三章 義母と直面

 翌朝。

 朝食を終えたは、ナエからが呼んでいる、と告げられた。

「お義母かあさまが?」

「はい。すぐに部屋に来るように、と」

 ナエはにこやかに、しかし淡々とした口調で言う。

 どうしよう。美世の頭に真っ先に浮かんだのは、困惑だ。

 朝食をとってすぐ、きよは昨日聞いた廃屋の調査へ向かった。村でもう少し話も聞いてくると言っていたので、きっと帰りは遅くなるだろう。

(お義母さまと仲良くなりたいとは言ったけれど……)

 失礼かもしれないが、昨日の調子では、美世がひとりで会えば何を言われるか、何をされるかわからない。

 ただきよを当てにするのは筋違いだろうし、清霞がいない今、かつに芙由に近づくのは危険だ。

 ──でも。

(怖がって、近づかないでいたら何も変わらないわ)

 まず行動を起こさなければ。どのみち、これは美世と芙由の問題。清霞を頼ってばかりではいけない。自分でできる限りのことはするべきだ。

(勇気を出さなくちゃ)

 美世はぐ、とこぶしを握る。

 きっとなんとかなる。心に言い聞かせ、「すぐに参ります」と答えた。

 ナエの先導で、急いで二階にある芙由の部屋へ向かう。ナエが扉をたたくとすぐに、入るようにと返事があった。

 芙由の部屋は、目が痛くなるほどごうしやだった。

 家具はすべて舶来品なのだろう、金で縁どられ、細やかな花模様ときやしやな意匠が特徴的で美しい。毛足の長いじゆうたんはふかふかで、精密に計算されて作られた優雅な形の照明が明るく輝いていた。

 天井と壁は女性らしい柔らかな桃色がかった白。やはりこちらも、光の加減で洒落しやれつるくさ模様が浮かんで見える。まるで西洋の宮殿の一室のようだ。

 美世にはまばゆすぎてあまり居心地のよくない部屋だが、華奢な椅子に優雅に腰かける芙由はどこかの国の王族かと思うくらい、堂々としていた。

「ナエ、あれをお持ちなさい」

「かしこまりました」

 不機嫌そうに美世をいちべつしてから、芙由はナエに何やら言いつける。そしてナエが下がると、ことさら大きな音を立てて手の中の扇を閉じた。

「……まったく、清霞さんにも困ったものだこと。こんな貧相な、とうが立った娘を連れてきて、婚約者にするだなんて」

 返す言葉もない。

 美世は年が明けたらもう二十になる。薹が立っている、という言い方はややおおにしても、結婚するのに遅すぎる年齢なのは事実だ。

 出自も年齢も、反論できるような材料を美世は持ち合わせていない。

「しかも、さいもり家の娘なんて。あんな家と縁を結んだところで、なんの利点もないわ」

 それに、と美世をにらんで、芙由は言葉を続ける。

「あなた、異能も持たないのですって?」

 美世はびくり、と肩を震わせた。

(異能は……本当は、あったみたいなのだけど……)

 それは正直に伝えるべきなのだろうか。

 どう答えていいのかわからず困惑する美世に、芙由は弱みを突いてやった、と少し気を良くしたらしい。

 美しい顔に、ゆがんだ笑みを浮かべる。

「家柄は大したことがない、異能もない、美しくもなければ、あたくしに言い返す頭もない。あなた、自分がこのどうの家に相応ふさわしいと思って?」

「それは、あの……いいえ」

 そんなふうに問われたら、こう答えるしかない。

「まあ。わかっていて、恥知らずにも清霞さんと結婚しようと考えているの? あの子に自覚があるかはわからないけれど、清霞さんがあなたに抱いているのはただの同情。親に売られたも同然のあなたをびんに思って、世話をしているだけにすぎなくてよ」

 美世はつい、一理あるかもしれない、と納得してしまった。

 今は違うと思うけれど、きっと美世が清霞に初めて会った頃──あの家で暮らすようになった頃の彼の心境は、そんなものだっただろう。

 話しているうちに、ナエが戻ってきた。

「奥さま、お持ちしました」

「その娘に渡しておやりなさい」

「はい」

 ナエから渡されたのは、柄のない紺色の着物だった。飾り気はないが上品なその着物は、ナエたち女中が着ているものと同じに見える。

「これは……」

「すぐにそれに着替えなさい」

 どうして、と美世が問い返す前に、芙由はわらいながら言う。

「あなたなんて、その仕着せで十分でなくて?」

「でも」

 美世が今着ているのは、清霞に『すずしま屋』で買ってもらった着物だ。つまり最高級品なわけだが、それ以上に美世にとって大切なのは清霞に買ってもらったということ。

 高級か否かではない。

(……でも、お義母さまはまだ、わたしのことを何も知らないもの。今のわたしが何を言っても納得してはもらえない)

 自分のことをまず知ってもらおう。そのためには、口で何か言うよりも態度で示したほうが早くて確実だ。

「わかりました。着替えます」

 しばらく芙由の言う通りにしてみる。それで美世のことを、美世がどれだけ本気で清霞の妻になろうとしているのかを理解してもらう。すべてはそこからだ。

(お義母さまに認めてもらいたい)

 一緒にいたら、仲良くなるきっかけも見つかるかもしれない。

 美世は芙由に断ってからいったん自室に戻り、手早く着物を着替えた。そして、着替えてみて驚く。

 久堂家の女中の仕着せだという、この着物。紺に染められた布地はそれなりに値が張る品だろう、手触りがさらさらとしていて気持ちがいい。

 使用人のためのものとは思えないくらい、とても着心地が良かった。

 斎森家の使用人にも仕着せがあったけれども、こんなに高いものではない。もちろん、美世が以前持っていた着物なんて、これに比べたら衣服とも呼べない襤褸ぼろである。

(さすが、久堂家は使用人にもちゃんとお金をかけているんだわ……)

 やっぱり一流の名家はこういうところから違うのだ、と美世は素直に感心した。


 芙由は、着替えて戻ってきた息子の婚約者の姿を見て、大いに満足した様子だった。

「あら、とても似合っていてよ。その着物」

「恐れ入ります」

 丁寧に頭を下げる。

 なんだか、実家にいた頃を思い出す光景だ。あの頃は、毎日こんなふうに嫌みを言われていた。

 思い出したらもっと苦しくて、泣きたい気持ちになる気がしたのに。

(どうしてかしら……。あまり悲しくないわ)

 懐かしい、と思う。でも、それ以上の何かは感じない。清霞と出会って、冷え切っていた心をゆっくりと温められて。今こうしてあざわらわれても心は温かいままだ。

「まあ。あなた、本当に使用人が板についているわね。ではこのまま、掃除でもしてもらおうかしら」

「はい」

「ナエ。この娘をあなたたちと一緒に働かせなさい」

 芙由から指示されたナエは、困ったように少しまゆを寄せる。

「奥さま、本当によろしいのですか……?」

「何かしら。ナエ、あなた、あたくしの言うことが聞けないというの?」

「いいえ、滅相もございません。ただ、わかだんさまがなんとおっしゃるか」

 この状況が清霞の耳に入れば彼はまた、激しく憤るだろう。でも、他ならぬ美世自身が清霞に頼ることを望まない。

 これは芙由を理解するのに必要なことだから。──言えば、彼もわかってくれる。きっと。

 美世は思いきって、声を上げた。

「わたし、お掃除します。やらせてください」

「ほら、本人がこう言っているのだもの。遠慮することはなくてよ、ナエ。とことん使っておやりなさいな」

 芙由は再び、ぱらり、と扇子を開いて口元を隠す。

 優雅で、少しも隙のない仕草だ。見せつけるようなそれは、美世がやっても決して様にならない。まるで、絶対にわかりあえないと、はっきり境界線を引かれたようだった。

 くじけそうになる心を励まし、美世は前を向く。

「がんばります。よろしくお願いいたします」

「ナエ」

「……はい。ではまず、まどきをお願いしてもよろしいでしょうか」

 躊躇ためらいがちに言ったナエに、美世はうなずいた。

「窓拭きですね。わかりました」

 とりあえず、不可能なことではなくてほっとする。

 できないことを言いつけられたらどうしよう、と思っていたけれど、よく考えたら使用人の仕事が無理難題のはずがない。実家にいたときのようにやればいいはずだ。

 バケツに水をみ、布を浸す。

 まずは芙由の部屋を、と指示されたので、美世はナエに道具の在処ありかだけ聞いてからさっそく作業を開始した。

 踏み台に上り、よく絞った布で広い硝子ガラス窓を拭いていく。そのままだと拭き筋が残るため、ある程度拭いていったら今度は乾いた布で水気をとるように磨いた。

 芙由は始終、不快そうに眉を寄せて美世の動きを観察していて、時折、

「そこ、まだ曇りが残っているのではなくて? ああいやだ、雑用もろくにできないのかしら」

 などと嫌みを口にしていた。美世はそれに対して「申し訳ありません」と頭を下げ、よりいっそう気合いを入れ磨き直す……ということを、ずっと繰り返した。

 実家や今の住まいよりも立派で大きな窓に掃除もやや手こずったが、硝子はもとより、窓の桟や枠までぴかぴかに磨きあげる。

「あの、ナエさん。いかがでしょうか」

 ナエを呼び止め、掃除した窓を見てもらう。

 久堂家の熟練の女中は「まあ」と目を丸くし、細かいところまで点検すると、うなずいた。

かんぺきでございますね。素晴らしい。いかがでしょう、奥さま」

「ふん。次の仕事をやらせなさい。休む時間など与える必要はなくてよ」

 どうやら合格したらしい。意外にもとうのひとつもなく、美世はほっと胸をで下ろす。

 それから、昼食の時間まで本当に少しの休みもなく、美世は次々と与えられる仕事をこなしていった。

 廊下の窓拭きに、じゆうたんほこり払い。手洗い場やなど水回りの掃除。

 芙由はたまに様子を見にきては、きつい言葉でそしる。美世はそれに謝りながら熱心に手を動かしていた。

 すると、この家の女中たち──ナエや、彼女の息子の嫁であるミツ、未亡人のなつがかわるがわるやってきて、手伝ってくれた。

 やはり、実家とは違う。

(お義母かあさまは、口は出しても手は出さないわ)

 美世の存在そのものを否定するような罵倒と、すぐさま飛んでくる平手打ち。

 ままははや異母妹と一緒にいれば、それが日常茶飯事だった。実家の使用人たちはれ物に触るように美世に接したし、いない者のように扱われることもよくあった。

 彼らを責めることはできない。彼らだって生活がかかっていて、女主人の機嫌を損ねれば一瞬でかくしゆされるのは目に見えていたのだから。

 けれど、いつだって空気がぴりぴりとしていて、使用人同士ですらあまりあいあいとした雰囲気にならなかった斎森家と比べ、ここはまったく違った。

 ただ美世に触れたくないだけかもしれないが、芙由は暴力を振るわないし、女中たちは気さくに美世に話しかけてくれる。しかも、控えめながらナエなどは芙由に苦言を呈することもある。

 斎森家では絶対にありえなかった光景だ。

「若奥さまのお掃除の腕前……正直、おれしました」

 一緒に風呂場のタイルを磨きながら、夏代が言った。

「お許しください。良家のご令嬢が掃除など満足にできはしないと、甘く見ておりました」

「ゆ、許すだなんて」

 そんな、大それたことをしたわけではない。落ち目であったとはいえ、名のある家の娘が家事なんてろくにできるはずがない、と思われても仕方ないこと。

 実際に、女学校でひと通り習っても使用人ほど完璧にはできないと、づきもよく言う。

「いえ……ああ、こうして面と向かってはっきり言うのも、失礼でございました。口が滑りました、申し訳ありません」

 確かに、夏代は正直すぎるかもしれない。でも、裏を返せば誠実ということだ。そんなにかしこまって何度も謝罪されるものでもない。

 美世はかえって恐縮し、黙々と掃除を続けた。

 二人で磨いた風呂場は、もとより目立って汚れてはいなかったが、いっそうさっぱりと清められた。

「もうこんな時間」

 そういえば、そろそろ昼時だ。昼食の用意を手伝わなければ、ととつに考えて、この家には料理人がいるのを思い出す。

「若奥さまはどうされますか? まずは奥さまに聞いたほうが──」

 いいでしょうか、と夏代が口にしたのと同時に、ナエが顔をのぞかせた。

「若奥さま、奥さまがお呼びでございます」

「は、はい」

 美世はぴし、と身体を緊張させ、芙由に何を言われてもいいように心の準備をして彼女の部屋へ向かった。



   ◇◇◇



(信じられない。あの子はなんなの)

 ナエに、美世を呼び出すよう言いつけたはいいが、芙由は悔しさを隠しきれない。

 清霞は、芙由の自慢の息子だ。もくしゆうれいで、学業も、名家の当主としても異能者としても──どこに出しても恥ずかしくない、優秀な男性へと成長した。芙由の誇りと言ってもいい。

 だから、嫁にも立派な淑女を、と常々考えていたのに。

(あんな娘を連れてきて!)

 清霞が学生の時分から、芙由は幾度となく嫁候補を見繕っては彼の元へ送り込んできた。

 どの娘も器量良しで、家柄、教養ともに文句のつけようがない者たちだった。ゆえに、やや気難しいところのある清霞でも、誰かは気に入るだろうと安易に構えていたのだ。

 が、しかし。

 芙由の選んだ娘たちはことごとく、「冷たくあしらわれた」と泣きながら、あるいは怒りながら清霞との結婚を拒む。もしくは、逆に清霞の機嫌を損ね強制的に縁談がなかったことになる。その繰り返しだった。

 自分がりすぐった娘たちの、何がそれほど不満なのか。

 思い通りにいかず、芙由はいらちを抑えきれないこともあった。けれど、自慢の息子がそれだけ自身の妻に高い理想を抱いていると思えば、さして悪い気もしない。

 そうして、より優れた淑女をと、いっそう力を入れて縁談を組んだが、年を経るごとにますます清霞はかたくなになるばかり。

(旦那さまも旦那さまよ)

 あんな、名家の令嬢とは名ばかりの娘に結婚を打診するなど、正気のではない。

 斎森美世の名を初めて聞いたとき、芙由は思わず首を傾げたくらいだ。斎森家などまったく眼中になかった。

(調べてみれば、ろくな家ではないのだもの)

 木っ端異能者の家に意識を傾けるのも不快だったので、ざっとしか確認していない。けれど、それでも十分だった。

 金もなければ、権力もない。当主の頭もいかにも悪そうで、その娘などもはや調べずともろくでもないと想像がつく。どうせ、金のない実家から抜け出し、久堂家にやってきて清霞の哀れみに甘え、いい気になっているのだろう。

 芙由には美世が、自慢の息子の優しさに付け込み、いかにも同情を誘うような態度で甘い汁を吸う、厚かましい女にしか思えない。

(冗談ではなくてよ)

 みすみす大事な息子を食い物にされては、たまったものではない。

 なんとしてもあの娘には自分の立場をわからせなくては。そう思って、自尊心を傷つけるために使用人の仕事をさせた。

 それがどうだ。あの娘ときたら、何の文句も言わずに使用人の仕着せを身につけ、平気な顔で掃除をするではないか。

(まさか、慣れているとか? いいえ、あの家にはゆりがいるのだから、使用人がする家事に手を出すはずがないわ)

 斎森家も使用人くらいは雇っていたようだし、包丁を握ったこともなければ、床を拭いたこともないのが自然だろう。貧乏人が精一杯のぜいたくを張って、泣かせる話だ。

 芙由は自分が大きな勘違いをしているのにも気づかず、美世の態度に不満を募らせる。

「失礼いたします」

 しずしずと入室してきた美世を、にらみつける。

 地味なひっつめの黒髪に、貧相な身体つき。顔つきも陰気臭く、いかにも弱弱しく装って。自分は不幸なのだ、こんなにも可哀想なのだと主張する裏では、笑いが止まらないに違いない。

「掃除は終わったの?」

「はい」

「床にいつくばって掃除をする姿、とってもお似合いでしてよ。無様で、みっともなくて」

「…………」

「何とか言ってみなさいな。その貧弱な脳を一所懸命働かせてね」

 自尊心を踏みつけにされて、いよいよ本性を現さないかと期待したが、美世は唇を強く結んでうつむくだけだった。

「あの」

 美世がようやく口を開く。しばらく、うろうろと迷うようにひとみをさまよわせていたので、何を言い出すかと思えば。

「お義母さま。あの、わたし、感動しました」

「は?」

「わたし、知りませんでした。久堂家ともなれば、こんなに良いお仕着せが着られるのですね」

 いったい何を言っているのだろう。芙由はまゆをひそめた。

「当たり前ではないの。みっともない格好の使用人を置いておけるわけがありません。最低限、見られる格好をさせておかねば、久堂家の品位を疑われてよ」

 使用人といえど、久堂家が雇い、使っている者たちである以上はこの家の一部だ。天下の久堂家の所有物が、粗末であっていいはずがないではないか。

 当たり前のことすらわかっていない美世に、さらに苛立ちが増してくる。

「そんなことも知らないで、よくも我が家に嫁ごうなどと……」

「申し訳ありません!」

 やけに元気に謝罪され、芙由は一瞬、ぐ、と口を閉ざす。

 そもそも、芙由が嫌みを言うたびに心なしか瞳を輝かせるのは、いったいどういうわけだ。こちらは美世をおとしめようとしているのに、まさに暖簾のれんに腕押ししている気分だった。

「あなた、自分が何を言われているのか、本当にわかっていて?」

「は、はい」

 真っ直ぐにこちらを見てうなずく美世の純粋すぎるまなしに、芙由のほうが悪いことをしている気になる。

(あたくしが正しいのよ)

 思い通りにならない、しやくに障ることも多い息子だが、芙由は親として守りたいのだ。

 そのためには、この娘が嫁いでくるのを許すわけにはいかない。たとえ本人が望んでも、夫が薦めた話でも。男性はああいう女に簡単にだまされるのが常なのだから。

 婚姻は正しく行われるべきだ。それが、名家と呼ばれる家に生まれた者の義務。

「何もかも、あなたは相応ふさわしくないと言っているの! わかっているなら、早くこの家から消えなさい!」

 無意識に熱が入り、芙由は椅子から身を乗り出して、声を荒らげた。

「……それは」

「できないの? そうでしょうねえ。このまま清霞さんに守られていれば、いい暮らしをできるもの。本当に、卑しいこと!」

「ち、違……」

「あら、違うの? それなら、あなたのような娘をめとって、不利益以上の利益があるのかしら? 言ってみなさい」

 徹底的に見下しながら言えば、美世はうつむく。

 ようやくけななふりが芙由には通じないことを思い知ったのだろう。いい気味だ。と、勝利に浸っていたが、再び美世が顔を上げたのであっという間に不快感に満たされた。

「わたしは……お義母かあさまのおっしゃるような価値が、自分にないと、思います」

 慎重に言葉を選んでいるようだった。けれど、声に揺れがない。いい加減しつこくて、しぶとくて、嫌になる。

 芙由の苛立ちはいよいよ限界まで達しようとしていた。

「それで?」

「わたしは、わたしの価値を知りません。でも、だんさまはわたしを必要としてくれます。だから……あきらめることは、しません」

「それで? どうしてそんな甘えた考えが通用すると思うの?」

 ぱちん、ぱちん、と手に持った扇子を、苛立ちのままに開閉する。

 最初からわかっていたことだが、結局、この娘は芙由の望む令嬢としての価値を示すことができないし、実際にこの家に還元できるものを何も持っていない。

 無意味な時間、無意味な問答。

 目の前の娘のような、恥知らずのわいしような存在に煩わされるのが、許せない。

「──旦那さまが、お許しになるなら」

 美世のこの言葉を聞いた瞬間、昨日の息子の言までもがよみがえってきた。

『もう一度、言ってみろと言っている。久堂芙由』

『母親? 笑わせるな。あなたのことを母親と認めたことは一度もない』

『次に美世に何か言ったら殺す』

 かっと、頭に血がのぼる。

 自分は軽んじられ、ないがしろにされている。清霞も、美世も……芙由をしよせんは先代の妻、今は何の権限もないと侮り、だから生意気に反抗ばかりする。

 頭の中が、激しい怒りで真っ白になった。

「馬鹿にしないでちょうだい!」



   ◇◇◇



 こういう状況には覚えがある。

 芙由の金切り声とともに、美世は殴られるのを覚悟した。けれど、義母の振り上げた平手が美世の頰に飛んでくることはなかった。

「そこまでにしておきなさい」

「お義父とうさま……」

 暴力に及ぼうとする芙由を止めたのは正清だ。

 けほけほ、とき込む正清は、慌てて駆けつけてきてくれたらしい。少しだけ息も切れている。

「ごめんね、美世さん。……芙由、これはさすがに看過できないよ」

 おもてを真っ赤にして美世を睨みつける妻を、義父は静かにたしなめる。しかし、今の彼女の瞳には美世に対する怒りしか映っていない。

「馬鹿にして、馬鹿にして、馬鹿にして! 何の権利があってあなたは!」

「芙由」

ね! この、無礼者!」

「芙由!」

 普段の正清の様子からは想像もつかない、大きな声。それは、さすがに芙由の耳にも届いたようだった。

 美世がおそるおそる盗み見た正清の表情は信じられないほど厳しく、瞳は凍えていた。

「それ以上は、いけない」

「だん、なさま」

わきまえなさい。君には、美世さんに対して何の権利もありはしない。一線を越えるのであれば、僕にももうかばえないよ」

 口調こそいつも通りだが、有無を言わせぬ冷えた声音に、芙由は顔におびえを浮かべて凍りつく。

 しばらく部屋は沈黙に包まれ、時が止まっているように感じられた。そして、その長く重苦しい空気を正清が破る。

「ふう。美世さん、本当に申し訳ない。いろいろと面倒をかけたようだね」

「い、え」

 直接、正清にしつせきされたわけではない美世も、威圧感と緊張で上手うまく発声できない。

「……わたしが、いたらなかったのです。申し訳ありません」

「いや、美世さんはよくやってくれているよ。僕も、注意が足りなかった」

 これではまた清霞に怒られてしまうな、と笑う彼の顔は、目だけが笑っていない。

 ぞくり、と背筋に悪寒が走る。今さらながら、すでに引退しているとはいえ正清が久堂家の当主であったことを思い知らされた。

「あたくしは……何も間違ったことは、していないわ」

 か細く、芙由がつぶやく。けれど、その手は白くなるほど強く、扇子を握りしめていた。

「芙由。君の、自分の感情に素直なところは好ましいけれど。感情に支配され、何も考えずに行動したら、それはもう人間とは呼べない」

「っ!」

 ひゅ、と息をむ芙由。美世も恐怖に身を震わせる。

(これが、お義父さまの前当主としての顔……なのかしら)

 正清は芙由を愛しているように見えた。帝都の屋敷で話したときも、ここに来たときも。

 それなのに、愛する人に向かって、遠回しに「人間ではない」なんて普通、言えるものなのだろうか。もしくは今この瞬間、正清の芙由への愛情は消えてしまったのだろうか。

(なんだか、怖い)

 愛する人を地の底へ突き落とす冷たい言葉を、いとも容易たやすく口にしてしまえる正清。もしかしたら、清霞もそういう面を持っているのかもしれない。美世が知らないだけで。

 けれど、もしそうだとしても簡単には傷つかないし、傍を離れる気もない。

 美世は急に清霞のぬくもりが恋しくなって、冷たい指先を握って温めた。



   ◇◇◇



 朝、食事を済ませてすぐに村へ向かった清霞は、はんもんしていた。

 もちろん、昨夜の出来事が原因だ。……正直、あそこまで過剰に反応されるとはじんも考えていなかった。

 だつのごとく逃げていく美世の後ろ姿を思い出すと、ため息しか出ない。

(いや、そもそも私がどうかしていた)

 馬鹿なことを言った、と思う。

 しかしあのときは、まったく深く考えず、気づけばああ言っていたので余計にたちが悪いし、なぜあんなことを気軽に口にできたのか、その無神経さが我ながら信じがたい。

 ざっく、ざっくと土を踏みしめる音が、自分でもわかるくらいに乱暴になる。

 漠然と、良くも悪くも世間知らずで奥ゆかしい美世なら、ああいうふうにはならないのではないか、と想像していた節があった。

(だからどう、ということでもないのだが)

 状況を理解していない女人を騙して何かしよう……なんて、な人間になった覚えもない。

 けれど、ではなぜ自然に同じベッドで寝ようとしていたのか、と問われれば、自分でもさっぱりわからない。

 もんもんと頭を悩ませながら歩いていくと、あっという間に村へ着いてしまった。

 ──切り替えよう。

 ふ、とひとつ息を吐き、清霞は思考を仕事のほうへ持っていく。

 この村での目撃証言は、すべて報告書で確認済みだ。最初の証言はひと月ほど前、村周辺で謎の人影を見たという報告が相次ぎ、村内で噂となった。

 それだけならばたいとくしようたいの仕事ではないが、その数日後。

(鬼が現れた)

 正確には、人型で角を生やした何か、だ。

 一度きりなら見間違いということもあるだろうが、その後も怪しげな人影や鬼を見たという報告は増える一方だった。

 この地には、鬼にまつわる伝承はない。

 つまり、自然に鬼の形をした異形が発生したとは考えにくい。何の下地もないところに、新しい異形が生まれることはほぼないからだ。

 となると、一連の目撃情報は見間違いか、あるいは何らかの特殊な原因があるはずである。

(まずは村はずれの廃屋か)

 報告書の情報と昨日の商店での証言からして、鬼のほうはともかく、村はずれの廃屋に怪しげな集団が潜伏しているのは間違いない。

 いざとなれば、異形と関係なかったとしても、軍人としての権限で連行できる。

 廃屋のだいたいの位置は昨日確認したものの、余所よそものの清霞には道がわからない。村人の案内が必要だろう。


「まさか、軍人さんだったなんてねえ」

 訪ねたのは、昨日の商店だ。店番の女性に、例の噂に詳しい人物を紹介してもらう。

 自分が元よりこの件の調査に来たことは伏せ、ただ身分を明かして、力になれるかもしれない、とだけ伝えて協力してもらった。

「驚かせたな」

「いいや、構わないさ。おかしな噂を調べてくれるってんならね」

 女性はからからと笑い、清霞をひとりの男のところへ案内した。

「村の若衆のひとりだよ。あたしも詳しい話は聞いたことがないが、確か最初に化け物を見たやつだ」

「鬼のような影だったと聞いた」

「ああ、よく知ってるね。そういえば、そんな話もあったっけねえ」

 話しながら歩を進め、木造の小さな家が立ち並ぶ村内を通り過ぎていく。途中で何人かの村人とすれ違ったが、皆、一様に清霞を不審そうな目で見てきた。

(当たり前か)

 もともと、こういう村は閉鎖的であることが多い。排他的で、余所者を見る目が厳しいのが常だ。現地調査の機会が少なくない対異特務小隊に属する清霞も、何度も苦労してきた。

 もっとも、おかげで今はすっかり慣れ、コツもつかめているけれども。

 さらに、この村の場合はくだんの噂のせいで少々神経質になっている。商店の女性が協力してくれなければ、警戒されて仕事にならなかっただろう。

「それにしても」

 考え事をする清霞をよそに、女性はにやけながら話題を変えた。

「昨日の可愛い子はどうしたんだい? 今日は一緒じゃないんだね」

「ああ。おかしなことには巻き込めないからな」

 これはれっきとした仕事であるし、美世を危険にはさらせない。

 正直に、何の他意もなく清霞は答えたのだが、なぜか女性には大笑いされた。

「あっはっは。本当にいい男じゃないか。あの子がうらやましいねえ」

「……どうだかな」

「またまた。あたしがもっと若かったら放っておかないよ」

「そんなに、いいものでもない」

 美世はよくできた娘だと、清霞は思う。

 けれど、彼女が清霞のところに来てからもう何度、傷つけてしまったことだろう。優しくありたいのに上手うまくいかない。自分が情けなくて、たまらなくなる。

 それでも、手放せない、手放したくない。そっと目をらした清霞の心境は、複雑だった。

「さ、着いたよ」

 家には呼び鈴などついておらず、がんがんと女性が戸をたたく。

 すると中からすいする声があって、それに答えればやっと人が出てきた。

「おはよう。……まあ、あんた見ないうちにやつれたね」

 女性の言う通り、家の中から顔をのぞかせた男は、かなりやつれている様子だった。

 頰はこけ、目元にはくっきりと濃いくまが浮かぶ。しようひげを生やし、髪もぼさぼさで目はうつろだ。明らかに、尋常ではない。

 男は清霞のほうには興味を示さず、ぼそぼそと低い声で話す。

「帰って、くれ」

「用があるから来たんだよ」

「いいから、帰ってくれ! 鬼が、頭から離れないんだ」

「怒鳴ることないじゃないか」

「うるさい。あの音が、あの音がずっと、耳にこびりついて……。こんなに戸を開けておいたら、鬼が来るかもしれない……!」

 そう口にすると、そのときの光景を思い出したのか、男は怯えて震えだした。

 聞き取りにくいが、食われる、鬼に食われる、と言っているようだ。どうやら、この男が鬼を見たか、見たと思い込むような事態に遭遇したのは事実らしい。

 清霞は、失礼、と断り、女性より一歩前に出て男に近づいた。

「もう怯えなくてもいい。落ち着くんだ」

 言って、男の肩にそっと手を置く。そこで、ようやく男の注意が清霞に向いた。

「あ、あんた、は?」

「軍に所属している、久堂だ。噂を調査しにきた」

「軍……軍人……」

「そうだ」

 うなずいた瞬間、どこにそんな力があったのか、男は強くしがみついてきた。

「助けてくれ、助けてくれよ、軍人さん……!」


 男の話は、報告書で読んだものと大差なかった。

 怪しい人影の噂、村はずれの古い小屋にその人影たちが複数、潜伏していること。そして、鬼の目撃証言。

 男によれば、鬼は大きな人型で額から角が二本生えており、目が合うなり威嚇するように歯を擦り合わせて不快な音を立てたという。しかし、怪しげな人影と同じく、黒いマントで全身を覆っていたため、それ以上のことはわからないらしい。

「おれは、怖くて気を失っちまって。目が覚めたら村の入り口にいた」

「誰が気絶しているお前を移動させたんだ?」

 清霞がくと、男は左右に首を振る。

「それは、わからねえ。けど、信じてくれ。あの鬼は、絶対におれを食おうとしてた! あのとき、確かにおれは襲われたんだ……!」

 がたがたと、男は震える自分の身体を抱きしめた。その目は焦点が合っておらず、彼は再び恐慌状態に陥ってしまったようだ。

(これでは案内を頼むのは無理か)

 できれば、実際の現場で状況の説明をしてもらいたかったが、仕方ない。

 清霞はおびえる男をなんとかなだめ、結局、ひとりで廃屋へと向かうことにした。商店の女性に場所を詳しく教えてもらい、そのまま村を抜けるところまで送ってもらった。

「本当にここまででいいのかい」

「ああ。すまない、感謝する。……危険だからここでいい」

 女性と別れ、いったん村を出る。久堂家の別邸とは正反対の方角になる。

 村と山の境界はあいまいだ。村を出るとすぐそばに山の斜面が迫っていて、小屋はその傾斜を少し登ってから途中で反対側へ下るとあるらしい。

 清霞は息を切らすこともなく、ずんずんと斜面を登っていく。

 そして言われた通りに半ばで降りていくと、どこからか水音が聞こえてきた。

(小屋は川沿いにあると言っていたな)

 この水音はその川だろう。

 見当をつけ、ちゆうちよせず音のするほうへ進む。

 すると、すぐに木々の隙間から川が見えてきた。その川の上流のほうへ視線をさかのぼらせれば、今にも崩れ落ちそうなほど朽ちた小屋があった。

(あれか)

 古いが、確かに大人が何人か入っても問題ないくらいの広さがありそうだ。

 周囲を警戒しながら、清霞は小屋へ近づく。今のところ、何の気配もしない。近くに人はいないようだった。

(出払っているのか? いったい、どこに)

 ただの無法者だったとしても、こんなところに潜伏して利点があるとは思えない。

 現に村人に怪しまれ、こうして清霞が呼ばれた。何らかの罪を犯し逃亡中だったとしても、逆にここでは目立ってしまう。見つけてほしいと言っているようなものだ。

 だとすれば、ここでなければならない理由があるのだろうか。

(それにしても、おかしな話だな。あの男の話が事実であれば、人と異形が一緒に行動しているかのようだ)

 人と鬼──あやかしや霊などの異形の者たちが共存する例は、少なくはない。

 場合によっては、契約を結び協力体制をとることもあるし、人が異形を使役するのだって、清霞たちにとっては身近なことだ。

 けれどどうにも、今回はに落ちない。違和感をぬぐえなかった。

 次々に湧いてくる疑問はさておき、清霞は足音を殺して小屋に手が届くほど接近する。

 どうやら本当に小屋の中は無人らしい。物音のひとつもしなければ、人の気配もまったくない。

 小屋の破れかけた木板と木板の隙間から、そっと中をのぞく。

 全体を把握するのは難しいが、中はかなり雑然とした印象を受けた。やはり、誰かが寝泊まりしているのだろう。毛布が床に落ち、食べ物のざんがいが散らばっている。

 清霞は細心の注意を払い、戸口の前に立つ。

 もし相手が術者であれば結界があるかもしれない、と警戒したものの、何の仕掛けも施されていなかった。物理的なわなたぐいも見つからない。

 中に入ってみても、ここで誰かが暮らしている、ということ以外には何も掴めなかった。まったくの手がかりなし。ここに隠れ住む者たちが術者かどうかもわからない。

 術者であれば、鬼がいることにも納得いくのだが。

 しかし小屋をあとにしようときびすを返したところで、清霞はあるものを見つけた。

(あれは?)

 床から拾い上げたそれは、一見目立った特徴のない黒いマントだったが、内側にしゆうのようなものがある。やや濃い金色の糸で縫い取られているのは──何かの文様だ。

(この図案、どこかで……)

 逆さのさかずき。それらを囲むように配置された、炎をまとったさかき

 目にしただけで、えも言われぬ不安や不快が押し寄せてくる、とくしん的な模様だ。逆さの盃はもちろん、神の木である榊に火をまとわせるなど、言語道断である。

 しかしながら、その衝撃的な罰当たりさに、清霞は心当たりがあった。

 現在、水面下でひそかに問題となっている団体。みかどに対するはんぎやくとして政府が裏で躍起になって追っている──。

(確か、〝名無しの教団〟……)

 世間ではまだあまり情報が出回っていないが、政府や軍内部ではかなり大きな問題となっている、新興の宗教団体だ。

 規模も、教団の本当の名前も、その内情も何もわかっていない。けれど、この紋章がどこからか発見され政府がいきり立ったのは、ごく最近のことだ。

(ここが件の教団の本部──と考えるのは、少々無理があるか)

 あまりにも目立つ上に、これでは規模も何もない。

 ここに長居するわけにもいかず、清霞は考えた末に、マントを元の場所へ戻して小屋を出た。

 あの紋章の刺繡は重要な手がかりとなる可能性もあるが、小屋に何者かが侵入したと相手に勘づかれると厄介だ。もしかしたら、村人たちが疑われ、害が及ぶかもしれない。

 それは絶対に避けなければならない。


 何食わぬ顔で村へ戻った清霞は、商店に顔を出した。

 すると、店員の女性だけでなく、鬼を見たというあの若者も一緒だった。

「ああ、あんたか。どうだった?」

「廃屋には、誰もいなかった。人も、鬼も」

「本当に……?」

 おそるおそる尋ねてきた男は、すっかり落ち着きを取り戻したらしい。顔色はあまり良くないが、とりあえず先ほどのように錯乱した様子はない。

「ああ。だが、あの小屋には誰かが寝泊まりしているこんせきがあった。気をつけるに越したことはない」

「あんた、軍人なんだろ……? そいつらを捕まえてはくれないのか」

「いないものは捕まえられない。また時間を変えて調べに行くから、動きがあったら教えてほしい」

「そ、それはもちろん」

 うなずく男に、清霞はうなずき返す。その様子を見ていた女性が笑う。

「あんたも、軍人だからって無理するんじゃないよ。あの可愛い子にあんまり心配かけないようにね」

「ああ」

 そう言われると、屋敷に残してきた美世が急に心配になってくる。

 少なくとも父は美世に味方するつもりのようだし、滅多なことにはなっていないとは思っても、あの屋敷の女主人は間違いなく母だ。

 くぎを刺しても、また美世に何かするかもしれない。

(……この私が、仕事に集中できないなんてな)

 すっかり腑抜けてしまった自分にうんざりして、けんむ。

 部下が一緒にいれば気が緩むこともなかっただろうが、今回はすべてが清霞の裁量に任されている。なんとかして気を引き締めなければ。


 清霞は商店の女性に協力に対する感謝を述べ、別邸に帰ることにした。

 早朝に出かけてから、知らぬ間にすっかり時間が経っていたらしい。すでに昼をとっくに過ぎている。

 おまけにさっきまでは晴れていたのに、雲行きも怪しくなってきた。空にはどんよりと、薄い灰色の雲が垂れ込めている。山の天気は変わりやすいというが、気温がぐっと低下したように感じた。

 朝通った道を辿たどり、田畑の合間を抜ける。別邸へと続く森の一本道にさしかかったときだった。

(……この気配)

 誰かが近くをうろついているような、不審な気配がする。

 別邸の誰かということも考えられるが、正清は近頃不審人物を見かけると言っていた。それに、あの廃屋に誰もいなかった以上、無法者が何らかの理由でこの辺りをうろついていても不思議はない。

 清霞は自らの気配を殺し、慎重に別邸のほうへ歩いていく。

 不審な気配はどんどん濃くなった。しかし、ここまで気配を明確に悟られるということは、相手は素人だろう。

 だからといって油断はせず、視線を巡らせる。すると、視界の端に影をとらえた。

 清霞は極力、足音を立てないように早足で影を追うが、地面は枯れ葉に覆われている。完全に足音を消すのは不可能だった。

 かさり。枯れ葉が擦れかすかな音を立て、相手に気づかれたことを察する。

(──問題ない)

 気づかれたら、もう忍び足をする必要はない。

 瞬時に判断し、駆け出した清霞は一気に距離を詰めた。彼の俊足に、影はなすすべもなくその身をあらわにする。

「あのマント。やはりそうか」

 不審人物の顔はわからない。なぜなら、頭からすっぽりと黒い頭巾で覆われていたからだ。

 予想通り、マントの人物の足はそう速くなかった。日々訓練を欠かさず、もとより運動能力の高い清霞はあっという間に追いつく。

「く……っ」

「そこまでだ。もう逃げられない」

 手首をつかみ、ひねり上げて拘束する。掴んだ感触はほどほどに硬く骨ばっていて、男性であることがうかがえた。

 低くうめいたマントの男を、そのままじ伏せてひざをつかせる。その拍子に、男のかぶっていた頭巾が外れた。

「おのれ……!」

 憎々しげに歯を食いしばる男の顔に、見覚えはない。ぼんやりとした印象で、若そうだがこれといって特徴のない顔立ちをしている。

 しかし、その目が鈍く光ったように見えた。

「なんだ……?」

 ぞわり、と全身の毛が逆立つような、不穏な空気。

 何かがおかしい。清霞がさらに強く押さえつけた直後、男の身体がかっ、と発熱した。

 驚いて飛び退けば、のっそりと緩慢な動きで男が立ち上がる。その顔は、先ほどとは打って変わって表情がすべて抜け落ちていた。

 まるで、人形のようにうつろで生気がない。

(どういう、ことだ?)

 男は無表情のまま、自らの右手を宙に掲げる。

 すると、地面を覆っていた枯れ葉たちが一斉に空中へ舞い上がった。

「……異能か?」

 その超常的な、けれども清霞にとっては見慣れた光景にまゆを寄せる。

「シ、ネ」

 男は片言で小さくつぶやき、掲げた手を勢いよく振り下ろした。同時に、宙を舞う枯れ葉がぴたりと清霞に狙いを定め、目にも留まらぬ速さで襲いかかってきた。

 清霞は、ふん、とわずかに鼻を鳴らす。められたものだ。こんな子どもだましの力で、本当に殺せると思っているのだろうか。

「無駄だ」

 清霞に迫っていた葉は、その切っ先が彼に届く前にすべてが力を失い、地面へ逆戻りした。

 男はそれでも表情を変えることなく、次々と同じ動作を繰り返す。けれども、ひとつとして清霞を傷つけることはない。

 このままではらちが明かないと、清霞は再び男との距離を詰めた。そして今度は腕を掴んで地に引き倒し、そのまま押さえつける。

「……効くかわからないが」

 懐から護符を出し、しゆを唱えて男の背に貼りつける。異能封じの護符だが、この場合効果は未知数だ。──なぜなら、この男はおそらく元は異能者ではない。

 護符を貼りつけられた男は一瞬、全身をけいれんさせ、がくり、と脱力した。

「効いたか。となると、あれは本当に異能なのか」

 男が表情を失う前とあとで、がらりと気配が変わった。まるで、別人のように。それに、元から異能者であったならば、一度清霞に捕まる前に異能で抵抗したはずだ。

 こんな現象は見たことがない。

 強いて言えば、異能を使っている男の様子は、人が人ならざるものにかれているときの様子に似ていた。けれどその場合、異能封じの護符では効果がないのが普通だ。

「いったい何が起こっている」

 清霞は困惑を隠さず、顔をしかめながら意識のない男を見下ろすのだった。




▼新作『宵を待つ月の物語 一』はこちら

https://kakuyomu.jp/works/16818093085173211186

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