白絹の村
Beco
イト
機織り唄が響く村の中を、イトという名の娘が走っていた。
大きな竹籠を負う背中は痩せっぽちで、
イトに
村の行商人だった父は、ある日商売に出たきり姿を消した。
売上を持ち逃げしたと騒ぎになったが、後に川下で深い刺し傷を負った死体が見付かった。帰り道で賊に襲われたのだろう。金子は奪われたのか流されたのか、見付からぬままだった。
女手一つで育ててくれた母は、十になった頃に死んだ。
それからは村長が屋敷で雇ってくれたが、奉公人仲間は性悪ばかりで充分な飯を食えない日もあった。お陰で歳の割に小さくて細いイトに男衆がそそるものなどあるわけもない。死んだ母は娘を嫁にやりたがっていたが、すっかり口曲がりの根性曲がりになった
それでも……。
屋敷の中庭に面した一部屋の前で、足を止めた。
村の絹で仕立てられた艶やかな振袖の美しさは、ささくれた心のイトに抗い難い憧れを抱かせるのだ。
「おや、イトじゃないか」
縁側に、
慌てて頭を下げたイトに「楽になさい」と、人の良い笑顔で歩み寄る。
「おはようございます、村長様」
「おはよう、イト。今日も幼様の
「へ、へえ」
イトは雀斑が浮いた顔を赤らめた。
「これまで何度もうちの村で織られた絹で花嫁衣裳が仕立てられたものだが、これほど出来の良い物は初めてだ。ハナを立派に嫁がせてやれると思うと嬉しいよ。綿帽子も出来た。あとは打ち掛けだけだ。一番上に纏う物だ。最高の物を持たせてやりたいねえ」
村長は感慨深く溜息を溢した。
ハナとは村長の娘の名だ。
歳はイトと同じで、屋敷から外に出たと聞けば男衆がこぞって見物に来るような、そりゃあ綺麗な娘だった。
ハナの噂は殿様のいる遠い町まで届き、秋にその町の大店へ嫁入りする事が決まっていた。村の絹地を買ってくれる織物問屋だ。
大きな屋敷で傅かれ、台所にも立った事のないハナは、さぞ大切にされる事だろう。
イトはあかぎれた自分の手を見て、やるせない気持ちになった。
「お前の祝言の時も、綺麗な花嫁衣裳を用意する」
俯いていたイトが顔をあげると、村長が優しく微笑んでいた。
「お前のお父ちゃんと約束したからね」
行商人だったイトの父は大金を持って山道を歩く。
故に、盗賊や事故に見舞われて突然死んでしまう事もある。その時はイトを頼む、と約束していたのだ。
「お前のお父ちゃんは、鈍臭くて気弱だった私をいつも助けてくれた。私は喧嘩は怖いが、受けた恩を返さない恥知らずにはなりたくないよ」
村長は、イトの父が死んだ時に泣いてくれた唯一の人だった。
「だから、周りの言葉などで曲がったりせずに、お前は
嬉しくて涙が出そうだ。
その時、屋敷の奥から若い娘の呼び掛けがあった。
村長は頬を弛め、声を張って返事をする。
「ハナが呼んでいるから行くよ。困った時はいつでも頼っておくれ。お前は私にとって、もう一人の娘なんだから」
「あ、有難う御座います」
「なんのことはない。それより、最近は烏の姿をよく見かける。蚕達が悪戯されないようにと、皆に伝えておくれ」
村長はそう言うとにっこり笑って屋敷の奥に行ってしまった。
*
「あたしは、ハナみたく綺麗じゃないんです」
一枚、また一枚。
竹籠の中から取った桑の葉を硬く絞った手拭いで拭き、傍らの器に丁寧に盛り付けた。それが終わると前掛けの埃を払い、イトは
日の光を限った土蔵は、ほんのり温かく薄暗い。
天井近くの明かり取りから射し込む光が薄く中を照らす。
板貼りの土蔵の中心には、イトが寝起きする部屋よりも広く大きな、社のような物が据えられていた。暖かい空気が逃げぬように、てっぺんにも四方にも、艶やかな絹の繻子が幾重にも張られていた。
「お前はとても可愛いわ」
その繻子の帷幕の向こうから、鈴を転がしたような幼い声が聞こえた。
イトは溜息を吐きつつ、静かに帷幕を捲り社へ入る。
「気を使わないで下さいまし。本当の事なんだから」
呆れ顔のイトの視線の先には、齢七つほどの幼女がいた。
白の艶やかな着物を身にまとう幼女は、布張りの社の中心で絹の座布団にちょこんと座している。
卵型の顔は白磁の人形のように愛らしく、頭を包む髪は美しい白絹だ。その髪は途轍もなく長く、何ヶ所かを紐で括って背後に用意された大盆の上に、丸めて載せられていた。毛先だけが、僅かに黒い。
幼様と呼ばれる、特別な御方だ。
幼様は守り布の着物の袖を
「私だって本当の事を言ったのよ。お前はとても可愛いわ。そして、素直なイトが私は好きよ」
そう言って首を傾げると、白絹の髪がさらりと肩にかかった。
イトは赤くなった顔を誤魔化すように、ずいっと御膳台を幼様の前に差し出した。
幼様は手を合わせてお辞儀をし、御膳台にその手を伸ばす。白磁の指が少しだけ宙を漂い御膳台の端に触れると桑の葉を一枚摘み、小さな口に運んだ。
イトはその仕草に顔を顰める。だが、
「後で髪を梳いてね、イト」
円らな黒い瞳を細めて幼様が笑うので、頬を染めて頷いた。
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