第29話 髑髏亭の夜
珍しく宿泊客がやってきた髑髏亭の一階にある食堂はライセたち以外には誰もいない。調理の音以外聞こえてこないほどに静まり返った空間に、鶏肉を炙った香ばしい香りが漂っていた。
ライセはテーブルにつくと、我慢できず腹の虫を鳴かせてしまう。ノアはその様子にくすりと笑った。
ネーヴィアが持ってきた料理はパンに炙った鶏肉をはさんだ軽食だ。しかしありあわせの食材で短時間で作ったとは思えないほど、パンも鶏肉も香ばしく焼きあがっていた。
「おいしい……! ネーヴィアさんの腕前すごいです!」
「ふふっ、そう言ってもらえると私も嬉しいわ。ささ、遠慮なく食べてちょうだい」
ライセとノアはネーヴィアにお礼を言うと、夢中になって軽食を頬張った。
香ばしく焼けた鶏肉の味は言うまでもない。パンとの相性も抜群で、これならいくらでも食べられそうだとライセは思う。
一方でアインは腕を組んでじっとライセとノアが食べる様子を見守っている。
「こういう時同じ釜の食事を共にできないのはアンデッドの辛いところね。ねえ――“鉄仮面”いえ、“アイン”?」
ライセとノアが頬張るサンドイッチを眺めながらネーヴィアは赤い液体がなみなみと満たされたゴブレットを傾ける。
その液体が何かの血液であることに気付くのにそう時間はかからなかった。
「ネーヴィアさんが飲んでるのは……血、ですか……?」
ライセの問いにネーヴィアはくすくすと笑みを零した。
「ええ、今朝絞めた鶏の血液よ。血は私用にストックして肉は宿の客に出すのよ。よかったわ今日絞めた鶏が無駄にならなくて」
そう言ってグラスの中身を一気に呷る。ライセとノアは今食べている鶏肉のサンドイッチがそれだと気付き、一瞬頬張る手が止まる。
「ちょっとグロテスクかしら? でもヴァンパイアにとっては当たり前のことなのよ。鶏だろうと羊だろうと、人間だってそう。この大地に生きる生命はみんなマナを摂取するの。その手段は様々だけどね」
ネーヴィアの唇の端から飲み干した血の雫が一筋滴る。それを舌でぺろりと舐め取った。そして流れるような所作でゴブレットに新しい血液を注いでまたそれを呷る。
その一連の動作があまりにも優雅で、ライセは思わず見入ってしまう。
目の前の存在は自分と同い年ぐらいの少女なのに、その立ち居振る舞いと妖艶さはまるで成熟した女性のようだ。
ライセは彼女の仕草の一つ一つに目と心を奪われる。ネーヴィアのゴブレットが空になる。彼女はそれをテーブルに置いて、ふぅ……と熱い吐息を漏らす。
「こう見えても私、ヴァンパイアになって200年近く生きてるのよ」
「200年も……!?」
ライセは目を見開いた。ネーヴィアに見た目らしからぬ立ち振る舞いや妖艶さを感じていたが、自分が思うよりもずっと彼女は歳上だったらしい。
「長く生きていると、いろんなことがあるわ。特にこのスラムではね。だから知らず知らずに頼られて、厄介ごとを持ち込まれて、いつの間にか“姐さん”なんて呼ばれて気が付けばここの顔役みたいな扱いになって、だから色んな情報が自然と耳に入ってきてね。だからライセさん――あなたのことも耳に入っていたのよ」
「えっ……知っていたのですか?」
「ええ、数時間前にスラムに迷い込んで襲われた見知らぬ女の子がいたってね。その特徴がライセさんと一致したから。ごめんなさい……顔役と言ったものの、古参の者ならともかく新参の荒くれ者たち全てを統率できてるわけじゃないの」
ネーヴィアは申し訳なさそうに頭を下げた。ライセは慌てて頭を上げるよう促す。
「その人たちは教会の――司祭のルシルさんにキツいお仕置きされましたから……」
ネーヴィアもルシルのことは知っているのか、その反応を見てくすりと笑った。
「ルシルさんなら先日挨拶に来たわ。目が視えていないようなのにそれを微塵も感じさせない……相当な手練れの司祭のようね」
どうやらネーヴィアもルシルがただの聖職者でないことを見抜いていたようだ。ライセはネーヴィアの顔を見ながら感心したように頷いた。
「このスラムには行き場のない者たちが集まってくるの。魔族やアンデッドだけでなく人間も、社会から疎まれた寄る辺なき者の掃き溜めね。例えば――そこで腕を組んで黙りこくってる“鉄仮面”とか」
ネーヴィアがからかうような目をアインに向けると、アインはフンと鼻を鳴らす。
ライセはアインがこのスラムに身を寄せていたことを知らなかった。
「十年前、蘇ったばかりで途方に暮れていたアインを見つけたの。覚えてる? アイン」
ネーヴィアが優しく問いかける。アインは「さあ、どうだったか忘れた」とそっけなく返す。
「もう、相変わらず無口で無愛想ね」
アインが無口なのは昔からのようだ。ライセは苦笑を浮かべ、ノアもそれにつられて苦笑するのだった。
その後三人は他愛のない世間話を興じながら軽食を食べ終え、遅めの夕食の時間は終わりを告げようとした時――
バァン!!と激しい音を立てて入り口の扉が乱暴に開け放たれた。
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