クジラと共に私は彼と永遠に沈む
川詩夕
良い死に場所なんてどこにもないよ
悲恋の果てに自殺する決意をした。
今日はいつもより増して、なんて重苦しい休日なのだろう。
友人や他人の話では散々聞いた事があるけれど、まさか自分自身が当事者になるなんて、こんなにも惨めな仕打ちに合うなんて
突然、八年間も付き合った彼氏から「自分自身を見つめ直したい」たったその一言だけで振られるなんて夢にも思わなかった。
死にたい。
死にたい。
死にたい。
誰でも犯してくれても構わないからさっさと私を殺して欲しい。
私の欲求は自分の「死」その一言だけで全て完結していた。
寝ても覚めても、四六時中、ただただ死にたいという思いしか浮かばなかった。
自慢だった細い艶やかな髪は張りと潤いを失い、頬はやせ痩け、起きている間は常に
彼氏と結婚も視野に入れていたのに、二人の関係は死ぬまでずっと続くと思っていたのに、冷たく身勝手な一言で唐突に幕を閉じた。
私が彼に何をしたのだろう?
私は彼に何もしなかったのだろうか?
私の感情は独りよがりで一方的なものにすぎなかったのだろうか?
どれだけ考えても解決しないし無駄な事だと理解はしている。
もう、どうでもいい。
もう、何も必要ない。
もう、生きてる意味なんてない。
一日でも早く死んだ方がマシだ。
※
私は幼い頃からクジラという海の巨大な生物が好きだった。
部屋にはクジラの模型や卓上カレンダーを飾っているくらいに。
せめて最後くらいは自分の好きなものを瞳に映して死にたい。
失意の最中、クジラの姿を一度眺めてから命を絶とうと少し前向きな気持ちになれた。
実際、過去に一度だけ目の前でクジラの姿を目にした事がある。
あれはいつ頃の事だっただろうか。
幼い頃の
断片的な記憶の中でクジラに対する印象は果てのない海を優雅に漂う巨大な孤島だった。
その孤島の様なクジラの大きな背中に飛び乗って海の世界を渡り、やがて空高くまで浮かび上がってゆく。
クジラの背に乗って果てしない青空の海を泳いでみたい。
クジラと一緒にそんな旅が出来たらなんて素敵な事だろう。
幼い頃にたくさん夢想していた記憶の欠片にいくす幾筋もの光が差した。
二十四時間カーテンを閉め切り、太陽の恵みを忌み嫌うドラキュラ伯爵の様に、暗い影に覆われた部屋の中でたった一人、無意識の内に口元が僅かに綻んでいる事に気が付いた。
下調べ等を一切せず、小さなボストンバッグの中に二日分の着替えとトラベル用の化粧ポーチと財布を詰め込んだ。
持って行こうか迷った挙句、愛用しているスマホを片手に持ち家を出た。
玄関を出た際、習慣付いてしまった為か家の鍵を自然と掛けていた。
鍵を掛ける必要なんてないのに、もう細い心配なんてしなくても大丈夫なのに。
私はもうすぐ、自らの手で命を断つのだから。
身辺整理等はしなかった。到底そんな事をする気力は微塵も湧かなかった。
遺書も書き残していない、細かな作業が煩わしく思えるし、死の間際において家族や友人に気を遣いたくなかった。
私の死後、残された家族や友人達がどんな思いを馳せようと知った事ではない。
気の小さな私にしては柄にもなく軽率で横暴な行いだ、自暴自棄になっている事は否めない。
私は独りよがりでわがままな女かもしれない。
胸が詰まる感覚が一向に収まらず息が苦しかった。
一刻も早く、彼との多く思い出が蓄積されたこの部屋から抜け出したい衝動に駆られている。
日常的に笑い合い、たくさん喧嘩もしたけれど、気が付いたらお互いに気を赦し合い、その都度セックスをしながら泣いて喜んでいた。
けれども、この部屋の中で偽りだらけの毒素が徐々に影を伸ばしていた事に気が付けず、何度も何度も不確かで歪んだ愛を濃密に育んでいただけだった。
行為を終えた後はベッドに腰掛け、童顔に似合わない煙草を指に挟み、気怠そうな表情で紫煙を吐き出す姿が未だに残像の様にちらついてくる。
彼が私の元から去った後すぐ、歳が一回り以上も離れた若い女と同棲し始めたと友人伝いで知り、更に打ち
歳を重ねた魅力なんてものは天然の若さが放つ魅力の比にならない。
泥と水ほどの差がある事を肌で感じた。
※
玄関を出ると、暖かくて憎たらしい光彩が
私は何故だかこの世界から嘲笑されている錯覚を覚え、その場で舌を噛み切りたい衝動に駆られた。
ぎりぎりと歯を食いしばると気付かない内に握り拳が作られていた。
頭が熱を帯びて思わず右手で玄関の扉を一発思い切りに殴った。
ガンと大人気ない駄音が周囲へ響き、右手の皮が幾層もめくれ薄く血が滲んでいた。
駅の方へ向かって歩いていると、黒色のランドセルを背負った小学生が視界に入り込んだ。
すれ違いざまに「私、綺麗?」と思わず声を掛けてしまった。
小学生は咄嗟の出来事に戸惑いながらも「きれい」とたどたどしく答えてくれた。
私は「これでも?」そう言って小学生の頬に遠慮なく平手打ちをした。
びちっと頬を打つ音が短く鳴った後、小学生は顔を顰めながら両手で左頬を押さ身を屈めていた。
私は小学生の両手を強引に掴んで頬から剥がした、財布から乱雑に抜き出した千円札を数枚握らせた。
小学生は困惑の表情で目に涙を浮かべて私を凝視している。
私は小学生の潤んだ瞳を上から見詰め返し、にこりと微笑むと小学生は慌てて私の元から走り去ってしまった。
「綺麗だってさ、食べちゃいたい」
大胆な自分の行いに気分が少し晴れ、歩幅が大きくなっていた。
※
最寄り駅のホームは電車の乗車待ちをしている人達で列をなしていた。
どいつもこいつもぱっとしない無表情を浮かべ、まるで葬式帰りの様だった。
私が立っている向いのホーム側では、轟音を立てながら貨物列車が勢いよく通り過ぎている最中だった。
瞬く間に彼が貨物列車に跳ね飛ばされる映像が脳裏に思い浮かんだ。
列車に跳ね飛ばされた彼の顔面から目玉が火花の様に飛び散り、育ちの悪さが目立つ歪んだ歯列の間から濃い色の血の泡をぶくぶくと吐き出している。
どでかい冷徹な車輪が引っ切り無しに彼の身体を踏み潰す。
ばちゃばちゃに引き裂かれた肉体はイトミミズの様にピクピクと痙攣を起こし、まるで一つの生物であるかの様に自らの意思を持ちあわせている風に見えた。
死体と呼べるのか定かではないけれど、彼の細切れの肉片は野晒しのまま鴉に
腐敗した妄想を常に抱きながら電車を乗り継ぎ、北へと向かう新幹線に乗り継いだ。
指定席へ座ると、売店で購入した鱒の駅弁を頬張りながら缶ビールを呷る。
駅弁を平らげ缶ビールを飲み干した後、背凭れに身を預けながら窓の外をしばらくの間ぼうっと眺めていた。
食欲を満たし、アルコールを摂取した為か徐々に眠気を感じてきた。
うつらうつらと振り子時計の様に私の首が前後に浅く揺れ動いているのを肌で感じる。
どこからか誰かの声が聞こえてくる。
どうしてそんなに可愛いの——
本当に身体が綺麗だね——
上手じゃん——
締りが凄い——
大好きだよ——
新幹線の窓に側頭部を凭せながら目が覚めると、いくすじもの涙が頬を伝っていた。
どうやら私は眠りながら夢を見て涙を流していたらしい。
出目金みたいに腫れぼったい瞼を引っ提げて目的地へ到着すると、既に日は暮れていた。
この場所が観光地の為、駅を出るとすぐ側に一際大きなファミリー向けのホテルが主張激しく視界へと映り込む。
何の計画も無しに荷造りを行い家を出た為、宿泊については微塵も頭に入っていなかった。
日が暮れた時間帯では恐らくクジラを観察する船は出航していないと踏み、目の前にあるファミリー向けホテルで一夜を過ごす事を決め、小さなボストンバッグを抱えてホテルのフロントへ赴いた。
観光地とはいえども平日の為か、ホテルの客室は案の定余裕がある様子だった。
畏ったホテルの従業員は私という一人きりの宿泊客に対してもすこぶる愛想が良く、少なからず歓迎されている様な気がした。
私は適当に作り笑いを浮かべ、ホテルのフロントでルームキーを受け取った。
フロントスタッフに充てがわれた六階にある部屋へ向かう為、エレベーターへと歩みを進めた。
目の前にあるエレベーターの扉が開いた途端にエレベーターの内部から大量の血が噴き出し、私を血の海に沈めてくれたら素敵だと思った。
エレベーターの扉が遠慮がちにそっと開いた。
そこにはただ、人や荷物を運搬する空間が静かにあるだけだった。
ホテルの部屋へ辿り着き、肩に掛けていた小さなボストンバッグをソファーへ下ろし一息つく。
無意識のまま部屋に設置されたデジタル時計に目をやり時刻を確認する。
新幹線の中で昼食とも夕食とも呼べない中途半端な時刻に食事を摂ってしまった為、空腹を感じる事はなかった。
手を洗う為に浴室側へ移動すると、暖色系のライトに品良く照らされた水回りがそこにあった。
丁寧にセッティングされたアメニティ類が頗る充実しているのを目にすると、シャワーを浴びたい心持ちになった。
一度も耳にした事のないメーカーのクレンジングを手に取り、誰の為にした訳でもない化粧を洗い落とす。
パチャパチャと音を立てながら温いお湯で泡を洗い流してから浴室の扉を押し開けた。
数十分後、シャワーを浴び終えて浴室を後にすると、目の前にある洗面台の大きな鏡に不気味な顔が映っていた。
三十路を過ぎた辺り特有のまばらな白髪混じりの髪、不健康に痩せ細った貧相な身体、醜い面の女が乏しい表情を浮かべている。
やがて、その女は生きている事に観念したかの様に力無く微笑んだ。
これから自らの手で命を断とうとしているのに、夏の陽射しを直に受けた肌へのダメージの配慮を怠らずにスキンケアをしている事が滑稽で仕方がない。
備え付けのドライヤーは所々熱で焦げた様な痕が見える。ドライヤーの風力が微弱な為、髪を乾かしている時間がいつもより長く無性に侘しくなった。
この過疎地で罪のない囚われの身となった微弱な家電製品に弱りきった今の自分の姿を重ねてしまう。
ただ都合の良い使い捨ての道具でしかない。
時刻は遅くないけれど、今夜は寝る事にした。
何をするでもなくただ起きていると、ついつい考え事をしてしまう。
自殺する気力を奪われてしまいそうな気がして、これ以上は何も考えたくなかった。
テレビのスイッチを付けてチャンネルを海外のニュース番組に切り替える。
ボリュームを適当に絞ってから部屋の灯りを消し、下着だけを身に着けてダブルのベッドへするりと横たわった。
孤独に抱かれた私を慰めてくれるのは、テレビから微かに聞こえてくる海外のニュースキャスターが発する英語だけの様に感じられた。
頬にひとすじの涙が伝い、私は微睡んだ。
眠っている間に……死ねると良いな……。
※
外部から部屋の内部へと差し込む陽光が眩しくて目が覚めた。
時刻を確認しようと思ったけれど、それを確認した所で何の意味も成さないと判断を下し、今後は時計を見ないと心に決めた。
しゃんとしない足取りで備え付けの冷蔵庫から冷たいミネラルウォーターを取り出し渇いた喉を徐々に潤す。
アメニティの安っぽい歯ブラシで歯磨きをした後、自宅から持ち出してきた化粧ポーチの中身をテーブルに広げて身支度を整えてから部屋を後にした。
ホテルの一階に併設された喫茶店でモーニングセットを頼みトーストを齧る。
ホットコーヒーは然程美味しくはなかったけれど、湯気立つ香りが鼻腔を擽り妙に心地良かった。
朝食を済ませた後、ホテルのエントランスへ向かうと視線の先に観光バスの停留所が目に入る。
数組の家族連れや男女のカップルが停留所付近に立ち並んでいた為、私は停留所の方へと向かった。
待つ事数分、観光用の大型バスが停留所の定められた位置へと止まり、私はバスへ乗り込んだ。
宿泊したホテルから海までは近かった。
もしかすると自分が寝泊まりした部屋から海を一望する事ができたのではないかと思ったけれど、最早どうでもいい事だった。
バスは海が見える船着き場近くのバス停で停車した。
目の前にある建物の隣側に観光客を乗せる為の中型クルーザーが数台停泊しているのが視界へ入る。
ホエールウォッチングに参加する受け付けを済ませ、コインロッカーに持ち物全てを預け入れた。
数年前に一時期流行った曲を鼻歌で歌いながら船着き場まで歩いて行くと、緩やかな波の上で揺れるクルーザーが呼吸しているみたいに動いている。
クルーザーの上で船員が大きな動作で家族連れ、カップル、私へ向かって手を振っていた。
足取りは軽く、内心ワクワクドキドキしながら呼吸を繰り返すクルーザーへと乗り込み、地上から海上へと移った。
船員達はホエールウォッチングの参加者全員に対し歓迎の言葉を述べた後、クジラと遭遇した際の注意事項を簡易に説明をしてくれた。
そして、呼吸するクルーザーは騒々しいエンジン音を順順に響かせて、ゆっくりと船着き場を離れ大海へと向けて出発した。
海上を数十分走ったところで、私は海風に誘われるかの様に甲板へと赴いた。
青空にゆったりと停泊している眩い太陽が壮大な海を照らし、煌めく水平の果てで海と青空が交わり溶け合っていのが見える。
身体中いっぱいに海風を浴びて
瞼を開けると視界全体に青が広がり、全てのしがらみから解放されて自由になれた気がした。
生きたい——。
脳裏にその言葉が過った。
永遠の輝きを放つ程の勇ましい言葉が心の奥底で息吹く。
後方から子供のはしゃぐ声が聞こえ、振り向くと幸せそうな家族連れの姿が見えた。
記憶が他人の声に共鳴したのか不意に彼との思い出がフラッシュバックする。
——死にたい。
ほんの些細な事なのに、何の為に生きているのか分からなくなる。
やはり私は死ななければならない。
生きたいと思う気持ちよりも、死にたいと思う気持ちの方が勝っている。
どこまでも暗く卑屈で重く陰鬱に歪んだ私の性格。
たとえどんなに着飾ろうとも、言動が変わろうとも、人間の本質は決して死ぬまで変わる事はない。
その事実は現に私の存在で証明しているじゃないか。
無意識の内に価値の無い涙が溢れ、吹き流れる海風が頬を伝う雫を切り離してゆく。
「ぽんぽん大丈夫?」
どこからか舌っ足らずな幼い子供の声が聞こえた。
足下へ視線を向けると、つぶらな瞳が可愛らしい幼い男の子が私を見上げていた。
「泣いてるの?」
見ず知らずの幼い男の子に涙を流す姿を見られていた様だ。
私は恥ずかしくなり、慌てて指先で何度も涙を拭った。
「ううん、大丈夫、なんでもないよ」
私はそう言ってぎこちない笑顔を作った。
「どこか痛いの?」
「痛くないよ、心配してくれてありがとう」
父親と思われる男性が私へ向けて会釈をしながら幼い男の子を連れ立って行った。
「どうもすみません」
「とんでもないです、優しいお子さんですね」
「もしかしてお身体の具合が良くないんですか?」
「いいえ、至って健康です、お心遣いありがとうございます」
「でわ失礼します、クジラに会えるのが楽しみですね」
「もうすぐですね、凄く楽しみです」
私は幼い男の子とその父親へ向けて笑顔で手を振った後、溜め息を吐いて二人の背中を無言で見つめていた。
しばらくすると私が立っているクルーザーの反対側から数名の歓声が上がった。
クジラだ、クジラに違いない、咄嗟にそう思い胸を躍らせながら足早に歓声が聞こえた方へ向かった。
人集まりができている場所へ着くと、水面からは黒色の巨大な物体が海上へ浮き上がろうとしていた。
常時波打つ音が鳴る最中、船員達が興奮気味に大きな声を張り上げる。
船員の声は次第に過熱し、くだくだと状況の説明を続けるていた。
目障りだった、黙って口を噤んでいろ、船員に対しドス黒い殺意が湧いてくる。
しかし、私は徐々に船員の言葉を認識できない程、眼前で泳ぐ一頭の巨大なクジラの姿に釘付けとなり、すっかり心を奪われてしまっていた。
自分の心情を言い表す事ができないくらいに圧巻だった。
一定のリズムで海中から海上へと勿体ぶる様にして姿を表すクジラ。
まるで私達の欲している事柄を全てお見通しの様だ。
クジラが時折、緩やかな弧を描きながら浮上する度に奇妙な光景を目の当たりにする。
巨大なクジラの身体の至る所にフジツボが
数万、数十万以上のフジツボがクジラの身体に寄生し、ピンク色の
次第にフジツボから伸びる蔓脚は肥大し、人間の手の形を形成していた。
その手は先程、私を慰めるように声を掛けてくれた幼い男の子の手と同じ程の大きさだった。
私は点と線を結びつけるかの様に幼い男の子の存在を確認する為、視線を周囲へと泳がせた。
幼い男の子をだき抱えていた父親は首から掛けていた一眼レフを手に取り、クジラを被写体にして一眼レフを両手で掴みシャッターを切ろうとしている。
クジラに寄生するフジツボの胸脚が、その不穏な数十万の手がこちらへ向けて手招きをしていた。
クジラの身体が海面から大きく跳ね上がり、海中へ沈む際に海水が突風の様な波を巻き起こした。
クルーザーが予期せぬ荒波に衝突し、ぐらりと大きく揺れ動いた。
不意打ちとも言える鋭いフックの様な衝撃に幼い男の子は父親の元から弾き飛ばされ、クルーザーから海へ落下した。
騒々しいクルーザーのエンジン音に混じって、周囲から複数の悲鳴が迸る。
海上を突き進むクルーザーの後方で幼い男の子が油に揚げられている小魚の様にビチビチと手をばたつかせているのが見えた。
幼い男の子の母親は半狂乱に金切り声を発しながら顔面蒼白となっている父親の細い身体を激しく揺さぶっていた。
父親はおろおろと周囲を見回した後、首から下げていた一眼レフを床へ置き、海へ飛び込もうとしていた。
「何してるんだ! 危ない! 死ぬぞ!」
「子供が子供が子供が子供が子供が子供が」
「落ち着いて! 止めろ! クルーザーを止めてくれ!」
「あぁ……うぅ……あぁ……おぉ……」
周囲の人達が慌てて自制心を失った父親の行動を抑制する。
私は泣き叫ぶ母親と羽交い締めにされて放心状態となった父親を冷めた目で眺めていた。
「絶好の自殺日和ですね」
喚き散らす母親を横目に、項垂れる父親の目の前で私はそう呟き、パンツと靴を脱ぎ捨てて海へ飛び込んだ。
ひやりと冷たい海水が全身を包み、口の中に塩気を感じた。
無我夢中で幼い男の子を目掛けて遊泳を開始する。
前方数十メートル先で溺れる寸前の幼い男の子、まるで死を迎え入れる為のダンスを披露しているかの様だった。
私は右腕で幼い男の子を背後からだき抱え、海中へ沈まないよう懸命に平泳ぎをしながらクルーザーのある方へと向かう。
つい先程まで荒い息遣いだった幼い男の子が力尽きたかのように突然静かになった。
視線をちらと胸元へやると、ぐったりと項垂れ全身の力が抜けてしまっていた。
死んだ——
そう思わざる得なかった。
自分の身体が重たく感じた。
まだ幼く体重が軽いとはいえ、片手で子供を抱えながら泳ぎ続ける体力はさほど持ち合わせていない。
荒波の衝撃が思いの外強く身体中が疲労困憊で息が上がる。
沈む、このままじゃ確実に私が海の奥底へ沈んでしまう。
クルーザーから海へ飛び込み何メートル泳いだのだろう?
十メートル? いや、二十メートル以上?
そもそも前へ進めていないのかもしれない。
泳いでも泳いでも荒波に押し戻され、結局は一メートル先へも進めていないのかもしれない。
巨大な黒い影に全身を飲み込まれてしまいそうな、不吉な予感がする。
一定の間隔で高い荒波が視界を遮り勢いよく海水が目に入り込んできた。
目が泌みて、まともに両目を開ける事ができない。
私はどうして幼い男の子を腕に抱えているんだ?
沈まないよう懸命に踏ん張る理由は?
もう既に死んでいるのに?
子供の死体を抱えて何をしている?
無理だ、無理だ、もう無理だ、限界だ、終わろう、終わる、今ここで死のう。
幼い男の子を抱える右腕の感覚は消失していた。
海に身を任せようと思い、だらりと右腕を広げた直後、視界に派手なカラーリングのゴムボートとライフジャケットを着た人が見えた。
自分の腕が千切れてしまったんじゃないかと思った。
右腕の感覚がないまま、海に流されてしまいそうな幼い男の子をぐっと抱き寄せる。
私の重たい身体は左腕から沈んでしまいそうだ、もう息が続かない。
身体が海へと沈んでいく最中、脚を鈍くばたつかせた。
最後の力を振り絞り、右腕を光の差す方へと掲げた。
※
私は自分が海の中へと沈んでいくのが分かった。
三半規管を
目を開けると海中へと差し込む太陽の光が見える。
無数の黒い影が幼い男の子を海上へと引き上げようとしている。
深く深く沈んでいく中、黒い影が海へ飛び込んだ姿が見えた。
もう手遅れだよ、こんなにも深く沈んでるんだから、私を助ける事なんてできやしない。
まぁ、今となってはどうでも良い事なんだけどね。
私はもうすぐ死ぬんだから。
私は悲しくなかった。
私は寂しくなかった。
哀れな事に最後に頭の中に思い浮かんできたのは彼の優しさに溢れた笑顔だった。
瞬く間に肉体の芯から心の奥底の全てまでが邪悪な憎悪に侵蝕されてしまった。
眼前にクジラの黒い影が見える。
黒い影に付随する数十万のフジツボの手が私を真っ暗な淵へと誘い込んでいた。
クジラが大きな口を開けて底無しの闇が手招きをした。
私はクジラに一息で飲み込まれた。
※
ゆったりと海中を遊泳している。
広がる景色は大海原だ。
どこまでも見通せる視界は人間のものではない。
この視界は私を飲み込んだクジラのものだ。
クジラのものだ……?
私の意識がある……?
クジラの身体に寄生していたフジツボの奇っ怪な手が何か関係しているのだろうか……?
一つ、分かった事がある。
クジラはあと数日で絶命する。
クジラは自らの死期を悟り、大海原を遊泳し続けて死に場所を求めていた。
私はクジラへ語り掛けた。
「良い死に場所なんてどこにもないよ、何の変哲もないこの場所も素敵だよ」
クジラは私の問いかけに対し声を上げて返答しなかった。
クジラは無言で私の提案に承知してくれた。
「あなたと海の底へ沈む事ができて心から嬉しい」
クジラは深く、深く、ゆらり、ゆらりと海底へと沈んでゆく。
大きなお腹を海底へ落とし込み、泳ぐ事を止めてゆっくりと瞼を閉じた。
視界が暗くなるとクジラと淡く交じり合う幻想的な意識が徐々に薄れてゆく。
やがて永遠の眠りを受け入れた。
※
私の身体は時の経過と共に腐敗が進み、ボロボロと肉の層が次から次へと剥がれ落ち、海水に溶け始めていた。
血肉に群がる海の生物達が乱暴に私の身体に噛み付き、引き千切り、
爪や髪の毛に至る全てを根こそぎ喰われて、骨の髄までむしゃぶり尽くされた。
後に残ったものはガタガタに砕けちった哀れな残骸だけだった。
残骸は海流に流され、細かい糸の繊維みたいなものさえもバラバラに引き裂かれて世界各地の海と溶け合った。
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