正気に戻るまでの狂想

夕緋

正気に戻るまでの狂想

 自分でも頭がおかしくなったんじゃないかと思った。けれど、その気持ちが言葉になってしまった瞬間、無性に彼に会いたくなった。

 元々、少しは考えていた。死ぬ前に一度くらい話しておきたいと。私への依存を急に捨てて、どこか遠いところへ行ってしまった彼に、聞きたいことがあった。

 連絡先は持っていたから、メッセージを送った。望み薄だった。私の持っている交友関係をなりふり構わず全て使って「彼はどこにいるの」と問いかけた。頼りになる情報が一つだけ返ってきた。彼からだった。

 彼は存外近くにいた。確か、私と別れた時には飛行機でないと行けないような場所に行ってしまったはずなのに。

 深夜三時に車で走り出す。信号を無視しても誰にも怒られない気がするほど、道路は寂しかった。それでも、もう気にすることなんて何もないのに信号や標識を律儀に守る自分を嘲った。

 四十分程度運転して、彼の指定した浜辺についた。波は月の光を運ぶかのように寄せては返す。

「……ほんとに来た」

 懐かしい声が、あの時よりも更に痩せた身体から聞こえた。

「来たよ。聞きたいことがあったから」

「だからってこんな時間にわざわざ車で来るなんて正気じゃないよ」

「うん、そうだね。私もとっくに正気じゃなくなってる」

 彼は私から目を逸らした。何か後ろめたいことでもあるように顔を隠す。でも、逃がさない。

「世間的に言って正気じゃないのはあんたも同じでしょ」

「……それを言われるとぐうの音も出ないな」

 自嘲気味に笑う癖は変わらないみたいだ。

「……あんた、相変わらずみたいね」

 彼は、ずっとそうだった。

 付き合っていた頃から自己否定ばかりしていた。でもそれは付き合うよりずっと前からしていたことだったのだと、彼の話を聞いていて分かった。

 彼は口にこそ出さなかったけれど、きっとこの世からいなくなりたいのだろうと察しがついた。

 それを必死に繋ぎ止めていた。

 そう思っていた。

「……一つ、答え合わせがしたいの」

「……なに?」

「あの頃、私はあんたを支えてると思ってた。ほら立ち上がってって前を向かせてなんとか命を繋げてると思ってた」

 とんでもない勘違いを告げて、私は言葉を続ける。

「でも、立ちあがろうとしてたのは、なんとか命を繋げてるのは、どう考えたってあんたの方よね」

 そこで初めて彼の表情に大きな変化があった。目を大きく開いて、私の方を見た。

「私も色々あったのよ。ほんと、ロクでもないことが色々。心が沈んでいく度に思った。あんたはずっとこんな中で生きてたのかって」

 彼の目から涙がこぼれ落ちた。少ししてからやっと泣いていることに気づいたらしい。ビックリして目を擦っている。

「ずっと、理解出来てなかった。でも今は分かるようになっちゃった。正気のつもりでナイフを振りかざす人たちに囲まれて、生きるなんて正気じゃないって、思っちゃった」

 思えばこんなことは初めて言葉にしたから、声が震える。

「正気じゃないことをずっとするのは狂気だよ。でも、私たちにとっては狂気になっちゃったことを、これからも続けていかないといけないとしたら」

 一呼吸置いて、震える声を放つ。

「せめて一緒に狂気に染まらない?」

 彼は泣きながらも不器用に口角を上げた。

「そんなこと言われるとは思わなかった」

 しばらく嗚咽を繰り返して、呼吸が整った後、彼は言った。

「正気に戻ったら一緒に死んでくれる?」

 私の方こそそう来るとは思っていなかった。だけど

「まあ、それも悪くないかな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

正気に戻るまでの狂想 夕緋 @yuhi_333

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ