姉の笑顔を護りたい弟と、弟の未来を信じたい姉の話

第1話

 冬の冷たい風が窓から吹き込む病室。カーテンがひらひらと揺れ、白い壁にある時計は規則正しく秒針を刻む。

 そんな無機質な空間の中、少年はベッドに横たわり、静かに天井を見つめていた。

 小柄で華奢な体つき。骨張った両腕には、3つの点滴に繋がれた管が刺さっており、その周りにはいくつもの注射痕。


 彼の名前は佐藤一護さとういちご。幼い頃に両親を失い、たった1人の姉と共に児童養護施設で育った。もっとも、先天性の病気を持った彼は、15年間のほとんどを病院のベッドで過ごしてきたのだが。


 施設の大人達は、生まれつき重い疾患を持つ一護を冷遇し、昔からあまり治療に積極的ではなかった。

 そんな厳しい状況の中で、一護が擦れることなく心優しい少年に育ったのは、彼の3つ上の姉が惜しみない愛情を注いだからだろう。


 姉の名前は佐藤一花さとういちか。一花は小学生の頃から毎日、下校そのまま一護の入院する病院に足を運んだり、月に1度のお小遣いを一護にあげるためのジュースやお菓子に費やしたり、周りの大人たちが一護にやってくれないことを一手に引き受けた。幼い身体で過酷な治療に耐える弟に、少しでも安らぎを与えたい一心だった。

 小学校も高学年になると、その年頃の子供が買ったとはとても思えない、高価な果物や衣類、おもちゃなどの差し入れが増えていった。その頃から、顔や首、腕など、身体中に酷い痣を作って来るようになる。それは、誰が見ても人為的な傷だと分かるものが多かった。


「姉ちゃん、すごい痣……またクラスの男子と給食のおかわりで喧嘩したの?」 


「まあね、でも余裕で勝ったけど!」


 そう言って自慢げにピースをする姉を見ながら、一護はなんとなく、姉のしていることを察していた。

 大好きな姉ちゃん。外の世界を知らない、息をするだけで姉のお荷物、そんな自分のために身を粉にして働く姉ちゃん。本当は、何より自分をいちばん大事にしてほしい。

 しかし、それをいくら一花に伝えても、全くと言っていいほど響かない。


「姉ちゃん。国からの補助金だって多少あるんだし、俺のことは気にしないで、もっと自分にお金使ったりしてよ」


「はいはい、中坊のくせにそんなこと気にしないの!あんたの笑ってるカピバラみたいなアホ面が、姉ちゃんの唯一の癒しなんだから」


 いつもそう言って笑いながら、頭をくしゃくしゃと撫でられて終わってしまう。


 俺なんかいなければよかったのに。俺なんかいなければ、姉ちゃんは今頃、無理をして必要以上にバイトをすることなく、高校にも進学して、友達と遊んだり、彼氏とデートしたり、年相応の青春を送っていたかもしれないのに。


 そんな風に思っていた一護は、中学校を卒業した一花が、フリーターとしてカフェでアルバイトを始め、それから痣や傷が出来なくなったことに、心の底から安堵した。他にも、ホテルや駅の清掃、工場の軽作業など、隙間時間を見つけてはひたすら働いており、今では休む時間の方が少ないらしい。当の本人は、バイトはそれなりにどの仕事も楽しいらしく、一護が心配しているほど苦に感じていないのがせめてもの救いだ。


 俺はもう、あまり長くないかもしれない。だから、大切で大好きなたった一人の姉ちゃんが、自分のいない外の世界で、安全な場所を見つけて、幸せに生きていてくれる。これ以上の未来を望むことは、決してない。


 そんなことをぼんやり考えていると、病室の扉がガラッと音を立てて開き、ポニーテールの女性がヒョコッと姿を現した。右肩には水筒や財布等が入ったトートバッグ。そして左手には、何やらホカホカと甘い匂いを放つビニール袋を提げている。


「一護、やっほ!今日は調子どう?」


 目を細めてニカッと笑いながら、勢いよくベッドサイドの椅子に座る。


 一護は微笑みながらゆっくりと起き上がり、視線を彼女の方に向けた。


「やっほ、姉ちゃん。今日もバイトお疲れ様」


 一花はにこやかに頷き、左手のビニール袋からガサガサとたい焼きを取り出した。それを一護に差し出しながら、機関銃のように一息で喋り始める。


「今日さ、お昼食べる時間なかったんだよ酷くない?だからたい焼き買ってきた!ねえ今すぐ食べよ、一護お腹空いてない?私は空きすぎて吐きそう」


 一護は姉の勢いに圧倒されつつ、ありがとう頂くよ、と両手で包み込むようにたい焼きを受け取った。まだほんのり温かい。頭と尻尾、どっちから食べようかなあ、と悩みながらふと一花の方を向くと、早速一口で顔の半分を頬張っている。

 よっぽどお腹が空いてたんだな、と自分のたい焼きを手で半分にちぎり、片方を一花に差し出した。


「姉ちゃん、これも食べて」


「何言ってんの。あんたの分なんだから、あんたが食べな」


「でも姉ちゃん、明らかに俺よりめちゃくちゃお腹空いてるでしょ」


「あのねえ、姉ちゃんは普段からちゃーんと栄養摂ってるの!昨日だって、ホテルの清掃バイトのまかないでデカめの焼き芋3つも食べちゃって、お腹が大変なことになったんだから!」


「ホテルの清掃バイトのまかないで、デカめの焼き芋が3つ出ることあるんだ」


「めちゃくちゃ美味しかったよ。ほんとは5ついきたかったけど、さすがに午後動けなくなると思って我慢した」


「姉ちゃんが清掃してるの、ホテルじゃなくて相撲部屋だったりしないよね?」


「誰が力士だ!……って、細かいことはいいの!とにかく一護もちゃんと食べて!あとこれ以上姉ちゃんを太らせないで!」


 口いっぱいにたい焼きを頬張りながら、これめっちゃ美味しいよ!と、モゴモゴしながら力説する姉。一護は吹き出しそうになるのを必死に堪える。


「たしかに美味しそう。さすが未来の横綱、その食べっぷりは説得力あるね」


「よし今から3秒以内に一口食え、さもなきゃお前を掬い投げするぞ」


 まるでコントをしているかのようなテンポの良い姉の返事に、一護は結局吹き出してしまう。そんな口に栓をするように、半分に千切った胴体の片方にかじりついた。


「うん、確かにこれは相撲部屋の新弟子も唸る味だわ」


「もうちょっと別の表現なかった?」

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