踏んではいけないドジを踏んだ

@wlm6223

踏んではいけないドジを踏んだ

 かつて大企業の給湯室は女の園であった。

 今は男女機会平等もあって、その秘密の園は女子トイレになりかわった。

 磯田財閥直系の磯田商事もその例に漏れず、女子社員たちは仕事の合間を縫って女子トイレに籠もり、社員同士のあれこれを虚実ない交ぜて語り合っていた。

 今日もまた女子トイレで女子社員二人がお喋りに花を咲かせていた。

「近藤さん、また既婚男性に手を出したんだって」

「また? 先月は飯田部長と不倫してたんじゃない?」

「そう、それ。結局、奥さんにバレちゃいそうになって飯田部長から別れ話を持ち出されたんだって」

「近藤さん、手が早いわねえ」

「近藤さん、自分でも言ってたけど人のものが欲しくて堪らないんだって」

「いやねえ。そんなんじゃいつまで経っても結婚できないじゃない」

「近藤さんの悪い癖なのよ」

 字面だけで見ると二人は困り顔をしているように思われるだろうが、実は好奇心に駆られた幼い笑顔を見せていた。

 確かに近藤の恋愛対象は既婚男性ばかりであった。それは近藤自身の性情であって、どうして不倫ばかりしてしまうのか、実のところ近藤本人にもその理由が分からなかった。

 既婚男性には男として魅力があった。魅力があったからこそ既婚なので、更に仕事に汗を流す姿、そのスーツの少々乱れた着こなしが近藤には魅力的だったのだ。

 近藤の不倫相手は何も磯田商事内に限った事ではない。時にはバーで出逢った男性、あるいは仕事で出逢った男性だった。

 近藤は営業職と言う事もあり、社外の人脈も広かった。特に磯田商事の連結子会社、半田商会との繋がりも密だった。

 そう言った訳で近藤は週に二三度は半田商会に出向いていた。それはただの営業活動であったり、経営指針を示すプレゼンのためであったりした。

 近藤は会社員として優秀だった。

 だから近藤の上司の鵜上も近藤が「半田商事へ行ってきます」と言ってもその用事の詳細までは首を突っ込まなかった。むしろ半田商事との良好な関係を保つための営業活動だと思っていた。

 その件についても女子トイレの噂話の種になった。

「近藤さん、今度の相手は半田商事の宮田部長らしいわよ」

「半田商事の? どんなお相手なの?」

「お子さんも二人いて、どうも倦怠期らしいのよ」

「で、火遊びに手を出したってこと?」

「どうもその宮田部長が近藤さんに熱を上げているらしくて、離婚して近藤さんと一緒になろう、って話も出てるらしいわよ」

「離婚⁉ 近藤さんもついに人の家庭を壊してまで自分の幸せを手に入れようって事?」

「そうらしいわよ。でも近藤さんが結婚に向くとは思えないわ。だってあの人、すぐに男を引っかける癖があるから、どだい幸せな結婚生活が送れると思えないわ」

「男を手に入れたらすぐにポイ。その繰り返しだったもんね」

「近藤さんは今度こそ年貢の納め時、って言ってるらしいけど、本当はどうだか」

「そうよねえ」

 近藤ももう二十九歳だ。いつ結婚してもおかしくない。しかし近藤の男は既婚男性ばかり。恋の顛末はいつも修羅場の泥仕合ばかりだった。その近藤が何事もなく平穏に結婚するとは思われなかった。

 しかし近藤は仕事にも熱心で今日もまた半田商事へと出向いていった。

 よくある事だが、近藤は半田商事へ出向くとき直帰する事が多かった。きっとその夜は宮田部長との逢瀬だろうと女子トイレでは専らの噂だった。

 しかしその翌日になっても近藤は何事もなく仕事に精を出した。恋の力が活力になっているのか、それとも根が優秀な人材だからなのか、いや、その両方のように見えた。

 近藤の社内での評判は上々だった。

 仕事もできるし人当たりも良い。それにどこか蠱惑的な魅力をそのスーツで隠している辺りがより近藤をチャーミングに見せた。

 そんな折、近藤が鵜上部長に呼び出された。

 周囲は平静を装っていたが、誰もが二人の面談の内容に耳を澄ませた。

 二人の面談は会議室で行われた。よくある来客用の面会スペースを用いなかったことから察するに、誰にも聞かせられない内容だという事は女子トイレですぐに話が持ち上がった。

 その一週間後、近藤は依願退職した。

 社内には動揺が走った。

 まだ若く、優秀で前途洋々に見えた近藤が磯田商事を辞する理由は誰にも分からなかった。

 しかし、女子トイレに確固とした証言としてこんな話が持ち上がった。

「近藤さんが会社を辞める件、やっぱり原因は近藤さんの不倫なんだって」

「やっぱり。でも今まで散々不倫してきても平気だったのに、とうとううちの上の連中も見過ごせなくなったのね」

「それがそうじゃないのよ」

「どういう事?」

「近藤さんの今度の相手、半田商事の宮田部長は両刀遣いだったのよ」

「両刀遣いって……どういうことよ」

「うちの鵜上部長と学生時代からできてたんだって。同性愛者を隠すために宮田部長は結婚したんだけど、やっぱり鵜上部長の事が忘れられなくて離婚するんだって」

「じゃあ、近藤さんは……」

「簡単にお払い箱よ。鵜上部長の逆鱗に触れたんだから」

「なるほどねえ……」

 昔であれば同性愛は「癖」の一言で済まされたのだが、今時分ではそうではない。痴情の縺れが一人の会社員の将来を潰す事にもなり得るのだ。

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