二章 揺れて、照れて

 帝都から内陸へ、汽車で半日。

 初めて鉄道というものを利用したは、乗車中ずっと緊張しっぱなしだった。

 これだけ大きな乗り物が動くのが信じられない上に、三人の乗り込んだ木造の一等客車は洒落しやれた内装で、なかなか落ち着かない。

 朝一の便に乗り込んでからすでに数時間経つが、ぴんと背筋を伸ばした姿勢で、ひざの上に両手を揃えこわった表情のまま、動けずにいる。

「美世、もっと寛いでいいんだぞ」

「そ、そう言われましても……」

 いつもの軍服姿ではなく、白いシャツに黒のズボンという楽な服装のきよは、なんとも優雅な仕草で新聞を読みながら言う。

 とても、真似できそうにない。

「美世さん、お茶なんかどうだい。なかなか美味しいよ」

 一方のただきよは、のんびりと自前のみを傾けている。しかし列車はそれなりに揺れるので、こぼしてしまいそうで怖くて飲めない。

「いえ……いいです」

「そうかい? でも道のりは長いし、何か欲しくなったら遠慮なく言うんだよ」

「あ、ありがとうございます」

 気遣いはありがたいが、そんな気分にはなれそうにない。

「それにしても」

 づきは来られなくて残念だったね、と正清がつぶやいた。美世も、これには「本当に」とうなずく。

 美世の旅支度を手伝ってくれた葉月は、今回の旅行に参加できなかった。どうしても外せない、大事な付き合いのパーティーがあるらしい。

『行きたかった、私も行きたかったわ~! 私が行かなかったら、誰が美世ちゃんをお母さまから守るのよ~!』

 と叫んでいたけれど、こればかりは仕方ない。

「いないほうが静かでいいだろう」

「……でもだんさま、お義姉ねえさんが可哀想です」

 あんなに来たがっていたのに、とうっかりあふれた美世の本音に、清霞は詰まった。ぐ、とけんにしわが寄る。

「……土産でも買っていけばどうだ」

「はい!」

 やっぱり清霞は優しい。美世は自然に頰を緩ませた。

 そんなやりとりをしつつ、途中で卒倒しそうなほどの緊張感で軽食などを挟み、昼まで列車に揺られる。

 そしてようやく到着したのは、近年温泉地として栄え始めた町の駅だ。といっても田舎町であり、周辺は農村や山村に囲まれていて、その盛り具合は帝都とは雲泥の差である。

 だが気軽に温泉に入れる上に、自然に囲まれたこの辺りは帝都よりも夏は涼しい。よってどう家の他にも、富者たちの別荘が近くにちらほらあるらしかった。

「さて、降りようか」

 かばんつかんで、正清が立ち上がる。

 美世がそれに続いて自分の荷物を持とうとすると、横から白い手が伸びてきてぱっと鞄を取り上げた。

「だ、旦那さま」

 清霞は何も言わず、両手に自分の鞄と美世の鞄をそれぞれ持ち、歩いていってしまう。

「旦那さま、自分で持てます……!」

「構わん」

「いえ、でも」

 すたすた歩く清霞のあとを追いかけながら、駅のホームに降りる。

 すると降りてすぐ、ひとりの老齢の男性が三人を出迎えた。男性はえんふくを身にまとっており、きっちりと髪を整えている。ひと目で、どこかの家に仕える者だとわかった。

「おかえりなさいませ、旦那さま」

 男性は深々と正清に頭を下げ、次に清霞と美世のほうを向いた。

「ようこそ、若旦那さま。若奥さま」

「久しぶりだな、ささ

「本当に、お久しぶりでございます。ますますご立派になられましたな」

 笹木と呼ばれた男性は、清霞の紹介によると、久堂家別邸の管理人兼執事らしい。

 にこにこと柔らかな笑顔を浮かべた彼は、格好こそかしこまっているものの、こうこう然としている。

 ──いや、それよりも。

「わ、わか……わかおくさま……」

 じわ、と頰が熱くなった。

 まだ結婚していないのに、気が早くはないだろうか。恥ずかしいわけではないが、照れる。

「ふふ。坊ちゃ──いえ、若旦那さま。実にお可愛らしい奥さまでございますね」

「そうだな。というか今、坊ちゃんと呼んだか?」

「いいえ、気のせいでしょう」

 清霞はとぼける笹木に、やれやれと肩をすくめた。

 駅の外に横づけされていた自動車に全員で乗り込むと、笹木の運転で別邸へと向かう。

 駅の近くは宿泊施設や観光客向けの土産物屋などでそこそこ活気があったが、そこから離れていくにつれ、目に入るのが山や森、田畑ばかりになってきた。

 別邸は自動車で十分ほど走った先、田畑のある農村部の外れの、ちょっとした森の中に立っていた。

 森の中へ続く一本道はきちんと整備されているものの、すぐそばに山が迫っており、美世たちが暮らす小さな家の辺りよりもさらに自然が近い。

 もしかして、野生動物が見られるのでは、と期待したが、残念ながらそれはかなわなかった。

「ふう、着いた着いた」

「長旅、お疲れさまでございました」

 時折こほこほき込みながら、正清は自動車から降りて大きく伸びをする。

 外は少し寒かった。帝都の木枯らしもだいぶ冷たかったけれど、ここは山が近く帝都よりも少し高い土地なので、もっと空気が冷えている。

 別邸を取り囲む木々もかなり葉が落ちていて、冬は間近らしい。

「空気がすごく澄んでいますね」

「これだけ自然に囲まれていればな。それより美世、寒くないか」

 心配性な婚約者に、美世は首を横に振る。

「この羽織があるので平気です」

 清霞が生地を選んでくれた羽織は、大のお気に入りだ。

 美世のこの日の服装は、菊の柄の着物に『すずしま屋』でつい最近仕立ててもらった、あいいろの羽織を合わせている。

 季節が変わるたびに着物や小物を新調してもらうのは心苦しいが、葉月などは「いいから、貢がせておきなさい」と言うので、今は素直に受け取っている。

「そうか。仕立てておいてよかったな」

「はい。ありがとうございます」

 話しながら、笹木を先頭に四人は別邸の玄関を潜る。

 別邸は帝都の本邸よりも、ひと回りかふた回りは小さい二階建てだ。しかし平屋で数えるほどしか部屋がない清霞の家よりははるかに大きい、洋風の木造住宅だった。

 外壁はやや黄味がかった白で、屋根は明るめの茶色。れいというよりも、可愛らしい印象を受ける建物である。

 笹木が重そうな木製の玄関扉を引き、美世と清霞、正清の三人が別邸に足を踏み入れる。

「おかえりなさいませ」

 玄関ホールで一斉に頭を下げたのは、この家の使用人たちだろう。笹木と同じくらいの老齢の女性と、中年の男性がひとりに女性が二人、二十代の若い男性がひとり。それから三十代くらいの白いコックコートの男性の全部で六人だ。

 そして真正面に、上品なドレスを着た女性が堂々と立っている。

「おかえりなさいませ、旦那さま」

 ぱらり、と扇を広げた女性は、優雅に口元を隠してまゆを寄せながら言う。

 美世は清霞の斜め後ろで少しだけ、身体を緊張させた。おそらく、この女性が。

「けほ、ただいま! 変わりなかったかい、まいはにー?」

 どう見ても不機嫌そうな女性──久堂とは対照的に、正清は顔をほころばせ、早足で彼女に近づいていく。

「あたくしはその寒いやりとりには付き合わないと、何度言えば理解してくださるのかしら」

 くだらない、と芙由は吐き捨てた。

 けれど冷たい態度をとられたにもかかわらず、正清は笑顔を崩さないどころか、どこかうれしそうですらある。

 傍から見ても、ひどい温度差だ。

「そんなこと言わないで。僕はただ、君という愛するはにーに……」

「あたくしたちに愛などありませんわ」

 ぴしゃり。

 言葉をはたき落とす音が聞こえてきそうなほど、見事な一刀両断だ。

 自らの夫を冷たく切り捨てた芙由は、その切れ長の目で正清の背後にいる清霞と美世のほうを見る。

 す、と流れるようなさりげない動作で、清霞は美世を背にかばった。

「清霞さん」

 呼びかけた声はやはり、冷えていた。

 芙由は鋭く切れそうなぼうの持ち主だ。しかもにこりともしないため、かなりの威圧感がある。

「ずいぶんと、ごでしたわね? 薄情な息子だこと」

「薄情? そうでもないでしょう」

「正月も盆も顔を出さないなんて、親不孝だと思いませんの?」

「まったく思いませんね」

 二人の間に、緊迫した空気が流れる。まるで親子らしくない、他人行儀な会話がどんどん場の緊張感を高めているようだった。

 けれど、このまま清霞の背に隠れて、ただ状況を眺めているわけにはいかない。

 美世はぐ、と身体に力を入れ、清霞の隣に立った。

「あの……!」

「おい」

 清霞の控えめな制止の声に、うなずいて返す。すると、清霞は少し驚いたように息をんだ。

 美世は汗ばむ手のひらを握り込み、真っ直ぐに芙由を見つめた。

「あの、初めまして。わたし、さいもり美世と申します」

「…………」

 こちらを見ているのか、いないのか。芙由は何の反応も示さない。

「あの」

「清霞さん」

 続けようとした美世の言葉は、耳に入っていないかのように遮られる。

 隣からかすかに舌打ちが聞こえた。美世が見上げた清霞の美しい横顔には、険しい表情が浮かぶ。

「清霞さん。なんですの、そのみすぼらしい付き人は」

 ──付き人。自分のことを言われたと、美世はすぐに理解した。

 およそ十年、ずっと使用人扱いされていたのだ。今さらそう言われて落ち込みはしないけれど、久しぶりに心がえぐられた気分だった。

 そしてそれは、清霞にとっては看過できないものだったらしい。

「……付き人?」

「ええ、そうですわ。恥知らずにも、久堂家当主たるあなたの隣に立っている、そのしこのことです」

「…………」

「どこかの村娘かしら? 本当に粗末な見た目だこと。久堂家の当主たる者がそのような低劣な者を側に置くなんて、品性を疑われてよ」

 口元は扇で隠し、まるで汚い物を見るように芙由は美世をいちべつした。

 それが限界だったのだろう。──屋敷の外に、落雷によるごうおんが響いた。

「!」

 一同が、鼓膜を激しく揺さぶるすさまじい音に目を白黒させる中、清霞の地をう低い声がはっきりと聞こえた。

「……もう一度、言ってみろ」

「清霞、ちょっとやりすぎだよ」

 冷静に正清がたしなめるが、清霞はそれを綺麗に無視する。

「もう一度、言ってみろと言っている。久堂芙由」

「なっ、あなた、自分の母親に向かって……!」

「母親? 笑わせるな。あなたのことを母親と認めたことは一度もない」

 かっと、芙由の頰が朱に染まった。

 それを清霞は、正清に向けていたものとは比べものにならない、絶対零度のまなしでにらみつける。

「なんですって!?」

「何を今さら。低劣なのはどちらだ」

 ちようしようを浮かべる清霞。明らかに自身の母を馬鹿にする笑みだった。

「私は今日婚約者を連れて行くと、事前に伝えていた。美世の名も知っていたはずだ」

 芙由は閉じた扇を、折れそうなほど強く握りしめる。唇をみ、顔を赤くして、今にも爆発しそうだ。

 周囲は口を挟むこともできず、かたを吞んで見守る。

だんさま」

 自分は大丈夫。そう伝えたくて、美世はそっと清霞の服のそでを引いた。

 けれど、これに反応を示したのは芙由のほうだった。

「卑しい捨て子のくせに! あたくしの息子に気安く触れないでちょうだい!」

 怒鳴られ、つい肩がびくり、と上下してしまう。

 捨て子──確かに、そうかもしれない。美世は妙に冷静な頭で思った。

 実母は死に、実父には顧みられず。もちろんままははも、美世を娘扱いしなかった。孤児も同然だと、言われても仕方ない。だから、さほど腹も立たない。

 しかし芙由の暴言に、今度こそ清霞が大爆発してしまうのではないかと、使用人たちは気が気でない様子だった。

「あなたのようなろくな育ち方をしていない娘を、この久堂家に迎え入れられるわけがありませんわ」

「…………」

「ほら。だんまりで、何も言い返せもしない。学がない証拠でしてよ。清霞さん、あなただってわかっているでしょう?」

「黙れ」

 清霞が言い放つのと、彼と芙由の間に正清が割って入ったのは同時だった。

「二人とも、もうやめなさい」

 芙由は不服そうに眉を寄せてそっぽを向く。

 清霞は「行くぞ」と美世の手を引いてずんずん歩き出した。そして二階へ続く階段の手前で立ち止まると、もはや怒りや憎しみすらない、見下しきった目で自身の母を見る。

「次に美世に何か言ったら殺す」

「殺……っ!?」

 ぎょっと目をいたのは、その場にいる清霞以外の全員である。

 冗談、と笑い飛ばせた者は誰もいなかった。清霞の態度が全てを物語る。本気で、殺すつもりだと。

「……清霞」

 正清だけが苦々しくつぶやいたが、他は誰もが口をつぐんだまま。美世は静かに激怒する清霞に連れられてその場を後にしたのだった。


 後ろから慌ててついてきた笹木に案内された部屋は、二階の角部屋だった。

 日当たりが一際いい部屋で、かなり広い。人が三人は余裕で眠れそうな大きなてんがい付きのベッドや、ゆったりとした豪華な椅子とテーブルが置かれ、壁紙は無地かと思いきや、近づくとみつな模様が浮かび上がっているのが分かる。

 さらに部屋の奥にはタイル張りのバルコニーまである。

(広いわ……)

 美世はこっそりと隣の婚約者の表情をうかがう。

 話しかけたいけれど、その無表情が少しだけ怖い。

「では、このお部屋をお二人でお使いください。何かあれば、また呼んでいただければ対応しますので」

「ご苦労だった」

 室内に荷物を運び終わった笹木が、一礼して退出する。ぱたり、と扉が閉まった途端、清霞が息を吐いた。

「……すまない、美世」

 何に対する謝罪かは、美世にもわかる。でも、清霞が謝ることではない。

「旦那さま」

 旦那さまのせいじゃありません、と言おうとしたのに。

 清霞は割れ物でも触るかのように、優しく美世を自分の腕の中に包み込む。突然のことで、言いかけた言葉はどこかへ飛んでいってしまった。

「すまない。嫌な思いをさせた」

 清霞の手が美世の頭を何度もでる。

 彼の香りに包まれ、ぬくもりを感じ……ゆっくりと頭を撫でられるたび、こわっていたものが解けていく気がした。

 温かくて、安心する。

 慣れているから、あのくらいの悪口を言われても平気だと思っていた。けれど、案外そうでもなかったのかもしれない、とそこで初めて気づいた。

「わかっていたのにな、母がああいう人間だと」

 苦しげな呟きからは、強い後悔が伝わってくる。

「旦那さま……」

「すまない。私のせいだ」

 なんだか、美世よりも清霞のほうがずっと悲しんでいるみたいだ。けんのしわは深く、いつもよりまゆじりが下がっている。

「大丈夫です。わたしは、大丈夫です。旦那さま」

「しかし」

 美世自身は芙由に言われたことももっともだと思うけれど、ここで「本当のことだから仕方ない」と言ったら、もっと彼を悲しませる。

 だから、努めて前向きなことを口にする。

「わたし、あの、できるだけ頑張ります」

「美世……」

「過去は変えられませんけど、やっぱりわたしは……お義母かあさまとも仲良くしたい、です」

 血がつながっているから、家族だから──だから無条件にわかりあえるわけではないことを、美世はよく知っている。

 けれど、それですぐあきらめていたら絶対に信頼関係は生まれないのだとも、今はちゃんとわかっているから。

(わたしは、逃げない)

 どうしたら芙由に理解してもらえるか、見当もつかないけれど。

 それでも、昔と違って美世はひとりではない。もしだめでも……清霞は味方でいてくれる。葉月も。もう決してひとりぼっちになったりしないから、頑張れる。

「ですから旦那さま。しばらく見守っていて、くださいますか?」

 すっぽりと美世を腕の中に覆う清霞は、む、と顔をしかめた。

 いつものしかめ面、というよりは、どこかねたような表情だ。それがなんだか、子どものようで可愛らしく、思わず笑ってしまう。

「……仕方ないな」

「ありがとうございます」

「だが、さっき殺すといったのは本気だからな。また何か言われたら、報告しろ。迅速に灰にする」

「こ、殺すのは、だめですよ……?」

 一応、念を押しておく。

 自分の親を殺すという言葉を本気だとは考えたくないが、さきほどの殺気は本物みたいで少し、怖かった。

「止めるな」

「え、あ、あの、止まってください」

 清霞はようやく、はあ、というため息とともに美世を解放する。

 身体を包み込んでいた温もりが離れて、なんだか寂しいような──。

(さ、寂しい……?)

 抱きしめられて落ち着いて、離れたら寂しいなんて。自分は、もっと清霞の腕の中にいたいと思っていた、のだろうか。

 さすがにはしたない。淑女失格かもしれない。

 熱くなった頰を隠すため、反射的に両手で覆った。頭の中がぐるぐるとのぼせて、目が回りそうだ。

「まあ、いいだろう。──さて、まだ夕食まで時間があるな。少し、村のほうへ出てくる」

「休まれないのですか?」

 日は頂点をやや過ぎたところ。山の近くは日暮れが早いというが、それにしてもまだ時間はかなりある。

「ああ。移動中は座っていただけだしな。ここにはあまり長居もしたくない。今のうちに様子を見るだけでもしておく」

 清霞は上着を羽織り、ポケットに財布だけ入れる。

 どうやら、本当にただ様子を見に行くだけらしい。

「あの、わたしは」

 強がってあんなことを言ったはいいが、やはりいきなりこの別邸に置いていかれるのは心細い。今になって、葉月についてきてもらえなかったのが悔やまれる。

「お前はここで休んでいていいが……」

 いったん言葉を切り、清霞はわずかにしゆんじゆんする。そして、

「疲れていなければ、一緒に来るか?」

 と初めて、美世を仕事関係の外出に誘った。



 近くの農村は、人口がおよそ百人。別邸からは歩いて十五分くらいの距離にある。

 聞いた話では、ここでも温泉が湧くようで、観光客向けの小さな民宿が一軒あるという。土産物を置いた商店もあり、地方の農村にしては栄えているようだ。

 道は帝都のように舗装されていないが、平らにならされて比較的歩きやすい。

 たまに吹く風は冷たく、美世は一瞬、首をすくめた。

「今回の任務は、おもに調査だ」

「調査、ですか?」

 実力者である清霞が派遣されるのだ。余程強力な異形との戦いでも起こるのかと思っていたが、そうではないらしい。

 聞き返した美世に、清霞は軽くうなずく。

「ああ。……この辺りで、妙な怪奇現象が起こると報告があってな」

 妙な怪奇現象とは、それこそ妙な言い回しではないか。

 普通では考えられないような、おかしなことが起こるから怪奇と言われているのに、さらに妙とは、いったいどういうことだろう。

 美世の疑問を察したのか、「妙な、というのは」と清霞は説明する。

「想定されていない現象、という意味だ」

「想定されて、いない……?」

「そうだ。例えばだが、この国の各地には土着の伝承があるだろう?」

 その土地土地で、言い伝えられている伝承、民話。

 美世は学がないのであまりよく知らないが、有名な昔話ならいくつかは思いつく。それらの話には、舞台となった土地があるはずで。

「この土地にも、そういった伝承がある。ありふれた話だが……狐や狸が人をだますものや、この地にゆかりの人間が幽霊になって化けて出るようなものだ」

 つまり、この辺りの土地ではそれらの伝承にまつわる怪奇現象ならば、いつでも起こりうる。そしてそういった場合、大抵は対策方法をその土地の人々はよく知っていた。

 だから、清霞たちの出る幕も大してないのが常である。

 ところが、今回調査する現象には当てはまる伝承がない。

「報告によると、角の生えた大柄な鬼のような影を見た……というような証言が、相次いでいるようだ。しかし、この地にそれと合致する言い伝えも確認できなければ、今までに似た現象が起きた記録もないという」

「……起きるはずのない現象が起きている、ということでしょうか」

「厳密には違うがな。怪談話なんてものは、どこでも日々新しく生まれている。まったく新しい噂話から、新しい異形が誕生することもある」

 たいとくしようたいの任務には、そんな原因不明の『妙な』怪奇現象の原因の調査も含まれていた。

 人は正体のわからない、自分たちがよく知らないものを怖がる。この辺りではみのない怪奇現象が起これば、人々は恐怖し、その想像力はさらに異形に力を与えるだろう。

「もし原因が異形であるならば、芽は早いうちに摘まねばならない。原因が異形ではなかったとしても、ただの噂話が本当に異形として力を持つ前に解決する。それが私たちの仕事だ」

「な、なるほど……?」

 わかったような、わからないような。

 基本的に世間知らずで知識が足りない美世には、やや難解な説明だった。

「とにかく」

 ぽん、と清霞が片手を美世の頭の上に乗せた。

「まずは状況の把握と聞き込みだ。しばらく付き合ってくれ」

「はい」

 つい口元が緩んでしまう。

 清霞と出かけられるのがうれしい。それにこうしてすべてでなくとも仕事について話してもらえるのは、彼が美世を信じて認めている証拠のようで、もっとうれしくなる。

 いろいろな力が足りないせいで、きちんと清霞の手伝いができないのはがゆいけれど。

 別邸を囲む森を抜け、わずかに下り坂となっている道を歩いていくと、村まではすぐだった。

 村の入り口のような場所に、雑草にまみれた小さな地蔵が立っている。

「お地蔵さま、ですよね」

「ああ」

 ごく自然な動作でひざをつき、地蔵に手を合わせる清霞。美世もそれに倣う。

「……あのお地蔵さまも、何か、お話があるんですか?」

 地蔵の前を通りすぎてから美世が尋ねると、清霞は首を横に振った。

「あるかもしれないが、今回の件には関係ないだろうな」

「そう、なんですか?」

 ああ、と短く答える清霞のあとをついていく。

「あれはまあ、あいさつのようなものだ。私たちは余所よそものだからな」

 とっくに稲刈りも終わり、農閑期にさしかかった村はどこか寂しい。ちらほらと人は見かけるけれど、美世たちのような外から来た人の姿はない。

 視線を感じるのは、美世たちが周囲から浮いているからだろう。

「あそこで話を聞いてみるか」

 清霞が指し示したのは、雑貨や土産物を売っている商店だった。

「ついでに土産も見ていけばいい」

「はい!」

 遠出するのが初めてならば、誰かのために土産を選ぶのも初めてだ。

 美世はわくわくと心が躍るのを抑えられない。

「うれしそうだな」

「はい。すごく楽しくて、うれしいです」

「……もっと、にぎわっている場所にすればよかったな」

 そのほうが、もっと珍しいものがたくさんあって楽しかったのではないか。

 清霞が暗い表情で言うので、美世は慌てて否定した。

「そんなことありません! ここで、よかったです」

なくて、すまない」

 やはり、清霞はまだ美世に嫌な思いをさせたと気に病んでいるようだ。

 ここへ連れてきてくれたのは、美世の気を晴らそうという心遣いもあるのかもしれない。

だんさまは、不甲斐なくない、ですよ? ……は、早く行きましょう」

 口にしてから急に恥ずかしくなってくる。熱くなった顔を背けて、清霞の上着のそでを引いた。

「あ、ああ」

 何やら互いに気恥ずかしくて、顔が合わせられない。

 ぎこちない空気を漂わせ、二人は商店に入った。

「いらっしゃい」

 店番をしているのは、老齢に差しかかったくらいの女性だ。入店した二人をちらりと見ると、すぐに手元のそろばんに視線を戻す。

 店内は、かなり雑多な印象だった。

 品物は食料品から日用品、ちょっとした装飾品類や、古着まで売っている。加えて、多くはないが観光客向けの土産物も置いてあった。

 どこかほこりっぽい匂いがするが、やや古びた木造の小さな商店は、なんとなく親しみやすい雰囲気だ。

「ふむ、さすがに品数は多くないな」

 店員の女性に聞こえない程度の小声で、清霞がつぶやく。

 確かに帝都の商店と違い、洗練されているとは言い難く、広さもなければ商品の新しさもない。

 世間知らずな美世だが、生まれも育ちも帝都のため、こんな店は初めてだった。

(でもわたし、こういうお店は好き)

 れい洒落しやれた店よりも、落ち着く。

「……楽しいお店ですね、旦那さま」

「そうか?」

「旦那さまは、こういうお店、前にも来たことありますか?」

「ああ。今回のように出張になることも多いからな、うちの小隊は」

 対異特務小隊が向かうのは、昔ながらの言い伝えやらが多く残る、地方の農村や山の中ばかりらしい。

 店内を見回していると、美世はふと気になるものを発見した。

(可愛い)

 店番の女性がいる店奥の、勘定台に近い棚に、小さな木彫りの動物の置物が並んでいる。

 おすわりする犬や丸まって眠る猫、じっとうずくまる兎に、羽ばたきをする小鳥など、手のひらに収まる大きさの、可愛らしい動物たちばかりだ。

「気に入ったのかい?」

 声をかけられて顔を上げると、いつの間にか女性がじっと美世のほうを見ていた。

「はい。あの、可愛い置物ですね」

「そうかい。……そいつはこの辺りじゃよくある土産物だよ。定番ってやつだね」

「手作りなのですか?」

「そうさ。山でってきた木でね。冬の、畑仕事が暇なときに作ってんのさ」

 すべて手で彫っているとは信じられない、細やかな仕事である。

 自然に、すごい、と感嘆が漏れていた。

「買うのか?」

「……いいですか?」

 後ろから、ぬ、と顔を出した清霞にけば、「もちろん」とうなずく。

「いくつ買っても構わない」

「そ、そそそんなにたくさんは……」

「おや、買っていってくれないのかい?」

 もっと買ってほしいものはないのか、と心なしか期待している様子の清霞と、残念そうな女性の圧に負け、美世は躊躇ためらいがちに並んでいる動物を一種類ずつ手に取った。

 代金を女性に支払い、きんちやくにしまう。

「まいどあり」

「こちらの会計も頼む。あれを買いたい」

 清霞が指したのは、なんと店の隅に鎮座する大きなさかだるだった。

 どうやって持って帰るのか、美世が不思議に思っていると、どうやら村の若衆が後で別邸まで運んでくれるらしい。

「お二人さん、帝都から来たのかい」

 酒の代金を勘定しながら、女性が問うてくる。

「ああ」

「あんな大きな屋敷を持っているなんて、金はあるところにはあるもんだね。……まあ、最近は物騒な噂もあるし気をつけることさ」

 物騒な噂。美世と清霞は顔を見合わせた。

「その噂とは?」

 妙なところに食いついた、と言いたげな女性。

 しかし、清霞の仕事にかかわる大事な情報の可能性がある。

「あたしも詳しくは知らんよ。木を伐りにいった連中が化け物を見たとか、村はずれのおんぼろ小屋に怪しい余所もんが出入りしてるとかね。ま、いろいろさ」

 そう言って、女性は肩をすくめた。

「……おんぼろ小屋」

 ふむ、と清霞があごでながら考え込む。

 化け物がどんな姿形だったか、時間や状況、怪しい余所者とは。清霞はおそらくもっと詳しく女性に聞きたいだろうが、様子からして彼女もよくは知らなそうだ。

 ここで無理に問いつめて、悪感情を持たれるのもよくない。

「気をつけよう。世話になった」

 くるりと背を向けて、清霞は店の出入り口に歩いていく。

 美世がその後を追おうとすると、女性が「ちょっと待ちな」と呼び止めてきた。

「手を出しな」

「?」

 言われるまま出した両手に、ころんと何か小さなものが載った。

「あ……可愛い」

 それは、先ほど美世が購入した動物の置物と同じ細工の、亀の置物だった。

「おまけだよ。たくさん買ってくれたからね」

「でも」

 ただでもらうのは悪い。返そうとした美世を、女性が笑って止める。

「あんたたち、新婚かなんかだろう? ささやかだけどお祝いさ。亀は縁起がいいからね」

 ──新婚。

 何も知らない他者からもそう見られていると思うと、恥ずかしさと動揺で顔が上げられない。

「あ、あの、どうして……?」

「見ているこっちが恥ずかしいくらいのうぶさだからね。あんたの旦那、いい男じゃないか。とびきりの色男だしさ。仲良くやるんだよ」

 美世はなんとなくまだ結婚していない、とは言い出せず、蚊の鳴くような声でなんとか礼を口にする。そして、長い髪が揺れる広い背を急いで追いかけた。

 夫婦、結婚。そんな言葉がただ、ぐるぐると巡る。

 きっと、結婚しても日常生活が大きく変わってしまうことはないだろう。けれど、やはりただの婚約者と夫婦は決定的に違う。それくらいは、美世にもわかる。

(わたしの心臓、破裂したりしないかしら……)

 現時点で、こんなにもどきどきするのに。

「美世。用は済んだか」

「はい」

 幸せだ。どこよりも清霞の隣にいるだけで、心が温かくなって、安らぐ。自分はここにいていいのだと思える。

 その一方で、痛いくらいに胸が高鳴るのはなぜだろう。

(わたしは、旦那さまを……)

 心から、慕っている。その気持ちが、どういう種類のものなのかは、わからないけれど。



 村の周りをひと巡りし、美世と清霞は別邸へと戻ってきた。

 商店の女性が言っていたおんぼろ小屋──村はずれの廃屋の場所も確認してきたが、詳しい調査は明日、清霞がひとりでするそうだ。

 危険だと言われてしまったので、美世が付き合うことはできないだろう。

「おかえりなさいまし」

 二人を出迎えたのは、女中のナエだ。

 笹木の妻であるナエは、細い目とひょろりと細長い身体つきが特徴的な老女で、どことなく気の弱そうな雰囲気がある。

 どうやらこの家の使用人は、笹木一家でほとんど構成されているらしかった。

 働いているのは笹木夫婦と笹木の息子夫婦、若い男性は笹木の孫だという。それに加えて料理人がひとりと、未亡人の女中がひとり。

 普段この別邸に住んでいるのが正清と芙由の二人だけなので、多いくらいかもしれない。

「ああ」

「ただいま帰りました」

 清霞と美世がそれぞれ返事をすると、ナエが細い目をさらに細めて笑った。

「お疲れさまでございました」

「ナエ、夕食の席にあの人は来るのか?」

 あの人、とは芙由のことだろう。

 清霞がものすごく嫌そうなしかめ面なので、ナエにもすぐわかったようだった。瞬時に笑みを引っ込め、ゆっくりと首を横に振る。

「いいえ。今晩、奥さまはお部屋から出るつもりはない、とおっしゃって。……その、言いづらいのですが──」

「言わんでいい。どうせかんしやくを起こして、美世と同じ卓を囲みたくないとか、口汚く言ったのだろう。本当に変わらず反吐へどが出る」

「失礼いたしました。夕食の準備が整いましたら、お呼びいたします」

「頼む」

 その後、二人で部屋に戻って荷物の整理をし、夕食の時間になった。

 ナエの言った通り芙由は姿を現さず、食事の時間は和やかに過ぎていった。

 とはいえ、清霞は正清に話しかけられても適当にあいづちを打つだけ。美世も何か問われれば答えるくらいで、ほとんど正清の明るい性格だけでなんとか間を持たせた、という感じだ。

 ──そして食事を終え、入浴を済ませた美世は、深刻な問題に直面する。

(……お布団が、ひとつしかないわ……)

 案内されたときはうっかり流してしまっていたが、美世と清霞は二人でひと部屋。さらに、部屋にはベッドがひとつ。いろいろあって、そこまで気が回っていなかった。

 たぶん、客室が足りないから二人でひと部屋になった、というわけではない。空いている客室は一階にもあったし、二階にも他に空き部屋はある。

 しかもご丁寧に、広いベッドに枕が並んで二つ置かれていた。

(こ、これって、まさかだんさまと一緒のお布団で……?)

 緊張で、ひやり、と指先が冷たくなった。すっと血の気がひく。

 どうしよう、どうしようと、結論の出ない自問を繰り返すけれど、答えが出るはずがない。この部屋にはソファや長椅子がないので、寝られるのはベッドか床だけだ。

(べ、別の部屋を使わせてもらうしかないわ)

 そうだ。まだ正式な夫婦ではないのだから、別々の部屋にしてほしいと言えばいい。そうすれば解決する。

 思い出してみれば、笹木も駅で初めて会ったとき美世のことを「若奥さま」と呼んだ。実際に来年の春には祝言をあげるのだし、すでにほとんど夫婦扱いなのかもしれない。

(でも、でも、まだ婚約者だもの)

 同じ布団で眠らなければならない理屈はないはず。

 何も緊張することはない。ただ部屋の外に出て、別の部屋を用意してもらうだけだ。この時間に余計な手間をかけさせてしまうのは申し訳ないけれど、こればっかりは美世も困る。

 そこで、はたと違う方向に思考が飛んだ。

(い、いえ、別に旦那さまと一緒のお布団が嫌なのではなくて。ただ、ま、まだ、まだ心の準備が……できてないだけでって──わたしったら、何を考えているの? 恥ずかしい)

 美世が大混乱を起こしていると、がちゃり、と部屋の扉が開いた。

「……何をそんな、赤くなったり青くなったりしているんだ」

「ひっ! だ、だだだ旦那さま!」

 よく考えれば黙って部屋に入ってくるのは清霞くらいしかいないのだが、美世はつい驚いて少しだけ飛び退く。

 やましい、というか、恥ずかしい想像をしていたせいで、居たたまれなくて死にそうだ。

「ひって、お前……」

 あきれたような清霞の声に、ますます恥ずかしくなってくる。

 しかも彼からほのかに香る、いつもと違うせつけんの匂いでなんとなく、頭がくらくらする。

 正確には、匂いではなくしゆうと混乱のせいかもしれないが、それどころではなかった。

「ご、ごめんなさい!」

「いや、責めているわけではないんだが。で、なぜこんなところに突っ立っているんだ?」

「ええと、あの、それは……」

 まさか、ベッドがひとつしかなくて困っているところから、おかしな方向にまで発展した妄想を繰り広げていました、なんて言えない。

「……あの、その、ベッドが」

 しどろもどろになりながら視線を泳がせる美世に、清霞はちらりと問題のベッドをって、納得したらしい。

「ああ。どうせ父の指示か、笹木が変な気を回したのだろう。別に広さは十分なのだから、普通に寝ればいいと思うが」

「!?」

(普通……? 普通ってなんだったかしら)

 二人で同じ布団に並んで寝る。そのこと自体がすでに異常事態だ。

 美世にとって清霞は、最初は同居人だったが今は家族のような存在になった。しかし、たとえ家族であっても一緒に寝るのは普通ではないだろう。幼児じゃあるまいし。

 そうでなければ一般的な夫婦のように、ということになるけれど、それこそ覚悟ができない。

(寝るの? 本当に?)

 無理だ。絶対に無理。ただ並んで寝るだけだとしても、緊張してひと晩中落ち着かず過ごすに決まっている。

 それに昼間のこともある。芙由に認められないまま、何もしないままで心を決めてしまうのは何か違う気がした。

「美世?」

「わ、わたし、やっぱり別のベッドを用意してもらいます……!」

 ごちゃごちゃ、ぐるぐるとした思考を放棄し、美世は部屋から逃げ出した。




▼新作『宵を待つ月の物語 一』はこちら

https://kakuyomu.jp/works/16818093085173211186

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