天の虫
昔々、貧しい村の長は山中で若い娘を拾った。
その娘は大きな腹を抱えて、道から外れた山肌に蹲っていた。
泥だらけで怪我を負っており、長い睫毛は固く伏したままだ。
娘は盲いていた。
長はそんな娘を放っておけず、村へ連れ帰る事にした。だが、一緒にいた供の者は躊躇った。
娘は畏れるほどに美しく、肌も髪も着物も降り積もった雪のように白い姿は、妖そのものであったのだ。だが、人の良い長は、人であろうと妖であろうと、難義している者を放ってはおけなかった。
娘が腹の痛みを訴えたので、怖がる供の者を説き伏せて村へと急ぎ戻った。
娘は、長の家で命を産み落とした。
長も、長の妻も、大急ぎで呼ばれた村のおっ母さん達も、只々、戸惑った。
娘が産み落としたものは、百個のくぬぎほどの大きさの卵と、一つの手鞠ほどの大きさの卵だったのだ。
大事を終えた娘は、自分は日の大神様に仕える天の蚕だと言った。
しかし、御使いの烏に揶揄われて逃げている内に、足を滑らせて人の世に落ちてしまったのだ。
「助けて下さった長様には、感謝の言葉もございません。お蔭でこうして子供達を産む事が出来ました」
娘はさらに続けた。
「わたくしは間も無く命を終えます。天の蚕は長く生きますが、その生涯の廻りは人の世のそれと同じ。長様、そして村の方々。子供達を育てて下さい。小さな子達は大きな蚕となります。人の世の物より良い絹糸がたくさん採れますが、代を重ねて行くうちに、やがて小さく、ただの蚕になるでしょう。それでも、その廻りを絶やさなければ、他では手に入らない絹糸を紡ぎ続けます。そして、大きな子は人の子の姿で孵るでしょう。食すのは桑の葉です」
浅い籠の中に、一際大きな卵は寝かされていた。
「生まれた時は黒い髪に黒い目。しかし、二百年も経つ頃に髪は白くなり盲いてゆくでしょう。それが……」
天の蚕の
「髪を、長く伸ばしてあげて下さい。天の蚕は自らの髪で繭を作ります。それまでに、
そうして、娘は息を引き取った。
村の長達は娘を見付けた場所に墓を造り、言われた通りに温かで日の光を限った場所で卵を育てた。
くぬぎの卵は間も無く孵り、立派な蚕が生まれた。
蚕は桑の葉をよく食べ、一尺もの大きさになる頃に糸を吐き始めた。天の蚕故か、本来よりも蛹化にかかる時間は長かった。
艶のある繭に包まれた蛹は、やがて無事に羽化を果たした。
残された繭は、汚れを落として売りに出せば腰が抜けるほどの値がついた。
こうして貧しかった村は一気に潤い、以降、絹糸を自慢の産品として麓の町々に卸すのが生業となった。
一方で、同じ母から生まれた兄妹が次代を遺し、更なる代を重ねても尚、手鞠の卵は孵らなかった。
天の蚕の命は長い。
死した母の髪から織られた守り布に包まれた卵が孵ったのは、長達が床に伏しがちになった頃だった。
天の蚕は、人の子の姿で孵った。
白磁の肌に漆黒の髪の人の形をした蚕は、母の面影を強く残していた。
それが、土蔵の中の幼様だった。
*
紺色の空の上で、月は大福餅のように丸く煌々としていた。
それなのに一歩道から外れただけで、月の光は森の枝葉に刻まれて深い闇に溶けた。
頼りない提灯の灯りが遠くまで届くように、イトは目一杯腕を伸ばす。だが、小さな灯火は
不意に、頭上で葉擦れの音が起こり、心の臓が飛び跳ねた。
音の正体が烏だと分かって小声で悪態を吐く。抜けそうになった腰を叩いて気合いを入れて立ち上がり、再び道の無い山肌を歩き出した。
幼様の黒絹の髪が白くなり始めてから、イトは度々、こうして山に入った。
幼様の番を捜していたのだ。
村長も頻繁に山狩りを行っていたが一向に手応えはなく、最近は畑仕事も盛りだからか男衆達の腰も重い。今では諦めの言葉を吐く者もいて、村中から番捜しへの関心が薄れていっているのが、イトには腹が立ってどうしようもなかった。
「誰のお陰で今があると思ってんだ」
天の蚕様が貧しい村を金持ちにしてくれた。
一番金の無いイトでさえ、満腹になった事は無くても飢えた事はない。
「金があるから、芋みたいな娘でも立派な家に嫁がせる事が出来て、小汚え泥
そんなイトも、幼様の母御の最期の願いを叶えてあげたい訳では無い。
幼様を天に帰してあげたいのだ。
早く帰さないと、全ての髪が白く変わってしまう。
栄繭が始まってしまうのだ。
幼様の小さな兄妹達は、もう人の世の物となって代を重ねて久しい。
天の蚕の栄繭も
天に帰すどころか、無事に羽化出来るかどうかも分からない。
だからこそ、幼様が繭に籠もってしまう前に、天に帰したかった。
小柄で痩せっぽちで雀斑だらけのイトを可愛いと言ってくれた幼様を。
正直なところが好きだと言ってくれた幼様を。
イトは大好きだったから。
「神様、日の神様! お願いです。幼様を迎えに来て下さい。幼様を天に連れて行って下さい。お願いです。どうか、どうか幼様を助けて下さい……!」
今日もまた枝葉に阻まれて、希う声は夜の空には届かない。
眠りを妨げられた一羽の烏だけが、木の枝から訝しげにイトの姿を眺めているだけだった。
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