プールで恋人が死んでいたら

あるかとらず

なにもできない

 うだるような暑さの夏。

 その日、俺は恋人の死体に出くわした。

 水泳部のエースである俺は、大会に向けた朝練のために一人いち早く高校に着いていた。職員室で借りた鍵でプールに備え付けてあるロッカー室に入り、水着に着替え、いざプールに入ろうとしていたところで、プールの水面に浮かんでいる恋人の死体を見つけた。

 恋人は制服姿で、顔は水に沈んで浮かんでいたから、まるで制服だけがぷかぷかと浮かんでいるように見えた。

 本当なら、すぐにプールのなかに飛び込んで、恋人を救い出すべきだったのかもしれない。でも俺はそうしなかった。なぜならあまりに静かに澄んだ水面が、恋人がもう間違いなく死んでいることを証明していたし、死体になった彼女が、単純に、生理的に、恐ろしかったからだ。

 俺はへたり込むようにその場に座った。そうして、しばらくプールの水面に浮かんだ恋人をぼうっと眺めた。

 蝉の声が、耳のなかでうるさく反響していた。やがて、意識がはっきりしてくると俺は思った。

 どうして、彼女はこんなところで死んでいるんだろう?

「どうして、春香はこんなところで死んでいるんだろうね」

「……え?」

 俺の心の声を代弁したのは、いつの間にか俺のそばに立っていた女の声だった。

「ね、どうしてだと思う? 広瀬君」

 声の方を見上げると、長谷川雪が、俺を覗き込むように見下ろしていた。クラスメイトで、ガリ勉で、俺の恋人である水谷春香の一番の友達の、長谷川雪。

「どうして、ここにいる?」と俺は震える声で言った。

 長谷川は首を傾げると、

「ほら」

 と言って、校舎の方を指差した。

「あ?」

「あそこ、私のクラスの教室。あそこから、このプールが見えるんだよ。ちょうど、早く来て勉強してたからさ……それで、プールに人が浮いてるのが見えた。だから、見にきたの」

「……そうか」

「あれ、春香だよね」

 長谷川の問いかけに俺が無言で肯定すると、長谷川は俺の隣に座った。

「暑いねー」

 ぱたぱたと手で顔を煽ぐ。

「春香、溺れたのかな?」

 呟かれた疑問に、

「さあ」

 と俺は首をひねった。

「それとも、殺されて、プールに捨てられたの?」

「……さあ」

「広瀬君が、殺したの?」

「は?」

 思わず長谷川の方を見ると、その顔にはなんの表情も浮かんでいなかった。

「春香のこと、広瀬君が殺したの?」

「なわけないだろ」

「だよね。ふふ、ごめん。でもじゃあなんで、あんなところで死んでいるの?」

「……わかんねーよ」

 本当に、全くわからなかった。

 春香とは昨日、部活帰りに一緒に帰ったっきりだった。春香は別に水泳部に所属しているわけではない。帰宅部で、だけどたまに俺が部活を終えるのを待ってくれて、それで一緒に帰ることはあった。

 昨日も、部活を終えて、ロッカーで着替えているところで、タイミング良く春香から《一緒に帰ろう。図書室で待ってる》とメッセージが入った。俺は図書室に春香を迎えに行くと、共通の通学路である大通りを自転車を押して帰り、別れ道で「また明日」と言って別れた。春香はまっすぐ家に向かって歩いており、学校に戻った様子なんてなかった。なのになぜ今、春香は死んでプールに浮かんでいるのだろう?

 昨日の話を長谷川にすると、長谷川はじっと考え込むように眉間に皺を寄せ、

「その、春香になにか、変わったことはなかったの?」

 と言った。

「変わったこと? そんなのなかったよ」

「本当に? なにもないの?」

「ないよ。普通だった。落ち込んでいるような様子もなかったし、いつも通りの会話をしながら帰った」

「よく思い出してみて。なにか、些細なことでも、いつもと違わなかったか」

「…………」

 俺は長谷川の視線に気圧されるように、考えてみた。

「あ」

「なに?」と長谷川が顔を近づけた。

「コンタクト」

「え?」

「昨日。春香はコンタクトだった」

 そうだった。春香はいつも眼鏡なのに、昨日はコンタクトをしていた。眼鏡をしていない春香を見るのは久しぶりで、なんだか新鮮に感じ、どぎまぎした。でも春香の付けていた眼鏡は、いつだったか二人でデートをした際に一緒に選んだものだったから、眼鏡がコンタクトに変わってしまって少し寂しくもあった。

 長谷川は首に手を当てて、

「春香、コンタクトなんて持ってたんだ」

 と言った。

「たしかにな。俺も知らなかった。昨日、眼鏡をしてないことを指摘したら、コンタクトを付けてるっていうから、え、いつの間に買ったんだよって思ったよ」

「……そっか」

「でも、こんな情報じゃなんの役にも立たないな」

 俺が言うと、長谷川は押し黙り、考え込むような仕草をした後、

「だったら、死体検証するしかないね」

 と言って、立ち上がろうとした。

 その手を、俺はとっさに捕まえた。

「待て」

「なに?」

「どうしてそんなことをしたいんだ? 警察に任せるのじゃだめなのか?」

 俺が言うと、長谷川は顔をしかめた。

「警察が調べて、その挙げ句罰せなかったら困る」

「は? どういうことだよ。溺れたんならそもそも罰せられる必要なんかないし、殺されたんなら然るべき罰が下されるだろ。その、犯人に」

「だったらいいんだけどね」

「ああ?」

 そう言いながら、違和感を覚えた。

「お前」と俺は慎重に言った。「もしかして、なんか知ってるのか」

「なにも」と長谷川は答えた。

「嘘だろ。答えろよ、なにを知ってる」

「……広瀬君はさ、春香のどこが好きだったの?」

「あ?」

 意味がわからなかった。どうして、いきなりそんな話になるのだろう?

 長谷川は俺の手を振り解くと、制服のままプールにどぼんと飛び込んだ。

「おい!」

 長谷川が春香のもとへと泳いでいく。俺も追いかけようとして、足がすくんだ。恋人は変わらず水面にぷかぷかと浮かんでいた、そのそばに行くのが、俺はやっぱり怖かった。

 春香の浮かんでいるところまでたどり着いた長谷川は、春香をプールサイドまで届けようと、春香の身体をプールサイドの方に押し始めた。その瞬間、顔をしかめて水のなかを覗きこむような仕草をした。次の瞬間、長谷川はプールのなかに潜った。春香の死体が、うっすらと溶けた水のなか……やがてじゃぽんと音を立てて長谷川が水面から顔を出し、右手をかかげた。

「ほら!」

 その右手には、見慣れた、春香の眼鏡が掴まれていた。

 なにが、ほら、だよ。

 そう俺は思った。

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