五章 迫るものは

 と向き合う。

 心に誓った日の、次の朝。

 きよ、そしてただきよの三人での朝食が終わり、男性陣はそれぞれの仕事へと向かった。

 正清がどこへ行ったのかは美世にはわからないが、清霞は今日も今日とて、怪奇現象の調査だ。

だんさま、くれぐれも無理はなさらないでください」

 玄関に見送りに出た際、そう念を押すと清霞はかすかに苦笑した。

「ああ。だが、それはこちらの台詞せりふだ。お前も、決して無理や無茶はするなよ」

「はい」

 真っ直ぐに彼の目を見て首を縦に振ったのだが、なぜかいぶかしげな表情をされてしまう。

「……本当に、頼むぞ」

「はい。大丈夫です」

「はあ。頼むから、もっと痛みに敏感になってくれ……」

「え?」

 どういう意味だろう。清霞の言葉は、美世には時に難解だ。

 やれやれ、とあきれた様子で清霞が身を翻す。

「いってくる」

「はい。いってらっしゃいませ」

 小さく手を振って、美世は清霞の後ろ姿が扉の向こうに消えるまで見送った。

 扉が閉まると、よし、と気合いを入れる。そして、自分の両頰をぱんぱん、と二回軽くたたいた。

(さあ、お義母かあさまのところへ行かなければ)

 清霞が言うには、ここでの滞在期間はせいぜい残り二、三日ということだった。

 それもそうだろう。彼は隊をひとつ任されている、立場ある人だ。本来なら、こうして直々に調査に赴くのも異例のようだし、何日も帝都を離れていられなくて当然だった。

 けれども、滞在期間があと数日となると、美世が義母と話をする機会も少なくなる。

 初日のあの拒絶のされよう、二日目──昨日のあの様子を思い返せば、自然と気持ちも足取りも重くなってしまう。

 あと二日やそこらで心を開いてもらうなんて、到底不可能な気がした。

(だめよ、しっかりしなくちゃ)

 考えてみれば、まだ挨拶もまともにしていないのだ。このまま帰ったら必ず後悔する。

 ここは、さいもり家とは違う。この家には思いやりや優しさがちゃんとある。それは、使用人の面々を見てもよくわかった。暗い顔をしている者が、誰ひとりいないのだから。

 だからきっと、上手うまくいく。

 なんとか自分に言い聞かせて、美世は芙由の部屋の前に立った。一度、深呼吸をしてから扉をノックする。

「お義母さま、美世です」

 正直に名乗ったら、部屋に入れてさえもらえないかもしれない。でも、美世はこれしか方法を知らなかった。

 すると、意外にも中から「お入りなさい」と返事があった。

「失礼いたします」

 そっと部屋に入って、美世は驚き息をんだ。

 芙由は、ベッドの上にいた。昨日はあれほど元気だったのに、顔色は悪く、表情も沈みきっている。美世に向けられた色の薄いひとみも、すっかり力を失っていた。

「お義母さま、お加減が──」

 悪いのですか、と尋ねようとしたけれど、芙由がそれを遮る。

「何をしに来たの」

「あ、あの、わたしは」

「……笑いたければ、お笑いなさい」

 なぜ、この状況で笑うなんて言葉が出てくるのだろう。

 芙由がいったい何を考え、どんな感情を抱いているのか。理解するには、どうしたらいいのか。情けないことに、途方に暮れるしかない。

「わたし、よくわかりません。おかしいことが何もないのに、笑えません」

「取り繕わなくてもよくてよ。こんなことになって、さぞ気分がいいでしょうから」

「気分がいいなんて……」

 さすがの美世でも気づく。おそらく、芙由は何か勘違いをしているのだ。

 でも、何をどう勘違いしているのかわからないし、その誤解を解く方法も見当がつかない。

 美世は勇気を振り絞って、ベッドに近づく。すると、そばに控えていたナエが「こちらに」とだけ言って、椅子を用意してくれた。

「お義母さま、お加減が悪いのですか?」

「そうね。おかげさまで」

 美世の問いに答えは返ってくるものの、やはり素っ気ない。

「朝食はられたのでしょうか?」

「いいえ。あなたの顔がちらついて、憎たらしくて、気分が悪いのよ」

「……お義母さまは、わたしがお嫌いですか?」

「ええ、世界で一番」

 はっきり言われると落ち込む。

 しかも、世界で一番なんて。どうやったら覆せるのだろう。途方もなくて、泣きそうだ。

「どうしたら、嫌いでなくなっていただけますか」

 こんな間の抜けた質問もない。でも、ほかに何も思いつかなかった。

 芙由はふん、と鼻を鳴らし、そっぽを向く。その仕草は昨日よりも力ない。

「あたくし、あなたのことは一から十まで嫌いでしてよ。改善の余地などないわ」

「そ、そんな」

「あなたのせいで、旦那さまに叱られたのよ。もし嫌われてしまったら──」

「え?」

「とにかく、目障りだから出て行ってちょうだい。余計に悪化しそうよ」

 しっしと手で払われ、美世は内心で焦る。

 まだ、何も解決していない。これでは、芙由が美世のことを嫌いだというだけしかはっきりせず、終わってしまう。それを確認するのも必要なことだったのかもしれないが、それだけでは何も生まれないし、先へ進めない。

 せっかくの機会を、このままふいにはできない。

(もう少し話に付き合ってください、と言ってもだめよね……)

 何より、芙由は具合が悪いのだ。無駄話──ではないけれど、こうして美世がずっとそばで話していたらちっとも休めないだろう。

 なんとかこの部屋に残る方法を、必死に考える。

「何をぐずぐずしているの。あたくしは出ていけと言ったのよ」

 芙由のまなじりがどんどんり上がっていくのがわかる。

 何か、言わなければ。でも、芙由が興味を持ちそうな話題を、と思っても、美世はそんな気の利いたネタは持ち合わせていない。

 もともと、人と会話するのは苦手だ。

 いろいろと知識の乏しい美世ではもなく、話についていけないし、とつに適切な言葉が見つからない。

 たぶん、昔はそうではなかった。でも、話すという機能そのものを長年ほとんど使わずにきたので、衰えてしまったのだ。

(わたしが話術で気を引こうなんて、無謀なんだわ)

 話がだめなら、ほかの手段だ。もはや行動で示す以外にできることはない。

「お義母さま」

「……何か?」

 まだ何かあるのか、と心底嫌そうな顔をされ、くじけそうになる。しかしそこをなんとか踏みとどまり、心を奮い立たせた。

「確か、朝食がまだだと……おつしやっていましたよね」

「言ったけれど。ちょっと、余計なことをされては迷惑でしてよ!」

「余計ではありません。わたし、朝食をとってきます」

 これだ。これなら言われた通りに部屋を出ていきつつ、また戻ってこられる。

 我ながら名案だと、ひそかに自画自賛する。咄嗟に口から出た思いつきだったが、人間必死になれば上手くいくものだ。

 しかし芙由の反応は芳しくない。

「いい加減になさい。あなた、どれだけあたくしを不快にすれば気が済むの!」

「お義母さま……」

 部屋を出ていこうとした足を止め、うつむく。

「その、お義母さまというのもやめてちょうだい。そうやって目上の者の言うことも聞けないのは、あなたの育ちが悪くて、野蛮だからではなくて?」

 芙由の言葉は、ぐっさりと美世の心に刺さった。

 芙由と仲良くなれるように、認めてもらえるように頑張りたい。それは、立派な淑女になるために勉強をしたい、と思ったときと同じくらい、純粋な願いだったけれど。

 その願いをかなえるために行動するのは、ただ嫌がる芙由を無理やり付き合わせているだけの、願望の押しつけなのだろうか。

(わたしの行動は強引で野蛮だった?)

 じわり、と胸の中に迷いが生じる。

 これでいいのか。自分は芙由の嫌がることをする、嫌な人間なのだろうか。

 でも、もうあまり時間もない。このまま引き下がってしまったら、二度と芙由と話す機会はないだろう。そうしたら、美世だけの問題ではなくなる。

(きっと、だんさまも……)

 芙由の行動は全部、清霞のためだ。たとえ清霞にとって、それがありがたいものではなかったとしても。

 愛はあるのに、ろくに話もせずに家族同士でいがみ合うなんて悲しい。

(ちゃんと本音を話せば、上手くいくかもしれないのに)

 美世が芙由に嫌われているせいで、清霞が芙由と向き合う可能性を消してしまうのだけは、避けたかった。

 そもそも、ここへ来ることが決まったばかりのときは清霞の態度もそこまでかたくなではなかった。この別邸に滞在せず、ほかに宿をとることだってできたはずだ。楽観的かもしれないけれど、清霞だって芙由と顔を合わせる機会を前向きにとらえていたのだろう。

 それを、美世の存在が壊してしまった。

(これ以上、わたしのせいで機会をつぶしてしまうわけにはいかないの)

 迷っている場合ではないし、躊躇ためらっている場合でも、ない。でも、今よりももっと嫌われてしまうのも怖い。一歩を踏み出すのが、怖い。

「……わたし」

 ここで引いてしまってもいいのか。怖くて、おびえて、そして現状のまま流されるだけ。これでは何も変わらないのではないか。

 冷や汗がにじむ。震える指先を、ぎゅっと握り込んだ。

「あの、わたし、もっとお話し、したくて」

 気づけば、正直な気持ちを口にしていた。

「はあ?」

「お義母かあさまと、いえ、奥さまと少しでも打ち解けられたら……って……」

 もっと自然に、上手く立ち回れたらよかった。結局、こんな稚拙なことしか言えない自分が嫌になる。

 これではただ、自分が芙由の望むような要領のいい人間でないことをさらしているようなものだ。

(わたしは、馬鹿よ……)

 昨日だってそう。芙由に美世がどれだけ本気なのか、知ってもらおうと頑張った。自分がどんな心持で清霞のそばにいるのか、知ってもらえば話を聞いてもらえると考えたから。

 なぜ、思いつかなかったのだろう。

 余計に嫌われて当たり前だ。だって、芙由は美世の根幹──生まれや育ちといったものが特に気に入らないのだから、美世のことを知れば知るほど嫌いになるのに。

 鼻がつんとして、視界がぼやける。

「……どうしたら、わたしを嫌いでなくなっていただけますか」

「言ったはずよ。改善の余地はないと」

 やはり、芙由の返事は取りつく島もない。ごちゃごちゃと考えても一向に答えは出ず、もはや美世は自身の本心をさらけ出す以外の言葉を持たなかった。

「わたし、もっと頑張ります。旦那さまに相応ふさわしい淑女になるために、努力は惜しみません」

「口では何とでも言えてよ。それに、努力が必ず実を結ぶわけでもないでしょう。仮にも異能の家に生まれたからには、十分身に染みているわね?」

「それは……はい」

 努力ではどうにもならない、その筆頭が異能だろう。

 持って生まれたものがなければ、その先、何をしようが認められることも、成功することもありえない。愛されることさえも。

 そんな残酷な世界は、美世にとって最も身近だった。

「過去は決して変えられなくてよ。気持ちだけあっても、意味などないわ」

「……わたしは」

 気持ちだけではない。言い返そうとしても、凍りついたようにのども、舌も、唇も動いてくれなかった。

 美世はどこまでも未熟で、出来損ないだ。学んでも学んでも、満足にはほど遠い。過去は変えられずともあなたを満足させてみせる、なんて口が裂けても言えなかった。

 それこそ、口先だけになってしまう。

「あたくし、あなたが何をしようと認めるつもりは一切ないの。認められたければ、生まれる家、親、育ち。すべてをやり直してから出直してちょうだい」

「…………」

 それは、美世のすべてを否定し切り刻むやいばであり、強すぎる拒絶を示す高い、高い壁だった。


 落ち込みきって芙由の部屋を出た美世を、ナエが追いかけてきた。

「若奥さま」

「……わたし、若奥さまにはなれそうにありません」

 いや、当主である清霞の意向が絶対だから、『若奥さま』という肩書は手に入れられるだろう。けれど、そんなものに意味はない。

 ずっと我慢していた涙がひと粒、転がり落ちた。そのことに、驚いてしまう。

(どうして、涙が出るの)

 自分は傷ついてなどいない。もっとひどいことを、実家にいた頃はさんざん言われてきたではないか。今さら、どうして。

 脳裏によみがえるのは、清霞のあきれた声。

『頼むから、もっと痛みに敏感になってくれ』

 痛みに、敏感に。

(わたしは、痛いの?)

 胸に手をやって、自問する。

 慣れた、と思っていた。でも本当は、気づかなかっただけでずっと、痛かったのだろうか。

「若奥さま……」

 ナエの心配そうな声に、はっと我に返った。

 いけない。ぼうっとしている暇は、今の美世にはない。

「ナエさん。あの、昨日のようにわたしに何か、仕事をください」

「そんな。いけません」

「お願いします」

 美世は芙由から逃げてしまったのだ。解決策は、見つからない。ならばせめて、できる仕事はしたかった。

 それさえしなかったら、もうこの別邸に美世の居場所はない。

 ナエはわずかに迷う素振りを見せてから、観念したようにまゆを下げた。

「では、今日はお掃除とお洗濯を手伝っていただけますか」

「はい。着替えてから、すぐに参ります」

 美世は部屋に戻り、昨日の仕着せに着替えた。

 気を引き締めるために、いつにもましてきっちりと固く髪を結い、たすきをかける。

(痛くなんかない。わたしは、傷ついてなんかないわ)

 よく、自分の心に言い聞かせる。そうしないと、気力を全部失ってその場にへたり込んでしまいそうだった。

 昔は、どんなに心をばらばらに砕かれても涙は出ず、身体は自然に動いた。でも今は、目の前が真っ暗になって、一歩も動けなくなってしまう。

 前よりも、弱くなったのか? 否。

(きっと、今のわたしが幸せだから)

 幸福を知った。温かさを知った。だから、昔の何倍もつらくなる。

 美世はそのあと必死に自らを奮い立たせて、懸命に仕事に励んだ。傷から、問題から目をらし、ひたすら没頭した。

 けれど、忘れようとすればするほど、胸は鉛を飲み込んだように重くなる。

 一日黙々と働いて過ごし、夕刻。帰宅した清霞を出迎えれば、沈みきった気持ちはあっという間にばれてしまった。

「また何か言われたのか」

「……平気、です」

「答えになっていない」

 清霞に心配をかけたくない。しかし誤魔化しきれなかった。

 深いため息を吐かれてしまった。

「……怒らないで、聞いてください」

「またそれか」

 美世は芙由とのやりとりを洗いざらい話した。清霞は、美世が望んだ通りに口を挟まずに黙って最後まで話を聞いてくれた。

「美世。私は、どうしたらいい」

 清霞の言葉に、は、と顔を上げる。こちらを真っ直ぐに見下ろす彼のひとみは、とても静かで憤りなどは伝わってこない。

 美世が怒らないでほしいと、好きにやらせてほしいと願ったからだ。

「……旦那さま」

 自分で何とかしたい。意気込んでおいて、このざまだ。情けなくて恥ずかしい。

 もう、清霞に頼ってしまおうか。そうすれば、解決はしないかもしれないけれど、傷つくことはなくなるだろう。つらい思いをしないで済む。彼が、守ってくれるから。

(それで、いい? 後悔しない?)

 美世は、強くない。この瞬間にも、逃げたくて仕方ない。そして、たとえ逃げ出したとしても、誰も美世を責めたりしないだろう。

 腰が引ける。芙由と美世は同じ人間であり、女性であるという以外は何もかもが違いすぎて、永遠に分かり合えないのではないかとひるまずにはいられない。

 しかし、美世の首は勝手に左右に動き、口は勝手に答えを述べた。

「何も、しないでください」

「いいのか」

「まだ……頑張れ、ます」

 言ってしまってから、でも、と続ける。

「もし、苦しくて、悲しくて、どうしようもなくなったら──」

「私が守ってやる。泣いてもいい。だから、後悔しないようにぎりぎりまで頑張ってみろ」

「……はい」

 この人がいれば大丈夫。前のように、自分の心さえ失くしてしまうことはない。

 だから、もう少しだけ。もう少しだけ、あきらめずにいたい。



 芙由と顔を合わせる機会が巡ってきたのは、幸か不幸か、全員が一堂に会した翌日の朝食の席だった。

 美世と清霞が別邸にやってきてから初めて、芙由が食事の席に姿を現したのだ。

「やあ、まいはにー。具合はもういいのかい?」

 正清が陽気に声をかけるが、芙由はいちべつしただけだった。

 美世の隣に腰かけた清霞は、一見、まったく動じていない。美世だけが、緊張で身を硬くしている。

「お、おはようございます。お義母かあさま」

 思い切ってあいさつをしてみる。しん、と沈黙が落ちた。

「その呼び方、やめなさいと言ったでしょう。朝からやかましくてよ。品がないったら」

 手厳しく返され、美世は少しだけ縮こまる。居たたまれないけれど、もしかしたら無視されるのではないかと思っていたので、安心する。

 それが顔に出ていたのか、嫌そうに眉をひそめる芙由。

「何をにやけているの。気色悪い」

「も、申し訳ありません」

 それきり、再び沈黙に包まれた。

 美世にはまた話しかけたい気持ちもあったが、どうしても昨日を思い出してしりみする。男性陣はすっかり静観に徹していた。

 ただ、朝食が並べられる小さな音だけが響く。

「では、いただこうか」

 正清のかけ声で、各々、食事を始めた。

 今日の朝食は、ふかふかのバターロールに、オムレツと焼いたベーコン。蒸した野菜のサラダ、きのこのポタージュという相変わらず豪華な献立だった。

 この家の食事が洋風なのは、どうやら芙由の好みらしい。

 とはいえ、身体の弱い正清がだいたいいつもひとりだけ違う献立なので、芙由の希望に沿うしかないのかもしれないが。

 美世は食事を口へ運びながら、芙由の様子を盗み見る。

(お義母さまはやっぱりとても、れいな人)

 顔かたちはもちろん、仕草や立ち居振る舞いも。

 美世から見ればやや派手なところもあるけれど、お手本にしたい人であることは間違いない。

 美世は何の含みもなく母と呼べる人ができることが、本当はとてもうれしかったのだ。

 だから、かつのごとく嫌われていてもなかなかあきらめられない。

(どうやって話を切り出そう……)

 このままでは、何も起こらずに食事の時間が終わってしまう。部屋に行けば芙由の機嫌をさらに損ねてしまうし、次の食事のときにもまた芙由が出てくるとは限らない。

 そうしたら、そのままここでの滞在期間が終了してしまう可能性もある。

「お義母さま」

 ど、ど、ど、と自分の心臓の音ばかり聞こえる。

 呼びかけただけなのに、どうしようもなく緊張していた。

「あなた、本当に学習能力がないわね。呼ぶなと何度言わせるの」

 緊張しすぎて、肝心の芙由の言葉も今はあまり刺さらない。

 食堂内は緊迫した空気が漂う。しかしそれを気にしている余裕もない。

「あ、あの、あとでまた、お部屋に行ってもいいですか」

「嫌よ」

「わたし、お義母さまから教わりたいことが、たくさんあります。お義母さまは、すごく立派な淑女だから……あの、わたしもそうなりたくて、それで」

「おだてても許さなくてよ」

 別に美世は誉め殺しを狙っているわけではなかったが、芙由にはそう思えたようだ。

 どうしたら、本気だとわかってもらえるだろう。一瞬、会話が途切れると正清が穏やかな声音で「まあまあ」と割って入った。

「いいじゃないか。教えてあげれば」

だんさまは黙っていてくださる? そんなことまで指図されたくなくてよ」

 弱っていたのが噓のように、芙由は正清の言葉をばっさりと切り捨てる。

 昨日話していたときは、嫌われたくない……というようなことを言っていた気がしたが。たぶん、気のせいだったのだろう。

「そうか。ごめん」

 正清はしょんぼりと肩を落とした。

「これ以上は、時間の無駄ね。あたくし、失礼させていただきますわ」

 芙由はゆっくりとカトラリーを置き、立ち上がる。皿の上の朝食は半分ほど残っていた。

「あ、待ってください……!」

 追いかけようと腰を浮かせたものの、料理を残してしまうのが申し訳なくて躊躇ためらう。その間にも、芙由は食堂から出ていこうとしている。

 けれど、その時だった。

 食堂の扉が開き、焦った様子のささが飛び込んできたのは。



   ◇◇◇



 場の空気は、それまでと別の緊迫したものにさっと切り替わった。


 昨日はあれだけ傷ついて、涙を浮かべていた美世が芙由に立ち向かっていく姿はどこか誇らしく、どこか寂しい。

 側で聞いていて感傷的になっている自分に苦笑するほかなかったが、そんなふうにのんびりしている場合ではなくなったようだ。

 青い顔で食堂にやってきた笹木は、何事かを正清に耳打ちし、正清は落ち着いてそれにうなずきを返す。

「いったい、何事だ?」

 清霞が冷静に問うと、珍しく真剣に正清が答えた。

「村が大騒ぎになっているみたいだ。村人のひとりが助けを求めてここへ駆け込んできたとか」

「すぐ行く」

 清霞が席を立つと、険しい表情で正清も続く。

 昨日も村へ調査と見回りに行ったが、相変わらず入れ違いなのか廃屋に人はおらず、空振りに終わった。それにまだ、中央からは何の指示も来ていない。

 捕虜の尋問もすでに行き詰まりとなり、昨日は本当に何も進展がなかった。

 しかし、何か動きがあったとなると、こちらも動かないわけにはいかない。

 玄関ホールへ向かう道すがら、笹木に確認する。

「笹木、具体的に何があったか、聞いているか?」

「いえ。ですが、どうやら朝方に何かあったと……。鬼がどう、ということですが」

「鬼か」

 まただ。正体不明の鬼の目撃情報。騒ぎになっているとは、今度はいったい何が起こっているのだろう。

「清霞。村へ行くのかい」

 背後から問われ、清霞ははっきりとうなずく。

「状況にもよるが」

「そう」

「もしかしたら、この屋敷も危なくなるかもしれない。そのときは」

「うん。約束した通りだ。守りはこちらに任せてほしい」

 なにしろ、いまだ推測の域を出ないが、相手は異能に関係するであろう、未知の組織である。何をしてくるか、見当もつかない。

 軍人としてここへ来ているからには、清霞は私情を優先することはできない。

 ほぼ間違いなく、正清の力を借りることになる。人間性という点では清霞は実の父親を信じていないが、異能者としての彼の実力は本物だ。

 玄関ホールにたどり着くと、隅に置かれたソファに村人の姿があった。

「あれは……」

 村の若者だろう、見覚えのある後ろ姿だ。

 あちらも近づいてくる清霞たちに気づいたのか、慌てて振り返った。

「た、助けてくれ……軍人さん」

 村人はやはり先日会った、最初に鬼を見た男だった。

「何があった」

「鬼が、鬼が出たんだ! 仲間が食われた」

「待て、落ち着いて話せ」

 男の話を整理すると、こうだ。

 村人たちの噂への不安はいよいよ限界に達し、男や商店の女が止めるのも聞かず、男衆で集まって夜明け前に廃屋を壊しに行ったらしい。

 ──大人数ならばなんとかなると踏んで。

 しかし、いたのは大きな鬼だった。男が以前見たときと同じ姿の鬼だ。

 鬼の動きは素早く、男たちは次々に襲われ、そのとがったきばを身体に突き立てられた。けれども、襲われた男たちに特に外傷はなく、外見にも変化はない。

 子どもだましかと男たちは笑ったらしいが、それはすべて間違いだった。

「時間が経つにつれ、皆がおかしくなったんだ。わけのわからないことを言って暴れだしたり……! あれは魂を食われたとしか思えない!」

 鬼の怖ろしさを、ひとりではないから、変化がないからといって笑う気になれなかった男は、必死に逃げたという。

「けど、俺も逃げる途中で足を……。もうだめかもしれない」

「落ち着け。おそらくそれは、魂を食われたわけではない。お前は、ここで少し休め」

 よく頑張った、と清霞は男をねぎらった。

 先日はあれほどおびえていたのに、今は震えてはいても恐慌状態に陥っていない。きっとこの男は、ひどく村思いなのだ。

「頼むよ! このままじゃ、村が」

 必死に言い募る男。──だが、その動きが急にぴたりと止まった。

「どうした?」

「あ、ああ……うがあああ!」

 うなった男は白目をき、頭を抱える。明らかに様子がおかしい。

 清霞は軽く息をんだ。

(鬼に食われるとこうなるのか?)

 いや、魂を食われたのだと男は言ったが、普通はこうはならない。何か、根本から一般的な怪奇現象とは違っている気がした。

「これはいったい、どうなっているのっ!」

 異様な空気が満ちる玄関ホール。そこへ、やってきた芙由が金切り声を上げた。その後ろには、不安げに顔を曇らせた美世もついてきている。

「芙由ちゃん。ここは危ない。部屋に戻っていなさい」

 正清が警告するも、芙由はまったく納得する気配がない。

「旦那さま、なんですの。これは! 説明を求めますわ!」

 彼女の厳しい視線は、もがき苦しむ村人の男へと注がれている。

 面倒なことになったと、清霞はみした。

 この、気位の高い生粋の令嬢である芙由が、屋敷の中に農民を招き入れること自体、承知するはずがない。そもそもそんなことに構っている場合ではないというのに。

 すぐにでも村へ行かねばならないが、ここをこのままにしておいていいのか。行動を躊躇う清霞に静かに近づいてきたのは、美世だった。

「旦那さま、あの、これは」

「村人を鬼が襲ったらしい。私は今すぐ村へ向かう。……美世」

「はい」

 こちらを見上げる婚約者のひとみは、少しも揺るがない。そして、すでにすべてを見通しているかのように、うなずいた。

「この方の面倒を見るのは、任せてください。だんさまは早く、村に」

 ああ、母とのことで不安がっていた彼女はいったいどこへ行ったのだろう。今の美世は、こんなにも頼もしい。

 清霞は一瞬、目を伏せた。

 彼女は日々、成長している。もう、清霞の守りなど必要ないくらいに。いつか、大きな翼でもって、自由な世界へ飛び出していくのだろう。

(そうなったら、おそらく私は)

 父の言う通りなのかもしれない。愛というものが、もう誤魔化せないほど大きく、清霞の心に芽生えているのかもしれなかった。

 けれど、その答えを出すのは今ではない。

 清霞は真っ直ぐに、美世の澄んだ瞳を見返した。

「頼む。……美世、危ないことは絶対にするな。戦いは父に任せておけばいい」

「はい。無理はしません。旦那さまこそ、お気をつけて」

 ああ、と返事をして、美世の額に自分の額をくっつけた。

「だ、旦那さま」

 必ず、一切合切を片付けて、速やかにここへ戻ってくる。このぬくもりを、忘れないうちに。

「いってくる」

 清霞は身を翻し、振り返ることなく村への道を急いだ。



   ◇◇◇



 婚約者の背を見送る。


 美世にできることは多くない。いや、ほとんど何もない。清霞がそばにいなくて、不安にだってなる。でもこうして見送ることが、美世の役目だ。

 扉が閉まると、美世はすぐさま村人の男性に駆け寄った。

「美世さん、待ちなさい。むやみに近づくのは危険だ」

 すでに男性の傍らにひざをつき、様子をうかがっていた正清が言う。

 男性は、もうほとんど意識がないようだ。時折、うめき声を漏らしながら、ぐったりと力なく横たわっていた。

「近づかないと、何もできません」

 正清の言葉にそう返しながら、少しも躊躇ためらうことなく同じように膝をついて男性の顔をのぞき込んだ。

 医者ではないので、男性のどこが悪いのかは美世にはわからない。しかし、ここでこのままにしておくのが良くないのはわかる。

「とりあえず、どこかに場所を移しましょう。……ナエさん、一階の空いている客間にこの方を寝かせられるでしょうか」

「ご用意いたします」

「お願いします」

 近くで控えていたナエに頼むと、彼女は強くうなずいて、てきぱきと他の使用人たちに指示を出し始めた。

 美世は次に、正清を振り返る。

「お義父とうさま。客間を使って、よろしかったですか?」

「もちろんだよ」

 快く首を縦に振り、男性は自分が客間まで運ぼうと申し出る正清。

 けれども、それに納得していない人がいた。

「ちょっと、お待ちなさい!」

 甲高い、よく通る芙由の声が玄関ホール中に響き、慌ただしく動き始めていた全員が、彼女に注目する。

「そんな、そこらの農民を受け入れるなんて、あたくしは許さなくてよ!」

「お義母かあさま」

「もし、そうやって倒れた原因が何かの流行はやり病だったりしたら? この屋敷の者は全滅よ」

「それは……」

 確かに、彼女の言い分には一理ある。

 美世も、おそらく正清も、この男性が急に倒れてしまった原因を知らない。下手に受け入れることで、被害を拡大してしまう可能性も十分にあった。

 だが、こんなことでめている場合でも、ない。

 美世は腰を上げると、芙由と正面からたいする。

「お義母さまのおっしゃることも、もっともです。でも、いつまでもこうしているわけにもいきません」

「あなた! だいたい、どうしてあなたが仕切っているの? あなたには何の権限もありはしないわ。勝手なことをしないで!」

 まゆじりり上げ、芙由が叫ぶようにわめく。彼女は一昨日と同じく、ひどく感情を高ぶらせているように見えた。

 けれど、ここはどうしても引けない。

「はい。わたしには何も権限なんてありません。でも、旦那さまと約束しました。この場は任せてくださいと」

 みすみす家を危険にさらすこと。この行動が、正しいか間違っているかは美世にとって問題ではないのだ。何かを託されたのであれば、それをちゃんとこなすのが妻の役目だと思うから。

 少しだけ自分よりも上にある芙由の目を見て、美世は言い返す。

 昨日は何も言えないまま引き下がるしかなかったが、今はもう夢中だった。

「そんなに面倒を見たいなら、余所よそでやってちょうだい! この屋敷の女主人はあたくしよ」

「わたしだって、旦那さまの婚約者です!」

「!」

「旦那さまが、後方に憂いなく存分にお仕事に向き合えるよう支えるのが……わたしにできる、わたしの役目なんです。わたしは、それを全うしたい」

 清霞は異能者だ。異能者は国に兵器として使われる。どんな危険な戦いにだって、命じられたら行くしかない。

 ──彼を支えるために、できることはなんだってする。

 これが、美世の覚悟。誰にも譲れない。

「芙由ちゃん。主人たる僕が、許可を出したんだ。そこまでにしないか」

「どうして! あたくしは間違ったことは何も言っていませんわ」

 そう。芙由の役目はこのどう家別邸と、そこにいる人々を守ること。だから何も間違っていない。素性もよくわからない村の人間を受け入れないのは、当然の対応だろう。

 美世は頰を緩ませ、芙由に微笑みかけた。

「はい。ですから、全部わたしがやります。お義母さまはお部屋にいてください」

 美世の言葉に芙由は目を丸くする。

「な……! あなた、そこの者と一緒に隔離されるとでも言うの?」

「お義母さまがそうしろとおっしゃるなら」

「ば、馬鹿を言わないでちょうだい! あなたは女でしょう。病人とはいえ、殿方と二人きりになんて許さなくてよ!」

「え」

 今度は美世が驚く番だった。

 芙由が今言ったことは、どういうことか。これは美世の勘違いだろうか。

「……お義母さま、心配してくださるのですか?」

 ややぼうぜんとしながら問えば、さっと芙由の頰が朱に染まる。

「そ、そんなわけないじゃないの! 簡単に婚約者以外の殿方と二人きりになるようなふしだらな女は論外だと思ったまでですわ!」

「あ……」

 芙由の言う通り、美世の発言は淑女としての慎みに欠けていた。

 それを心配してくれた、なんて勘違いをして恥ずかしい。

「わかればいいのよ」

 落ち込む美世を見て、芙由はふん、と鼻を鳴らした。

 その後、客間へ移された男性はほどなくして完全に意識を失ってしまった。

「これはまずいかもしれない。呼吸も浅いし、心音も小さい」

 男性の様子をひと通り確かめ、多少医学の知識を持つという正清がそう見立てる。

 美世は今もたまに苦しそうに身じろぎする男性の額の汗をぬぐってやることくらいしかできない。けれど、正清はそれでもいいと言った。

「原因がわからないことには、対処のしようもないからね。君が見ていてくれれば、異変があったときにすぐわかるし、ありがたいよ」

「でも……」

 このままでは、命も危ういのではないか。

 原因はきっと今頃、清霞が探っているだろうが、あとどれくらいかかるかわからない。それまで、この男性の命がもつ保証はどこにもない。

 正清の言う通り、男性の呼吸はこうしている間にもどんどん弱くなり、すぐにでも止まってしまいそうに思える。

 不安でベッドから目を離すことができない美世の肩を、正清が小さくたたく。

「美世さん、焦ってもしかたないよ」

「……はい」

 答えながら、頭の中には一瞬ある考えがよぎっていた。

 この男性の命を救う方法だ。意識がないのなら、美世の異能で彼の中へ潜り、内側から働きかければ目を覚ますのではないか、と。

 美世は現在、づき従兄いとこあらたから異能のことや使い方を学んでいる最中だ。

 普通の異能者は幼い頃から自然と異能と向き合っているので、息をするように己の力を使いこなせるが、美世はそうではない。まずは自分の異能を認識しなければならず、今も修行中の身。いまだ、異能者として未熟な腕前だった。

 人の心へ干渉するうす家特有の異能は、とても危険だ。操作を誤れば、人の精神を容易たやすく破壊してしまう。

 新からは、絶対に自分ひとりの判断で故意に異能を使ってはいけないと、強く言い含められている。以前、目覚めなくなってしまった清霞を助けられたのは、まぐれに等しい奇跡だったからと。

 下手をすれば、男性を目覚めさせるどころか、美世も目覚めなくなってしまうかもしれない。

(だめよね……。もしも失敗したときの不利益が大きすぎるもの)

 だいたい、正清も原因がわからないと言っていた上に、鬼に魂を食われたなんて言う話もあるから、夢見の力を使ったら最後、何がどうなるか見当もつかない。

 実行に移すのは、あまりにも無謀。

「しかし、清霞の言うように鬼に食われたというのは、疑問が残るな」

 あごでながら正清はつぶやき──が、急にはっとして厳しい視線を巡らせた。

「何か、来たね」

「え?」

 何のことか、と美世は首を傾げる。正清はふう、と息を吐いて、弱弱しく微笑んだ。

「誰か……客が来たみたいだから、僕は出迎えに行ってくるよ」

 こんなときに客とは、いったい誰が。そしてなぜ、ここにいてそんなことがわかるのか。

 疑問が口から出かけたが、尋ねるのはやめた。どことなく、正清の様子がおかしいように感じたからだ。

「美世さん、清霞も帰ってきて全部済んだら、君たちが帝都に戻る前に、皆で美味おいしいものでも食べよう」

「? ……はい」

 正清は美世の肩をぽん、ともうひとつ叩くと、部屋から出ていく。

だんさま、いったいどこへ」

 なぜか部屋の前にいたらしい芙由の声が聞こえてきた。

「ちょっとね。芙由ちゃん、そんなに気になるなら部屋の中に入ればいいじゃない」

「なっ……気になってなどいません」

 これには何も答えず、正清は笑いながら去っていく。すると、嫌々、というふうに入れ違いで芙由が部屋に入ってきた。

「あなた、本当に看病なんてしているの?」

「はい」

 美世はベッドに横たわる男性から目を離さず、返事をする。

 逃げるわけではない。でも、今は非常時だ。芙由と言い争ったり、落ち込んだりしている場合ではない。

「そこまでして、清霞さんの気を引きたいの?」

 芙由の声はこれまでにはなかった迷いを、わずかに含んでいた。

「わたしは」

 気を引きたいのか、とかれたら、否定はできない。いつだって、美世は清霞に褒められたいし、清霞の隣に並ぶに相応ふさわしいと心の底から認めてほしいと思っている。

 でも、それがすべてではないのもまた、事実だ。

「わたしは旦那さまの役に立ちたい。婚約者という立場に甘えたくはないんです。できることからひとつひとつしていって、いつか、胸を張って堂々と旦那さまと並び立てるように」

「…………」

「だからもし、わたしにできることがあるなら」

 美世はそっと意識のない男性の手をとった。手首に指の腹を当ててみると、脈はすっかり弱くなり、呼吸もさっきからずいぶん浅く、間隔が空く。

 刻一刻と男性の命が失われているのは、素人目にも明らかだ。

 ──もうあまり、猶予はないのかもしれない。

「……命までも、かけられて?」

「はい。かけます。旦那さまのためなら」

 いっさいの迷いなく、美世は間髪をれずに答えた。

 今もきっと清霞は危険な戦いに身を投じている。あの村と人々を守るためだ。清霞なら守り抜けると信じている。

 でももし、この男性がここで命を落としてしまったら。あの村の人々の怒りは清霞に向くだろう。他のすべてを守ったとしても。

 やはり、このまま見ているわけにはいかない。

「……お義母かあさま」

「何よ」

「わたしが、この人を救います」

 心は決まった。新との約束は破ってしまうけれど、できることがあるのにぼうっとしてはいられない。

 芙由は不可解だという顔で、美世をにらむ。

「何の力もないあなたが? どうやって?」

「手は、あります。……わたしが、異能を使います」

 意味がわからない、馬鹿にしているのかと顔をしかめる芙由を、美世はようやく振り返った。

「あなた、異能は持たないのではなかったの?」

「はい、前までは。でも、わたしはこれでも……薄刃の家に連なる人間です。この人の意識の中へ入り込めば、意識を取り戻させられるかもしれません」

「薄刃……意識に入るって──」

「お義父とうさまもおっしゃっていました。意識さえ取り戻せば、もう少し容態が安定するだろうと。わたしの力なら、きっと」

 あとは美世が失敗しなければいい話だ。もちろん、自分が未熟者であることは重々承知している。失敗しなければいいだけ、なんて、簡単に言えない。

 上手うまくいかなかったときのことを考えれば、じっとりと嫌な汗がにじむ。

 これは、正真正銘の命がけの策なのだ。

「聞くだけで危険そうだけれど」

「はい。……正直に言うと、無謀だと思います。わたしはまだ──異能に目覚めたばかりで覚束ないですし」

 芙由は何とも言えない表情を、持っていた扇子を開いて隠した。

「お義母さまは、おっしゃいましたよね。気持ちだけでは、どうにもならないと」

「言ったわ」

「わたしもそう思います。だから、行動で示させてください」

 ぐ、と芙由のけんに深いしわが寄る。

「あたくしは別に、あなたに危険なけをしろと言ったわけではなくてよ」

 なんだか、芙由らしい物言いについ笑いがこみ上げた。これから、無茶なことをしようとしているのを忘れそうだ。

 彼女が、美世に対して、危険を冒してまでも覚悟を見せろと言ったわけでないことくらいは、理解している。そもそも、これはそういう問題ではないからだ。

(だからこれは、わたしの意思)

 何も持たない自分だけれど、もう一歩も動けずに立ち止まっていたくない。

「はい。ですから、お義母さまが責任を感じる必要はありません」

「……そういう意味で言ったわけではなくてよ」

 小さな芙由の呟きは、美世の耳に届く前に、消えた。


 美世は、あらためてベッドに向き直ると、震える指で男性の手首を軽くつかむ。そして、目を閉じた。

 この閉じたまぶたを開くことは、二度とないのかもしれない。失敗したら、そうなる。清霞にも会えない。あの家にも帰れない。

 ──怖い。

 でもそれを、今は必死に胸の奥に押し込めた。

(動揺やちゆうちよは、異能の発動に支障をきたすから……落ち着いて)

 習ったことを思い出す。

『いいですか。異能を使うときは平常心です。でないと、効果が安定しませんし、最悪の場合は発動に失敗します』

『そして、異能が強力であればあるほど、失敗したときはひどいことになります。自分を含め、人死にが出ることは覚悟しなければいけません』

『はっきり言って、以前、君の異能が問題なく使えたのはまぐれです。己の力を過信しないように。ひとりの判断では、絶対に使わないでください』

 従兄の声が、脳裏に響く。まるで、言いつけを破る美世をとがめるように。

 でも、こういうときのために、異能を使えるようにと備えてきたはずだ。使わなくてはいけないときに使わないのは、ありえない。

 大丈夫、きっと上手くいく。

 意識して、呼吸を深くする。自分自身をどんどん深くへ沈めて、真っ暗な、上も下も前後左右もわからない世界へ潜っていく。

 すると真っ暗闇の中に、ややあって意識と意識がつながったその境界線、っすらとか細い糸のような線が見えてきた。

 これを踏み越えれば、この先は自分でない、他者の心の中。

 実体を持たない、ふわふわとした身体に力を入れる。ごくりとつばみ込み、美世は一歩を踏み出して──。

(え?)

 急速に身体が意識の世界から現実の世界へと浮き上がり、戻っていく。あと少しで届きそうだった境界の先が、ぐんぐん遠ざかる。

 五感のうち、最初に戻ってきた聴覚が、聞き慣れた声を拾った。

「美世、やめなさい!」

「……え」

 すべての感覚が戻ってくると、ずっしりとした肉体の重みがのしかかる。冷や汗が、ぶわりと肌に滲む。

 美世の身体は今、がっしりとした男性の腕の中にあった。目の前にある美しい顔は、まぎれもなく美世の従兄いとこ、薄刃新のものだ。

「何をしているんですか、君は! どうして約束を破るんです!」

 新は激怒していた。いつもは柔らかな笑みを浮かべている顔を、怒りでゆがませている彼は初めてだ。

 もやがかかったような頭で、美世はどうでもいいことを思う。

「どうして、新さんがここに?」

「そんなことは、どうでもよろしい。俺は君に怒っているんです。あれほど勝手に能力を使うなと言ったのに」

 新の腕に支えられていた身体をゆっくり起こすと、強烈な眩暈めまいが襲ってくる。

 頭痛にさいなまれながら、美世は首を傾げるしかない。

 どうしてここにいるのかわからない従兄に、同じく困惑した様子の芙由。

 半開きになった扉の向こうにはナエたち使用人の面々が、こちらもどうしたらいいか、と混乱しきった表情で立っている。

「美世、聞いていますか?」

「あ、は、はい」

 とりあえず、うなずいておく。すると、あきれたようにため息を吐かれてしまった。

「とにかく、間に合ったようでよかったです。……まったく、たかいひとさまはこのために俺を?」

「え?」

「俺は堯人さまの指示でここに来たんです。理由はよくわかりませんが」

 新は美世に合わせて床にひざをついていたが、美世の手を引いて立ち上がる。

 栗色の癖毛はらしくもなく少し乱れていて、身につけているシャツとジャケットも心なしかくたびれている。相当慌ててやってきたようだ。

 美世はふらつく足をなんとか踏みしめて、転倒を免れた。

「……あなた、人の家に勝手に上がり込んで、いったいどこの誰ですの?」

 新の背後から、芙由の硬い声が聞こえた。そちらへ視線を移すと、警戒心をあらわにして芙由が新を睨んでいた。

 けれども、そんな不審者を射殺しそうな芙由の目などものともせず、新はいつもの人好きのする笑顔で実に堂々と返す。

「初めまして。薄刃新と申します。従妹いとこの美世がお世話になっております」

「薄刃ですって……!?」

「ええ」

 新がはっきりとうなずいた途端、みるみる芙由の顔色が悪くなる。

「どうして」

 どうにも以前の一件以来、薄刃家が身近な存在となっていて忘れていたけれど、本来あの家はの対象だ。人心を操る異能者など、恐怖や不気味以外の何物でもないだろう。

 美世が薄刃の名を出したときはあまり実感がなかったらしい芙由も、この、見るからにただものでない薄刃家次期当主には動揺を隠せないようだった。

「どうしても何も。さっきも言ったように、俺は堯人さまに遣わされただけですので。……ただ、勝手に侵入したことについては弁明のしようもありません。申し訳ありませんでした」

 やけにすんなりと、おまけに殊勝な態度で謝罪され、さすがの芙由もあっという間に毒気を抜かれてしまったようだ。

 不審者を見る目が、あつにとられた顔になっている。

「な……ま、まあ、ええ」

「そうですか、よかった! 許していただけて」

「えっ」

「何か?」

 芙由は許すなど、ひと言も口にしていない。しかし新の笑顔の圧力と、謝罪を受け入れたことによって、強く出られないようだった。

 さすが、貿易会社で働く交渉人。あの芙由までも一瞬で丸め込んでしまうとは。

 ひそかに感心していると、再び矛先が美世のほうへと向いてきた。

「それで、美世。無断で異能を使ったことに対する言い訳は?」

「……ありません、ごめんなさい」

 自分のしたことに後悔はないけれど、言い訳しても新を納得させられる自信はない。

 肩を落とし、自分のつまさきを見ているしかない美世に、新は息を吐いて力を抜く。

「お説教はまたあとにします。今は、ここをなんとかするほうが先ですね」

 そう言った彼の視線は、ベッドに横たわる男性へと向けられていた。

「美世は、この人を救いたいんですよね」

「はい」

 新は仕方ないな、というように笑う。

 そういえば、先ほど正清が言っていた客とは、新のことだったのだろうか。それにしては、帰りが遅い。

 疑問に思いながらも、美世は新との会話に集中した。

「ここでこの方に死なれては、俺も寝覚めが悪いですから。付き合いますよ。美世、異能を使う用意を」

「は、はい!」

 まさか、異能を使うのを許してもらえるとは思っていなかったので驚きつつ、勢いよくうなずく。

「──まだ、続ける気なの?」

 ぽつり、とこぼした芙由を、美世は振り返った。

「はい」

「なぜ」

「……お義母かあさま」

 芙由の中には、美世に対する誤解がある。それがどういうものか美世には察せられないけれど、自分の言葉は真っ直ぐには届かないのかもしれない。

 迷ったのは、ほんの瞬きの間。

「わたしは少し前まで、何もかもあきらめていました」

 口をついて出た音は、かすかにせきりようを含む。

 自分には何もない。何も手に入れられない。こんな人生、早く終わってしまえばいいと。

 夢も希望もなく、死を考えているときだけが、安らぎだった。生き永らえるよりも地獄へ落ちたかった。命を消すことに、あこがれた。

 でも。

「でも、だんさまはわたしに、心をくださいました。空っぽのわたしに、温かいものをたくさん……」

 ぽろぽろと砕けてこぼれ落ちたものを、拾う力も残されていなくて。空になって、干からびていた心を潤し、満たしてくれたのは清霞だった。

 だからもう、美世のすべては清霞にもらったものでできている。あきらめるということは、清霞にもらった宝物を打ち捨てることだ。

「だからたとえ、わたし自身やわたしの過去が望ましいものでなかったとしても……今のわたしにできること、持っているものまで見落としたり、あきらめたりはしたくないんです」

「あなた、自分がどんな状態か、わかっていて?」

 慣れない異能の行使で、体調に異常をきたしている。

 ひどい眩暈と、頭痛。身体に上手うまく力が入らず、足元は覚束ない。少し吐き気もあり、冷や汗が止まらない。

 正直、立っているのがやっとだ。

 きっと顔色もひどいものだろうから、さすがの芙由も不安になったのかもしれない。

「わかって、います」

 無理やり笑顔を作って美世が言うと、芙由はそれきり黙り込んだ。

「美世、この男性はいったいどうして、こんな状況になったんですか?」

「あ、はい。……わたしも、聞いただけですが──」

 近くの村が鬼に襲われたらしいこと、この男性も鬼に食われたと話していたらしいこと。

 話してみるけれど、どちらも何気なく聞きかじっただけの情報で、新に詳しく聞き返されても美世には答えられない。

 しかし芙由も状況を把握しきれていないようだし、清霞も正清もこの場にいない。断片的な情報で何とかするしかなかった。

「今ひとつ、要領を得ませんね」

「……ごめんなさい」

 美世は自分の力不足を恥じた。

 もっと、話を聞いておけばよかった。美世の異能がもっと熟達していて、頼りがいのある異能者であったなら……と考えずにはいられない。

 新は穏やかな笑みを浮かべて、美世の肩を強く支える。

「謝ることはないですよ。任務に守秘義務はつきものですし、君をいたずらに危険なことに巻き込みたくない久堂少佐の気持ちもわかりますから」

「はい」

 美世がうなずいたのを見ると、新は「それにしても」と言葉を続ける。

「確かに、これは鬼に食われた、というには不自然ですね。……魂を奪われる、というのは、完全に肉体が空になってしまうことなので。これはむしろ──」



   ◇◇◇



 清霞は屋敷を出てから、駆け足で例の廃屋へと向かっていた。

 その途中、通り抜けた村の中は、やはり大きな混乱が見受けられる。別邸で倒れた男性と同じく、意識のない男たち。それに寄り添う親族たちも皆、心配そうで不安げだ。

(これは本当にまずいな)

 清霞の予想では、あれは鬼に食われた、というのとは少し違う。

 おそらく、食われたのではなく、かれたのだ。しかし完全にひようされているのともまた、違う。そうであれば今頃、男たちの身体は鬼に乗っ取られている。

(いうなれば、鬼の一部を無理やりに取り込まされた……)

 異形とて、命であることには変わりない。人間に害をなすものは排除するほかないが、その命をやたらといじり回すべきではない。だが。

のうしんきようとやらは、それをした)

 小さく分割した鬼の魂、あるいは血や肉片といったものを人間に埋め込み、完全ではない、小規模な憑依状態を作り出す。

 男たちの意識がなくなるのは、肉体が拒否反応を起こしているためだ。

 これは、捕虜とした男の身体検査を行った結果たどり着いた推測でもある。

 あの捕虜の体内にもまた、鬼の気配があった。

(だが、それに何の意味があるのか)

 考えているうちに、清霞は廃屋のごく近くまで来ていた。

「それ以上は、近づかないでいただきたい」

 突然、前方から低い声が聞こえてくる。さく、と落ち葉を踏みしめて姿を現したのは、またもや黒いマントの人物だった。

 もちろん、誰かがいることはわかっていたので、清霞が驚くことはない。しかし、かすかにまゆを上げた。

「そうか、お前がここにいた異能心教を率いているのか」

「ほう……なぜ、そのことを?」

 どうやら、この人物が統率者で間違いなかったようだ。

 清霞は静かに戦闘態勢を整えながら、その問いに答えた。

「以前、こちらで捕らえた男とは違う。──お前は、本物の異能者だ」

 マントの人物は、その体格や声から察するに、男だろう。そして、清霞にとっては慣れた、異能者の独特の気配をまとっている。

 先に捕らえた男のような、まがい物の異能者ではない。

「さすが、よくおわかりだ。たいとくしようたい隊長、久堂清霞」

「こちらのことも把握済みというわけか」

 そこまでは想定内だった。あれだけ別邸の外を動き回っていたのだから、当然だ。

 マントの男が片手を前にかざす。すると、突如として地面がぬかるみを帯び始めた。男の異能だろう。

「できれば、少佐殿には穏便にお引き取り願いたいのだが」

「断る」

 ここでこの男を捕らえ、異能心教について、また今回の件についても吐かせなくてはならない。

 男が残念だ、とつぶやいた瞬間、ぬかるんだ地面がさらに水気を増し、沼のように変じた。

(土を操る……いや、水を操る異能か)

 このままでは足をとられる。清霞は即座に念動力によって、地面を支配した。異能の威力は清霞のほうがはるかに上なので、場の支配権は常に清霞にある。

 ふ、と息を吐くと、ぬかるんだ一帯の土はぴし、ぴし、と音を立てて凍りついた。

「炎を操り、いかづちを意のままに走らせ、……さらには水を凍らせるか。はは、これは勝ち目がない。やはり久堂家の当主は伊達だてではないな」

「──お前も異能の家に連なる者ならば、我が家に手を出すことがどういうことか、わかっているはずだ」

 ごうまん、ともとれる清霞の発言は、けれども真実でしかない。

 久堂家が異能者の頂点に立てるのは、実力だ。なんぴとたりとも久堂家当主を脅かすことはできず、敵に回せば最後、敗北が目に見えている。

 唯一、勝てる可能性があるのが薄刃家の異能者であり、だからこそ、以前、たついし家も薄刃の血を引く美世を手に入れようとした。それほどまでに、久堂家の存在は絶対的だ。

「もちろん、承知している。だが、これが祖師のご意向だ」

「祖師?」

 異能心教の開祖のことか。やはり、この男もまた何者かの指示で動く教団の一員らしい。

 男は表情を頭巾の奥に隠したまま、両腕を大きく広げる。

「異能は素晴らしい力だ。だというのに、科学などというもののせいで今、駆逐されようとしている。少佐殿、あなたも異能者の頂点に立つ身ならば、現状を憂えているのでは?」

「……そうだな。そういう考えを持つ異能者が現れても、おかしくはないと考えていた」

 確かに、異能は優れた力である。異能者はその存在からして、一般的な人間という種族の上位にいると言ってもいい。

 けれど、清霞たちの身体は、どこまでいっても人間の枠の外に出るものではない。異能を持つことで優位に立ち、一段階上の存在だとおごっても、人間の肉体を持つ限りはそれ以上にはなりえない。

 なくなりつつあるというなら、それもまた自然の摂理だ。

「祖師は、まったく新しい世界を作ろうとなさっている。そう、すべての人間が異能を持てる可能性を得る世界を」

「…………」

「力を望む誰しもが、異能者になる道を選択できる世界。望めば誰もが、上位種たる異能者へと至れる──真に平等な世界だ」

 馬鹿げたことを、と思う。

 本当にそれが平等な世界なのか。否、そんなことをしても、また新たな不平等が生まれるだけの話でしかない。薄っぺらい理屈だ。

「そして我々は、この地で理想の世界への第一歩を踏み出そうとしている。すべては、祖師のお考え通りに」

「罪のない人間を巻き込んで、か?」

「……何かを変えるには多少の犠牲も致し方ない。維新の折も、そうだったはずだ」

 たとえ事実だったとしても、まったくもって、同意したくない論理である。

 もはや、理想の世界とやらのために異能心教が村や村人を利用したのは明白だった。要は、ここを実験場としたのだ。その、祖師とかいう人物は。

「久堂清霞。あなたも異能者の未来を思うならば、我々の教団へ参加すべきだ。我らが祖師──すいなおしさまの考えを受け入れよ」

 聞いたことのない名だ。十中八九、異能者だろうが、そのような名の家は清霞の記憶にはなかった。

 忘れないよう、頭に刻み込む。

 そして、清霞は強制的に、この不愉快な会話を終了させた。

「異能を持ちながら、帝国にあだをなす。これはまごうことなき大罪だ。覚悟はいいか」

「ふむ。やはり祖師のおつしやる通り、あいれないのだな。しかし祖師のお考えをあなたに知らせる……その役目は無事に果たせた。ここは退くとしよう」

 異能者の男が軽く手を上げると、得も言われぬ不快な気配が近づいてきた。

 びりびりと足元から響く、地鳴りのような音がする。耳をつんざたけびを上げ、迫ってきたのはマントを羽織った大柄な──鬼。

 いや、違う。

(鬼の本体を憑依させられている、ただの人間だな)

 これが鬼の目撃情報の正体か。

 額から太く、長い乳白色の角が二本生えており、口元にはきばが見え隠れする。人とは思えないくらいに大きな身体をしているが、間違いなく元は人間だ。とはいえ、ひとみの焦点は定まっておらず、正気を失っているのがわかった。

 村の男たちが憑依させられている鬼の一部は、この鬼のものだろう。村の男たちは強引にこの鬼の力を分け与えられてしまったのだ。

「我々は研究の末、突き止めた」

 口を開いたのは、異能者の男だった。

「異形には利用価値がある。奴らの力でも、魂でも、身体でも……とにかく奴らの一部を人に取り込ませ、憑かせれば、人を異能に目覚めさせることができる! さあ、行け! 我々の思想を理解しないやからに、思い知らせてやるのだ!」

 どうもうな獣のごときほうこうと、不快なぎしりに耳をふさぎたくなった。

 完全に鬼に憑依されている巨体が、周囲の木々をなぎ倒しながら、おそろしい速さで突進してくる。人間としての理性は残っていないようだった。

 清霞は身軽に迫るきよかわすと、念動力で身体の自由を奪う。けれども、相手の鬼の力はすさまじく、力ずくで清霞の異能を破ろうとしてくる。

(さすがに、異能者相手のときのように簡単ではないか)

 さらに異能の威力を上げる。そして、その巨体を宙に浮かせ、近くの木にたたきつけた。

 鈍い音とともに木が折れ、地にくずおれた鬼はそのまま動かなくなる。

(あの男は……逃げたか)

 どうやら、鬼に憑依された男をけしかけ、自分はとっとと逃げおおせたらしい。

 清霞はため息をひとつ吐き、地に伏した巨体へと近づいて魔封じの札を貼りつける。

 これで鬼の力はしばらく封じられ、この鬼の一部を憑依させられている村の男たちもじきに目を覚ますだろう。

 清霞は別邸へと戻るため、立ち上がった。



   ◇◇◇



 一方、村から久堂家別邸へと続く道の脇では、正清が複数のマントの人影とたいしていた。

「やれやれ……」

 何者かが家に近づいてくるのを感じて出てきてみれば、とんだ珍客が来たものだ。

 息子からの頼みで別邸の守りを引き受けたものの、戦場は久しぶりで、どうにも身体的な不安がある。

 向かい合うマントの数は、三。そのどれもが、異様な気配を漂わせていた。

「君たちが、清霞の言っていたまがい物の異能者、かな」

 人工的に作られた異能者。そういった研究も、長い異能者たちの歴史の中でまったく行われなかったわけではない。

 しかし、異能は本来、人の手に余る代物だ。生まれたときから異能のせいで身体に不具合をきたしてきた正清は、身をもって実感している。

しよせん、異能者も天から異能を与えられた、ただの人にすぎない」

 それを意のままにしようなど、身の程知らずも甚だしい。

 人が故意に異能者を生み出す。はじめは上手うまくいくような気がしていても、結局は失敗に終わるのが常だ。

「さて、君らの目的は何かな。捕虜を取り返すことか、我が家を襲うことか……」

 正清の言葉に答える者はひとりもない。

 じりじりと、互いににらみ合う時間が続く。

 先にこうちやく状態を脱したのは、マントの三人組のほうだった。三人は一斉に空中へ片手を掲げる。すると、小さな竜巻のようなものが巻き起こり、さらに土や葉、異能の火などを巻き込んで大きな渦となった。

 思わず、正清は目を輝かせてしまった。

「すごい。実によくできた芸だね。でも、そんなものでうちをどうにかしようと考えているなら、これほど浅はかなこともないよ」

 久方ぶりの戦場と、高揚感。つい心の沸き立つままに、満面の笑みを浮かべる。

 なんて、単純で可愛らしい。異能さえ手に入れたならば、久堂家に手出しできると思っている。そんなこと、ありはしないのに。

 三人の偽物の異能者たちが作り出した渦が、正清のほうへ投げつけられる。

 このままもろに当たったら、無事では済まない。土や枝葉で皮膚は裂け、火が身を焼き、鋭さを持った渦巻く風が肉を切り刻むだろう。

 わかっていながら、正清は正面からその渦を受け止めた。

(うん。たまには、戦いに参加するのもいいものだね)

 息子の清霞が大学を卒業したのとほぼ同時に家督を譲り、この地で隠居生活を送ってきた。あのときは正清も身体が限界で、ほかに道はなかったけれど、第一線から退くのはなかなか惜しかった。

 指先ひとつ動かすことなく、渦は一瞬でき消える。

「僕らをどうにかしたいなら、こんな子どもだましではいけないよ。もっと腕を磨いて出直しておいで」

 努めて穏やかに言うと、正清は異能を発動させる。

 ぱりぱりとかすかな音を立て、電流が地をい、マントの三人をとらえた。なすすべもなく感電した三人は、そのまま倒れてぴくりともしない。

「もう少し、骨のある相手が良かったな」

 肩慣らしにもならず、がっくりと落ち込む。

 この程度の相手なら、清霞が任務でやってくる前に自分で処理してもよかったかもしれない。

「まあ、仕方ないか」

 独りごちて、三人の異能心教の信徒を検分する。

 マントをぎ取れば、三人のうち、二人は女だった。片や二十歳前後、片や。残りのひとりの男もだいたい二十歳くらいで、若そうだ。

「三人に、身体的な共通点は特になし。信徒の年齢層に特徴はないのかな。……幅広く支持されているとしたら、それも問題だね」

 さらに見ていくと、四十路の女の懐から少量の真っ赤な液体の入った小瓶が出てきた。

 ──鬼の血に、間違いない。

 これには、正清も反射的に顔をしかめる。

「さんざん異形を滅して、殺してきた僕が言えることではないかもしれないけど……ひどいことをするね」

 人が生きるためではなく、異能を得たいという欲のために命をもてあそぶ。あまり、気分のいいものではなかった。

 しかし、物的証拠を得られたのはぎようこうだ。

 今回のことで、異能心教を一網打尽にできればいいが、そうでなければ厄介かもしれない。

 正清は小瓶を懐にしまいながら、考えを巡らせ……途中で、やめた。

(もう僕の出る幕はないか)

 自分は引退したのだ。あとのことは、清霞に任せておけばいい。

 自分の息子ながら、立派に育ってくれた。正清のように身体が弱いわけでもなく、能力も申し分ない。

 唯一の心配は、いつまで経っても結婚しないことだったが、それも近いうちに解決する。

「僕は幸せ者だなあ……けほっ」

 小さくき込んで、正清は三人の信徒たちを縛り上げにかかった。




▼新作『宵を待つ月の物語 一』はこちら

https://kakuyomu.jp/works/16818093085173211186

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る