時間を忘れた時計

くいな/しがてら

時間を忘れた時計

 吾輩は掛け時計である。

 名前はカリファヴィンテージMD006L。

 どこで生まれたかはとんと見当もつかない。それどころか、この場所以外のことは覚えていない。そんな訳はないのだけれど、初めからこの埃くさい中古屋にいた気さえする。今やっているのと同じように、かちかち針を動かしていたんだろう。


「あははは、あの時計みてママ」「大変、お夕飯の支度しなくっちゃ。うふふ」

 親子連れとは珍しい。いや、客自体珍しい。最近引っ越してきて、リビングに掛ける時計を探しているのだろうか。そう買い替えるものでもないからな。

「金に困っているんでなければ、その時計はやめときな」

 店主のじじいが口を出した。吾輩の胴に貼られたメモがはためいた。それを見たのか、母親らしいその人間は何か納得したようだった。

「ああ、そうなんですか」

 親子は結局、別の時計を購入し、「調節の方法は分かるね」という店主の声に薄く笑って礼をすると店を出ていった。


 忘れたのは何も生まれた当時のことだけではない。今この瞬間、すなわち「時間」も忘れてしまった。

 長針・短針・秒針はまるで出鱈目な時間を指している。時間にして五時間三十七分二十秒早く時を刻む。どうしてそんなにも正確に誤差が分かっているかと言えば、近隣の小学校が日の高くなった決まった時間に鐘を鳴らし、それと同時に店主が昼休みに入るからだ。それが正午らしいことを察すれば、自分がどれほどズレているかは容易に算出できる。しかしそのズレを埋めることはできない。人間は誤解しているかもしれないが、道具は常にきりきりと働いているわけではなく、惰性で動いている部分がある。当然だ。人間と同じだ。惰性で針を動かす吾輩には、急に針を進めることはできない。吾輩の背中のネジを巻けば、話は別だがね。

 おや、そんな風に内省していれば時刻は二十三時三十七分二十秒、いや、十八時。閉店時刻だ。退屈していれば時間はあっという間に過ぎる。変わり映えのしない店主にまばらな客しかいないここでの娯楽と言えば、やはり小学校の正午の鐘の音くらいのものだ。


「あんた、ここに来て長いんだな」

 グレーのデジタル時計が話しかけてきた。知らない顔だ。新入りらしい。

「‥‥‥なぜそう思った」

「正しい時刻を知っているから。あんたが緊張を解いたと思ったら、店主が店じまいを始めた」

「緊張などしていない」

「なあ、もしこの中に正しい時刻を示す時計がいるなら紹介してくれよ。俺は時刻が電子で表示されるタイプだから、自分の指している時間が分からないんだ。自分の顔が鏡でしか見られないのと同じようにな」

「正しい時刻なんて知って何になる」

「前の持ち主が律儀な奴で、その四角四面が移っちまったんだ。時間に従わず漫然と過ごすなんてやっていられない」

「いない。見ての通り、みんな出鱈目な時間を示している」

 お前もな、と付け加えると、デジタル時計はしばらく黙った。

「みんな出鱈目な時間を指しているとすれば、どうしてあんただけ売れないんだ? 昼間の親子との会話を聞くに、安売りされてるんだろ?」

 今度はこちらが黙る番だった。気付いて当然の盲点だった。自分が売れないのは、正しい時刻を示していないから‥‥‥ではない? 余りに安売りなもので儲けが出ないから店主が邪魔をしている‥‥‥いや、それなら捨てればいい。吾輩のいるスペースに売れる時計を仕入れられる。

 真相は胴に貼られたメモにある気がする。吾輩にはもちろんデジタル時計からも見えない位置に貼られているが‥‥‥その存在を話すのは無駄に思えた。自分の問題は共有しても仕方がない。

「知らん。正しい時間を知りたいと言ったな。捨てられ、売られ、顔ぶれが変わっていくここでは他の時計を基準にしても仕方がない。自分の中だけで正しい時間を数えるんだな。小学校の鐘の音は恐らく正午だ。それだけ教えてやるからもう黙ってくれ」

 ベテランならあんたが時を教えてくれてもいいのに、とぶつくさ言う声は、思いのほか刺さった。この先吾輩はいつまでこの店にいるのだろう。惰性で針は動かしていても、吾輩の時間は止まったまま。


 その時、シャッターを叩く音がこだました。

「ごめんください!」青年のはきはきした声だった。

「今日は店じまいだ、帰ってくれ」

「十分だけ! 絶対買うので!」

 購入を誓ったところで店主の眉がぴくりと上がった。中を見回すだけ見回して帰る冷やかしのような客が多い中で、これは珍しい儲けのチャンスだったのだ。

「五分だ。それで決めろ」

 青年は音も出ないほど靴底が薄くなっているランニングシューズで早歩きで店内を一周すると、吾輩の前で足を止めた。興味深そうにメモを眺めている。

「……早く決めろとは言ったが、それはあまり勧めない。若いのに金に困ってるのかい」

 やはり店主は口出しをした。

「お金には……はい、まあ、困っています。でもこの時計、動いてはいるんですよね?」

「ああ、だがそのメモに書いてある通り……」

 全ての時計が黙って言葉を待つ。

「調節ネジが動かない。時間を設定できなくなっているんだよ」

 ジャンク品。惰性に任せずネジを巻いても、一生正しい時間を示すことはできない。自分の運命の宣告は、聞きたいようで聞きたくないものだった。周りの時計のざわつきが増幅し、自転車の切った風でシャッターが揺れる音が永続し、過去に聞いた客の話し声が同時に再生され……

「これでお願いします」

 止まった。

「止まりさえしなければ使えますよ。何分ズレてるのか覚えておけば」

 店主は物言いたげに口を開いたが、上唇を舐めるだけで閉じ、吾輩を片手で掴みぞんざいに青年に手渡した。

「無料だよ。早く出ていきな」


「お、結構ギリギリだな。ヤバいヤバい、急がなきゃ」

 青年は壁にもたれさせた吾輩を見るといそいそと支度をし始めた。ボロ壁には引っかかる場所もなかったのだ。しかもこの小部屋には吾輩はいささか大きすぎるのではないか? 遅刻のピンチに笑顔になっている青年の計画性の無さに頭痛がする。掛け時計から置き時計に転職した吾輩を横目に、青年は肩掛けの小さな鞄に財布を詰める。


「五時間三十七分二十秒、だね。せっかちすぎる爺さんだ。これからもよろしく頼むよ」

 いってきます。そう言うと玄関の方へパタパタと走っていった。

 吾輩だけの時間が。吾輩だけの問題が。吾輩だけの吾輩が。この貧しい青年によって侵略され、略奪された。悪い気はしなかった。


 正しい時間を示したければ、止まってしまえば一日に数回は本懐を遂げられる。しかし「正しい時間」はこの青年の求めるところではないようだ。

 吾輩は今日も、正しい時間を忘れたまま誤った時間を指し続ける。変わったところと言えば、その出鱈目な時間が吾輩だけのものではなくなったと言うことくらいだ。

 薄いドアが金属音を立てて閉まると同時に、新しい風が少しだけ吹き込んできた。

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時間を忘れた時計 くいな/しがてら @kuina_kan

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