼きのような記憶の欠片を僕たちはひとつひとつ手探りで拾い集めた。そしてそれを遥かな時の彼方から打ち寄せて来る波さえも届かない砂浜の上に順番に並べた。時折北からの冷たい風が彼女のコートの白い綿毛を揺らした。僕は彼女の目の奥の景色をずっと見つめていた。彼女の手の仕草もそのほっそりとした指の動きも僕は見つめ続けた。彼女の声は穏やかで僕の気持をとても落ち着かせた。幼さが影をひそめて、代わりの何かをそっと付け加えていた。僕はその戸惑いを気付かれぬように静かな言葉や小さな笑顔の中に隠した。夕暮れが近づく頃僕たちは肩を並べて大きなカイズカイブキのある坂道を上った。そして以前、僕たちの暮らした家の前を通り過ぎた。ほとんど無意識に。そこにはもう何も損なわれるものはないようだった。それから僕は叔母の家まで彼女を送って、もう一度今来た道を戻った。僕たちの住んでいた家は薄暗い闇の中でひっそりと佇んでいた。大きなカイズカイブキの垣根のある坂道を下りながら僕は彼女の姿を思い描いていた。その時僕は僕もまた彼女を置き去りにしてきた事に気付いたように感じたのかも知れなかった。

遠い町での生活は僕にとって閉ざされた世界から新しい未来への出発だった。少なくとも僕は明るい光を視界の先に感じながらいる事ができていた。そう思っていた。僕の周りで時間は目まぐるしく動き、物事は少しづつだけれど前に進んで行った。目が覚めると何処かで何かの鳥の鳴き声が聞こえていた。朝の陽射しが部屋の中に穏やかに射し込み、くもり硝子を通して部屋中を明るく染めていた

。木々はやさしく風に揺れていて、季節は僕の手に触れるように過ぎて行った。でも僕は僕の頬に触れてゆくその風の囁く声を聞き取る事ができずにいたようだった。あの日、小さな箱に入れて心の何処かにしまい込んでしまった思いに僕は気付かずにいようとしていたのかもしれない。しかしそれはそこにあった。僕はちゃんとその小箱のある場所を知っていた。そうだよ、忘れてたんじゃないよ

、ただ、僕は、ちょっとだけ・・・。 

暗い闇の中に沈む町並みがとても遠くに感じられた。ついさっきまでそこにあったいろんな物事がただ漠然とあり続けているみたいだった。何処かで妹の声が聞こえたようだったけれども、振り向いてみてもそこに彼女の姿はなかった。


ーーー私は、そこに着いた時に母の言った言葉を忘れる事ができない。それは確かに私に向けて言った言葉だった。車のハンドルを握る両手に額を押しつけるようにして、まだエンジンがかかったままだった。静かに震えるような声だったけれど、まるで受話器から聞こえて来る声のように、耳元ではっきり聞こえたの。・・・わたしのお母さんは汚れた女だったのよ……。わたしの父親は誰だったのかしらね……。わたしは仕返しをしてやったの。いい気味だわ。あなたたちにも引き継がれたのだから………ああ、きっとあなたもその血をはきだす時がくる。おなじ血がながれているから………。その時はまだ意味が解らなかったけれど、ある日その意味が解った時、私は私の中の何かが崩れて行くのを感じたの。あの時、母は低い小さな声で笑ってでもいるようだった。でも、もしかしたらそれは泣いていたのかもしれないーーー。

(九)※※※

警察の車が僕を迎えに来た日、まだ中学生だった僕の記憶に母の無残な死の姿が焼き付けられた日、そして幼い妹のかけがえのない時間が止まってしまったその日が静かに僕たちの傍らを流れ続けていたのを今僕ははっきりと感じ取る事ができる。黄金崎に向かう警察の車の中でまるで僕は群れからはぐれた一羽のはぐれ鳥みたいに恐ろしい時間の流れの中を彷徨っていた。その恐ろしい時間は死の匂いを漂わせながら確実に僕を飲み込んでいたのだ。この世界の全てのものがその意味を失い、失われたものたちの残骸が至る所に投げ出され、それは影さえ持つ事もなく、限りない沈黙の、あるいは幾重にも重ねられた闇の重さに音もなく崩れ去って行った。唸るように吹きすさぶ風の中に、砕け散る波の音が響き渡り、僕は抱えられながら車からそこに降りた。息ができなかった。抱えられたまま僕は、その場所まで歩いて行った。でも僕は空だけを見上げていた

。雲ひとつない青い空だけを、見続けた。僕はその空に向けて思い切り手を差し延べたかった。もしかしたら、その空に両手を翳したら、僕はあの青い色の中に溶け込めるかも知れないと思った。でも僕の眼下には、身の縮むような断崖があるはずだった。その断崖はおそらく僕を誘うだろう。でも僕はその誘いを受け入れる事はしない。どんなに優しい言葉が聞こえて来ても、愛おしさの声が震えるように儚く聞こえて来たとしても、僕はこの空に言葉を送る事を考える。母を受け入れた海はいつものように輝いているだろう。果てしなく広がる光の欠片をいっぱいに散りばめているだろう。何が終わったのか解らない。そして何が始められたのかも解りはしない。その時僕は、僕の背後に、ある微かな気配を、小さな息づかいを感じた。僕は、直ぐに振り返る事ができずに思わず目を閉じて、記憶の中にある無数の微笑みやその仕草を手当たり次第に探し出した。吹きすさぶ風も、砕け散る波の音も、あの青い空さえも突然闇の帳が降ろされたように消えてしまったようだった。そして妹は僕の背中に縋り付くように泣き崩れた。押し殺された慟哭の声は、僕の背中を貫きながら、虚無から無限へと続く時間の中に吸い込まれるように消えて行った。僕は振り向く事もできずに、声も掛けられぬままただ彼女の手を握り締めていた。まだ小さな彼女の胸の膨らみを背中に感じながら。

長い時間彼女はたった一人でそこにいたのだ。恐怖に震え、不安に怯えながら、彼女は言葉も失くして車から出る事もできずに陽が沈む夕暮れの海の中で、やがて漆黒の闇に閉ざされたとしても。彼女の無力な小さな目はその闇の中をじっと見つめていた。何かを信じようとしていたのかもしれない。あるいは信じる事ができなかったのかもしれない。ただ砕け散る波の咆哮だけが深い闇の世界からの誘いの声のように彼女に囁き続けていた。夜は長く永遠に続くように思われた。その時彼女の中の時間は止まり、意識は闇の中に消えてしまったのかもしれない。ある日の夢の記憶を辿る時の空白の間のように。それでも時間は過ぎて行かなければならなかった。しだいに薄れゆく夜の陰が、やがて昇る朝の陽の移ろいを海の上に映し出して行っても彼女は何も気付かずにただ暗い闇の中を身じろぎもせずに見つめ続けていたのだけれども。

 果ても無い意識の闇の何処かで遠い花火のような音が続けざまに聞こえたようだった。その音は輪郭を持たず、闇の中の空気の澱みのようだったけれど、それは次第に形を創り出し色を付けて行った

。けたたましい音が意識の中を埋め尽くして行きながら、彼女の目が捉え続けていた夜の影をゆっくりと取り除いて行った。誰かが車の窓硝子を叩いていた。朝はそこにあった。遠くの海の色も、その広さも波の音も昨日のままで在り続けていた。車から出ると潮の匂いが彼女の息を詰まらせた。強い風が吹いていた。体が揺れた。風が彼女の髪を舞い上げる。彼女はそこに立ち竦む。空は何処までも蒼く、真っ白な雲は矢のように速く流れて行く。 



(十)※※

「黄金崎の褐色の肌の断崖の底から、轟音の響きが吹き上げて来ていたの」


「私はその強い風が苦しくて息ができなかった」


「母は黙って遠くの海を見ているようだった」


「海はほんとうに広くって、とても白い波の輝きが何処までも流れ続けていた」


「まるで死んだ人の魂をそこに連れて行くみたいに」


「母は、私の手をとって車の所まで連れて行って私だけを中に入れると、またその場所まで戻って行ったの。柵のあるすぐ傍まで」


「私はずっと見ていた」


「車の中はとても静かだった。外はあんなに強く風が吹いているのに、母は真っ直ぐに揺るぎもなく歩いていた」


「その時、吹きつける風に白いスカートが揺れて、髪が宙に舞って

、その時母の体が揺れてすうっと浮き上がったように見えて、その時確かにそこに止まったの。ほんの少しの間だったけれど」


「消えていた、気がついた時に、母の姿は消えていたの」



(十一)※※※※※

妹の死の知らせを僕は確かに聞いたのだけれど、その死と言う言葉の意味を僕はまるで理解する事ができなかった。歩いていた道が突然行き止まりになってしまったように、行き場を見失った感情が意識の中をただぐるぐると回っていた。急いで帰ってと言う叔母の声が頭の中で幾度となく繰り返される。

冬の日に、あの公園で会った妹はとても穏やかだった。僕たちは体を寄せ合いゆっくりと時間を遡った。そうして幾つかの小さなせせらぎを渡り、穏やかな丘を上った。少なくとも過ぎ去った時間が彼女を立ち止まらせる事はなかったようだったけれども。しかし、あの日から、まだ3ヶ月しか経っていないのに僕はまた彼女を暗い闇の世界の中に置き去りにしてしまったのだ。それは確実に、そして今度こそたった一人で。もしかしたらあの時彼女はもう決めていたのかもしれない。7年と言う時間をかけてそれが押し潰してしまったものは、あの日僕の背中に縋り付いて泣き崩れた彼女の最後の悲しみだったのかもしれない。形を失ったその悲しみはそこにしかない場所を見つけ、息を潜めながら身を隠していたのだ。歪められた長い道を彼女は這いずるように歩き続けていた。欠落した時の隙間にやっとの思いでその細く小さな指先を掛けて、おそらく彼女はそこに在る場所の意味を永遠の安らぎとして受け入れたのだろう。全てを終わらせるために。僕は何もできなかった。だがいったい僕に何ができたと言うのだろう。そこにあるものはどうしようもない無力感だけだった。見上げた空には星の姿も無くただ暗い空間が不気味な口をあけて広がっていた。僕の手の指先は何にも触れはしない。目を開けていたのかも解らない。僕自身の手はいったい誰に向けられていたのだろう。それさえも解らない。ただその掌には闇の色をも変えてしまうような血の色が赤く見えていた。鈍く滲む光のように。彼女は彼女が何時か見た海の波の遥かな輝きの中に誘われて、水平線にとけて、その真っ白な雲と共にあの青い空に架けられて行くのだろう。僕たちの影を連れて。

やがて僕は外の世界から離れるために静かに目を閉じる。そこに広がる闇の中に浮かぶ自然の声を探す。自然はその声を様々な色に置き換える。風の肌もその言葉を、時間を駆け抜ける少女の軌跡のように語りかける。僕の手に触れるものは目の前に在るかもしれない無機質な感覚だけなのだけれども、違う何かが、僕からは遠い所で

、ほとんど別の何かへ変わろうとしている。それは強い輝きを秘めている。あるいは持っている。一つの言葉も、千の言葉もその意味はそれ程変わらないのだ。でも僕はどんな言葉を綴ればいいのだろう。木々は若葉に包まれてときめくようにざわめき、風は転げながら辺り中をくすぐって行く。遠い雲は霞の中で右往左往して、小さな視線や僅かな息遣いが何処かで語りかける。未来はそれ程遠くに在る訳ではないのだ。いつも手の届く所にある。過去もまた同じように。

僕が遡る風景にはいつも彼女がいる。それは影のように僕に寄り添う。同化する。一つの影を共有している。共有じゃない、一つの影なのだ。僕はその影に語りかける。僕たちは、と。僕たちはあの輝ける海の波の中を永遠に廻りながら、ある時は笑い、ある時は眠り

、その上に亘る風を感じその温かさを体中で受け止める。そうなんだ、それは僕たち二人なんだ。いつだって一緒なんだよ。


ーーー私はずっと待っていたのよ。いいえ、そんな気がするの。時間さえその流れを止めてしまう世界の果てのようなところで、私は一人ぼっちだった。夢の中で夢を見ているようで、とても奇妙な感じだった。私の隣には私がいて、でもその私はまるで氷の中から今戻って来たばかりのようにとても冷たくて、その目は何時か何処かに忘れものをしたみたいに、遠い昔を見ているようだった。私はそれをじっと見続けている。私の思いをどれだけ投げかけてみても、過ぎ去った記憶の影の中を通り抜けるみたいに何も起こらない。そうして私は気がつくの。それはかつて私だった物なんだって。過ぎ去ってしまった私の体。こうして隣にいるのにほんとうはとても遠い所に在る。もう、決して届かない。甲高い、鳥の鳴き声のような風の音が聞こえていて、緑色の絵の具をそのまま塗りたぐったような海が横たわっていた。蒼い空の色もとても平面的に塗られているみたいだった。ただ足元に広がる粉のように細かい砂だけが果てしもない大きな流れとなって、海に向かって湧き立つように移動しているのよ。私は何処へも行けない。あるいは私は何処へ行ってしまったんだろう。私の手を掴んで、そして何時かのように私を抱きしめてって、お兄ちゃん、そう思いながらずっと待っていたの。でもそれは無理な事だって解っているのよ。もう、失われてしまったものなのだから。だって、私がかつて私だったものの目の中を覗き込んでも、そこに私は映ってはいなかった。

どうして私はその意味を考えてしまったんだろう。違うの、その時は考えずにはいられなかったの。私の前にはその道しか無くて、私はその道を歩くしかなかったの。でも私が辿りついたところは、すでに失われていた場所だった。いろんな人に出逢った。いろんな人が話しかけてきた。でもその人達の声はみんな母の声だった。私はその声を追い続けていたのかもしれない。薄暗い道は何処までも続いていて、とても寒くて、歩く度に少しづつ体の一部が削り取られてゆくように感じた。私はその闇の中に小さな光の点の様な物が揺らめいているのを見つけたの。きっと出口だと思って、必死に歩いた。遠かった。本当に遠かった。気がついたら風が後ろから吹いていて、私の背中を押してくれていた。そしてそこは出口だった。やっぱり出口だったのよ。そこから先には行けない、出口の無い出口だった。

私は直感的に理解する事ができた。私はもう、何処かに行かなくてもいいんだってーーー。



(十二)※ 

 ヘッドライトが照らし出す狭いアスファルトの山道は光の中に浮き上がるように何処までもうねりながら続いていた。その光は時間の深まりと共にくっきりとより鮮明になり、この閉ざされた世界からの出口のように思われた。しかしそこに映し出されたものは一瞬で、まるで視界の隅を横切る何かの影のように何も残さない。僕は出口を求めるようにハンドルを切り続けたけれど、求めるものは音も無く僕の前から去って行った。オートマチック車のギヤーは低く

、きつい傾斜にエンジンは苦しげに唸りながら夜の中で地の果てに続く道を彷徨っているようだった。

右側の窓の向こうの夜の中に幾つかの漁火の白い明りが儚い魂の揺らめきのように見えていた。道は下りにかかっていて、やや広い駐車場のある景勝地が薄暗い何本かの外灯に囲まれて誰かを待っていた。僕はゆっくりとそこに車を止めてエンジンを切った。ヘッドライトを消してから車のドアを開けて外に出た。静かな風が吹いていて、潮の香りを含んでいた。石材で造られたベンチが四つ置かれていて、正面には上に上がる石段があった。左手にトイレが見えた。階段を上がると少し広い展望スペースがあって鉄柵で囲まれていた

。隅の方にそこから見える風景の描かれた石板がぽつんと置かれていた。僕は鉄柵の傍まで歩いて行った。眼下に広がっているはずの海は暗い闇の中でも感じられた。僅かに闇が揺れていたのだ。ずっと見ていると体が揺れてそこに吸い込まれるようで思わず鉄柵を握り締めた。僕は鉄柵を握り締めたままその場にしゃがみ込んだ。鉄柵の格子の隙間の向こう側の闇の中から妹の呼ぶ声が聞こえてきたようだった。その声は何かに吸い寄せられるように僕の視界の中心に集められ、次第に形作られて行った。その形作られたものは病院のベッドの上に横たわるあの瞬間の妹の姿だった。叔母からの知らせを聞いた時、僕は彼女の死を感じていたのだ。その日が来る事さえ気付いていたのかも知れない。陽炎のようにそこに浮かぶ彼女の顔はあの時よりも幾分穏やかに感じられた。

「寄せる波に、私は母の時間を紡ぎ、返す波に、私は母の血を流した」

僕は彼女に向って優しく語りかける。僕はまだそこには行かないよ

。今からまだ行かなきゃならない所があるんだ。この道の果てに、君が忘れて来たものを見つけなければならないんだ。まだ8才のね

、君の忘れ物をさ。溢れ出た涙が僕のズボンの膝の辺りをやけに白っぽく濡らしていた。さあ、僕はもう行くよ、そう語りかけた時、すでに彼女の姿は消えていた。僕はまだ幼い妹がその小さな体の中に大切にしまっていた夢を探すために、暗い道を走り、幾つものカーブを曲がり、幾つかのトンネルを抜けて、その場所に行く。何処までも続く波の音を聞きながら。

夢いずる海から、夢架ける海へ辿る哀しみの風が、遠い波のざわめきを運んで来て、微かな疼きのような、あるいはある日の記憶のようなものを、沈み行く陽に染まる波濤の輝きの中に紛れ込ませて、いつか吹きつける風が全てを消し去ってしまうのを待ち続けていたのかも知れないのに、やはり意識の何処かではそれは重く静かにそこに在り続けていたのだ。日が行き、時が重ねられ、忘れられたはずの言葉は、暗い無窮の深淵の縁に静かに身を臥せ、ある時の僅かな空気の震えのような、あるいは過ぎ去ってしまった闇の中の一瞬の光の点のような意識のうちにその全ては失われてしまったはずだったのだけれども、口元に浮かぶ僅かな微笑の陰のように、その存在はその意味を維持し続けていたのだ。何故と言う言葉の意味を知らないでいいのなら、おそらく入り陽の陰の煌めきに立ち止まる事も無くて、乱れる事の無い呼吸をそこに届けていたに違いない。 



  

                     カッコー

      

                   《完結済み》       

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夢いずる海から、夢架けるうみへ カッコー @nemurukame

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