四章 巡る想い

 夕方近くなり、きよが帰宅したとの知らせを受けては玄関へと急いだ。

「おかえりなさいませ」

「ただいま」

 なるべく笑顔を心がけて出迎えると、清霞はどこかあんしたように口元をほころばせ、ぽん、と美世の頭に手を置く。

 けれども、その冷たさに思わずぎょっとしてしまった。

だんさま、手がすごく冷たいです」

「あ……すまない。嫌だったか」

「いえ、あの、そうではなく」

 慌てて引っ込められた清霞の手を、美世はそっと両手で包んだ。

「……心配です」

 清霞に自覚はないのかもしれない。でも、帰ってきたときの彼の表情はとても険しかった。身体も冷え切っているようだし、いったいどれだけ無理をしたのだろう。

「夕食まで、まだ時間があります。暖かい部屋で休みましょう」

 絶対にそうしてもらわねば、と意気込んで言った美世に、清霞は目を丸くする。

「……いつになく強引だな」

「えっ」

 そんなに強引だっただろうか。こればっかりは譲る気がなかったのは、事実だけれども。

 と、振り返って、美世は自分から清霞の手を握りにいったことに思い至った。

「わ、わたし」

 無意識に大胆なことをしてしまった。自覚すると恥ずかしくて、頰が熱い。

「ご、ごご、ごめんなさい!」

 今度は美世のほうが焦って手を引っ込める。このくらいで清霞が怒るとも思えないけれど、居たたまれなくてとつに謝罪が口をついた。

 おまけに頭上から、く、とのどを鳴らして清霞の笑う声が聞こえてきたために、余計に熱が上がりそうになる。

「お前の手は温かいな」

「は、はい」

「行くぞ。部屋で休むのだろう?」

 自然な流れで、清霞が動揺から抜けられない美世の手を引く。

 ──どうしよう。すごく、どきどきする。

 つながれた手が目に入り、ぬくもりが伝わってくるたび、知らない感情を持て余す。考えなくていいことまで考えている気がするし、反対に何も考えていない気もする。

 照れと恥ずかしさから逃れるように、清霞の部屋で美世はしく世話を焼いた。

 毛布を持ち込み、温かい緑茶をれ、暖炉にまきを足す。

「旦那さま、おも入れてきましょうか?」

「いや、いい。というか、少し落ち着け」

 たしなめられ、動きを止める。どうやらせわしなくしすぎたらしい。穴があったら入りたい。

 美世はしょんぼりと肩を落とし、向かい合う椅子に腰かけようとした。

 けれど「待て」と止められて、首を傾げる。

「こっちだ。ここへ座れ」

 清霞は暖炉の前に椅子を二脚くっつけて並べ、片方に腰かけると、もう片方を指し示す。

 そんな恐れ多い、と断ろうとしたものの、清霞の目はどこまでも本気だ。有無を言わせず、まさか歯向かったりしないだろうな、という目。

 残念ながら、美世には逆らう力はない。

 いや、そもそも。

(わたし、残念なんて思っていない)

 それどころか、うれしい……ような。少なくとも、逆らいたい気持ちなどこれっぽっちもない。

 戸惑いながら、清霞の隣に大人しく腰かける。

 すると、清霞は美世の用意した毛布を広げ「もっと寄れ」などと言いながら、美世ごと毛布にくるまった。

 半身が、密着している。触れているところから、互いの体温が溶け合うようだ。

 せっかく静まった心臓が、また慌ただしく動き出した。

「だん、旦那さま」

「なんだ」

「あの、あの、この」

「暴れるな。大人しくしていろ」

 まるで誘拐犯か何かのような台詞せりふだったが、それを気にする余裕もない。

「で、でも」

 なぜ、毛布の中に美世までも入れようと思ったのか。尋ねたくても、もはや自分の心音がうるさすぎて、何を口にしているかもよく聞こえない。

「このほうが温かいだろう」

「それは、そうですね……」

 答えがそれしか見つからず、沈黙に包まれた。

 じっとしていると、やはり隣を強く意識してしまう。でも、それはもちろん不快だからではなくて……むしろ、心地いい。

 どれくらい、そうしていただろうか。

 何気なく、清霞が口を開いた。

「今日一日、どうだった?」

 彼がどういう意図で問うたのかは、当然わかっている。

 どんなふうに過ごしていたか。とは何かなかったか。昨日のあの調子では、気になって当たり前だ。

 美世が清霞を心配するように、彼もまた美世を心配している。

「あ、ええと……」

 かれるだろうとは思っていたけれど、上手うまい答えを用意していなかった。

 正直に言ったら、清霞はまた美世のために怒ってくれるだろう。しかしこれは、美世と芙由の問題だ。

(でも、隠し事をするのも嫌)

 こういうとき、自分の素直な思いを隠してもいいことはないと、十分に思い知った。一方で、自分ひとりの力で解決できたら、という気持ちもあり、せめぎ合う。

 本当はあのとき、ただきよの介入ももう少し待ってほしかった。

 とはいえ、手を出されて怪我をしてからでは遅い。そうなったら、芙由との関係は気まずいものになってしまう。結果的には、正清が間に入ったのは正しかったのかもしれない。

 それでも、何の力もない美世が、自分の力で解決したいと望むのはわがままだろうか。

「美世」

 ひざの上に置いていた美世の手に、清霞の硬くて広い手が乗せられる。

 きっと、美世が何かを隠そうとしていることなんて、清霞にはお見通しなのだ。だからどうあらがったところで、美世に正直に話す以外の道などない。

「……怒らないで、聞いてくれますか?」

「内容による」

「なら……言えません」

「言うようになったな」

 美世の譲れない固い意思を感じとったのか、清霞は仕方ない、と息を吐いた。

「怒らないから、話してみろ」

「はい」

 促されて、美世はとつとつと朝食の後からの出来事を語り始める。

 結局、あのあと──美世と芙由との間に正清が仲裁に入ってから、美世は自室に帰されて大人しくしているしかなかった。

 芙由と二人で話がしたい。美世はそう望んでいても、正清に止められてしまえば無理強いはできない。さっきの今で顔を合わせて、また芙由の機嫌を損ねてしまったら正清にとっても迷惑だろうから。

 でも、このままあきらめるつもりは毛頭ない。

 事のてんまつを話しているうちに、だんだんと清霞のまとう雰囲気がけんのんさを帯び、話し終わる頃には今にも「息の根を止めにいく」と言い出しそうだった。

 部屋の中は温かいはずなのに、身震いしそうになる。

「あの女……」

 ぼそっとつぶやいた清霞の声は、地をうように低い。

 これでは、本当に芙由が殺されてしまう。冗談でなく現実になってしまいそうな想像が頭をよぎって、美世は焦りながら言い募る。

「旦那さま。あの、どうせわたしは、ただじっとしているなんてできませんし……。お義母かあさまも、なにも無理難題をおっしゃったわけではありません。お義父とうさまも、止めてくださいましたから」

「そういう問題ではない」

 では、どういう問題なのか。

 困惑する美世に、清霞は「わからないか?」と怒りをあらわにする。

「確かに、お前を好き放題にこき使ったのも許せないが。……何より」

 重ねていた手を、ぎゅっと握られた。

「悪意を持って、お前の人としての尊厳を傷つけようとした。それは、絶対に許せない」

「尊厳……」

 思いもよらない怒りの理由は、ますます美世に疑問を抱かせる。

 そもそも自分に尊厳なんて立派なものが存在しているのか、と自問すれば、答えは否だ。

 生まれてこのかた、自分の中の何かが尊いと思ったことはない。そしてそれを、悲しいと思ったこともない。

 清霞の言う尊厳がどういうものを指すのか、ぴんとこなかった。

「……わからなくても、いい。ただ、私が許せないだけだ」

 静かに目を伏せた清霞は、当事者である美世よりも苦しそうだった。けれど、彼が美世のために腹を立ててくれたのは、ありがたいと感じた。

「お義母さまが言う通り、わたしには何もできません」

「そんなことはない」

「いいえ、本当のことです。お義姉ねえさんにいろいろなことを教わって……いくつか、身についたものもあります。でも、素のわたしにはやっぱり大した価値はないので、きっと……この先どんなに努力しても、たかが知れているでしょう」

 美世には令嬢としての素地が何もないのだ。付け焼刃の努力には当然、限界がある。づきに師事して学べば学ぶほど、自分がいかに世間知らずで無力かを思い知らされる。

 それでも、何か、美世にせることもあると信じたい。清霞が美世を選んでくれたように、誰かの心を動かすような何かが。

だんさま。わたしのために怒ってくださって、ありがとうございます。でも、もう少し見守っていてくださいませんか。わたし、ちゃんと向き合いたいんです」

「もう少しとは、どのくらいだ」

「できれば、わたしが音を上げるまで……。だめ、ですか?」

 どこかねた子どものような清霞の態度に、美世はつい笑ってしまいそうになる。

 しかしそんな和やかな気分は、一瞬にして吹き飛んだ。

「だめだと言ったら、あきらめてくれるのか」

 清霞の頭が美世の肩口にうずめられる。彼の表情はまったく見えないけれど、さっきよりもずっと、全身が熱い。

 こんなに密着したら、激しく脈打つ美世の鼓動が、清霞に聞こえてしまうかもしれない。そう思うのに、高鳴りは鎮まるどころかさらに激しさを増した。

 美世は上擦った声で答える。

「あ、あきらめ、ません」

「……お前のことが気がかりで、仕事に集中できないと言っても?」

「う……お仕事は、ちゃんとしていただきたい、です」

 どうしてだろう。なんだか、うれしくなってしまう。

 本心は、美世もずっと清霞にそばにいてほしい。芙由と向き合うのは怖いから、避けて通れるならそうしたい。けれど、それでは何の解決にもならないのだ。

 ややあって、清霞ははあ、と大きく嘆息する。

「お前といると、自信を失くすな」

「あの、ごめんなさい」

 ほかに言葉が見つからない。しかし、顔を上げた清霞は困ったようにまゆじりを下げながら、微笑んでいた。

「構わない。お前は、お前の好きなようにしたらいい」

「はい……!」

 美世は大きくうなずき、心から笑みを浮かべた。

 きっと、わかりあえる。一貫して清霞のことを気にかけていた芙由が、根っからの悪人だとは思えない。

 明日は、呼ばれなくても芙由のところに行く。これが美世の決意だった。



   ◇◇◇



 夕食は、清霞と美世の二人だけだった。

 芙由は気分が優れないという理由で姿を現さず、使用人たちの話によれば正清は芙由に付きっ切りらしい。

 興味深そうに、洋食中心の食事を味わう無邪気な美世を見ていると、少しだけ安心する。

(たぶん、怖かったのだろうな。私は)

 母に傷つけられ、もし彼女が以前のように心を閉ざしてしまったら、それはここへ連れてきた、あの母を煩わしく思いながらも長年放置してきた、清霞のせいだから。

 食事を終え、これから入浴に行くという美世と別れた。

 この屋敷の大浴場は男女別な上に温泉を引いている、本格的なものだ。美世はすっかり気に入ったようである。

 清霞自身はといえば、自室で今日の仕事の成果をさっと書類にまとめ、不意に思い立ってシガールームに向かった。

 この別邸内の一階には、そこそこの大きさのシガールームが設けられている。しかし清霞も、もちろん身体の弱い正清も葉巻はたしなまないので、もっぱら客人用だ。

「やあ。待っていたよ、清霞」

「酒なんか飲んでいいのか」

「あまりよくはないけど、たまには息子と酒を酌み交わしながら、水入らずで話し合うのもいいかと思ってね」

 シガールームでは、正清が気楽な着流し姿で、ひとり猪口ちよこを傾けていた。

 葉巻は主に男性の趣味とされており、葉巻を嗜むための部屋であるシガールームには基本的に女性は立ち入らない。

 ゆえに、正清が清霞と話そうとしたらここだろうと予想していた。

「よく言う。私は、あなたを許していない」

 清霞は数脚並べられた椅子のうち、正清の隣からひとつ飛ばしたところに腰かける。余っていた猪口を手にとれば、父が手ずから酌をした。

「……美世さんは、落ち込んでいなかったかい」

 息子の言には特に反応せず、哀愁漂う面持ちで正清が問う。

 清霞は猪口を傾け、ゆっくりと清酒をえんした。昨日商店で購入した地酒は、のど越し柔らかで、ほのかに甘い。

「落ち込んではいなかった。……彼女はもう、傷つけられることに慣れすぎている。自分では傷ついているかどうかさえ、わからないくらいに」

「そうか。悪いことをしたね」

 昔から、父のこういうところが嫌いだった。

 陽気な笑顔の下に、冷淡で残酷な素顔を隠している。本心は決して見せない。あたかも家族に愛情を持っているかのように振る舞うけれど、その実、大した興味はないのだ。

 今も、さらりと反省を口にしたが、胸中にはじんもそんな感情はないだろう。

「あなたはいつも口ばかりだ」

 つい、子どもじみた非難が漏れた。この父親に期待するのをやめてから、ずいぶんと経つのに。

 正清は不気味なほどにこやかだ。

「僕はね、清霞。本当に、後悔しているよ。家族を、家を、ほったらかしにしていたこと」

 忙しかった、なんて言い訳にもならない。能面のような笑顔のまま、そうこぼす。

 ……父が虚弱体質なのは、生まれつきだ。

 強い異能を受け継ぐ家の異能者には、まれにあることだった。強い異能に、身体がついていかない。異能さえなければ、普通に暮らせる程度に身体が丈夫でも、強力な異能を持って生まれたばかりに肉体が悲鳴を上げる。

 そのせいで、父が苦労していたのも知っている。天下のどう家──その地位を守るために、たとえ虚弱でもほかの家にめられないように。人一倍、精力的に役目をこなしていた。

 母もああ見えて、派手好きの浪費家でかんしやく持ちであることを除けば、女主人として優秀だった。浪費家である点も、久堂家ほど資産のある家ならばまったく問題ではない。

 だから、忙しい父が家のことをすべて母に任せてしまっても、仕方ない状況ではあった。それは、清霞も理解している。

 やり場のない感情に、自然とため息が零れた。

「……過ぎたことをあれこれ議論しても、時間の無駄か」

 不本意ながらも話題を切り上げると、正清は苦笑した。

「そうだね。じゃあ、建設的な話をしよう。君が捕まえた男だけれど、何か聞き出せたのかい?」

「例の〝名無しの教団〟。あの男が言うには、のうしんきよう、というらしい。加えて、本人もかなり強い洗脳状態、あるいは何らかの暗示をかけられた状態にある可能性が高い」

 清霞は捕らえた男をこの別邸の地下室に監禁し、尋問を行っていた。

 美世や使用人たちを怖がらせないよう、夕方近くに帰宅したふうを装ったが、実際には昼過ぎからずっと、地下に潜っていたのだ。

 男の言動は終始、漠然として要領を得ない。

 異能らしき力を使ったときのことを問えば、神にもたらされた力だといい、神聖なものゆえ自分ごときにその原理がわかるはずもないと主張する。

 またその教団について問えば、尊い教えである、これを理解しない者は、人類の進化と平等な社会の形成を妨げる邪悪な存在だ、と言い張った。

(具体的なことは何もわからなかった)

 男が故意に話をはぐらかしているのかとも考えたが、それにしては様子がおかしい。感情の揺れが極端に小さいのだ。自分がとらわれているというのに、少しも動揺や恐怖を見せない。

「……異能心教、か。我々にとっては、なかなか気になる名前だね」

 名無しの教団については、異能者全体にも情報が共有されたため、現場を離れて久しい正清も承知している。

 異能と名乗る以上、清霞たちとも何か関係があるかもしれなかった。

「とにかく、中央とも連携が必要だ。すでに式を飛ばしているから、明日明後日あさつてには何か反応があるだろう」

 あくまで、清霞は軍の任務で今回の件を調査している。しかしこうして、政府も絡んだ案件となると、下手な独断専行は後々で問題にされる。

 面倒だが、指示があるまで実力行使を控え、村周辺の警戒と調査に専念することになりそうだ。

「ふむ。そうだね。この屋敷の周りをうろちょろしていたのも、彼らで間違いないようだし」

 正清はうなずいて、ちびちびと酒を口に含んだ。

「いざとなったら、美世のことを……頼むかもしれない」

「いざとなったら、って?」

 意地悪く問い返してくる父親を、清霞は鋭くにらみつけた。

 わかっていてすっとぼけているから、たちが悪い。

「やつらは、明らかにこの家──久堂を警戒している。いつ何がきっかけで、きばくかわからない」

 わざわざこちらの様子をうかがっていたのだから、十分にありうる。しかしそのとき、しよせんは公僕である清霞は自由に行動できない可能性があった。

「清霞がそんなことを僕に頼んでくる日がこようとは」

「悪いか」

「いいや。ただ、君は美世さんを……本当に、愛しているのだなと思って」

 は、と清霞はどうもくする。

 何を言われたのか、一瞬、理解するのを脳が躊躇ためらった。

(愛……?)

 思いがけない、なんて言葉では表現できない、驚きと戸惑い。愛だの恋だのといったものは、それほど清霞にとって縁遠いものだ。

 彼女に抱いている感情の名前など、深く考えたこともなかった。

(いや、慈しみのようなものは……持っていた気がするが)

 無意識に口元に手をやり、記憶の海に沈む。ぐるぐると悩み始めた清霞を、正清が面白がっている気配がしたものの、気にするゆとりもない。

 ──自分が美世に対し、男女の愛情を抱いている。

 衝撃的な事実であることは、間違いない。けれど不思議と、しっくりくる気も、していた。



   ◇◇◇



 帝都、みかどのおわすきゆうじよう


 出張中のたいとくしようたい隊長、久堂清霞からもたらされた情報は、可及的速やかに小隊から政府や軍本部へ共有されていた。

 またそれにより、すでに日暮れも近いというのに関係各所はせわしなく稼働中である。

 宮城も表面上、穏やかな空気を保ってはいるが例外ではない。

(やってくれたな……)

 現在、今上帝の代理として役割を追うたかいひと皇子の宮に呼ばれたのは、うす家の跡取りである薄刃あらただった。

 実家が経営する貿易会社で働く彼は、質の良い暗灰色の三つ揃いのスーツ姿で、職場から直接ここへやってきた。

 砂利を踏みしめ、目的地へと歩を進めながらゆううつなため息が止まらない。

(あの人が動くと、どうしてこう、変なものが釣れるのか)

 従妹いとこの婚約者である清霞に対し、新が抱く感情は複雑だ。

 名無しの教団──異能心教に関する、清霞がもたらした新たな情報のせいで中央はてんやわんやだ。おかげで新もわけがわからないまま、堯人に呼び出されている。

 なぜ、ただ異形の目撃情報の調査へ行っただけで、帝へのはんぎやくもくむ教団と相対することになるのか。まったく理解不能である。

 目的地の宮の前ではすでに使用人が待機しており、やってきた新を恭しく出迎えた。

「お待ちしておりました、薄刃さま」

「案内してください」

「かしこまりました」

 初老の男性使用人のあとをついていくと、新は宮の最奥、謁見の間へと通された。

「失礼いたします。薄刃さまがお越しでございます」

 使用人がふすま越しに声をかければ、中から「入れ」と応答があった。

 新はゆっくりと襖を引き、静かに入室する。幼い頃から薄刃家の跡継ぎとしてみっちり仕込まれた作法は、意識せずとも新の身体を自然に動かした。

「堯人さま。薄刃新、参りました」

「よくきたの、新」

 相変わらず麗しい御仁だ。最高級の絹布で仕立てられた濃紺の束帯に、人間離れしたぼう。何度対面しても現実味がない。

「堯人さまにおかれましては──」

「今は時間が惜しい。のんびりあいさつを交わすのは後日としよう」

 珍しく堯人が性急に話を進めるので、新は目を見開く。

 堯人は、急ぐとか慌てるという言葉とは無縁そうな、実際に無縁の人間である。それがこうまで本題を急ぐなら、よほどの緊急事態だろう。

「さっそくだがの、新、おぬしには久堂家別邸へ至急向かってほしい」

「え……」

「不服か?」

 いや、そういうことではなく。

 新の困惑は目の前の高貴な存在にはお見通しなようで、生温い空気が流れた。

「わかっておる。しかし、おぬしが適任なのだ。行けばわかる」

 おそらくな、と付け足して笑みのようなものを浮かべる堯人。

 普通に考えれば、清霞がいるならそれだけで戦力としては十分だ。たとえ、異能心教とやらがどんな隠し玉を持っていても。

 となると、薄刃の異能が必要になるのだろうか。そのくらいしか、わざわざ新を向かわせる意味が思いつかない。

「そうだの、至急とは言ったが……今日はもう遅い。明日、十分に対異特務小隊と情報の共有をしてから、明後日くらいにつのがよかろう」

「やけに、具体的ですね」

「ふむ。真を言えば、我にもまだ何が起こるかはわかっておらぬ。……ただ、おぬしを向かわせるのが最善であることは確かゆえ」

 堯人の言うことは、かなり抽象的であることも多い。しかし、異能者にとって天啓の異能を持つ彼の言葉は絶対で、今の新には逆らう理由もない。

 なにせ、薄刃家は彼によって解き放たれようとしている。それは、薄刃家にとっても新個人にとっても喜ばしい変化なのだ。

 堯人は、心から仕えるのに相応ふさわしい主君だ。間違いなく。

「よいか、新」

 堯人に問われ、新は深々とぬかずいた。

「承知いたしました。仰せのままに」

 このとき、頭のどこかでは予感していたのかもしれない。

 薄刃家が変化していくには、向き合わなければならない過去や人があることを。


 ──その結果、薄刃家の存続すら、危うくなることも。




▼新作『宵を待つ月の物語 一』はこちら

https://kakuyomu.jp/works/16818093085173211186

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