六章 春になったら

 は、はらはらと落ち着かない心地で、玄関に立っていた。

 朝、きよが飛び出していってから、もうかなり経つ。村のはずれまで行ったとしても、どうにも時間がかかり過ぎているように思えて、気が気でない。

だんさま……」

「そんなに心配しなくても、どう少佐は大丈夫ですよ」

 横であらたが苦笑しながら言うが、美世の不安はちっともなくなってくれない。

 ついさっき、客を迎えにいくと出て行ったただきよが帰ってきた。しかし彼が黒いマントのおかしな人々を引きってきた上に、この別邸の地下に同じような捕虜がいると知らされ、屋敷じゅうが大騒ぎになった。

 村で起きた謎の怪事件のことは知っていたが、得体の知れない怪しげな教団や異能者がかかわっているなど、少しも聞かされていなかった美世は何が何やらだ。

「任務が危険なことはわかっているつもりでした……。でも、異能者が相手なんて」

「いえ、美世。あの少佐ですよ? むしろ異形相手より異能者相手のほうが、余裕でしょう。それに、君のほうがよほど危ない橋を渡っていたんですからね」

「……はい」

 美世は罪悪感に、まゆじりを下げる。

 村人の男性を救うために異能を使った。修行の成果や新の手助けもあり、体調不良になりながらも男性を目覚めさせることができたが、一歩間違えば死が迫る、危険な場面であったことは間違いない。

 体調不良は一時的なもので今はすっかり元通りだし、できれば清霞には報告したくないけれど、そうもいかないだろう。

「美世さん、お疲れさま」

 声をかけてきたのは、増えた捕虜を地下に収容し終えた正清だ。

「お義父とうさま。お疲れさまです」

「うん。……ああ、君があのつる貿易の御曹司──うすの後継の、薄刃新くんだね?」

 正清に問われた新は、恭しく会釈した。

「はじめまして。薄刃新です」

「おや、もう薄刃を名乗っていいのかい?」

「はい。たかいひとさまのご意向で、これから薄刃家も徐々に開かれていく予定ですので」 

「そう。それはいいことだね」

 ふと、会話が途切れる。二人の話を聞きながらも、清霞が帰ってくるであろう、村の方角から目を離さなかった美世は思わず「あ」と声を漏らしてしまった。

「旦那さま……!」

 落ち葉が敷き詰められた道を、おおまたで歩いてくる清霞の姿が遠目に見える。怪我などをしている様子はないが、手で何か大きなものを引き摺っているようだった。

「?」

「あれ、なんでしょうか」

 美世と並んで遠くの清霞を眺める新も首を傾げている。

 もう、じっとしていられない。

 気づけば、足が勝手に駆け出していた。

「旦那さまっ」

 呼びかけると、うつむきがちに歩いていた清霞が、はっと顔を上げる。

「美世」

「旦那さま、おかえりなさい。よかった、ご無事で……」

 夢中で駆け寄り、その胸に飛び込む。全身で、婚約者の温かな体温と鼓動を確かめた。

 そして、そんな美世の身体を力強い腕が包み込んだ。

「ただいま。心配かけたな。すまない」

 今頃になって、恐怖が湧き上がってくる。ほっとしたら、目頭が熱くなった。

 気を張っていたけれど、本当はずっと怖かった。慣れない異能を他人に使うのも、清霞が危険な戦いに身を投じているのも。

 何かひとつでも間違いがあれば、すべてを失ってしまいそうで。

「だ、旦那さま、が、ご無事なら……それで」

 いいんです、と言おうとしたのに、のどが震えてつかえてしまった。

 それでも、優しい彼はすべてをわかってくれる。

「危ないことは何もなかった。だから、泣くな」

 ぽんぽん、と柔らかに美世の背をたたいた清霞は、次の瞬間、地を這う──いや、もはや地底をふくするような低い声でうなる。

「で? なぜ、ここにいる。薄刃新」

 余裕の笑みを浮かべ、新が美世の背後にやってきた。

「あはは、あなたのせいですよ。堯人さま直々に、こちらに来るように命じられたんです」

「堯人さまが? ……そうか」

「それにしても、その手に持っているのはなんです? ずいぶん大きな獲物ですね。狩りでもしていたんですか?」

 ここでようやく我に返った美世は、ゆっくり視線を下に移し、清霞が引き摺っていたものを理解した。そして、思いきり飛び退く。

「な、な、え、あの、人……?」

 またもや黒いマントをまとった、大きな男だ。清霞と比べても子と親以上に体格差のある大男。それを、清霞は息も乱さず引っ張ってきたようだった。

「狩りといえば狩りだ。これが私の任務の目的だからな」

 清霞が後ろ手に引き摺っていたきよを軽々と放ると、どさり、と鈍い音とともに地面に転がった。

 大男の額には、角が生えていた名残りのような出っ張りがあり、きばらしきものが口の端からのぞいている。

 それにしても、大きい。肉厚の手など、大きすぎて美世の頭くらいなら握りつぶされてしまいそうだ。こんな大柄な鬼と戦って、清霞にもし何かあったらと思うと寒気がした。

「やはり、鬼がひようしているようですね」

「今は魔封じで封じている。あの村人は、どうなった?」

 美世は新と顔を見合わせ、観念して白状する。

「あの、……わたしが、異能を使って目覚めさせました」

「は?」

 す、と清霞の目が鋭くなる。

 その反応が怖ろしすぎて、ひぇ、と悲鳴が出そうになった。けれど、しどろもどろになりながら、なんとか言葉を続ける。

「い、意識を取り戻さなければ、今にも死んでしまうと……だから、あの」

「……容体を安定させるために、異能を使ったと」

「は、はい」

 なんとかうなずいた、その瞬間。美世の身体は痛いくらいに強く、抱きこまれていた。

「すまない、私があの場を任せたばかりに……。頼むから、危ないことはしないでくれ」

 弱弱しい声音。胸が苦しくなる。

 あのときの行動に後悔はないけれど、こんなにも清霞を心配させるなら、馬鹿なことをしたなと思う。

「ごめんなさい」

「いや、いい。ありがとう、よくやってくれた」

 美世は清霞の腕の中で、少しだけ首を縦に動かした。

 と、生温い空気が流れだした状況で、間の抜けた文句が聞こえてくる。

「君たち~、いつまで外にいる気だい? 僕、風邪引きそうだよ」

 清霞が渋々、といったふうに離れ、美世は自由になった。……なんだか、外気は冷たいはずなのに、汗をかきそうなくらい、全身が熱い。

(恥ずかしい)

 また、皆が見ている前でやってしまった。

「いいねえ。若者はこんな寒空の下でも盛り上がれるんだから。っくしょん! けほっ。うぅ、寒~」

 あはは、と笑い、正清はせきとくしゃみをする。

 なんというか、これは暗に嫌みを言われているのだろうか。

 清霞がいらついているのが、びしびしと伝わってきた。

「とっとと戻って、休めばいいだろうが。人のところを面白がって見ているから、そうなるんだ」

「ははは。少佐、こんな面白いものを見ないで帰れるわけないでしょう」

「お前もか」

 そうして、和やかな雰囲気に包まれながら四人は別邸の中へ戻ったのだった。



   ◇◇◇



 夜も更けてきた頃。久堂家別邸二階、清霞の滞在する部屋のタイル張りのバルコニーには、月明かりに照らされ手摺りにもたれる二つの人影があった。

 朝から教団の信徒とたいし、その後も後始末に追われた清霞と、主に村で村人たちの混乱を鎮めるのを手伝っていた新だ。

 忙しく動き回っていた彼らがやっと落ち着いたときには、もうこの時間だった。

 それから、どちらからともなく一杯やろう、という空気になり、今、各々の手の中には例の地酒が注がれた猪口ちよこがある。

 もう冬も間近だというのに、不思議とあまり寒くない夜。普段は犬猿の仲の二人の間に、ほどよい疲労感と酔いで穏やかな空気が流れる。

「──なるほど、それは要報告ですね」

 清霞は、隣の新へあらためて事件の全容を伝えた。

 すべては、のうしんきようの行動に端を発する。彼らはこの地域一帯を実験場とし、人に異形を憑依させ、異能を目覚めさせる実験を行っていた。

 あの異能者の男は、祖師の考えを清霞に知らせるのが役目だったと言っていた。まだ想像の域を出ないが、もしかしたらこの地域を選び、久堂家に手を出したのもすべてそのためだったのかもしれない。

 この場合、なぜ祖師は清霞に自身の目的を伝えたかったのか、というまた別の疑問も生じるが。

 ともかく一連の怪奇現象や不審人物の目撃情報は、いずれもその一端だったというわけだ。

 明日には帝都から調査員が送られてくるので、さらに調査が進めば詳しいことがわかるはずである。

「ああ。……帝都のほうの動きは?」

 清霞の確認に、新はにこやかに応じた。

たいとくしようたいも、異能心教狩りに駆り出されていますよ。政府も馬鹿ではないので、いくつか潜伏場所の候補は絞ってあったようです」

 今回のことで、政府はさらに追い詰められる。このままでは異能心教の存在は、帝国を揺るがす脅威となるだろう。

 実情はどうあれ、生まれにかかわらず人智を超えた力を得られる、という彼らの主張は多くの人々の目に魅力的に映るに違いない。

「ここへ来る前にどうさんと打ち合わせましたが、あちらはあちらで、異能を使う異能心教への対抗手段として上層部にはかなり期待されているようでした。少佐も早く戻ったほうがいいですよ」

「そうだな」

 五道に留守を任せている以上、おかしなことにはならないだろうが、これ以上屯所を空けているのは小隊の士気にもかかわる。

 言われなくとも、もう明日には戻るつもりだ。すでに美世や父にもそれは伝えてあった。

 ふと、思い出して清霞は自分の懐から取り出したものを新へ投げ渡す。それを危なげなく受け止めた新がまゆをひそめた。

「これは?」

「先代が押収した証拠品のひとつだ」

 鬼の血が入った小瓶。異能心教の実験に使われたと思われる、人工異能の媒介──とでも呼ぶべきか。

「まったく新しい、平等な世界……。こんなもので」

 新の表情も苦々しいものに変わる。

「おそらく、異能心教の祖師とやらは異能者だろうな。でなければ、そこまで深く異能を理解できない」

 異能の研究は、当然ながら異能についての深いぞうけいが必要になる。しかしそれらの情報は国家機密に等しい。一般人がおいそれと手を出せるものではない。

 となれば、異能心教を率いているのは、異能者か異能の家に連なる者にほぼ限られる。

「それは、そうでしょうね。少佐には、心当たりは?」

「ないな。戻ったらあらためて調べる必要はあるが……現時点で、おそらく所在が明らかでない異能者はいない。海を渡って来ている者もすべて含めてな」

 異能者たちは皆、最低限の動向を国に管理されている。今頃はすでに政府も、国に把握できている異能者の行動は洗っているはずだ。

 それでも、いまだ祖師とやらの正体についての連絡はない。だとすると。

 清霞は、ぽつりとその名をこぼした。

「……すいなおし

「え?」

「祖師の名らしい。偽名かもしれんが」

 そう何気なく続けた清霞の耳に、新の息をむ音がやけに大きく聞こえた。

 どこか、様子がおかしい。隣に視線をやり、けんにしわを寄せる。

「どうした?」

 はかない月光の下でもわかるほど、新の顔から色が失われていた。まるで吐き気をこらえるかのように口元を押さえた手は、かすかに震えているように見え、ぼうぜんと瞬きひとつしない。

 いつものゆうしやくしやくな新の姿はどこにもなかった。

「本当、に」

「?」

「本当に、言ったん、ですか? う、すい、なおし、と……?」

 清霞は内心で困惑しながら、うなずいた。

「ああ。確かにそう言った。それが、どうか?」

 新は震える手で持っていた猪口を足元に置き、心を落ち着けるように深く息を吐く。

 あの名前に何らかの心当たりがあるのは明白だ。けれども、柄にもなく動揺する新に、即刻詰問する気は起きない。

「まさか──ああ、そういうこと、ですか。だから、堯人さまは」

 浅い呼吸であえぐように、新はつぶやく。

「どういうことか、説明しろ」

「……そうですね。ああ、ちょうどよかった」

 力なく背後のガラス戸のほうを向いた新の視線の先には、おそるおそる、といったようにこちらをうかがう美世がいた。

「あの、ごめんなさい。お邪魔して」

「別に構わない」

 清霞も美世が部屋に入ってきたことには気づいていた。新の異変に気をとられ、つい扉の向こうから呼びかける声に、返事をし損ねたが。

「これは美世にも、かかわる話です。彼女にも聞いてほしい」

 そう言われてしまえば、清霞も首を縦に振るほかない。

 新は青い顔で笑うと、美世を手招きし、バルコニーに置かれた椅子へ座らせる。美世はといえば、不思議そうにこちらを見上げていた。

「えっと。新さん、顔色が……座ったほうが」

「気にしないでください。美世は、今回の件についてどれくらい知っていますか?」

「あ、え、あまり、詳しくは。でも、異能心教? のことは、だんさまにうかがいました」

 どんな危険が潜んでいるかわからないので、美世にも今回あったことを断片的に伝えている。

 特に異能心教という、異能者がかかわる組織が黒幕である以上は、無知が逆に危険を呼び寄せる可能性もあるからだ。もちろん、深入りさせるつもりも毛頭ない。

「そうですか。さすが少佐。抜かりないですね」

 らしくない、下手な賞賛を送ってくる新。──本当に、らしくない。

 彼は、どこかあきらめを含んだ表情で、遠くを見つめた。

「少佐の話が本当なら……異能心教のかかわる、あらゆる罪は薄刃家にあります」

「どういうことだ?」

「異能心教の祖師を名乗る人物、甘水直。甘水家は、薄刃家の分家のひとつです」

 これを聞けば、清霞も得心する。

 つい先だってまで、謎に包まれていた薄刃家。その分家であれば、清霞の知っている範囲外である。

「しかし、甘水家自体は脅威ではありません。甘水直、彼が問題なんです」

「その男の素性はわかっているのか」

「もちろんです」

 できれば、思い当たりたくなかった。新の表情はどこか、そんなふうに嘆いているように見えた。

「少佐の予想通り、甘水直は異能者です。もう数少ない、薄刃の異能を持つ者だ。そして」

 いったん言葉を切り、新は美世に微笑みかける。

「美世の母親、さいもり……いや、薄刃澄美の婚約者候補だった男です」

 清霞と美世は揃ってどうもくする。

 脳裏によみがえったのは、美世が生まれる前の薄刃家の事情だ。

 そうだ、確か、薄刃澄美は一族内の異能者と結婚する予定だった。本人の意思はともかく、少なくとも薄刃の長たる薄刃よしろうの考えはそうだった。

 年頃だった澄美にすでに婚約者候補が用意されていたとしても、何も不思議はない。

 すう、と酔いがさめていく。

「俺が生まれるか生まれないかという頃の話なのでよくは知りませんが、甘水直は美世の母親に対して、婚約者候補という以上の感情を抱いていた、らしいです。そして薄刃澄美が斎森家に嫁いだ直後に離反し、行方をくらませました」

「離反だと?」

「はい。当然、薄刃のおきてに従えば、離反者には厳しい制裁が下されます。ただ、あのときは……」

「なるほど。薄刃家にそこまでの体力は残されていなかった。いや、甘水直とやらが優秀だった、ということもあるのか」

「どちらもその通りです。追跡はしましたが、発見できませんでした。今でも、一族の者たちに細々と捜索はさせていますが、有力な情報は得られていません」

 やはり、新の顔には濃いていねんが見え隠れする。清霞には彼の憂いがよくわかった。

 なぜ、よりにもよって今、と。

 薄刃家は、これから変わっていく。世間から隔絶された暮らしではなく、清霞たち普通の異能者の家のように、堂々と生きていける。そんな未来が、あったはずだ。

 けれど、こうなってしまえば……もし、薄刃に関係する人物が国家転覆を狙っていたなどとおもてになったら、間違いなく一族は存続できなくなる。

「甘水直は、薄刃を憎んでいるのか?」

 清霞が尋ねれば、新は覇気のない動きでかぶりを振る。その口調は、誰が聞いても投げやりだ。

「わかりませんよ、そんなこと。憎んで、恨んで、ふくしゆうしたいと考えている可能性は十分にありますし、そうでない可能性だってある。まあ、何か思うところがあるから、こんなことをしているんでしょうけど」

 気落ちする新にかける言葉を、清霞は持ち合わせていない。

 ただ、今の話で懸念があるとすれば、敵は薄刃の異能──異能者をも倒しうる、人心に作用する異能の持ち主であり、しかも優れた資質の持ち主である、ということ。

 新と戦ったときのことを思えば、そこらの異能者を相手にするのとはわけが違う。

 はっきり言って、清霞にとってはこれ以上ない脅威だ。

「すみません。みっともないところを見せました」

「新さん」

 美世が心配そうに新を呼ぶ。

 そういえば、新がここへ来たのは、堯人の指示だと言っていた。きっと、あの浮世離れした皇子には、新と清霞が甘水直について知る未来がえていたのだろう。

 眉をハの字にして笑いながら、新は猪口ちよこを拾い上げると、

「俺は先に戻ります。お二人は、ごゆっくり。……冷えますから、ほどほどに」

 言い残して、ゆっくりとバルコニーを後にする。

 その背はいつもより、ずっと小さく見えた。



   ◇◇◇



 美世はどうしたらいいかわからず、夜空を見上げた。

 薄刃家のこと。母のこと。忘れたことはないけれど、頭のどこかでは終わったことのように考えていた。

 自分を薄刃家の一員と思うなら、新に何か言葉をかけるべきだったのかもしれない。でも、ほとんど部外者のような美世が言っていいことなど、ないような気もしている。

「美世、寒くないか」

「はい。大丈夫です。……ありがとうございます」

 今夜は暖かいし、着物の上に羽織も着ているので寒くはない。

 身体は平気だけれど、心は複雑だ。それが表に出ていたのか、清霞はバルコニーにもうひとつあった椅子を引き寄せて、美世の隣に座った。

「……難儀だな」

 難儀。言い得て妙だと思う。

 なんだか、次から次へと問題があふれてくる。でも、美世にはそれらをなんとかできるような力はなくて。立場すら、ふわふわと安定しない。

「わたしにできること、何かあるんでしょうか」

 薄刃家は、美世のことを家族として扱ってくれる。普通の親や兄弟を知らない美世を、義浪は祖父として、新は兄のように、大切にしてくれる。

 彼らのために何かしたいのに、自分自身のことで手一杯の美世は、あまりにちっぽけだ。

「別に、あの男はお前に何かしてほしくて話したわけではないと思うが」

「でも」

 清霞の広い手のひらが、ふわり、と優しく美世の頭をでる。

「私なら、お前が厄介ごとに巻き込まれず、無事でいてくれるだけでいい。それが一番の望みだ」

 そんなのは、ずるい。

 美世だって、皆に無事でいてほしい。だから、助けになりたい。半人前の、大それた願いかもしれないけれど。

「大丈夫だ、薄刃は。私もできる限りのことはする」

 少しだけ、清霞はその先の言葉を考え込んだ。そして、慎重に口を開く。

「……お前が、もどかしい思いをしているのはわかる」

「!」

「それを埋めるために努力していることも、わかっている。しかし、お前の望むものが一朝一夕で手に入らないのも事実だ」

「……はい」

 胸の中にくすぶる、もどかしさや焦燥。とっくに見抜かれているそれらが恥ずかしくて、美世は自分の胸元に手をやった。

「美世。お前にできないことは、私がやる。私がお前の代わりに、お前の分まで動こう。それでは、いけないか」

だんさま……」

「お前に任せるべきことは、任せる。お前の手が届かないところは、私が補う。そうやって、私はお前と生きたい。なんでもひとりでするのではなく、助け合い、補い合えば、夫婦で肩を並べてやっていけるのではないか」

 清霞の言葉は一見、ただの慰めのように思える。でもそれなら、こちらを見つめる彼のひとみの奥にある熱は、なんだろう。

(夫婦で、肩を並べて……)

 どうして、この人はいつも、美世の欲しいものがわかるのだろう。

(わたし、どこかでまだ、旦那さまに相応ふさわしい異能の使い手や淑女にならなければ、一緒にいてはいけない気がしてた……)

 この先を、肩を並べて歩いていくなら、早く追いつかなければいけないと焦っていた。それはつまり、なんでもひとりでやろうとしていた、ということかもしれない。

 日々努力している自分を、美世自身が信じていなかった。

「わたし、旦那さまをちゃんと支えられているでしょうか」

 迷いながら、躊躇ためらいがちにしかけない美世に、清霞は淡く微笑んだ。

「ああ、もちろん。お前はとっくに、私になくてはならない存在だ。だから──」

 ゆっくりと、作り物のように美しい婚約者の顔が近づいてくる。

(え……)

 どうして、などと考えている暇もない。互いの鼻先がくっつきそうになって、反射的に強くまぶたを閉じた美世の唇に、一瞬、柔らかく温かいものがかすめた。

 ぼうぜんとしながら開いた目の前には、真っ白な頰をかすかに桜色に染め、穏やかに笑む清霞がいる。

「だから、春になったら……私の妻になってくれるか?」

「は、はい」

「ありがとう」

 きっと、この人のこの笑顔は、一生忘れない。

 まったく働かない思考の中で、ぼんやりと美世はそんなことを考えていた。



 このときほど、自室から出るのがおつくうだった朝はない。

 いつも通り、夜明け前から目を覚ました美世だったが、日が昇り始めるまで延々とベッドの中でもだえていた。

(く、くち……っ! 唇が)

 何度も何度もあの場面がよみがえってきて、そのたびにのぼせそうになってしまう。

 あのあと、どうやってこの部屋まで帰ってきたのかまったく記憶にない。

 ひとつだけ確かなのは、当初のまま二人でひと部屋使っていなくてよかった、ということだ。万が一にも同じベッドで眠っていたら、絶対に心臓がもたなかった。

(で、でも、口づけくらい、婚約者なら)

 当たり前に皆しているはず……ではないのだろうか。

 美世には同年代の友人がいないので、どうにもよくわからない。帰ったら、づきに訊いてみるか? いやしかし、思い出すだけでも顔から火が出そうなのに、状況を口頭で説明するなんて、できそうにない。

(今日、いったいどんな顔で旦那さまと会えばいいの?)

 真っ白な枕に顔をうずめると、無意識にうぅ、と声が漏れてしまう。

 うだうだと悩んでいると、そもそも婚約者同士とはいえ、どうして清霞は口づけなどしたのか、と細かいことまで気になりだす始末。

 美世だって、年頃の女だ。唇と唇の口づけは、想い合う男女がするものだとわかっている。もっと言えば、恋人同士が愛情を確かめ合うための行為。特に未婚の男女の間では。

(わたしは、旦那さまの恋人だった……? いいえ)

 違う。見合いで知り合ったただの結婚相手にすぎない。

 まあ、恋愛結婚などひどく珍しく、多くの夫婦も見合いの結果、愛し合ったり離れたりするわけで。婚約者、夫婦として相手と付き合っていくうちに愛は芽生えるものだろう。

 とはいえ、美世と清霞が愛をはぐくんだ恋愛的な間柄かといえば、答えは否だ。

 そう思うと、わずかに頭が冷えてきた。

(どうして、旦那さまは……)

 まさか、なんとなく勢いで、ということはあるまい。清霞に限って、そんないい加減なことはしないはず。

 ならば、いい加減でない理由があったことになる。

(そうだわ、旦那さまは『妻になってくれるか』とおつしやったもの。きっと、結婚するとはこういうことだと教えてくださったのよ)

 自分で考えていて、違和感しかない。でも、そのくらいしか思いつかない。

 ひとりで浮かれていて恥ずかしい。浮かれたまま清霞の前にでなくて、本当によかった。

 美世はふう、と息を吐き、布団から抜け出すと、やや沈みながら着替えて部屋を出た。


 顔を洗い、洗濯場へ行く。

 いつもやっていることなので、洗濯を手伝おうとすると、なぜかすっかり美世を若奥さま扱いする女中たちに激しく止められた。しかしなんとかお願いして、最終的に参加させてもらう。

 そうこうしているうちに、完全に日が昇って朝食の時刻になった。

「あ、新さん。おはようございます」

 美世が食堂へ行くと、すでに昨晩、客人としてこの別邸に宿泊した新の姿があった。

「おはようございます、美世。……昨日はすみません。おかしな態度をとってしまって」

 少しまゆを下げて言う新の様子は、おおむねいつもと変わらないように見える。

「いえ……。あの、でもわたしにもしできることがあれば──」

「俺のことはいいですよ」

 笑顔で首を左右に振る新に、美世は続けようとした言葉を途中でみ込んだ。

「美世は、自分のことを心配してください。昨日も言ったように、甘水直は君の母親に特別な感情を抱いていた可能性がある。薄刃澄美の実の娘である君にも、何かしようとするかもしれません」

 もちろん、俺もできる限りは守りますが、と冗談めかして付け足す新。

 そういえば、新が美世の護衛になるという話があった。結局、あのときは清霞が譲歩して、護衛ではなく、美世に異能を教える教育係として新を招くことにしたのだ。

 教育係として新が美世といる時間はそれなりに長いので、結果として護衛の役割も果たすことにもなった。

 新いわく、清霞は金払いがいいらしいので、おそらくすべては清霞の考え通りだろう。

「……はい。気をつけます」

「そうしてください」

 普通の笑顔だと思うのに、昨日のただならぬ様子を目にした後だと、新のことがどこか痛々しく見える。けれど、それを口に出すのは躊躇われた。

 美世の困惑が伝わったのか、新は苦笑する。

「本当は、俺は君にずっと家で大人しくしておいてほしいですし、きっと久堂少佐もそう思っているでしょうが──」

「勝手に人の気持ちを代弁しないでもらおうか」

 突然、背後から低い声が聞こえて、心臓が跳ね上がった。

「ああ、おはようございます。久堂少佐。……勝手に、とは言いますが、間違ってはいないでしょう?」

「美世は私の妻だ。私が守れば、何も問題はない」

「妻って。気が早くはないですか? 婚姻の日取りはお決まりで?」

「来年の春、それまでに面倒ごとはすべて片付ける」

 ばちばちと、火花が散る二人の男の間に挟まれた美世は、どうが激しく頭の中は真っ白だ。後ろの清霞を振り返れない。

 それをいぶかしんだのか、清霞が正面に回り込んできた。

「美世、どうした?」

 どうした、ということはない。原因などわかりきっている。

 と、美世に反論などできるはずもなく、至近距離でのぞき込まれたぼうに一瞬でつまさきから頭のてっぺんまでで上がった。

「だん、旦那さま……お、おおおはようございます」

「ああ、おはよう。顔が赤いぞ」

「そそそ、そんなきょと」

 そんなこと、と言おうとしたら、思いきりんでしまった。

 もう、恥ずかしくて死にそうだ。穴があったら入りたい。

 動揺しまくる美世の姿を、新がにやにやと面白がって見ている。

「少佐、昨日あのあと、美世に何をしたんです? 尋常でない様子ですが」

「別に」

 素っ気なく答える清霞。

 美世は両手で火照った両頰を覆い隠したまま、とにかく落ち着くのを待つ。

 話しているうちに、食堂に正清とが揃ってやってきて、会話が途切れた。これ以上、新に追及されたらたまらないので、内心でほっと胸をなでおろした。

 そもそも、どうして清霞がそんなに冷静でいられるのかわからない。

(もしかして、お酒を飲んでいらっしゃったから……酔って覚えていないとか?)

 いやいや、それこそまさかだ。

 清霞の酒の強さは非常識なほどであるし、記憶を失くす性質ではないのでまったくありえない。

 テーブルにつきながら、隣を盗み見る。

(なんだか、昨日のことは夢だったみたい)

 ここまで平常通りに振る舞われると、そう思えてきた。ところが。

 なぜか芙由からちらちらと視線を感じつつ、朝食は粛々と済み、美世が自室へ戻ろうとしたときだった。

「美世」

「は、はい!」

 呼び止められて。振り向く。すると、思ったよりも近くにいた清霞に、美世は驚いて飛び上がった。

「ひぇっ」

 とつに引けた腰を腕で逆に引き寄せられ、頭の中は大混乱だ。さらに、耳元に清霞の顔が寄ってきて、ささやかれる。耳にかかる吐息が気になって、目が回りそう。

「美世。昨日のこと、忘れないでほしい。……あれは、私の気持ちだから」

「え……え、え?」

 気持ち? あれが? つまり、どういうこと?

 大混乱している上に、恋愛経験などあるはずがない美世にはさっぱりわからず、首をひねる。そしてそれは、清霞にもよくわかっていたらしい。

「焦らなくていい。いつか理解してくれれば、今は」

 すっと、密着していた身体が離れていく。

 先に食堂を出ていく背中を、美世はぼうぜんと見送っていた。



(よし、これで荷物はまとまったわ)

 いよいよ、あと少しでこの別邸を出ていく。

 忘れ物がないか確認していると、ここでの滞在期間中に起きた出来事がよみがってきた。

(結局、あのままお義母かあさまとのことはうやむやになってしまった……)

 険悪、というほどではないと信じたいけれど、何も改善はせず、芙由と仲良くしたいという美世の希望はついえてしまった。

 清霞と芙由の関係を引っき回しただけかと思うと、心苦しい。

 やはり、余計なことをしなければよかっただろうか。

 どんよりと暗くなって、ベッドの上に出してある着替えを眺めた。

(せっかくだから着たいと思って持ってきたけれど……ひとりで浮かれていたら馬鹿みたいよね。それに、またお義母さまの機嫌を損ねてしまうかもしれないし)

 ここへ来る前、葉月と買いに行った、淡く紫がかった可愛らしいワンピースにそっと触れる。

 清霞に見てもらいたくて、帰りに着ようかとかばんから出したはいいけれど、勇気が出ない。

 どうするか、とうだうだ考え込んでいると、ふいに部屋の扉がノックされた。

「はい」

「ナエでございます。よろしいでしょうか」

「はい。どうぞ、お入りください」

 美世が返事をすると、静かに扉が開き、ナエが入ってきた。

「若奥さま、お支度を手伝いにあがりました。……けれど、あまり手伝いは必要なさそうでございますね」

 そうだった。つい美世が全部自分でやってしまったが、普通なら使用人に任せるところだったかもしれない。

「も、申し訳ありません」

「いいえ、謝られることではありません。実は、これはその、口実でもありまして……」

「?」

 口実? 何の?

 言いにくそうに歯切れの悪いナエ。首を傾げた美世の耳に、「ちょっと!」ととがめる高い声が飛び込んできた。

「ナエ、それは言うなと言ったでしょう!」

 じりり上げ、扉の陰から姿を現したのは、今日も今日とて豪華なドレスで着飾った芙由だ。

「お義母さま……?」

「もう、その呼び方はおやめなさいと言っているでしょう。誰も彼も、本当に生意気だこと。ちっともあたくしの命令を聞かないのだもの、嫌になるわ」

 とびきり不機嫌そうな表情で、芙由は不平を漏らす。

 もしかして、昨日の事件から、食事時以外でほとんど顔を合わせなかったので、美世への不満が蓄積しているのだろうか。そしてそれを、まとめてぶつけにきたとか?

 虫でも見るような視線とともに近づいてくる芙由に、美世は自然と身構えた。

「帝都へ帰るんですってね? あたくし、心の底からせいせいしてよ」

 予想通り、その形のいい唇から飛び出してきたのは、いつもの憎まれ口だ。

「はい。……あの、申し訳ありませんでした。いろいろと」

「そうね。さんざんな目に遭ったわ。二度とここへは来ないでほしいくらい」

「奥さま」

「ナエ。裏切り者はお黙りなさい。まったく、あなたたちがそこの娘の肩を持っているのは知っているのよ?」

 たしなめようとしたナエの呼びかけを、芙由はばっさりと切り捨てる。

 確かに、この別邸の使用人たちはすっかり美世を若奥さま扱いだ。美世を認めたくない芙由への裏切りというのはその通りだろう。

 ふん、と鼻を鳴らした芙由の視線が、ベッドの上に広げて置いてあるワンピースへと向く。

「これは、あなたの物?」

 内心ではらはらと不安を抱きながら、美世は小さくうなずいた。

「は、はい。そうです……」

「そう、まあ安物ではなさそうね」

 葉月とデパートで購入したものだ。葉月のお墨付きでいい品だが、急に自信がなくなってくる。

「何よ、その辛気臭い顔。信じられないほど不細工でしてよ。清霞さんも、我が息子ながら趣味が悪いにもほどがあるわ」

「申し訳ありません」

 目を伏せて、謝罪を口にする。

 何もできなかった、変えられなかった。そんな自分には、もはや芙由に立ち向かう権利などない気がした。

 今できるのは、これ以上、芙由の心証を悪くしないこと。

 実家にいたときのように、ひたすら謝るだけの自分は情けなくて、どんな悪口を言われるよりもつらく、涙が出そうだった。

 じわりと目ににじんだ水の膜を芙由に悟られないように、うつむく。

「ふん、いい気味ね。……と言いたいところだけれど、またあなたをいじめているなんて、だんさまに怒られてしまうでしょう。めそめそしないでちょうだい」

「も、申し訳ありません」

 急いで涙を引っ込めようとすればするほど、あふれてきてしまう。

(泣いたら、だめなのに)

 ただ謝って、涙を流して。あの頃と何が違うのだろう。

 芙由との関係を変えられなかったように、変われたと思っていた自分すら、実は変われていなかったのだろうか。

 過去は変えられない。芙由の言う通り。だとすれば、その過去の中で培われた自分を変えることもまた、不可能なのかもしれない。

 それは、底なし沼に足をとられたような絶望感だった。

「あなたの謝罪、不愉快でしてよ」

「……っ」

「そんなに謝って、何になるというのかしら。すればするほど、伝わる謝意は薄まるわ。価値のない謝罪などただうつとうしいだけ」

「あ……」

 謝るな、と。

 以前、言われたときのことは、忘れていない。謝罪が軽くなると。また同じ過ちを繰り返していた。

 自分は愚かで、どうしようもない。

「あたくしは、あなたの過去に同情はしなくてよ。それに、その鬱陶しい謝罪も許さないし、無礼で使用人がお似合いのあなたを認める気もないわ」

 芙由の口調は、はっきり、きっぱりとしていた。

 それは彼女の中にある何か──確固たる意思に基づいているのだと思う。彼女は、美世にはない強さのある人なのだ。

 そんな芙由と、もっと打ち解けられたらよかった。できなかったのは、ひとえに美世がないせい。

「でも」

 落ち込みながら、涙がこぼれないよう必死に目に力を入れる美世に、けれども芙由は意外な言葉を続けた。

「あなたは、清霞さんの婚約者としての務めを、正しく果たしていたのでしょうね」

「え……」

 美世が驚いておもてを上げたと同時に、芙由はぱらりと扇子を開いて口元を隠し、視線を明後日あさつての方角へ向ける。

「勘違いしないでちょうだい。あなたは不細工で、礼儀知らずで、みすぼらしい、辛気臭くて、教養もなければ、貧相で、気高さも誇りも、自尊心すら欠片かけらもない、人としても最低限の水準しかないような娘よ」

 ひと息に並べられた悪口に、反応を返すゆとりもない。さんざんな言われようだ。

「でも、あなたは自分に異能があると、あたくしに反論も誇ることもしなかったわね」

 小さな声は、美世の耳まで届かずに消えていく。

 はっと我に返ったように、芙由は甲高い声を上げた。

「清霞さんのために動こうとするその心意気だけは、ぎりぎり、認めてあげてもいいかもしれないくらいには、達しているように、思わなくもなくてよ!」

 美世は思わず目が点になり、はあ、と気の抜けた返事をしてしまった。

 ややこしすぎて、つまり、どういうことだろう……ととつに脳が理解しきれず、ぽかんとする。

 反応の鈍い美世に、芙由は頰を朱に染めた。

「もういいわ! 手をお出しなさい!」

「は、はい」

 わけもわからず両手を差し出すと、掌上に何かとても軽いものがふわりと載せられる。

 その正体は、可愛らしいレースの白いリボン。

 ますます、何が何やらわからなくなる。

「あたくしが娘時代に使っていたものでしてよ。つまり、二度と使わない、時代遅れのごみ同然の安物。あなたには、そのくらいがお似合いだわ!」

「あの、これ、くださるのですか……?」

「そんなわけないでしょう。ごみよ、ごみ。あなた、使用人の仕事が好きそうですものね、捨てておきなさい!」

「でも……」

 リボンは、たいして古びてもおらず、大切にされていたように見える。それに、ここまで繊細に編み込まれたレースだ。決して安物ではない。

 芙由にとっても、今まで大事にとっておいたこのリボンは、ごみなどではないはず。

 戸惑う美世を、ふん、とめつけ、芙由は「いいこと!」とまた高い声を張り上げる。

「それはごみ! ごみよ。あなたがどうしてもそのごみを欲しいというなら、持ち逃げしてもいいけれど、本来は捨てるものなのですからね!」

 再びひと息で言い切り、そのままの剣幕で部屋を出て行ってしまう芙由。

 滲んでいたはずの涙と、心を覆っていった絶望感はどこへやら、美世はぜんとしてその背を見送り、立ち尽くしていた。

 まるで、嵐にでも遭ったかのような心地だ。

「これは、いったいどうすれば」

 手の中のリボンは、芙由いわくごみらしいけれど、美世にはまったくそうは見えなくて、とても捨てられそうにない。

 途方に暮れる美世の声に答えたのは、部屋に残ったナエだった。

「申し訳ございません、若奥さま。おそらく、そのリボンはそのまま受け取られたほうがよろしいかと存じます」

「そう、なんですか?」

「はい。推測ではございますが、奥さまは贈り物のつもりでいらっしゃると思いますので」

 としかさのナエは、ここ数日見ていて、芙由のことを使用人の中では最も理解しているようだし、芙由も口にも態度にも出さないが、ナエを重用しているのがわかった。

 そのナエが言うのだから、間違いはないだろうけれど。

「あの、本当に……?」

 先ほどの芙由の言動のどこに贈り物、という言葉があったのか、皆目わからない。

「奥さまは、若奥さまに何か思うところがあったようでございます。そのリボンはいわば、奥さまは若奥さまを認められたあかし……のようなものでございましょう。受け取らないと、逆に奥さまのご機嫌を損ねることになるかと」

「お義母かあさまが、わたしを……」

 あれだけけなされたあとだ、にわかには信じがたい。半信半疑のまま、部屋の鏡台にリボンを置く。

「若奥さま。よろしければお着替えになったあと、そのリボンで髪を結いましょうか」

「あ……え、っと」

 ナエの申し出は素敵だ。白いリボンは、きっとこの薄紫のワンピースに合うだろう。

 しかし、本当にいいのだろうか。これを渡してきた本人は、再三にわたり、ごみであると強調していたが。

 美世の戸惑いに気づいたのか、ナエは薄く微笑んだ。

「奥さまは、確かに気性の激しい面もございますし、ご自身の気に入らないものには厳しいですが、心根はそう悪い方ではないのです。ただ、素直でない言動が目立ってしまいまして」

「素直でない言動……」

「昨日、若奥さまが村人のために尽力なさる姿を見て、奥さまは若奥さまに感心なさったのでございましょう。直接、口に出されたわけではありませんけれど」

 美世は、先ほどの芙由の言葉を思い返した。

『清霞さんのために動こうとするその心意気だけは、ぎりぎり、認めてあげてもいいかもしれないくらいには、達しているように、思わなくもなくてよ!』

 何が何だかよくわからない言い回しではあったが、落ち着いて考えてみると、美世が清霞のために行動したことは認めてもいい……という意味に聞こえる。

 わかりづらい言葉。一本筋の通った性格。なんだか、少しだけ似ている人を知っているように思う。

(旦那さまとお義母さまの性格、どこか似ているみたい)

 ふふ、とこらえきれず、小さな笑いが漏れた。

 まだ美世が、清霞の家に来たばかりの頃。清霞に冷たくされたこともあった。実際に、そういう噂だって流れている。でも、彼は口下手なところがあるだけで優しい人だ。

 それがわかったら、多少素っ気ない態度も微笑ましく思えて。

 同じなのかもしれない、と考えたら、わずかに心が軽くなった。

「若奥さま。使用人一同も、若奥さまには喜んでお仕えしたい所存でございます。ですからこれきりと言わず、また来てくださいまし」

 まだ淡い、小さな種のようだけれど、希望が持てた気がする。

「はい。ぜひ」

 互いににこりと笑い合ってから、美世は支度にとりかかった。



 玄関ホールには、すでに美世以外の皆が揃っていた。

(や、やっぱり、緊張するわ……)

 初めての洋装。ナエにも「とてもお似合いです」と褒めてもらったが、いざとなるとどきどきと鼓動が鎮まらない。

 着物に比べると洋服は丈も短く、足元の風通しが良すぎるのでこころもとなく、恥ずかしさも尋常でない。

 もじもじと物陰から出られない美世の後ろから、声がした。

「あなた、何をしているの?」

 その優雅な立ち姿は、まぎれもなく芙由だ。彼女も今来たところらしい。

「……緊張してしまって」

「あら、数えきれないくらいのあなたの欠点に、意気地なしも追加しなくてはならないようね」

「…………」

「そのリボン。本当につけたのね」

「あ、はい」

 髪はナエにれいに結ってもらった。

 丁寧にいて、後ろ髪を上半分だけ結い、下半分を下ろした、いわゆるお嬢さま結びにしてもらっている。もちろん、あの、白いレースのリボンを使って。

「まあ、少しはましに見えてよ。仮にも元はあたくしのものだもの、当たり前ね」

「ありがとうございます」

 美世が心からの感謝を伝えると、芙由は「当然だわ!」と言って、そっぽを向く。

 そして、扇子を持っていないほうの手で、不意に美世の背を押した。

「あ……」

 意図せず玄関ホールへ姿を現すことになり、皆の視線が集中して頭が真っ白になった。

「ああ、美世さんは洋装も似合うね」

 最初に、やや軽薄な印象の正清の賛辞が聞こえてくる。

だんさまも新さんもこちらを見てる……)

 視線を移すと、こちらを見つめる二人がいる。美世は自然と足をそちらへ向けていた。

 二人のうち、先に口を開いたのは新だ。

「美世。その格好、とても素敵ですよ。美しくて、可愛らしい。ずっと見ていたいくらいです」

「ありがとうございます……」

 頰が熱い。無意識に、もじもじと自分の両手の指を絡ませたり、ほどいたり。

 うろうろ目を泳がせていたら、清霞と目が合った。その瞬間、彼が優しく微笑む。

「あの、旦那さま。どう、ですか……?」

「ああ。とても、似合っている。可愛いよ」

 喜びと、少しの驚きで、さらに頰が熱くなり、自然と笑ってしまう口元を手で隠す。

(か、可愛い……って)

 清霞が、まさかそんなことを言うなんて。

 褒めてくれることを期待はしていたけれど、まさかそんな言葉をくれるとは思わなかった。すごく、うれしい。

 天にも昇るような気持ちとは、こういうことを言うのかもしれない。

「はあ、まさかあの絵に描いたような堅物の我が愚息が、可愛いって……。芙由ちゃん、これはもう認めるしかないよ」

「あたくし、知りませんわ。あのようなだらしのないにやけ顔で、女を褒めるような息子に育てた覚えはありません。帝国男児が嘆かわしい」

 ひそひそと交わされる会話は、本人たちの耳にまでは届かなかった。


 その後、形式的な別れのあいさつを交わし、最後に正清がそれぞれへ言葉をくれた。

「清霞、結婚式には必ず呼んでね。芙由ちゃんと二人で行くから」

「気が向いたらな」

「薄刃のお坊ちゃんも。今回は全然ゆっくりできなかっただろう? 次は観光で来るといいよ」

「そうですね。温泉に入りにでも来ます」

「美世さん。清霞のことを、頼むね」

「はい」

 自動車に乗り込む美世たちへ、身体に気をつけて、と言った正清に対し、清霞がぼそりと「それはあんただ」とつぶやいていた。

 そうして、ぶんぶんとおおに手を振る正清に見送られ、美世と清霞、新は帝都への帰路についたのだった。




▼新作『宵を待つ月の物語 一』はこちら

https://kakuyomu.jp/works/16818093085173211186

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