ナンパ患者
@wlm6223
ナンパ患者
喘息なんていう厄介な病気になっちまってから五年が経った。
おれの場合は小児喘息ではなく、大人になってからの発症だった。
身に覚えはある。すごーくある。
何と言ってもピース(煙草の銘柄ね)を一日三箱ほど喫うほどの愛煙家だったからね。
普段は殆どチェーンスモーキングだったし、それが許される職業(マスコミ関連)だったのも幸いして、職場の喫煙者には必ず卓上灰皿が支給されていたぐらいだったんだ。
まあ、職場環境のせいにしても仕方ない。
なっちまったもんはなっちまったんだ。
で、必然的に治療することになった。
東京都では喘息治療の補助金が出るため(今は新規の補助金申請は受け付けてないらしい)、その申請用紙とは別紙に「誓約書」というものにサインさせられた。
曰く「今後一本でも煙草を喫ったら、支払い済みの補助金全額を返納すること」という主旨だった。
まあ、喫いはしませんよ。だって喘息の発作って、まじで死ぬかもしれないんでしょ? もう一生分の煙草を喫ったんだ、とおれは思ったね。
喘息の発作で死ぬかも知れない。おれにはそれに近い経験がある。
ある休日にいつも通り煙草を吸いながら読書をしていた時だ。
急にぜいぜいと呼吸ができなくなり、慌てて近所の病院へ駆け込んだことがあるのだ。
具体的にどういう症状だったかというと、一〇〇メートルダッシュを百本やったあとのような感じだった。つまり、ただ歩くだけ程度の運動でも息が切れる状態だったのだ。
その病院の受付でばったり倒れ、受付のお姉さんに「どうしました⁉」と言われても返事ができなかった。そう。声を出すことすらできないほどの息切れだったんだ。何とかメモ用紙に「ぜんそく」と書いて優先的に治療してもらったのだ。
ジェット戦闘機のパイロットのようなマスクをさせられ、成分は知らないが喘息用の吸入薬(ガス?)を強引に吸入させられたのだ。
なんとか一命を取り留めてマスクを外されると、開口一番、「あー、声が出せるようになったー」とおれは言ったのだ。
その時、医者には感謝したね。まじで感謝。ありがとう。
で、「月に一度、検査しますので通院して下さい」と言われてしまったのだ。
その医者は年齢で言えば三十前後でおれと同い年ぐらいに見えた。切れ長のぱっちりした目元のおれのタイプの女医だった(今時は「女医」なんて言っちゃいけないかな)。
おれは毎月の定期検診が楽しみになっちまったんだ。まあ、簡単に言えば主治医に惚れたんだ。
検診は手際よかった。口説く隙が全く見付からないほどだった。おれはなんとか主治医と関係を持ちたくて「今の調子はどうでしょうか?」なんてわざとらしく神妙に訊くとそれなりに医者としての見解を明瞭に答えてくれた。
そんな日々が二年ほど続いた。
おれはいつも通り毎月の検診に病院へ行った。
その日の検診が終わると主治医は「私が担当するのは今日で最後です」と言われた。
「何かあったんですか?」
「開業医でもないと、いつどこの病院へ飛ばされるか分かったもんじゃないんです」
「え? お医者さんて『転勤』あるんですか?」
「まあ、一般の会社員風にいえばそうですね。学閥とかありますし」
主治医が刹那的な態度をとり、自分の心情を吐露するようなことはこれが初めてだった。
「どこの病院へ行くんですか」
「それが私にも分からないんです」
医者の世界の片鱗をちょっとだけ垣間見た気がした。
それからは別の医者がおれの担当になった。「前の先生はどうしちゃったんですか?」
「国分寺のある総合病院に移ったそうです」
「あれまあ。うちの近所だわ」
その晩、うちのマンションに新しい住人が引っ越してきた。部屋はうちの二件隣。早速挨拶に来てくれた。
「あ! 先生!」
「あら。Kさんじゃないですか」
「いやあ。こんな偶然もあるんですねえ」
「あ、ちょっと待っててください。主人も連れてくるので」
主人? 既婚者だったか。でも診察室では結婚指輪をしてなかったんだがなあ。
まあ、こういう恋の散り方も悪くはないだろう。さ、次の女、行こう。
ナンパ患者 @wlm6223
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます