終章
じゅうじゅうと、魚の焼ける音がする。
温まった
炊きたての白米に、みょうがと豆腐の味噌汁。香ばしいにおいを漂わせる、焼きあがったばかりの
同時に大きな弁当箱にも、おかずを詰める。
(できた)
今日もゆり
年も年であることと、美世がすっかりこの家に慣れたことを考えて、前よりも来てもらう時間を遅くしたり、休みを増やしたのだ。
給金も減ってしまうため、困らせてしまうかと思いきや、ゆり江は「坊ちゃんも美世さまもご立派になられて」と、むしろ我が子が独り立ちするときのように喜んでいた。
「おはようございます、
「ああ、おはよう」
いつも通りの、毎朝の光景。
「朝ごはん、できました」
「今朝も
新聞から目線を上げ、口元を
あ、とか、う、とか言いながらうろうろと目を泳がせる美世から、清霞は膳を取り上げた。
「早く食べるぞ」
「あ、は、はいっ」
いただきます、と二人揃って手を合わせ、出来たての朝食を口に運ぶ。
「この里芋、美味い」
「そうですか? よかったです」
「……そういえば、今日は姉が来る日か?」
「あ、はい」
「楽しそうだな」
「えっ」
「顔。笑っているぞ」
反射的に頰に手をやっても、自分ではよくわからなかった。
そんな美世の様子に、清霞はく、と吹き出すように笑った。
「まあ、いい。無理だけはするなよ」
「絶対にしません」
「そうか? ならいいが」
無理をしてもいいことはないと、さすがに学んだ。
それにしても、こうして二人で食事をしながら他愛もない会話ができる、この日常が何よりも尊い。
どういうわけか、もう悪夢も見ない。美世が自身の異能を悟ったからだろうか。
なんにせよ、あのときあきらめずにこの家を、清霞を選んでよかった。行動してよかった。──この日常が失われなくて、本当によかったと思う。
「いってらっしゃいませ」
朝食を終え、身支度を整えた清霞が出勤するのを見送る。
真っ青な空は高く、今朝は空気が少しだけひんやりとしていた。なんとも初秋らしい気候で、季節の移り変わりを意識する。
ついこの間までとても暑かった気がするのに、この家に来てから時の流れが早く感じられるようだ。
「いってくる。夕方には帰るが……姉によろしく言っておいてくれ」
「はい。あ、旦那さま」
「なんだ?」
「
「悪い。頼む」
中腰になった清霞の、
美世の贈った紫色の髪紐は、今日もしっかりその役目を果たしていた。清霞はこの髪紐を毎日つけてくれるので、今度また新しい髪紐を作って贈ろうと
「できました」
「ああ、ありが──」
「っ!」
息を吞む。
「…………」
「…………」
なにげなく振り向いた清霞の顔が、思ったよりもずっと、近い。もう少しで鼻先がくっついてしまいそうな、互いの吐息すら感じられそうな距離。
二人は言葉を失ったまま、静止した。
どくり、どくりと心臓が強く脈打っている。
予想外の状況に驚き、身体が硬直して、指一本も動かせない。
ただ、見つめあっているだけ。それなのに、どうしてこんなにも緊張してしまうのだろう。
「美世」
ゆっくりと、清霞の手が美世の頰に触れる。そして──。
「ん、んんっ!」
唐突に、誰かの
ぼうっと二人だけの世界に入っていた美世と清霞は飛び上がり、反射的に距離をとる。
恥ずかしさと気まずさから、清霞の顔を直視できない。美世は思い切り目を
「失礼。黙って見ているのも、なんだかいたたまれなくて、つい」
驚くべきことに、道のほうからそう言いつつ歩いてきたのは、美世の
相変わらず毒気のない笑みを浮かべ、品の良いスーツを着こなす新はやはり隙がなく、
「新さん。どうして……」
「お久しぶり、というほどでもないですが。──こんにちは、美世」
清霞が目覚めたあの日より一か月以上、薄刃家からは
掟破りに対する罰は相当重いと聞いた。ずっと新がどうしているか、気になっていたのだ。
「そんな、幽霊でも見たような反応はやめてほしいですね」
こんなにぴんぴんしているのに、と新は肩をすくめた。
「だって、あの、新さんが何か罰を受けたのではないかと、心配で」
「罰は受けましたよ。三週間ほど、自主的に謹慎していました」
「自主的?」
自分から閉じ込もっていた、ということだろうか。何か、思っていたのと違う。
「ええ。今回の件はまあ、いろいろありましたから。ですが、すべて夢見の異能に関わってのことでしたし、堯人さまがわざわざ我が家にいらっしゃって、もう少し家の在り方を見直すようにとおっしゃられたので。そのうち掟も変わると思います」
「そう、なんですね」
今の掟は確かにかなり厳しい印象がある。社会や法が移り変わっていくように、家の掟も変わっていくのが自然なのかもしれない。
事情がわかり、ほっとした美世とは反対に、清霞のまなざしは冷ややかだった。
「それで、何をしに来た」
「怒らないでください。ちゃんと用事がなければ、来たりしません」
「だから、その用事を聞いているのだが」
お前は邪魔だと言わんばかりに、素っ気ない態度。
かなり
「仕事に行かなくていいんですか? 久堂少佐。遅刻しますよ」
「ここにお前たち二人を残して行けるとでも?」
「俺は構いませんよ」
「私は構う」
なぜか、ばちばちと二人の間に火花が散る。
「心配性ですね。……俺はただ、提案をしに来ただけですよ」
新の言葉を聞いた清霞は、
「提案だと?」
「そうです。単刀直入に言いますと──俺を、美世の護衛として雇いませんか」
「ええっ」
「なんだと」
思わず、美世も調子のはずれた声を上げてしまった。
しかし突然、自分の護衛などという話が出てきたら誰だって仰天するだろう。
「悪い話ではないと思いますよ。美世はこれから先、夢見の力と
「…………」
「俺なら従兄ですし、美世のそばにいても下世話な勘繰りをされることもありません。どうです、いい条件でしょう」
「だが、自分の仕事はどうするんだ。交渉人だろう」
「俺の仕事はある程度、自由がききますので。もともと、会社に所属しているわけではなく、交渉の仕事を受けるかどうかは俺の気持ちひとつでしたしね」
さすが交渉人というべきか、新はすらすらと利点を並べ、まるで何も悪いことがないかのように思わせる。
清霞もすぐに
「考えておく。返事は保留だ」
「いいでしょう。普段なら今この場で決めてもらうところですが、そんなことをしたらさらに嫌われそうなので」
「当たり前だ」
二人のやりとりをはらはらしながら見ていた美世は、なんとか穏便に済んだ様子に
そこへ、自動車のエンジン音が近づいてきた。葉月を乗せた、久堂家本邸の自動車だ。
自動車から降りてきた葉月は、「あら」と声を上げる。
「美世ちゃんの従兄さんじゃない。あなたも来ていたの?」
「こんにちは。俺の名前は、新です。できればそう呼んでください」
「そう? じゃあ私のことも名前で呼んでいいわよ」
にこやかに言葉を交わす、葉月と新。
清霞はげっそりと疲れた顔で、
「またやかましいのが増えた……」
と、額に手を当ててため息を吐く。
美世は考える。
こういうとき、世の妻たちは夫にどんな言葉をかけるのか。あるいはどんな行動をするのか。残念ながら、そんな知識は持ち合わせていない。
けれども、このままげっそりした清霞を送り出すのは、婚約者として少々忍びない。妻はやはり、夫の私生活を支えてなんぼなのだ。
(
わからないが、何か行動で示さなければどうにもならないのは、身をもって痛感している。
(よ、よし)
心を決めて、美世は小声で清霞に
「旦那さま。あの、もう一度屈んでくださいませんか」
「ん? ああ、こうか?」
低くなった清霞の頭に向かって、手を伸ばす。そして、そっとその手を置き、動かしてみた。──つまり、美世が清霞の頭を
(あれ? でも、大人の男性が頭を撫でてもらって、うれしいかしら?)
急にぱっちりと目を開けたまま、黙り込んでしまった清霞に、どんどん不安になってきた。
子どもだって撫でられたら喜ぶし、美世自身だって清霞に頭をぽんぽんと優しく
「旦那さま?」
「……美世」
「はい」
清霞はどこを見ているのか、
「なぜ、それを選んだ……」
「え、あの、選んだ、というか……その、こうしたら旦那さまが元気になるかと、思いまして……。あ、お、お嫌でしたか? ご、ごめんなさい」
「嫌ではない」
ぱっと美世が手を離すと、その手はすぐさま
(あ……)
額に、柔らかいものが当たった。
けれど本当に一瞬のことで、混乱しているうちにもう、掴まれた手は離されていた。
何が何やらわけがわからず、額を押さえる。そこは、ほのかに熱を持っている気がした。
「元気になった。では、いってくる」
「は、はい……。いってらっしゃいませ……」
すっきりと晴れやかな微笑みを浮かべ、
ぼう、と放心する美世の姿を、葉月と新が揃ってにやけながら見守っていた。
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