終章

 じゅうじゅうと、魚の焼ける音がする。

 温まったなべふたをとれば、ふんわりと蒸気に乗ってしるの香りが台所いっぱいに広がった。

 炊きたての白米に、みょうがと豆腐の味噌汁。香ばしいにおいを漂わせる、焼きあがったばかりのさばの干物を皿に載せ、つやつやとれいに色づいた里芋の煮っころがしや、手製の漬物を次々に盛りつけて、ぜんに並べていく。

 同時に大きな弁当箱にも、おかずを詰める。

 流行はやりのコロッケなるものに挑戦したのだが、これがなかなか美味おいしくできた。

(できた)

 は出来上がった朝食と弁当をさっと眺めてから、膳を居間へ運ぶ。

 今日もゆりは休みである。

 年も年であることと、美世がすっかりこの家に慣れたことを考えて、前よりも来てもらう時間を遅くしたり、休みを増やしたのだ。

 給金も減ってしまうため、困らせてしまうかと思いきや、ゆり江は「坊ちゃんも美世さまもご立派になられて」と、むしろ我が子が独り立ちするときのように喜んでいた。

「おはようございます、だんさま」

「ああ、おはよう」

 きよは軍服の上着は着ずに、シャツ姿で新聞を読んでいる。

 いつも通りの、毎朝の光景。どう家は、すっかり日常を取り戻していた。

「朝ごはん、できました」

「今朝も美味うまそうだな」

 新聞から目線を上げ、口元をほころばせる清霞が綺麗すぎて、どぎまぎしてしまう。

 あ、とか、う、とか言いながらうろうろと目を泳がせる美世から、清霞は膳を取り上げた。

「早く食べるぞ」

「あ、は、はいっ」

 いただきます、と二人揃って手を合わせ、出来たての朝食を口に運ぶ。

「この里芋、美味い」

「そうですか? よかったです」

「……そういえば、今日は姉が来る日か?」

「あ、はい」

 づきとの勉強は、回数を減らして今も続けている。週に一、二度程度だが、知らないことを新しく知る時間は楽しいし、葉月と会って話せるのもうれしい。

「楽しそうだな」

「えっ」

「顔。笑っているぞ」

 反射的に頰に手をやっても、自分ではよくわからなかった。

 そんな美世の様子に、清霞はく、と吹き出すように笑った。

「まあ、いい。無理だけはするなよ」

「絶対にしません」

「そうか? ならいいが」

 無理をしてもいいことはないと、さすがに学んだ。

 それにしても、こうして二人で食事をしながら他愛もない会話ができる、この日常が何よりも尊い。

 どういうわけか、もう悪夢も見ない。美世が自身の異能を悟ったからだろうか。

 なんにせよ、あのときあきらめずにこの家を、清霞を選んでよかった。行動してよかった。──この日常が失われなくて、本当によかったと思う。

「いってらっしゃいませ」

 朝食を終え、身支度を整えた清霞が出勤するのを見送る。

 真っ青な空は高く、今朝は空気が少しだけひんやりとしていた。なんとも初秋らしい気候で、季節の移り変わりを意識する。

 ついこの間までとても暑かった気がするのに、この家に来てから時の流れが早く感じられるようだ。

「いってくる。夕方には帰るが……姉によろしく言っておいてくれ」

「はい。あ、旦那さま」

「なんだ?」

かみひもが緩んでいます。結び直しますから、かがんでください」

「悪い。頼む」

 中腰になった清霞の、ほどけかけた髪紐を強めに結ぶ。

 美世の贈った紫色の髪紐は、今日もしっかりその役目を果たしていた。清霞はこの髪紐を毎日つけてくれるので、今度また新しい髪紐を作って贈ろうとひそかに心に決めた。

「できました」

「ああ、ありが──」

「っ!」

 息を吞む。

「…………」

「…………」

 なにげなく振り向いた清霞の顔が、思ったよりもずっと、近い。もう少しで鼻先がくっついてしまいそうな、互いの吐息すら感じられそうな距離。

 二人は言葉を失ったまま、静止した。

 どくり、どくりと心臓が強く脈打っている。

 予想外の状況に驚き、身体が硬直して、指一本も動かせない。

 ただ、見つめあっているだけ。それなのに、どうしてこんなにも緊張してしまうのだろう。

「美世」

 ゆっくりと、清霞の手が美世の頰に触れる。そして──。

「ん、んんっ!」

 唐突に、誰かのせきばらいが割り込んだ。

 ぼうっと二人だけの世界に入っていた美世と清霞は飛び上がり、反射的に距離をとる。

 恥ずかしさと気まずさから、清霞の顔を直視できない。美世は思い切り目をらした。

「失礼。黙って見ているのも、なんだかいたたまれなくて、つい」

 驚くべきことに、道のほうからそう言いつつ歩いてきたのは、美世の従兄いとこうすあらただった。今の咳払いも、彼だったらしい。

 相変わらず毒気のない笑みを浮かべ、品の良いスーツを着こなす新はやはり隙がなく、さわやかな美青年だ。

「新さん。どうして……」

「お久しぶり、というほどでもないですが。──こんにちは、美世」

 清霞が目覚めたあの日より一か月以上、薄刃家からはおとがなかった。

 たかいひとは心配いらないと言ったが、それはみかどからの罰がないという話であって、おきてを破ってしまった新に対し、薄刃家自体が罰を与えるか否かというのはまた別の話。

 掟破りに対する罰は相当重いと聞いた。ずっと新がどうしているか、気になっていたのだ。

「そんな、幽霊でも見たような反応はやめてほしいですね」

 こんなにぴんぴんしているのに、と新は肩をすくめた。

「だって、あの、新さんが何か罰を受けたのではないかと、心配で」

「罰は受けましたよ。三週間ほど、自主的に謹慎していました」

「自主的?」

 自分から閉じ込もっていた、ということだろうか。何か、思っていたのと違う。

「ええ。今回の件はまあ、いろいろありましたから。ですが、すべて夢見の異能に関わってのことでしたし、堯人さまがわざわざ我が家にいらっしゃって、もう少し家の在り方を見直すようにとおっしゃられたので。そのうち掟も変わると思います」

「そう、なんですね」

 今の掟は確かにかなり厳しい印象がある。社会や法が移り変わっていくように、家の掟も変わっていくのが自然なのかもしれない。

 事情がわかり、ほっとした美世とは反対に、清霞のまなざしは冷ややかだった。

「それで、何をしに来た」

「怒らないでください。ちゃんと用事がなければ、来たりしません」

「だから、その用事を聞いているのだが」

 お前は邪魔だと言わんばかりに、素っ気ない態度。

 かなりいらっている様子の婚約者に、美世は首をひねる。清霞はこんなにも新を嫌っていただろうか。

「仕事に行かなくていいんですか? 久堂少佐。遅刻しますよ」

「ここにお前たち二人を残して行けるとでも?」

「俺は構いませんよ」

「私は構う」

 なぜか、ばちばちと二人の間に火花が散る。

「心配性ですね。……俺はただ、提案をしに来ただけですよ」

 新の言葉を聞いた清霞は、けんに深いしわを刻んだ。

「提案だと?」

「そうです。単刀直入に言いますと──俺を、美世の護衛として雇いませんか」

「ええっ」

「なんだと」

 思わず、美世も調子のはずれた声を上げてしまった。

 しかし突然、自分の護衛などという話が出てきたら誰だって仰天するだろう。

「悪い話ではないと思いますよ。美世はこれから先、夢見の力と上手うまく付き合っていかなければなりません。もしかしたら、夢見の力を悪用しようとする不届き者もいるかもしれない。あなたが仕事で美世のそばを長く離れることもあるでしょう。そういうときだけでも、美世を守れる人間がいたほうが何かと便利ではありませんか?」

「…………」

「俺なら従兄ですし、美世のそばにいても下世話な勘繰りをされることもありません。どうです、いい条件でしょう」

「だが、自分の仕事はどうするんだ。交渉人だろう」

「俺の仕事はある程度、自由がききますので。もともと、会社に所属しているわけではなく、交渉の仕事を受けるかどうかは俺の気持ちひとつでしたしね」

 さすが交渉人というべきか、新はすらすらと利点を並べ、まるで何も悪いことがないかのように思わせる。

 清霞もすぐにねつけるべきではないと感じたのか、渋い表情でうなった。

「考えておく。返事は保留だ」

「いいでしょう。普段なら今この場で決めてもらうところですが、そんなことをしたらさらに嫌われそうなので」

「当たり前だ」

 二人のやりとりをはらはらしながら見ていた美世は、なんとか穏便に済んだ様子にあんする。

 そこへ、自動車のエンジン音が近づいてきた。葉月を乗せた、久堂家本邸の自動車だ。

 自動車から降りてきた葉月は、「あら」と声を上げる。

「美世ちゃんの従兄さんじゃない。あなたも来ていたの?」

「こんにちは。俺の名前は、新です。できればそう呼んでください」

「そう? じゃあ私のことも名前で呼んでいいわよ」

 にこやかに言葉を交わす、葉月と新。

 清霞はげっそりと疲れた顔で、

「またやかましいのが増えた……」

 と、額に手を当ててため息を吐く。

 美世は考える。

 こういうとき、世の妻たちは夫にどんな言葉をかけるのか。あるいはどんな行動をするのか。残念ながら、そんな知識は持ち合わせていない。

 けれども、このままげっそりした清霞を送り出すのは、婚約者として少々忍びない。妻はやはり、夫の私生活を支えてなんぼなのだ。

だんさまが喜びそうなこと……いやされそうなこと。だめだわ。全然わからない)

 わからないが、何か行動で示さなければどうにもならないのは、身をもって痛感している。

(よ、よし)

 心を決めて、美世は小声で清霞にささやいた。

「旦那さま。あの、もう一度屈んでくださいませんか」

「ん? ああ、こうか?」

 低くなった清霞の頭に向かって、手を伸ばす。そして、そっとその手を置き、動かしてみた。──つまり、美世が清霞の頭をでている状態だ。

(あれ? でも、大人の男性が頭を撫でてもらって、うれしいかしら?)

 急にぱっちりと目を開けたまま、黙り込んでしまった清霞に、どんどん不安になってきた。

 子どもだって撫でられたら喜ぶし、美世自身だって清霞に頭をぽんぽんと優しくたたかれるだけですごく温かい気持ちになる。だから──と思ったけれど、いろいろ間違ったかもしれない。

「旦那さま?」

「……美世」

「はい」

 清霞はどこを見ているのか、ぼうぜんと視線を固定したままでつぶやく。

「なぜ、それを選んだ……」

「え、あの、選んだ、というか……その、こうしたら旦那さまが元気になるかと、思いまして……。あ、お、お嫌でしたか? ご、ごめんなさい」

「嫌ではない」

 ぱっと美世が手を離すと、その手はすぐさまつかまれ、そのまま強く身体ごと引き寄せられた。

(あ……)

 額に、柔らかいものが当たった。

 けれど本当に一瞬のことで、混乱しているうちにもう、掴まれた手は離されていた。

 何が何やらわけがわからず、額を押さえる。そこは、ほのかに熱を持っている気がした。

「元気になった。では、いってくる」

「は、はい……。いってらっしゃいませ……」

 すっきりと晴れやかな微笑みを浮かべ、さつそうと歩いていく背を見つめる。

 ぼう、と放心する美世の姿を、葉月と新が揃ってにやけながら見守っていた。




▼新作『宵を待つ月の物語 一』はこちら

https://kakuyomu.jp/works/16818093085173211186

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る