わたしの幸せな結婚 三

序章

 男は冷たい秋の夜風に吹かれながら、枯れ葉に覆われつつある山道を早足で下っていた。

 うっかり帰りが遅くなってしまった。村まではもう少しかかる。

(最近はおかしな奴がうろうろしているっていうしなあ)

 村人がもう何人も、黒ずくめで顔を隠した人影を見かけたと噂になっている。

 直接何かをされたわけでも事件が起こったわけでもないが、見た目が見た目なので皆、不気味がっていた。

 男はまだまだ若くて力もあるけれど、やはり得体の知れないものはおそろしい。

(変なものには遭わないに限るよなあ)

 早く帰って、熱いに入って酒でもんで寝たい。冷気に身を震わせ、帰り道を急ぐ。

 ふと、男は足を止めた。

 何か、近くで物音がした気がしたのだ。草や枯れ葉を踏みしめるような。自分の足音かとも思ったが、それよりは少し遠い。

(鹿か猪か……熊だったら、まずい)

 気づかれないうちに、早く行かなければ。そう思った男の目が、今度は何かの影をとらえた。明らかに動物のたぐいではなく、二足で歩く人間の影だ。

 この辺りの山には村の人間以外、ほとんど立ち入らない。観光客や別荘の人々も基本的に山の中までは入らないし、余所よそものが山を出入りすれば目立つから噂になる。

 それこそ、近頃よく話題にのぼる、黒ずくめの人影のように。

(嫌な感じだな)

 しかし、もし村に危害を加えるような存在だったら。何かの犯罪にかかわるような、怪しい人間だったら。

 男はごくり、とつばを吞み込み、意を決して影の去った方向へ歩き出した。

 怪しい人影はしばらく歩いていくと、すぐに見つかった。目立たないようにか、全身を覆う黒いマントを身に着けている。

 夜目が利く男でなければ、見逃していたかもしれない。

(顔も隠れているから、あれが例の……)

 噂の黒ずくめの人影。間違いない。

 マントの人物は人目を気にしているのか、きょろきょろと辺りを見回しつつ山を下っていく。

 息を潜めてそれを追う男は、首を傾げた。

 この先には古びた小屋があるだけだ。村のはずれに昔から建っていて、崩れかけで今は使われていない。

 もしかして、その使っていない小屋をどこかの無法者がまり場にしているのだろうか。

(だったら、なおさら様子を見ておかないとなあ)

 今までの村人たちは、気味悪がって黒ずくめの人影を深追いしなかった。

 男もひとりで人影を追うことに恐怖はある。けれど、放っておいて大事になったらと考えると、恐怖よりも村の一員としての責任感がまさった。

 十分に距離をとり、気づかれないように人影を追っていく。

 そうして、小屋が見えてきた頃に男は足を止め、小屋の扉を開けた人影をじっと観察する。

(あっ……小屋にはもうひとりいるのか)

 扉を開けた先に、ちらりともうひとつの黒い影が見えた。どうやら、複数人が小屋でたむろしているらしい。

 注意しに行ったほうがいいだろうか。

 いや、相手が複数ならばひとりで行かないほうがいい。見るからに怪しい集団だし、物騒な凶器などを隠し持っていないとも限らない。

 男は、いったん帰ってから村に報告しようと決め、きびすを返して──そして、見てしまった。

 自分のすぐ後ろ、音も気配もなくじっとたたずむ大きな影。

 身長は七尺以上、横幅も大きくてのっそりと男を見下ろしている。目が合った途端、ぎちぎち、ぎちぎちとぎしりのような不快な音を立て始め、いやに耳につく。

 服装こそ、先ほどの怪しい人影と同じく黒いマントだが。

 ──これは、人ではない。直感的に確信する。

(怖い。怖い。怖い)

 冷たい手で心臓をつかまれた心地だった。背筋が凍りつき、歯の根が合わない。焦ってあと退ずさりした男は、勢いあまってしりもちをつく。

 影はぎちぎちと音を鳴らしながら、近づいてくる。……その頭部には、よく見ると太くて長い角が二本生えていた。

「う、うわあああっ!」

 たまらず悲鳴を上げ、そこで男の意識は途切れた。




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