押しつぶされてしまえば。

宵町いつか

幸せに押しつぶされてしまえば

 マンションのベランダから見える夜景。目に写る光がとてもおぼろげに感じて、少し寂しくなる。視界に映る夜景がゆらゆらと陽炎のように揺れて、脆そうで、今にも壊れていきそうで怖くなった。時間はちょうど日付が変わったかどうかというところ。少しずつ夜が明け始める時間。夜の折り返し。

 こんな時、私は幸せを感じる。特に理由はない。誰かに話せるほどの理由はない。強いて言うなら、聞こえる車の走行音や夜景を彩る明かり、電車の音。信号が赤に変わった時、車がピタリと止まった時、走り出した時。そういう、日常的なものを見たり、感じたりすると幸せを感じる。

 それくらいしか、私には幸せを感じる時間がない。存在しない。というか、存在してはいけない気がする。これ以上幸せを望んじゃいけない。そんな気がする。そういう強迫観念に似た、なにか。

 透明なため息が空気に溶けていく。少し前なら白くなっていたのに、なんてことを考えながら夜景を見つめる。移ろっていく景色を見つめる。

 静かに見続ける景色。いつも日付が変わってから眠くなるまで、大体30分くらい眺めている。友人からは寝るよう催促されるがそんなもの知ったこっちゃない。なにがゴールデンタイムだ。もう成長しなくてもいいし肌もきれいじゃなくてもいい。身長が伸びても、肌がきれいになってもそれは私の幸せにはならない。外見が変わったところで私の幸せは埋まらない。

 いつものように物思いにふけっていると真っ暗な部屋で光が灯った。小さく振動音が聞こえる。どうやら誰かが電話をしてきたらしい。

 私はスマホを取って、夜景から視線を外さずに電話に出る。

「もしもし」

「いっや、ごめんね。こんな夜遅くにさ」

 電話越しに聴こえたのは聞き覚えのある少女の声。学校でも部活中でもよく聞く明るい友人の声。

「まだ起きてる予定だから良いけど」

 私はそう言って欠伸をした。思ったよりも眠くなっているらしい。もう、最近はそういうことにも気が付かなくなってきたようだ。

「そか。ならよかった」

 少女は明るい声で言う。電話越しでも分かる。きっと彼女は今笑っている。ニッコリと幸せそうに。

「で、なんの用?」

「特になにもないけど?」

 少女はそう言い放つ。さっぱりとした言葉を私に投げつける。

「たださ、なんとなく人と話したくて」

「あ、そう」

 自分でも驚くほど淡白な声だった。抑揚のないまっさらな声だった。

 私には分からない。なんとなく人と話したくなるときなんてなかったから。今までで一度もそう感じたことがなかった。それで不自由がなかったのだ。一人で居ることに不自由さを感じなかった。こんな性格だから自分のことばかりで悩むんだ。

「なんで私なの? もっと他にいるでしょ」

「他にも居るけど、あなたしか居なかったの」

「なんだよそれ」

 そういう台詞はもっと特別な人に言えばいいのに。

 じわりと時間が動き始める。私は電話越しに彼女の声を聞きながら夜景を見ていただけだけど、いつもより時間が早く過ぎてしまった気がした。なぜかはわからないふりをする。

「ありがとう。落ち着いたよ」

「なんかわからないけどお役に立てたなら何より」

 そう言って私は会釈をする。彼女には見えないだろうけど。時刻を見ると1時を回っていた。

「もう1時だ」

 ぽろりと口から言葉がこぼれ落ちた。

「時間経つの早かった?」

 少女が少し嬉しそうに聞いてきた。

「いつもより」

 簡潔に私は伝えると、まるで尻尾を振っている子犬のように元気な嬉しそうな声で「おー良かった」と少女は言った。

「満たされてたんだね。それならばよかった良かった。心配事が無くなったよ」

「迷惑だったっていう自覚はあったんだ」

「もちろん。まあ私はこうやって人と話しているときが好きなんだよね。極端に言えば幸せなんだよ」

「へー」

 幸せ、か。

「じゃあ、いつも幸せに押しつぶされそうなんだね」

 何も考えずに言ってしまった。抑揚も、トーンも何も考えずに完全な素の状態で。

 電話越しから少女の戸惑ったような声が聞こえた。

「お、急にどうした」

「あ、いや。なんでも」

 こういう時私はすぐに逃げる。

 まあ仕方ないんだ。こういう人間なんだと割り切っている。吐き出せば楽になるかもしれないのに勝手に一人で抱え込む。悪い癖だ。

 それから10分くらいしょうもないことを話して、明日の部活も頑張ろうね的なことを言って電話が切れた。久しぶりの静寂が訪れた。その静寂に感化されたのか、口の中で転がしていたはずの言葉が弾け飛んだ。

「幸せに押しつぶされてしまえばいいのに」

 せめて彼女はそうなってほしい。押しつぶされて欲しい。幸せを享受できる素晴らしい彼女にはしっかりと幸せに潰されてぐちゃぐちゃになって戻れなくなって欲しい。

 私はそれが恐くて出来ないから。私は彼女のように素直に幸せを享受出来ない。幸せを受け入れられない。

 怖いんだ。幸せになることが。

 だめなんだ。私が幸せになったら。

 きっと幸せになったら私は潰される。幸せという、とても重たいものに。そこから抜け出せなくなる。甘えて、逃げれない。自立できなくなる。幸せという名の重りが無くなってしまえば私は壊れてしまう。

 それが怖いんだ。

 それが嫌なんだ。

 だから私はきっと幸せになってはいけないんだ。

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