裏社会に生きる

@max160km

その、重さ

「お前走れるか」

「はい」


トドオカの兄貴からの不意の問いかけに反射的に返事をしてから、

俺は自分の口から出た言葉の意味を考えた。

ここはトドオカ興行事務所。

興行などと掲げてはいるが、要はヤクザの事務所である。

ヤクザが走れるかと言ったら、それはマラソンが出来るかという意味ではない。

仕事が出来るか。

はっきり言ってしまえば、人を殺してこれるかという話である。


人間を、殺す。

この世界に身を置いていれば、日常茶飯事とまではいかないが

命のやり取りというのは実際に、日常と地続きに存在する。

俺も以前付き合いのある組に遊びに行った時に

そこでいつも良くしてくれていた人が居なかったので尋ねたら

「アイツ組の金持ち逃げしちゃってさぁ、見つかったらしいけど今頃山じゃない?」

と笑いながら言われた事がある。


その時はあの優しそうな人が金を盗むのか、とか

そんな事をぼんやりと考えていた。

スーパーの肉を見て動物が屠殺される場面を想像しないように。

俺の目の前にはただその人にはもう会えないという事実だけがあり、

受けたであろう拷問、実際の殺害、そして死体処理なんかは

まるで別世界の出来事のように思われた。


しかし今、それが俺に突き付けられている。

トドオカの兄貴からの問いかけに俺は、

自分の世界で、自分の手で、人間を殺しますと答えたのだ。


「お前ならそう言ってくれると思ったで」

トドオカの兄貴はニッコリと微笑んで言った。

微笑んだと言っても、兄貴の場合そういう形に表情筋を動かした以上の意味は無い。

兄貴に本当の意味での感情なんてものは無いからだ。

その目はどこまでも冷たく、夜の東京湾の底、溜まったヘドロのようにドロリと黒く濁っている。


「こういう話に即答出来んやつはもうあかんのや。

聞き返してきたり、一拍置いたり、考えさせてくださいなんて論外やな。

その点お前は即答出来た。まずは合格や」

返事は反射でせなあかん、反社だけにな、と言って

ナハハハハと特有のくせのある笑い方をする兄貴を見ながら

俺の額には冷や汗が伝っていた。

冷や汗というものを、本当にかいた事がある人間って

実際の所どれくらいいるのだろう。

比喩表現だと思っている人もいるんじゃないか。

暑いわけでもないのに本当に冷たい、少なくともそう感じる汗が溢れてくるのだ。

ちなみに俺は以前電車で本気でウンコを漏らしそうになった時にもかいた事がある。

逆に言えば、今の俺は体調的には問題が無いのに

あの瞬間と“同じヤバさ”に居るという事だ。

冷や汗ってのは、人生が終わるかどうかという場面で流れるものなのかもしれない。


「で、お前もそろそろこれを持つ頃や」

兄貴の言葉で、自分の思考が現実から逃避していた事に気付く。

兄貴は少しオーバーサイズに着こなす上質なストライプ生地のジャケットから

タバコでも取り出すように自然にそれを取り出してガラステーブルに置いた。


黒く、鈍く光る鉄の塊。

それ自体は子供でも知っている──銃である。

日本においては銃刀法によってそれを所持出来るのは国家権力に限られている。


渡された銃を持ってみる。

意外と重い、というのが素直な感想だった。

鉄、なのか実際の材質など知らないが、全体が金属で出来ているのだから当たり前ではある。


「軽いやろ?」

兄貴は言った。

「セーフティ外して引き金引くだけ。簡単やろ?」

「あぁ……はい、そうっすね」

俺は手に持った銃を、念の為銃口が自分や兄貴に向かないように気を付けつつ

回して眺めながら、空返事にも似た相槌をうつ。


「今夜な、んぺがお気に入りの鰻屋行くって情報があんねん。

出てきた所をそいつでやってくれや」

「んぺさんですか?」


んぺと言うのは兄貴の友人だ。

いや既に友人“だった”と言うべきなのだろうか。

確か本名は慎平とかで、名前の中2文字をとってんぺと呼ばれていた。

「変なあだ名やけど、呼んでみると案外呼びやすいねん」と

笑う兄貴に肩を組まれていたのが俺の中のんぺさんの記憶だ。

決して小柄ではないのに、230センチで筋肉質の兄貴と並ぶと

小さな子猫のように見えたのをよく覚えている。


「でも、どうしてんぺさんを」

咄嗟に口をついた言葉に、俺はしまったと思った。

兄貴は質問を許さない。

兄貴はいつでも絶対で、兄貴が言う事にはただイエスと答えれば良い。

それがトドオカ興行のルールだった。


「箱、あるやろ」

意外にも、兄貴からは答えが返ってきた。

人を殺すというのは兄貴にとっても重要な話だからなのか、

それを託す俺を一人前と認めてくれたからなのか。

箱とは、建前上は地域密着企業としているトドオカ興行が

玄関前に設置している意見箱である。

お祭りにこんな屋台が欲しいです、などといった

地域住民の声を拾い上げるために置いてあるのだが、

近年イタズラがひどく、ただ「オチンチン」などと卑猥な言葉だけが書かれた

無意味な投書も多く、兄貴は苛立っていた。


「アレにな、クソ投書してたのがんぺやねん」

「そうだったんですか」

「勘やけどな、あんな事するのはんぺしかおらん」


勘。

兄貴の言葉に俺はすでにやると答え、銃まで渡された。

しかしその根拠は、兄貴の勘。

疑うわけではない。

兄貴が動物のような嗅覚を持っているのは何度も見てきて知っていた。

初めて立ち寄る店でも迷うこと無く真っ直ぐに鮮魚コーナーへ向かい、

鮭を一本まるごと買ってきては美味そうに丸呑みするのだ。

迷わないのすごいですよね、と言うと

「何でわからんのかがわからんわ!」と笑うのだった。


しかし、魚を買うのと人を殺すのはわけが違うのではないだろうか。


「あの……いきなり殺さなくても、例えば攫って本当にやったのかを確かめたり」

「あぁー、アカンアカン!そんなんまどろっこしいわ!

アイツや!んぺはブロックや!それとも」

兄貴は俺にグッと顔を近づけて言った。

「ワイの勘を疑ってるんか?」

「いいえ」

そう答えるしかない。

そうだと言えば俺の身体に銃弾よりも強烈な兄貴の打撃が打ち込まれるのだから。


「せやろ、だから今夜鰻屋前で張っとけ。

ワイは優しいからな、最後の晩餐を許したるんや」


ちなみにブロックとは、兄貴が人を消す時に使う表現である。



✳ ✳ ✳



鰻屋の入口が見える位置に停めた車の中で、

腕の時計を見ると、午後7時27分を指していた。

んぺさんが店に入るのを確認したのが7時5分。

焼きにこだわる店だから、まだ鰻は出てきてもいないかもしれない。

この約20分の時間が、俺には永遠を一瞬まで濃縮したように感じられた。


この後俺は殺すのだ。自分の手で、人間を。


どうして人を殺してはいけないのですか?

小学校の頃、誰かが言っていたのを思い出す。

その時教師は、法律でやってはいけないと決まっているからです、

みたいに答えていた。

自分が大人になったとは思っていないが、あれから少し年をとって思う。

人を殺してはいけないのは、ある意味では教師の言う通りで、

単にデメリットが大きいからだ。

気に入らない人間を殺して良い社会は、間違いなく破綻する。

だから国家は法によってその行為に刑罰という大きなデメリットを与えているのだ。


殺人罪は数年は絶対に刑務所で暮らす事になる。

その後も、殺人者の前科者という烙印は一生消える事が無い。

とは言えそれはあくまで一般の、表社会で生きる人間の話だ。

トドオカの兄貴についていくと裏社会で生きる事を決めた時から

その覚悟はしていたはずだし、

何よりこの世界ではその経歴は勲章でもある。

恐れる事など無い、無いはずだ。

自分が怖いのは、ただ兄貴に失望される事、見捨てられる事。

だから引き金を引く、それだけなんだ。


一度深呼吸をする。

自分で自分を言いくるめようとしていないか?と自問しても

その気持ちには一欠片の嘘も無い。

これは断言出来る。


ならばこの内臓がドロドロと掻き回されるような感覚は何だ。

心臓が胃の辺りまで落ち込み、そこに腸が絡みつくような気持ち悪さが

事務所を出てからずっと続いている。


自分はこれから、人を殺すのだ。

人を殺すとは、人が死ぬという事だ。

死ぬとは、なんだ。


生命活動が停止し、人生が終わる。

その人間が積み上げてきたものが全て終わり、二度と取り返しがつかない。

それが、死だ。


俺は、その大きさにビビっている。


俺の人生はきっと、今までずっと死というものを過小評価していた。

どうせ全ての人が遅かれ早かれ迎えるものだし。

ニュースで流れてくる誰かの死は他人事だったし。


それが、いざ自分が関わろうとして初めてその大きさに気付かされたのだ。

兄貴の友達だった、それくらいしか知らない人間の命が

いざ自分で壊そうとするとどうしようもなく大きい。

30才過ぎたら徹夜出来なくなるよなんて話を

若い頃の自分が気にしていなかったように

命の重さなんていう、世界中で散々言われている事に

俺はこの期に及んで初めて向き合っているのだ。


これも一種の倫理観なのだろうか。

そんなものは兄貴についていく中でとっくに捨てたと思っていた。

しかし今になって思えば薬漬けにして風俗に沈めた女も、

両脚をへし折って胸にブラジャーの刺青を入れさせた男も、

自分はその行為を「でも取り返しがつくから」と自分の中で正当化していたのだ。


殺しは、そうじゃない。

自分の中で、間違いなく一線を超えて、その先で自分がどうなるのかわからない。

それが怖い。


いっそ今警察が職質をかけてくれないだろうか。

銃が見つかれば間違いなくその場で逮捕されるだろうが、人は殺していない。


いや、そんな温い考えは本来よぎる事も許されないんだ、と

自分に喝を入れる。


「お前はホンマにニートみたいやな、ワイの下で働かんかい」


あれから俺は、ずっとトドオカの兄貴のばかでかい背中を追いかけてきた。

兄貴のように、俺はなれるだろうか。

罪の意識なんてもので壊れてしまわないだろうか。

わからない。

わからない。

答えが出ないまま静止した時間が確かに過ぎていく。



店のドアが開いた。

んぺさんが、連れの女と一緒に出てくる。


「やれるかどうかじゃない、やるんや」

いつかの兄貴の言葉がよぎる。



俺は車を飛び出し、弾が出なくなるまで何度も引き金を引いた。

引き金は、引いてしまえば意外と軽かった。



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