その後の事は分からない

@wlm6223

その後の事は分からない

 今日も救急搬送依頼が舞い込んできた。

 われわれ隊員たちは救急車に飛び乗って現場へ向かった。

 いつものことなのだが、この現場までの道のりは本当に長い。

 物理的に長いのではなく、心理的な焦りもあって長く感じるのだ。

 われわれ救急隊が呼ばれるという事は、人命に関わることが多い。

 交通事故、老人の誤嚥、幼児の急な発熱、そして今回は首吊り自殺だ。

 通報してきたのは、どうも家人であるらしい。われわれ救急隊には現場がどこか、対象がどんな状態なのかだけが知らされ、その経緯などは連絡されてこない。とにかく必要な情報だけが伝えられるのだ。対象が現状どういった状態なのか、現場に誰がいるのか、救急対応に必要なものは何なのか、そういったことしか伝わってこないのだ。

 現場は世田谷区の高級住宅街だった。街並みは小綺麗に整頓されており、われわれの救急車が通りかかるのが不釣り合いに見えた。 現場に到着すると、既に警察車両がいた。

 刑事が「まだマルヒは息があるようです」

と言った。

 われわれは患者がいる寝室へと向かった。

 その若い女性は顔色が青黒く変色していた。首吊り自殺に失敗して家人に運び込まれたという。

 この様子じゃ助かっても低酸素脳症で後遺症が残るな、と私は判断した。

 われわれはできうる限りの蘇生手段をこうじた。

 脈が戻った。心音が聞こえてきた。

「なんとか一命は取り留めました」

 私が言うと、ベッドの周りに集まっていた警察関係者と家人たちはほっと一息ついた。

「救急搬送して応急処置をしますので一旦病院の集中治療室へ向かいます」

 われわれは病院と連絡をとり、現状と患者の様子を報告した。幸いにもベッドの空きがあるとのことだった。

 病院へ向かう道中、私は患者の容体の変化を観察していった。

 心音、血圧、心電図……どれも弱ってはいたが生命の維持にはぎりぎり問題ない範囲まで持ち越した。

 こういった場面でも、私は人間の生命力の強さを見つけ、人間はやはり生きたいがために生きているのだと思った。

「自分の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し、害となる治療法を決して選択しない」

 私はヒポクラテスの誓いの一説を思い出した。この言葉は正に救急隊員が規範とすべきことだった。

 救急車内で患者が呻き声を発した。

 私はその言葉を聞き取ろうとしたが、どうも言葉もままならない。

 患者は薄目を開けて私を見た。

 何かを訴えたいのは理解したが、何を言いたいのかまでは判別できなかった。患者の口元は母音の「イ」の形をしていた。母音の「イ」から始める何かを伝えたいのは分かったが、その一音だけではどう理解していいのか分からない。

 次第に患者は一連の音を口から発し始めた。

 その言葉は「イナエテ」と聞き取れた。

 呂律が回らず何を言いたいか判別できなかったが、もしかするとこの患者の最後の言葉になるかも知れないと思うと、私はその言葉を心に刻みつけた

「……イナセテ」

 イナセテ? ひょっとして「死なせて」と言いたいのか?

 しかし今は救急隊員と患者の立場がある。そうそう死なせてなるものか。私は患者の生命を第一としているし、そう教育を受けてきたのだ。

 患者の自殺方法は縊死だ。血液検査をすると何らかの薬物の使用は認められなかった。

 この急場においてそれは多少の救いでもあった。

 気にかかったのは酸欠による脳の後遺症の発生だ。

 血中酸素濃度は六十五パーセント。とてもじゃないが尋常ではない低い値だ。おそらく回復しても何かしらの後遺症が残るのは確実と言っていいだろう。

 だからといってこのまま治療を放棄する訳にはいかない。結果がどんな不幸を招いても、目の前の命を救うのがわれわれ救命隊員の使命だ。

 病院に着くと、早々と彼女を集中治療室へと運び込んだ。担当の医師と患者の状態確認をし、「引き継ぎ」を終わらせるとわれわれの仕事は終わった。

 救急隊員にできることはやった。しかし患者はまだ予断を許さない危険な状態にあることには違いがなかった。

 仕事とはいえ、その患者が結局どうなったのか、ちゃんと社会復帰できているかは、いつも心配になった。

 実のところ、救急隊員は初動治療だけを任されている臨時の医師に過ぎないのだ。

 そのことに歯痒く思うことは何度もあったが、後のことは病院に任せるしかない。

 自分たちの職能はこれまで。これでお終いなのだ。

 翌朝、朝のテレビ番組で昨日の自殺未遂事件が報道された。

 患者はある有名女優だったのだ。

 私は普段はテレビを観ない(観ている暇がない)ので全く気付かなかったが、あの苦悶の表情からはテレビに映る彼女の笑顔とかけ離れて見えた。

 テレビは彼女の自殺未遂を大きく報道していた。彼女の自殺に至るまでの道程も憶測であろうが放送していた。

 どこの誰がこの自殺未遂事件を他者に漏らしたのか私には分からなかった。

「医に関するか否かに関わらす、他人の生活についての秘密を遵守する」

 ヒポクラテスの誓いの最後の一文である

これを守れていないのが私には気にかかったが、いち救急隊員の私がどうすることもできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

その後の事は分からない @wlm6223

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る