屋台酒

@wlm6223

屋台酒

 私は定年退職最後の出勤を終えて家路に就いていた。

 後輩社員たちは「定年のお祝いに」と酒宴を張ろうと言われたが、たかが一人、サラリーマンを辞めるだけだ。何も後輩たちの手を煩わせるもの申し訳ないと思い、私は二三あった申し出を断った。

 最後の仕事を終えて社屋を出ると、初春の夜の帳がうっすらと下りていた。

 もうすぐ夜の始まりだ。

 私は飯田橋駅へ向かって一人とぼとぼと歩いて行った。

 こうして定年退職してみると、意外と呆気ないサラリーマン人生だったと、つくづく思う。

 そりゃ、四十三年も同じ会社で生計を立ててきたのだ。その間には色々な事が起こった。

 良い事も、悪い事も、今となってはその喜びも蟠りも全て笑ってやり過ごせる。そんな心境だった。

 春日通りを歩いていると、一軒の屋台が出ていた。今時にしては珍しい。おでん屋だった。

 思えば私の新人時代、先輩社員や上長たちから説教されたのも褒められたのも、一次会が終わった後の、こういった屋台でだった。 屋台は狭い。非常に狭い。隣り合って飲食するのだから、自然とお互いの距離が近くなる。物理的にも心理的にも、誰かと近付くには屋台が一番だ。

 薄暮の中、その屋台だけが周囲の暗がりの中からぽつんと淡い光を投げ掛けていた。

 私は一人でその屋台に寄った。

「らっしゃい」

 屋台の親父さんがおれに愛想のいい声を掛けた。先客はいない。

「冷や酒とハンペンと大根とガンモドキ。あとシラタキも」

「へい」

 親父さんが小皿にのったグラスを私の前に置き、一升瓶から酒を注いだ。

 親父さんは私と同年代らしい風貌に見えた。

 片や定年退職の男。片や自由業の男。

 私はちょっと親父さんに憧れた。

 年齢に関係なく働ける仕事に少々嫉妬した。

「お客さん、お一人?」

「ええ。今日で定年退職でね」

「定年? ずっと会社勤めだったんですか」

「ええ。転職もせずに四十年以上」

「そりゃ凄い」

 親父さんは私の注文の品を白い小鉢に載せて私の前に置いた。注文した以外にもツクネが入っていた。

「これは私からのお祝い」

 親父さんの笑顔に私はフッと釣られて笑顔になった。

「ありがとう」

「いえいえ、ほんの気持ちですよ」

「親父さんはいつもはどこで店を出してるんですか? この辺じゃあまり屋台は見かけませんが」

「ええ。普段は九段下の方に行ってます。何でしょうねえ。虫の知らせでしょうか。今日はたまたまこっち方へ来てみたんです。本当は営業許可の関係で、屋台はあっちこっち移動できないんですけどね」

 なるほど。屋台の稼業とはそういうものなのか。

「お客さん、明日からサンデー毎日?」

「ええ。まあ。そういう事になりますかね」

「いいなあ。真面目に働いてきた恩寵じゃなですか」

「いや、どうなんでしょうね。なんせ生活習慣がサラリーマンのものに身に染みついちゃってますから。きっと明日も早起きですよ」

「そんなもんですかねえ。私はこの年になっても働かないと食っていけないんですよ。私にできる事といえば、こうやって屋台を引いて、お客さんを一時、ちょっと非日常に連れていくだけですよ」

 私は大根に箸を付けた。旨い。熱々で出汁が充分に染み込んでいるのは勿論、その出汁そのものの味が旨い。

 次に酒を一口飲んだ。

 安酒なのだが出汁の染みた大根の熱を上手い具合に和らげてくれる。これはこれで特別な味わいがある。

「私は親父さんみたいに定年のない仕事に憧れますけどね。生涯現役。そういうのって恰好いいじゃないですか」

 親父さんは、あははと笑った。

 私は大根を平らげ、シラタキ・ハンペン・ツクネ・ガンモドキと箸を付けていった。

 どれもみな旨い。

 その味はなんとなし舌が覚えているが、以前どこでその味を覚えたのか思い出せない。

 まあ、世の中にはいくつもおでん屋はあるのだから、味も似たり寄ったりかもしれないし、ただの記憶違いかもしれない。

「ごっそうさま。お勘定」

「お勘定?」

 親父さんは笑顔のまま怪訝そうに言った。

「お客さん、お勘定って言いました?」

「ああ。言ったよ。もう帰るよ」

「お客さん、この亜空間にお勘定も何もないですよ」

 へ?

「お勘定だけじゃなくて、過去も未来も、もっと言えば空間もありませんよ」

 え? え?

 私は屋台の外を見た。満天の星空が煌めいていた。

 屋台がどこかの宇宙空間を物凄い勢いですっ飛んでいるかのような光景が目に映った。

 ここは飯田橋じゃなかったか?

「この屋台はですね、過去と未来が一緒になってるんですよ。あらゆる始まりと終わりが一緒くたになってるんです。それだけじゃなくて全ての場所もこの屋台一点に集中してるんです。この屋台はそういう所なんですよ。もうすぐ四十年前のお客さん自身が来まから、たまには若い頃の自分の話し相手になってやっちゃどうです?」

 過去の自分に言ってやりたい事は山ほどあったが、いざそれができると思うと、私は急に不安になった。

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