月と合と夏日星

うつりと

寝手場架莉



 小雨が降りだすと、利用者が減って午後は暇になるな、と思う。暇は嬉しくない。余計な会話が増えるし、無言の時間はもっと苦痛だ。

 ここのように小さな図書館でも、天気さえ良ければ利用者はそれなりにいる。いれば何も考えずに仕事さえしていれば良いのだから、その方がいい。

「末永さん、もうすぐ二ヶ月じゃない」

 同じスタッフの平原さんが声をかけてくる。

 もうすぐ六十を迎えるこの男は、気安さだけが取り柄の、映画で言えば真っ先に殺される役柄のキャラだ。

「そうですね。早いです」

「もう慣れた?」

「はい」

「美人は仕事もできるんだね」

 余計な軽口もいつも通り。返事に窮する。

「返却ポストの確認行ってきます」

 ついさっきしたばかりだけど、無理やり用事を作ってその場から逃げ出す。そうしないと延々と天気の話と身体の不調を聞かされることになる。

 館内を突っ切り、一階のポストへ向かう。途中で鍵を忘れたことに気づいたが、どうせ話から逃げるためだけに歩いているだけなので構わない。

 歩いている時間は現実からも逃避できる。悩んでいる人にはおすすめだ。その代わり現実はその間、一ミリも進んでいない。

 ポストにタッチして確認を済ませたような顔でゆっくり歩いてカウンターに戻る。平原さんはどこかに消えていた。現実が進むこともあるものだ。

 数人の利用者の受付を済ますと、中学生男子が並んでいた。館内の学習スペースで一週間毎日利用していた子だ。

「どうぞ」

 その子は「太陽系の起源」というタイトルの書籍を差し出す。賢そうな顔立ちで、夏休みなのにまったく日焼けしていない。蒼白い首筋を伸ばし、顔を傾けながらこちらの作業を待っている。

「学習スペースの人たちが会話しててうるさいんです」

 目を逸らしたまま、突然中学生が話しかけてくる。

「そうなんですか。じゃあ今度、注意しておきますね」

「注意しなくていいです。みんなここで友達作ってるんですよね」

 質問なのか感想なのかよくわからないことを言われた。

「それはこちらではわからないけど、君から声をかけてみれば」

 カウンタ―には別の利用者がいなかったので、話を続けてみる。

「僕はそういうタイプじゃないので」

「そうなの」

「僕が目指している高校はレベルが高いんで、みんなスマホも持たずに勉強しているんです。僕はまだまだだ」

「そうなの。頑張ってね」

「お姉さんも頑張ってください」

 まさか返されるとは思ってなかったので驚いた。中学生に二十七歳が頑張ってといわれるなんて。

 本を渡すとその彼はすぐ帰って行った。

 子供とも大人とも言えない年齢。おそらくすべてを犠牲にして受験勉強に集中しているだろう。なんだか新鮮な気持ちになり、妙にこの会話が記憶に刻まれた。

 仕事中も、帰宅途中も何度か反芻してしまった。なぜかはわからないけれど、現実を忘れるには好都合な出来事だ。

 夏の真ん中、雨の歩道、浅葱色の傘。

 たまにこんなことを思い出してにやけながら帰るのも、許されることだと信じたい。






  二


「今日も雨かなあ。帰り降られるの嫌だなあ」

 平原がまた天気の話でボヤいている。

「末永さんは家が近くていいね」

「はあ」

「僕なんか自転車で二十五分だよ。合羽着てると雨と汗で中も外もぐしょぐしょだよ」

 その話を聞いたのは四回目かな。でも毎回初めて聞いたふりをしなければならない。

「大変ですね」

「末永さんは家が近くていいね」

 耐えられなくなり、その場を離れる。

 窓の外を見ると、カラッと晴れていて雨が降りそうには見えない。これ以上平原さんの話に惑わされずに、返却された本を書架に戻すのに専念しよう。

 そうこうしているうちに、もうすぐ閉館時間の十九時が近づいた。その時、例の中学生がまたカウンターに来た。

 始めは無言で本を差し出して来る。「太陽系の起源」ともう二冊。

 えーと、海老原夏星(なつき)くん。

「今日は宇宙の勉強しているんですね」

 そういうと彼は少し恥ずかしそうに俯く。

「勉強じゃないです。気晴らし」

 勉強の息抜きに勉強か。彼らしい。

「はい。こちら二週後の水曜日返却です」

 本を渡すと、彼の視線がこちらに移る。

「お姉さん、友達になってくれますか」

 何を言われてるか突然すぎてわからなかった。

「なんでもないです。さよなら」

 すぐにそう言い直し、中学生が去って行く。なんて返事すれば良かったのだろう。でも返事のしようがない。

 困っている自分が九十パーセント、でも残り十パーセントは嬉しい自分がいる。どうして嬉しいのかもよくわからない。中学生からそんなことを言われるなんて。

 それからあの要求が夏の雨雲のように、ブワッと心に広がり空を埋め尽くしてしまった。やがて降り出すかもしれない。


「末永さん、この後大雨だったら、僕送って行くよ」

 バックヤードで作業しているところに平原が近づいてきてそう告げる。

「いえ、そんな悪いです」

「遠慮しなくていいよ」

「大丈夫です」

「僕に任せて。ね」

 そう言って平原が手を重ねて来る。思わず手を引っ込めると、平原の手の甲が机の角に当たる。

「痛っ」

「あ、すみません」

「なんだよ、人が親切で言ってるのに」

「すみません」

「大企業に勤めてたから、図書館員なんかは相手じゃないってか」

「そんなんじゃありません」

「じゃあ、なんなんだよ」

 小さい目を最大限見開いて怒っている。自分のせいだと微塵も考えずに。

 謝って謝って謝った。

 目の前の人間がどんどん小さくなってゆく。






  三


 結婚したのは夫の転勤という、よくあるきっかけだった。

 私は大学院を卒業し、それなりにやりたい仕事にもつけたのだけど、仕事より家庭を選んでしまった。

 転勤先でも同じような仕事があれば良かったが、中継ぎ的に今の図書館のバイトに決めて二ヶ月になる。

 今でも仕事を辞めたことが良かったのか考えない日はない。引き止められるほど必要とされなかったのかと思うと胸がちくちくと痛い。それで家庭が幸せなら救いはあるけれど、転勤以来夫は仕事一辺倒で、彼からも必要とされている実感がない。

 私はなんのために生きているのだろう。誰からも必要とされず、自分のやりたいことも失い悪くないことをひたすら謝って。

 図書館からの帰り道、空を見上げると赤い星だけがぬめぬめと光っていた。


 次の日の十九時前、あの少年を待っている自分がいた。

 今、私を必要としてくれているのは彼だけかも、という妄想が消えない。馬鹿げているのはわかっている。それでもふつふつとした想いが湧き上がるのを抑えられない。

「こんにちは」

 閉館ぎりぎりに彼は目を合わせずに彼が本を返す。

「もう読んだの」

 無言で頷く中学生。

「気晴らしはできましたか」

「お姉さんは気晴らしできているの」

 いつも突拍子もない切り出し方をされ、すぐには言葉が出ない。

 この子は私の何を知っているの。

「じゃあ」

「待って」

「もうすぐ終わるから、それまで待てる?」

 そう言うと、中学生は平原とは違う大きな目でこちらを真顔で見つめた。


 一度自宅に戻り車をとって、図書館から少し離れたところでピックアップした。

 夫の車だけど、私も運転できるように小型のSUVを選んでくれていた。その車に少年を乗せていることはきっと言えない。それくらい私でもわかる。

 夫はまだ帰って来ないけど、それより近所の人に見られないかに気を遣う。

「いいんですか」

「なにが」

「いろいろ」

「ただちょっとお話しするだけよ。心配しないで」

 不自然に窓の外を見つめている少年を乗せて車は走り出す。思ったより大きな手のひらは、首筋と同じように青白い陶器のようだ。

 住宅街を素早く抜けて、比較的大きめな通りに出る。

「海老原夏星(なつき)くん」

 図書カードで覚えた名前を声に出す。

「よく覚えてますね」

「星の名前が入っているから宇宙の本を読んだのかなって」

「お姉さんは末永さん」

「えー、よく知ってるね」

「名札で。下の名前はわかりません」

「まゆり」

「まゆりさんはいくつなんですか」

「二十七」

「一回り違いですね」

「ごめんね、おばさんで」

「そんな風に思ってません」

 夕方の街道は思ったより渋滞がひどかった。普段、こんな時間に運転などしないからわからなかった。

 あまり遠くに行くわけにはいかない。どこへ向かおうかと迷ったけど、どこにも向かわず、ぐるぐる回ることにした。

 スターバックスのドライブスルーでフラペチーノを二つ買い、流れの良さそうな方を探して移動する。

「これからどうするんですか」

「どうしようか。どうしたい」

「わかりません」

「まず、私と友達になろうか」

「それって僕が友達になって欲しいっていったからですか」

「それもあるけど、私も友達いないのよ」

「そうなんですか」

 ぽつぽつとフロントウィンドウに雨粒が落ちる。信号待ちのちょっとの間に窓全体が雨粒でいっぱいになり、発進と同時にワイパーを一拭きする。

 前の車との車間距離に気をつけながら、ゆっくり動き出す。

 私は思いきって彼を試すようなことを訊く。

「セックスしてみたい?」






  四


 大きな公園の駐車場に車を入れると、意外と空いていた。

「冗談ですよね」

「うん。ごめん」

 喜んで乗るような子じゃなかった。試すようなことをいったのは申し訳なかった。

「やっぱり友達なんかじゃないじゃないですか。友達ならそんなこと言わない」

「ごめんてば」

「本当はただ話し相手が欲しかったんですよね」

 もしかしたらこの子の方が大人なのかもしれない。そう思うと少し恥ずかしくなってきた。

「本当はまゆりさんの方が悩んでることがあるんじゃないですか。そうじゃなきゃ、中学生を相手にするはずない」

 やはり立場が逆転している。まあ、それはそれで構わない。おそらく自分もそうなることを望んでいたのかもしれないし。

「そうね、悩んでる」

 食事を取り上げられて困った猫のような目つきで私を下から見上げている夏星くん。

「なにに」

「やりたい仕事を捨てて結婚したけど、やっぱり今の図書館の仕事が合わないし、結婚もうまくいってない」

 中学生相手に私はなにを真剣に相談しているのだろう。

「やりたい仕事ってなに」

「化粧品の企画。どんな商品を作るかとか、どうやって売るのかとか考える仕事」

「ふうん。どうして辞めちゃったの」

「夫の転勤で辞めたんだけど、こっちでは同じ仕事が見つからなかったのと、なるべく家にいて欲しいっていわれたから」

 子供が欲しいといわれていることは話さないでおく。

「そんな。それじゃ旦那さんのいいなりじゃん」

「そんな風にいわないで。ごめんね、こんな大人の話」

「でもそれでまゆりさんが悩んでるんでしょ。話し合いはしたの」

「したけど変わらない。むしろ喧嘩になったよ」

「ひどい。なんだよ、それ。僕ならまゆりさんの気持ちを尊重するのに」

 夏星くんが涙を落とす。私のために。そんな相手は今までいなかった。夫でさえ、親でさえも。

「そんな顔しないで」

 私たちが重なり合うのに不思議なことはなに一つなかった。ひどく自然に、夕方が夜になるように車の中で一つになった。

 必要とされている実感。それ以上なにか大事なことがあるだろうか。その感覚以上に生きていると思わせてくれることがあるだろうか。こんなに満たされた気持ちはいったいいつ以来だろう。

「まゆりさん。僕が、僕が守れればいいのに」

「そんなこといってくれるの。私がいわなきゃいけない立場なのに」

「立場とか、関係ない」

 私はこの子になにを返してあげられるだろう。大人が中学生から受け取るだけでは済まされない。

 夏星くんの身体をぎゅっと引き寄せると、少年のさっぱりした柑橘系の匂いの奥に、男性の樹木系の香りが混ざっていた。子供と大人のどちらの匂いも発散する年頃。その匂いを嗅ぐと、私の深いところにある感情が興奮となって表に現れてくる。それは自分でも予想外で、驚きを伴って皮膚へとどくどく滲み出してきた。

 夫も二つ年下だけど、こんなに年が離れた男に私が反応するなんて。

「夏星くん」

 少年の身体を探ると、びっくりするほど硬くなっていた。

「まゆりさん、やめて……」

「いいから」

 私は口で少年の想いを鎮めた。

 そして彼の熱を受け止めた。






  五


 昨日の熱を唇に感じたまま、次の日も図書館での仕事に追われた。指先で唇に触れると、彼の波をいくらでも思い出せた。

 今日も会えるだろうか。今度は口だけでは済まないだろう。私自身が受け入れてあげなくちゃいけない。

 その時が待ち遠しい。

 彼のことばかり考えてしまう。

「末永さん、館長がお呼びだよ」

 次の逢瀬のことに夢中になっていると、後ろから平原が声をかけてくる。恥ずかしい気持ちと中断されて腹の立つ気持ちが入り混じる。

「はい。ありがとうございます」

 開梱作業を途中で止め、バックヤードの館長のところへ向かう。

 知らない男女が二名いた。

「末永さん」

「こんにちは。お仕事中、大変すみません」

「はあ」

「成川警察の者です」

 女性の方が前に出てくる。

「未成年者略取及び誘拐罪と児童売春防止法違反の疑いにより、これから署に同行願います」

「え、どういうことですか」

 なにがなんだかわからないまま、私は警察署に連れて行かれることになった。もちろん

夏星くんの件だろうということはわかるけど、誘拐とか売春とか、それにこんなに早くという理由がわからない。

 いったいなにが起きているのだろう。

 怖い。胸がばくばくと痛い。


「だから誘拐なんてしていません」

「未成年者を連れ回すだけで誘拐罪になるんです」

 女性刑事が口だけは優しく言い返す。

「本人も同意の上でした」

「十八歳以下は同意でも罪になるんですよ」

「じゃ、じゃあ、売春っていうのはなんなんですか」

「末永さん、お金渡していたでしょう」

「たった五千円です」

「金額の大小は関係ないんです」

「そんな、ただのご飯代のつもりで……」

 調書を書くペンの音が、狭いコンクリートの部屋に響く。

 壁にはやんちゃそうな人たちの落書きが書き散らかされている。

「お金を払って性的な強要をしましたね」

「強要なんてしてません。それに性的なって」

「オーラルセックスを同意なくしましたよね」

 女性刑事の目から視線を逸らしてしまう。ひどい言い方だ。

「私は午後八時頃、成川公園の区営駐車場で、職場で出会った中学三年生の生徒を連れ回し、性的な行為を同意なくして強要し、五千円を払いました。そうですね」

 もう、逃げるのも説明するのも面倒になり、いわれるままに調書にサインした。

 どうしてこんなことに。

「そうだ。平原、平原があたしたちの後を尾けて警察にいったんですね。そうだ、きっとそうだ。あいつ、余計なことを」

 小さな正方形の机を脚で蹴る。自分でもこんなに気性が荒くなるとは思わなかった。

「平原さんって、どなたですか」

 刑事が落ち着いた眼差しで私を見つめる。

「職場の先輩だよ。私に気があるから邪魔をしてきたんだ」

「その方は関係ありませんよ」

「嘘だ」

 みんなが私たちの邪魔をする。

 職場の奴らも。

 夫までも。


 その後、私は仮釈放された。初犯であることと、行為が一度きりだったために。

 留置所に入っていた際、私は夏星が借りていたのと同じ本を読んだ。

「太陽系の起源」

 そこには夏星の名前が火星を表していると記されていた。

 火星は「年下の男」も表しているらしい。

「離婚調停の方は、別途連絡しますので」

弁護士の青山が車の中で強く指示してくる。

「はい」

 職も夫も失い、私にはもうなにも残っていない。

「それと今後一切、絶対に被害者と会わないでください」

「連絡もダメなのですか」

「ダメです。電話もメールもメッセージもです」

「でも、彼が心配なんです。私がいないと彼、どうにかなってしまいそうで」

 青山が運転しながら、こちらを振り返る。

「今回、末永さんを告発してきたのは、被害者の少年です」

 私も振り返り、青山弁護士の顔を見た。

「嘘です」

「仮に民事裁判になっても原告として訴えられるでしょうね」

「嘘だ。あの子がそんなことするはずない。

 夏星が私を裏切るわけない。これから二人の歴史が始まるというのに。

「嘘だ」


 弁護士と別れ、私は夏星の家へ向かった。

 そういえば今日は、月のすぐ近くに火星が見える「合」という状態になるらしい。

 合――私は夏星を引き寄せた合になる。

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月と合と夏日星 うつりと @hottori

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