趣味の問題じゃないだろ

@wlm6223

趣味の問題じゃないだろ

 この九段下総合病院に入院して一週間が経った。

 原因は急性アルコール中毒と糖尿病と肝硬変。まあ要するに酒の飲み過ぎだ。確かにおれにはその自覚があった。が、まさか三十四歳でそうなるとは思っていなかった。

 おれの予想通り、この内科病室の入院患者の殆どが老人たちだった。三十台で、いや、六十歳以下で入院しているのは、おれぐらいのものだった。

 消灯時間が過ぎた後、病室のあるフロアは一時の静寂に包まれた。おれのいる六人部屋ではベッドごとにカーテンで仕切られ、入眠の準備が整っていた。そこで人目がないことをいいことに、おれは隠し持っていたブラックニッカを一杯飲んだ。肝硬変? 知ったことか。酒を止めるぐらいなら死んだ方がましだ。

 おれがその一杯のウイスキーを飲み終わる頃、遠くのナースステーションから緊急呼び出しのベル音がけたたましく鳴り出した。それに伴い宿直の看護師たちが廊下を走り回る音がし出した。

 さすがに一週間も入院していると慣れたが、夜の看護師たちは激務だった。ナースコールは鳴りっぱなし。ある病室で対応しているときでさえナースステーションの呼び出し音が複数鳴り続けていた。

 まあいいさ。おれは軽く酔ったまま眠ることにした。

「こんばんは」

 おれのベッドのカーテンが開いた。おれと同い年ぐらいの女が現れた。

 女はショートカットで黒のスーツを着ていた。目元と口元がはっきりしたなかなかの美女だ。一見して病院の関係者ではないように見えた。むしろ弁護士か司法書士か、そんな風に見えた。

「どなたですか」

「死神です」

「……えっと……」

「信じられないでしょうが、私はこの病院専属の死神です」

「……はあ……」

 おれは言葉に詰まった。死神と自称する人物と遭ったのは初めてだ。

「ここのお爺ちゃんたち、昼間はけっこう元気なんですよ。人恋しさか入院の不安からなのか、みんな夜になるとナースコールボタンを押すんですよ」

 それはおれもこの一週間でそう思っていたところだ。

「でも、一部の人は夜になると本当に生死の境を彷徨うんです。ですが私が今ここにいる以上、他の部屋の人たちは死にません」

 じゃあおれが死ぬということか?

「察しが早いですね。そういうことです」

 自称死神の女はおれの思ったこともお見通しらしい。

「こういう仕事ですから一息つくことも殆どないんです。せっかくですから私にも一杯いただけませんか?」

 おれは黙ってブラックニッカの瓶を女に差し出した。

「それじゃあ頂きます。乾杯しましょう」

 死神と何を乾杯するのか理解し難かったが、女はショットグラスを二つ取り出しウイスキーを注ぎだした。一つは自分用に、もう一つはおれ用になみなみと注いでいった。

 おれはグラスを渡された。

「では乾杯」

 女は小さな声でそう言うと二人でグラスをカチンとあわせた。少しだけウイスキーが零れた。

 おれは一口で半分ほど飲んだが、女は四分の一程度しか飲まなかった。

「やっぱり本物のお酒は美味しいわ。ウイスキーって『命の水』っていう意味なんでしょ? 私にはぴったりのお酒だわ」

 女は早くも酔いはじめたらしい。明らかに顔色が赤くなりだした。

「死神というからには人の命を奪うんだろう? 一体どうやってそんなことが出来るんだ?」

「口移しで命が奪えるのよ」

 そういうものなのか、と感心した。

「でもねえ、ここは総合病院でしょ? お年寄りの患者さんばかりなのよ。だから人の命を奪うのもお年寄りばかりなの。たまには若い人と口移ししたいのよ」

 そういう問題か?

「私、老け専じゃないの。そんな趣味じゃないのよ」

 だからそういう問題じゃないだろ。

「ねえ」

 女はおれに抱きついてきて口にキスをした。

 おれは不覚にも一瞬だが恍惚となった。その後のことは覚えがない。だが死ぬほど甘いキスだったのは覚えている。

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