四章 暗闇の中の光

 もはや一刻の猶予もない。

 これ以上ないほど急いでいても、心は先へ先へとはやる。

「どこに向かえばいいんでしょう……」

どうきよに意識がないなら、たいとくしようたいの屯所ではないと思います。病院も考えられますが、久堂家の本邸か、君の住んでいた家のほうでしょうね」

 あらたの予想を頼りに、彼が運転する『つる貿易』所有の自動車で、二人は家に向かっていた。

 あまり自動車の運転は慣れていないと言う新だったが、まったく危なげなく道を走らせていく。

 は車内で、清霞が無事であるように、じっと祈っていた。

(どうか、どうか──)

 意識が戻っていてほしい。元気にしている姿が見たい。

「俺が言うのもなんですが」

 新が運転しながら、神妙に口を開く。

「きっと、大丈夫ですよ。あの人は本当に強い。あの人が万全の状態だったら、俺は戦っても勝てないでしょう。異能者の抑止力たるうす家の人間としては、由々しき事態ですがね……」

 さまようことしかできない霊たちに、清霞を殺せるはずがない、と確信している様子で、新は付け足した。

 対異特務小隊が戦っているという、恨みを持った異能者の霊がどんな異形なのか、美世にはわからないし、想像もつかない。だから、ただひたすら、彼の言葉を信じるしかなかった。

 人と建物であふれる帝都の中心部を抜け、だんだんと閑散とした郊外のほうへ進む。

 見慣れた道も、今は安心するより不安をあおる。否が応でも、穏やかな日々を思い出し、それをくしたときの絶望が頭をよぎるのだ。

「とにかく、思い詰めないほうがいい。薄刃の敷地内から出たら、異能の暴走を抑制していた結界の力もなくなります。再び夢見の力が暴走し始めれば、君もまた身体がきつくなるはずです」

「……心配してくださって、ありがとうございます。新さん」

 なんとか微笑みを浮かべ、美世は礼を述べた。

 ひとりだったら、たぶん何もできなかった。美世の事情をよく理解していて、なおかつ頼りになる従兄の存在がとても心強い。

「俺は何があっても美世の味方ですから」

 彼は最初からずっと、揺らぐことがない。己を取り巻くものに不満を感じながらも、家や役目や……努力に裏打ちされた能力に、誇りを持っているからだろう。

 よしろうは美世と新を似ていると言ったが、彼は美世よりもはるかに立派でまぶしい人だ。

 ──何があっても。

 それは何の偽りもない、彼の意思なのだと感じる。

 気づけば、美世はうなずき返していた。

「はい。信じています」

「急ぎましょう」

 自動車の速度が上がる。

 長閑のどかな田舎道をすさまじい速度で走る自動車は、さぞ奇異の目で見られただろう。しかし、おかげで家へはあっという間に着いた。

 自動車が停車するやいなや、美世は玄関へ真っ直ぐ走っていく。

 そして、玄関の戸に手をかけた、そのときだった。

 どたん、と大きな物音が家の中から聞こえてきた。

(え、な、何事かしら……)

 重いものが固いところに思い切りぶつかったような、かなり大きな音だった。それに加えて何やら人の気配がし、怒声のようなものまで聞こえてくる。

「俺が先に入りますから、美世は後ろからついてきてください」

「はい」

 あとから追いついてきた新の申し出にうなずき、玄関から家に上がった美世が目にしたのは。

 ──見知った男性二人が取っ組み合っている姿だった。

「てめえっ! 隊長を治せないってどういうことだよ!」

 怒鳴ったのは、清霞の部下のどう。そして彼に胸倉をつかまれ、怒りをぶつけられながらも涼しい顔をしているのはたついしかずだ。

「どういうことも何も。ぼくにも手の打ちようがないんだから、しょうがなくないかな」

「よくも平気でそんなふうに言えるな! お前、解呪が得意だって自分で言ったんだろ!?」

「間違えないでよ。ぼくは解呪じゃなくて、解〝術〟が得意だって言ったんだ」

くつをこねるな!」

 五道は普段の軽そうな雰囲気からは想像もつかないほど、頭に血が上っているようだった。一方で、一志は相変わらずのんびりと動じない。

「屁理屈ではないよ。君、副官なんてやっているのに、そんなことも知らないのかい?」

「うるさい! だいたいお前はっ、隊長や閣下の温情で家の罪を許されておきながら、連絡してもちっとも来ないし何様のつもりだよ!」

「うるさいのはどっちだか……」

 どうしてこの二人がここでこんなことになっているのか、美世にはさっぱりわからない。

 とりあえず二人の邪魔をしないように居間の前を通りすぎ、清霞の書斎兼私室へ向かう。

 緊張で胸が痛い。手が震え、ふすま上手うまく指をかけられない。

(大丈夫。……大丈夫、よ)

 一度、大きく息を吸って吐く。

 美世は声をかけるのを失念したまま、思い切り襖を引いた。

「美世ちゃん……?」

 最初に認識したのは、驚いてぽかんとするづき

 そこから視線をずらして、美世は目の前が真っ暗になりそうなほど、がくぜんとした。

「だ、だんさま……?」

 布団に横たわる清霞は、微動だにしない。平常でも真っ白な肌色はひどく青く、生気がなかった。

 考えたくない。しかしその姿はもうはかなげという段階ではなく、まるでろうにんぎようのよう。

 ふらり、と力なく崩れ落ちそうな身体をなんとか動かし、枕辺で座り込む。

「旦那さま」

 美世は絶望でぼうぜんとしたまま、無意識に清霞の冷え切った手を握った。手首から包み込むように握ると、かすかに脈を感じる。

(生き、てる……)

 息をしている。まだ、失っていなかった。

 あんで涙がこぼれる。すると、背後から温かい腕が美世を優しく抱きしめた。

「美世ちゃん。来てくれて、ありがとう。二人がばらばらになったまま、永遠にお別れになってしまったらどうしようって、私」

「ごめっ、……ごめんなさい。葉月さん……っ」

 葉月の涙声で、どれだけ彼女が心配し、不安だったかが伝わってくる。

 申し訳なくて、でも信じていてくれたことがうれしくて、美世はまた涙を溢れさせた。

「いいの。謝らないで。事情は清霞から聞いているから」

「でもわたし、旦那さまのことを信じていなくて、こんなことになって……後悔してもしきれません」

 この状態では、もうどうにもならない。

 清霞が生きていたのはうれしい。けれど意識が戻らず、このまま──とおそろしい想像をしてしまい、深い悲しみと後悔に打ちひしがれる。

「なるほど、霊の強いうらみにまれましたか」

 唐突に、すっかり置き去りにしてしまった従兄いとこの声が近くから聞こえてきた。

 ぎょっと振り向いた葉月が、驚きの声を上げる。

「あ、あなた……!」

「ああ、その節はどうも。久堂葉月さん」

 新は人懐っこい笑みを浮かべ、白々しくあいさつする。

「これはどういうことなの? 美世ちゃん」

「え、えっと、あの」

「俺が美世についてきたのですよ。──俺は、彼女の従兄ですので」

 うろたえるしかない美世に代わり、彼はさらりと事実を明かしてしまった。

 葉月はわずかにしゆんじゆんし、思い当たることがあったのか、衝撃を受けた様子で口元を押さえて固まる。

「噓。じゃあ、あなたがあの……?」

「おそらく、ご想像のとおりです。ああ、勘違いしないでください。俺はあなたとも彼とも敵対するつもりはありませんし、手を出そうとも考えていません。俺の仕事はただ美世を守り、支えることだけです」

「あら……」

 あっさり追及をやめた葉月に、今まで黙って部屋の隅に控えていたゆりが待ったをかける。

「葉月さま! よろしいんですか?」

「まあ、いいんじゃないかしら」

「……ゆり江は心配です」

 ため息を吐くゆり江を見て、美世は口を挟んだ。

「ゆり江さん。新さんはわたしの味方でいると、約束してくださいました。信じてください」

「……美世さま……」

「新さんはとても頼りになるんです。心配してくださって、ありがとうございます」

 微笑みながら言うと、ゆり江は潤んだ目元を慌ててそでで隠した。

「美世さま、ご立派になって……」

「お、おおです」

 まったく立派になどなれていない。ただ少し、迷うのを減らしたくらいだ。

 信じるのだと決めたら、それを貫くことが大事。今回のことで嫌というほど思い知った。

 清霞なら受け止めてくれると信じず、自分の悩みを打ち明けなかったばかりか、勝手に遠ざけた。そのせいで今、謝れるかもわからない状況になってしまった。

 疑心があればその分、相手の心も離れていく。

「そろそろいいですか? 少し、話したいことがあるのですが」

 一瞬、しん、と静まった室内で、新が小さく挙手した。

「何かしら、美世ちゃんの従兄さん?」

「……おそらく、ですが。彼を目覚めさせる方法はあります」

 この発言には一同が絶句する。そればかりか、居間で取っ組み合いをしていた五道までもが「本当に!?」と転がり込んできた。

「ええ。しかし難しいことも確かですね。……死者の強いおんねんを浴びて、こうしてまだ命があること自体が奇跡のようなものですし」

「旦那さまを助けられる……?」

「──夢見の力があれば」

 美世は息を吞んだ。

 夢見の異能があれば、清霞を助けられる。つまり、清霞の命を美世が握っているということ。

「そんな」

(異能をまったく使いこなせないのに)

 意識して異能を使ったことなど一度もない。勝手に暴走しただけ。それを自分の意思で操り、清霞を救うために使うなど到底無理な話だった。

 その場の全員の視線を一身に受け、冷や汗が流れた。

「美世。どうしますか? やりますか、それともあきらめますか?」

「あ、あきらめはしません……」

 新の静かなひとみに動揺する。まるで、試されているように感じた。

 美世が、この機会を生かすのか、殺すのか。

 緊張は、先ほどまでの比ではない。皆の期待を背負い、大切な人の命さえこの頼りない掌中にある。

(わたしは、異能を使えるの?)

 ずっと、自分に異能が目覚めることを願っていた。しかしいざとなったら、こんなにも手が震えて息が苦しくなる。

 情けなくて仕方ない。でも。

「新さん、本当にわたしに旦那さまが救えますか……?」

 このまま、何もしないで何もかも失ってしまうのは耐えられない。

 ここであきらめてしまったら、みかどの意思に背いてまで美世に付き合ってくれた新にも申し訳なく、美世自身も後悔してもしきれずに死んでしまうだろう。

「俺にも確かなことは言えません。すべては仮説にすぎませんから。ですが、やってみる価値はあると思います」

 ほんの小さな可能性だったとしても、希望があるならやらない手はない。

 美世は恐怖からこぼれそうになる涙をこらえ、大きくうなずいた。

「……わかりました。やります」

 覚悟を決めた美世の手を握ったのは、葉月だった。

「美世ちゃん、無理はしないで。清霞のことはもちろんだけれど、あなたのことも皆、心配しているわ。あなたが大切だから。あなたのことが大好きだからよ。忘れないでね」

「はい。ありがとうございます」

 ああ、なんてうれしい言葉だろう。

 美世は心からの笑みを浮かべる。そして、優しく葉月の手を握り返した。

「わたしも、大好きです。皆さんのことが」

 こちらをじっと見つめるゆり江や五道、そしてあとからやってきた一志の顔を順々に見回す。葉月の言うことを裏づけるように、それぞれの瞳は美世自身を気にかけているのだと感じられた。

 心にあふれてくる、温かな思い。これがきっと、好意や愛情と呼ぶべきものなのだ。

「新さん、教えてください。わたしはどうしたら異能が使えますか?」

 黙って美世の決断を見守っていた新は、ふ、と息を吐き、ゆり江のほうに目を向けた。

「布団を一組、用意してもらえますか? ここへ並べて敷いてください」

「……布団?」

「はい。美世にそこへ寝てもらいます。おそらく異能を使ったら、身体と意識が切り離されると思うので」

 新に言われた通り、清霞の眠る布団の隣に並べて布団を敷き、美世がその上に横になる。

「次に、異能の行使には、相手の肌に触れていたほうが確実です。──美世、彼の手を握ってください」

「はい」

 血の気のない、清霞の真っ白な手に触れる。凍りついてしまいそうなほどに冷たいが、美世の手も緊張で冷え切っているので、少しだけ温かく感じられた。

 目を閉じると、何か黒くてどろどろとしたものが清霞のほうからつないだ手を伝って流れ込んでくる気がする。

「これは……」

「感じますか? それが怨念の一端です。今は、人の心をむしばむ毒になり果てていますが」

 毒。その表現はとてもわかりやすかった。

 なんとなく、このどろどろとしたものが清霞を覆いつくし、彼の心や意識までも吞み込んでいると伝わってくるからだ。これを取り払うか、吞み込まれた清霞の意識を浮上させなければならない。

 だんだんと周囲の音や、気配が遠ざかっていく。その中で、冷静な従兄の声だけが、はっきりと聞こえてくる。

「美世、強く想像してください。あなたはこれから、身体を抜け出した魂だけの存在になって、久堂殿の中に入り込む。彼の魂を探し出すのです」

「は、い……」

 美世は頭の中に、身軽な魂だけになった自分が、怨念に塗りつぶされた清霞の中へ飛び込む様子を思い描いた。そしてそれが現実となるように、願う。

 すると、急にふわり、と身体が軽く、浮き上がった感じがした。

(すごい)

 閉じていた目を開けると、天井ではなく見渡す限り真っ暗な闇が続いている。

 美世は無意識に、両腕で自分の身体を抱きしめた。どこまでも、どこまでも……上下も左右もなく黒に覆われた世界は、怖い。自分までも吞み込まれてしまいそうになる。

(でも、行かないと)

 ぐ、と奥歯をみしめて、一歩踏み出す。

 自分がどこに立っているのかさえわからないが、美世はとにかく前へ進んでいく。

 もう、新の声も聞こえない。正真正銘のひとりぼっち。

 振りしぼった勇気はたちまちしぼんでしまい、代わりに小さい頃、蔵に閉じ込められたときのことを思い出してしまう。

 怖くて、心細くて、目の前が涙でにじんだ。

 やはり、何も変わっていないのだと思い知らされる。ずっと孤独で、誰も助けになど来やしない。いつまで、どこまで続くかもわからない暗闇の中に、たったひとり。

だんさま、どこ……?)

 闇の中を、ひたすら歩く。前に進んでいると思いたいけれど、ただ黒いだけの空間ではその実感も得られない。

 どのくらいの時間が経っただろうか。

 ほんの数分のような気もするし、何時間も経ったような気もして、時間の感覚があいまいになってきた頃。美世は、かすかな物音を聞いた。

(外の音かしら。それともこの暗闇の中から?)

 音のするほうへ近づいていくと、ぼんやりだが、だんだんと何かの風景が見えてくる。

(夜空だわ……)

 美世が見上げた先に、たくさんの星が瞬く晴れ渡った夜空が広がっていた。足元に目を向ければ、まるで現実と変わらない、土をならした田舎道。山が近く、道の脇には草木が生い茂り、虫の音まで聞こえてくる。

(ここは、どこ?)

 急な変化で、美世は戸惑ってしまう。

 風景は清霞と住む家の周囲と似通っているけれど、どうやら違う地域らしく見慣れない。かといって、まったく見当もつかない場所かといえばそうでもなく、同じ帝国の中のどこかだとは予想がつく。

 しかし、いったいどうしてこんなところに来てしまったのだろう。

 自然の匂いが本物としか思えず、現実なのか幻なのか、とつに判別できない。

(でも、わたしの身体は今、家で眠っているはずで……)

 だからやっぱり、ここはあの闇の中に生じた幻の世界なのだ。

 しばしぼうぜんと立ち尽くしていると、遠くから、草の上を何かが動き回っている──おそらく人が靴で草を踏みしめている音が、微風に乗って流れてきた。

 誰かいる。美世はその正体を知っていた。

「旦那さま!」

 姿は見えない。ただ、音だけを頼りに美世は駆け出した。

 身体は軽く、息も苦しくならない。これなら、どこまででも走って行ける。

(あれはきっと、いいえ、絶対に旦那さまだ)

 理由はないのに、確信できた。

 清霞はこの夜の世界でひとり、何かと戦っている。その何かはきっと、彼自身をみ込んだ、死者の強い怨念。

 ──早く会いたい。

 美世は迷わず、ひたすら夜道を駆けた。



   ◇◇◇



 木々の間を縫い、どろどろと、黒や赤、紫の鈍い光を放つ無数の霊たちが迫ってくる。

 かろうじて人型に見えなくもないが、どれも溶けかけの泥人形のようで男女の区別すらできないそれらを、清霞は異能の炎で焼き払った。

 もう、どれだけの時間こうしているのだろう。

 気づけば、清霞はここ──夜の森にいて、倒しても倒しても襲ってくる霊たちと戦い続けている。

(あのとき、死んだ、と思ったが……)

 清霞はひとり、ここに来る前の出来事を思い返す。

 あの夜。

 対異特務小隊では、オクツキから解き放たれた霊たちを退治するため、大規模な作戦を遂行中だった。

 というのも、不運にも一般の通行人が夜道で霊と遭遇し、ついに犠牲となってしまったからだ。休暇中の清霞が呼び出されたのはそのせいだった。

 犠牲者が出た以上、もたついている暇はない。

 軍と宮内省の双方の合意のもと、対異特務小隊は討伐作戦を行うことになった。

 はじめ、清霞は五道とともに作戦本部にて指揮をとっていた。しかしおんりようとなった異能者たちの魂はごわい上に数が多く、隊員たちは苦戦を強いられた。

 清霞としても、この件に関してあまり時間をとられるわけにはいかない。早急にけりをつけ、美世を迎えに行きたかった。ゆえに隊長でありながら本部を五道に任せ、清霞自ら討伐に加わったのだ。

 おそらく、その判断は間違っていなかった。

(失敗だったのは、怨霊どもの力を見誤っていたことか)

 異能者たちは死してなお、能力を持ち続ける。それどころか、肉体というかせを失うことでより魂の格が高まり、生前よりも力が強くなりさえする。

 意思や思考がなく動きが緩慢なので、決してかなわない相手ではないが、彼らの恨みの力が脅威であることは間違いない。小隊内でも、さほど力の強くない隊員たちにとっては荷が重い戦闘になる。

 ほんの、偶然。

 清霞の近くで霊と戦っていた隊員のひとりが、今にも強いおんねんじきになろうとしているところを目撃した。

けろ!』

 叫んだ清霞は咄嗟に隊員と怨霊の間に入り、あたりの霊たちごと異能で一掃する。怨霊は圧倒的な力を前になすすべもなく灰のようになって霧散し、すっかり消滅した。

 しかし一気に怨霊を滅することには成功したものの、異能を使う寸前で清霞は怨念に触れてしまっていた。

かつだったとしか言いようがないな)

 縦横無尽に異能を振るいながら、振り返って清霞は嘆息する。

 いつもなら、あんな怨霊どもにやられるような清霞ではない。その程度で最強を名乗れるほど、異能者の世界は甘くなかった。

 だが、事実として、あっという間に怨念に意識も心も吞み込まれ、気づけばこんな場所でひたすら戦っている始末。おそらくおおかたの怨霊は片付いていたし、小隊は問題なく維持できていると思うが……。

(ここは私の夢の中か、あるいは地獄か)

 意識を失ってここへ来た。それは確かだ。ただ、どちらにしろ戻る方法がわからない。

 もしかしたら戻る方法などないのかもしれないけれど、それを確かめることさえできない。

 ここは、まるで現実の討伐作戦の続き──再現のようにも思える。

 しかし怨霊たちは無限に湧いてきて、空に浮かぶ月は何時間経っても中天からずっと動かない。異常な時間の進みの中で、この状況がいつまでも続く可能性が脳裏をよぎった。不思議なことに肉体的な疲れはないが、終わりの見えない戦いは気がる。

 抜き身のサーベルに異能の雷をまとわせ、清霞はゆっくり動く怨霊たちをひと息に消滅させた。

「くそっ」

 消した先から、また次々と溶けかけの泥人形のような影が湧いてくる。

 さすがの清霞も精神的な疲労を覚え、いらちを隠せない。気づけば、浅く肩で息をしていた。

(こんなところで……)

 何もかもをやり残し、放ったまま。

 自分が死んだのだとしたら、美世はどう思うだろうか。また泣くのか。それとも、薄刃家で幸せに暮らせるのだろうか。──清霞のことを忘れて。

 目をつぶり、悔しさに奥歯を嚙みしめると、つ、と汗が一筋流れた。

「旦那さま」

 ……ふと、美世の声を聞いた気がした。

 まさかそんなはずはない。ここは明らかに現実ではないのだ。ここで彼女の声がするとすれば、それは幻聴か、あるいは清霞を惑わそうとする異形の仕業だろう。

 つい苦笑いが漏れる。

 そんなに自分は心細かったのか。婚約者の存在を無意識に求めてしまうほどに。

「旦那さま」

 ほら、また聞こえる。

 自分はこんなにも弱い人間だったのだと思うと、あきれて笑いすら引っ込んだ。

「旦那さま。もう、戦わないでください」

「美世?」

 あまりにもはっきりと、近くで声が聞こえたので、清霞は驚いて振り返った。

 長い黒髪をなびかせ、澄んだ黒曜石のようなひとみが光る。巫女みこ装束に身を包んだ彼女は、まさしく清霞の婚約者だった。

 彼女は真っ直ぐにこちらを見上げながら、ゆっくりと清霞の空いているほうの手を握った。……少しだけ荒れているその手は、ほんのり温かい。

だんさま」

「……本当に、本物の美世、か?」

「はい」

 美世ははっきりうなずく。

 こんな幻を信じるなど、どうかしている。そう思うのに、清霞の身体は勝手に動いてサーベルを放り出し、彼女のきやしやな身体を強く抱きしめていた。

「美世。……美世」

「旦那さま?」

 ああ、そうか。

 認めたくはないけれど、どうやら自分は本当におそろしかったらしい。生きているのか死んでいるのかもわからず、ひたすら戦って。

 こんなにも、彼女の身体の温かさに安心する。

「……美世。本当に、お前か?」

「はい」

「どうして、ここに」

「旦那さまを迎えにきました」

「私は、死んでいないのか?」

「もちろんです!」

 あまりにも美世が力強い口調で答えるので、清霞は笑ってしまった。

「もちろん、か」

「はい。旦那さまが死んでしまったら、悲しくて後を追うかもしれません」

「それはやめてくれ」

 しかし清霞自身も美世も、死んでいないのなら良かった。

 清霞は美世から離れ、サーベルを拾うと、背後に迫っていた怨霊たちをまたぎ払った。

 どちらにしろ、この次々と湧いてくる怨霊たちをなんとかしなければ、落ち着いて話もできない。

「……いい加減、うつとうしいな。美世、これをなんとかして現実に戻る方法は知っているか?」

「はい、あの……たぶん」

 見違えるようにりんとした雰囲気をまとっている美世だったが、自信なげにまゆを下げた。けれどもそれはわずかな間のことで、すぐに前方へ歩を進め、清霞の隣に並ぶ。

「どうする?」

 情けないことに、今の清霞には何の打開策もいだせない。尋ねる間にも、新たに怨霊たちは現れる。

 美世は胸元を押さえて、霊たちを見つめた。そして、消えそうなほど小さくつぶやく。

「旦那さま、手を握っていていただけませんか」

「わかった」

 手を握ると、彼女が安心した様子で肩の力を抜いたのがわかった。

 月の光に照らされ、静かにたたずむ婚約者の姿は神々しく、美しい。清霞はそんなことを思った自分に、少しだけ動揺した。

 美世がしたことはいたって単純だった。

「──消えて」

 たった一言。けれどもその効果は絶大だった。

 無数の霊たちが一気にかすんで煙のように消えていく。清霞があれほど苦労して戦い続けた霊たちが、本当に、一瞬で。

 驚いて、清霞はしばらく言葉を失った。

「美世、今のはいったい」

「……わたしにもよくわかりません。夢見の異能、みたいです」

 人の眠りの中で、万能の力を発揮する異能。

 確かに、今のこの状況が清霞の眠りの中にあるものならば、夢見の力の範囲内だろう。美世がここに来られたことも、怨霊を消したことも不思議はない。

 いつの間にそんな技を会得したのかは疑問だが。

「お前もすっかり異能者になったというわけか」

 清霞がぽつり、と呟くと、美世は目をまん丸に見開いた。

「え?」

「なんだ?」

「い、いえ……なんだか、あらためてそう言われると不思議な感じがして」

 む、と眉をひそめ、かすかに首を傾げる美世。

 どうやら、そういったことはあまり考えていなかったようだ。ずいぶんと印象が変わったように思えていたけれど、そうでもないらしい。

 清霞はすっかり気が抜けて、息を吐いた。



   ◇◇◇



 美世は清霞と手をつないだまま、あかりひとつない夜道を歩く。

 月の光だけが頼りだが、不安はない。ひとりでこの道を歩いたときは不安で仕方なかったのに、清霞が隣にいるだけで、こんなにも気分が上向く。

 また彼と会えて、救うことができて、心の底からあんした。

「静かだな」

 清霞がしみじみと言った。

 ここには、二人以外に誰もいない。虫の音や、川の水が流れる音だけが聞こえている。

 状況はまったく違うのに、いつかの夜を思い出す。あの、二人で並んで月を眺めた夜を。

「でも、少し寂しいです」

「……そうだな。ここは、私の夢の中なのか?」

「あ、はい。たぶん、似たようなものだと思います。わたしも、詳しくはよくわかっていないんですけど」

 いろいろと理解できていないことも多いばかりか、いまだに異能を使った実感もない。美世はただ祈っただけだ。清霞を助けたいと。

 だから、異能者だなんて言われても他人ひとごとのように感じる。

「……旦那さま」

「なんだ?」

 美世が清霞に、一番、伝えないといけないこと。

 今、伝えなければ。今しか、伝える機会はない。

「ごめんなさい」

 美世は立ち止まり、深々と頭を下げた。

 たくさん、間違えた。

 清霞は優しくて、なんでも受け止めてくれて。美世は自分のことばかりで、彼の思いを理解しなかった。清霞には美世の気持ちを理解できないとさえ、どこかで考えていた。

 なんて、愚かなんだろう。いい加減、自分が大嫌いでうんざりする。

 何と答えが返ってくるか怖くなって、目を閉じた。

 そして頭上に降ってきたのは、かすかな嘆息。

「謝るのは私のほうだ」

「え?」

「すまなかった」

 顔を上げると、清霞は所在なげに瞳をさまよわせている。

「かっとなって、理不尽なことを言ったと思う。お前を傷つけるつもりはなかったと言っても言い訳にしかならないが」

「いいえ!」

 美世は勢いよく首を横に振って否定する。

「わたしが悪かったんです。旦那さまはたくさん優しくしてくださったのに、わたしがそれを無駄にしてばかりだったから」

「そんなことは」

「大切なことが、何も見えていませんでした。勉強のことだってそうです。わがままを言って始めた上に勝手に根を詰めて、周りが見えなくなってしまいました。全部、自分ひとりでやろうとして、結局できなくて……」

 自分で言っていて落ち込んでしまう。

 家族が欲しかった。なりたかった。でも家族というものを一番理解していなかったのは美世自身。ひとりで抱えこみ、大事なことを何も言わず、清霞や葉月は歩み寄ってくれたのにその機会を無にしていた。

 どちらか一方ではなく、互いに近づこうとしなければ、きずななど生まれはしない。

「ごめんなさい。旦那さまでも薄刃でもどちらでもいいなんて、そんなの噓です。わたしは、許されるなら、旦那さまといたいんです。お願いします。ずっと、おそばにいさせてください」

 ありったけの勇気を振り絞って、美世は本心を打ち明けた。

 嫌がられたり、鬱陶しがられたりするのが怖い。本心をさらけ出して拒絶されてしまったら、もう立ち直れないと思う。

 けれど、そうやって足踏みしていては一向に前へは進めず、人と信頼関係を築くこともできない。

 清霞はしばらく黙ったままだったが、ややあって、ふう、と肩の力を抜いた。

「言われなくても、私はずっとそのつもりだった」

「旦那さま……」

「こんな私でいいなら、戻ってきてほしい。薄刃ではなく、私を選んでくれないか」

 目頭が熱くなる。

 こんなに、美世の望む通りになっていいのだろうか。これこそが、己の願望が見せる幸せな夢なのではないか。つい、疑いたくなった。

 けれど、だとしても、答えは決まっている。

「はい。よろしくお願いします」

 薄刃の二人のことも、今はだんだんと好きになってきた。でも、やはり違う。美世の帰りたい場所は、一緒にいたい人は。

 ぐずぐず涙ぐんでいると、ぽん、と頭の上に大きな手が優しく置かれた。

「よかった。お前に嫌だと言われたら、どうしようかと思っていた」

「そ、そんなことは、絶対に言いません」

 清霞は「どうだかな」と笑う。

「……それにしても」

「?」

「本当なら、私が薄刃家までお前を迎えに行くつもりだったのに、逆にこうして迎えにきてもらったのでは、格好がつかないな……」

 大きく肩を落とした清霞の落ち込み具合に、思わず美世も少し笑ってしまった。

 いつも堂々としている彼にしては珍しい、意外な一面を見てしまった気がする。

「大丈夫です。だんさまはいつだって、とっても格好いいですから」

「……そうか」

 清霞は微妙な表情で答える。二人は繫いだままの手を強く握りなおし、確かな足取りで暗闇の中へ踏み出した。



 重たいまぶたをやっとのことで持ち上げると、ぼやけた視界いっぱいに茶色い木目の天井が広がっていた。

 頭の回転は鈍く、重たいのは瞼だけではなく身体全部。

 美世は数秒間、ぼうっと天井を見つめる。

「目が覚めたか?」

 そこへ、ぬ、と寝起きでも美しすぎる清霞の顔がのぞき込んできて、思わぬ不意打ちに心臓が跳ね上がった。

「だ、旦那さ……っ、ごほっ」

「落ち着け。急にしゃべろうとするな」

 勢いあまって飛び起き、き込んだ美世の背を、清霞は優しくさする。

「旦那さま、もう、大丈夫なのですか?」

 言いつつ、美しい婚約者を上から下までじっと観察する。

 どうやら清霞自身も目覚めてから間がないらしく、寝間着の浴衣ゆかたで髪も下ろしたまま。顔色も悪く、どこから見てもまだ病人である。しかし口調や表情はしっかりしていて、意識に問題はなさそうだ。

「大丈夫、と言いたいところだが、こうまで身体が鈍ってはかなわんな」

 清霞はおつくうそうに息を吐き、髪をかきあげる。

 その緩慢な仕草は彼が自分で言う通り、なかなか本調子には見えないが、とりあえず元気なことがわかってほっとした。

「よ、よかったです」

「心配をかけたな」

「うぅ」

 ぼろぼろと涙があふれて止まらない。

 今まで恐怖と不安で胸が締めつけられ、息すら止まりそうだった。それが、やっと生きた心地になれた。

「泣くな。……まったく」

 まるで幼子をあやすように、次の瞬間、美世は抱きしめられ頭をでられていた。……あとから思い出すととんでもないことだが、このときばかりは美世も清霞にしがみついて大泣きしてしまった。

「ほら、そろそろ泣き止め」

「だ、旦那さま」

「なんだ?」

「あの、そんな小さい子どもを相手にするみたいなのは、ちょっと……」

 涙がおさまってくると、激しくしゆうが襲ってきて、清霞の胸元から顔を上げるに上げられず、離れられない。

 けれども控えめな美世の抗議はまったく通用しなかった。

「お前はこうすると泣き止むからな」

「そ、そん……なことは、ありません」

 思い返してみれば、前にもこんなふうに大泣きして慰められたことがあった気がする。

(は、恥ずかしい)

 抱きしめられ頭を撫でられて泣き止むなんて、本当に小さい子どもではないか。十九にもなって、しかも二度目。さすがにありえない。

 穴があったら入りたい気分だ。

「あの~、ちょっといいかしら、お二人さん」

 そんな二人の間に、明らかに笑いそうになっている葉月の声が割って入った。そこで美世ははっと我に返る。

(あっ)

 すっかり忘れていた。ここが現実の家であるならば、当然、皆が揃っているわけで。つまり、自分たちは皆の前で──。

 理解した瞬間、つま先から頭のてっぺんまで羞恥の熱が駆け巡り、美世は今度こそ叫び出しそうになった。

「うふふふふ。もう、すっかり仲直りしたのね。安心したわ~」

「本当に。よかったですねえ」

 葉月とゆり江が言うと、近くにいた五道も神妙に同意した。

「でも独り身には目の毒でした」

「なんだ、五道くんは意外と遊び慣れてないの? いつもの軽薄な感じは、もしかして演技?」

「…………」

 一志の余計なひと言によって、再びつかみあい、殴りあいがぼつぱつしそうになったが、清霞の「お前たち」という低い声で、ぴたり、と静止する。

「少し静かにしろ。美世が目を回しそうになっている」

「な、なっていません……よ」

 目を回すことはないけれど、一生分の羞恥で再起不能になりそうではある。

「美世」

 ふと、感情の乗らない声で呼んだのは、今まで黙って皆の様子を眺めていた新だった。

「新さん……」

「俺はもう、お役御免のようですので、これで帰らせてもらいます」

 いつも浮かべている笑みもなく、淡々と告げる彼に何と言ったらいいのか迷う。

 本当は、もう少しだけこの場にとどまってくれたらいいと思うけれど、引きとめるのも違う気がした。

「では」

「新さん。ありがとうございました」

 美世は姿勢を正し、精一杯の感謝を込めて頭を下げた。すでに背を向けて部屋を出て行こうとしていた新は、振り向いて苦笑する。

「礼には及びませんよ。俺は自分のしたいようにしただけです」

「はい。……それと、一緒に帰れなくてごめんなさい。でも、罰を受けることになったら必ず知らせてください。そのときはわたしも薄刃家の一員として、ちゃんと罰を受けますから」

「わかりました」

 うなずき、ふすまを引いた新の背に、清霞も声をかける。

「鶴木新」

「なんでしょうか」

「……いずれ、再戦を申し込む。次は負けない」

「そうですか。せいぜいがんばってください」

 新はにっこりと笑うと、今度こそ、この場を後にした。




▼新作『宵を待つ月の物語 一』はこちら

https://kakuyomu.jp/works/16818093085173211186

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