三章 薄刃(うすば)家へ

 時をわずかにさかのぼり。

 打ち合わせに遅れてきたあらたを、きよはひとにらみした。

「遅い」

「いや、申し訳ないです」

 新はまったく悪いと思っていないような笑顔で、応接室のソファに座った。

「遅刻とはいい度胸だな」

 さほど重要な打ち合わせというわけではない。数分くらいの遅刻でそう文句を言うこともないかもしれないが、清霞は今、気が立っている。

「言い訳のしようもありません。暑さでうっかりしていたようです」

「……一応、理由は聞くが?」

「ちょっとした勘違いですよ。今日、どう少佐は非番という話だったので、ご自宅に伺ってしまいまして」

 清霞は驚き、目をみはった。

 確かに当初の予定では今日は非番だった。しかし、オクツキの霊たちがどんな動きをするかもわからない現状でのんびり休んでいる暇はなく、休日返上で出勤している。

 その旨はちゃんと伝わっていると、すっかり思い込んでいた。

「なるほど、誰かが伝え忘れたのだろうな」

 どうやら、軍では末端の清霞たちだけでなく、おおかいや宮内省のほうもてんやわんやしているらしい。

 ふ、と息を吐く。

 ここしばらく、ろくに家にいた記憶がない。夕方に一時帰宅し、短時間休んでから夜のうちに再び屯所に戻って、次に帰宅するのは翌日の夕方という生活だ。

 おかしな人影を見た、幽霊と遭遇した……等々。オクツキにかかわる、あるいはそれ以外にも、目撃情報や苦情が大量に清霞たちへ回されていた。玉石こんこうのそのひとつひとつに対応し、そこから玉──有力な情報だけを抽出して必要であれば裏をとり。逐一、上に報告するのは骨が折れる。

 それでも部下たちを優先して家に帰すなり、休息をとらせるなりしているので、代わりに清霞の負担はますます重くなった。気が立っているのは、おおむねそれが原因だ。

 たかが忙しいという程度で、情けない話だが。

「まあ、そんなところでしょう。ああ、そういえば、少佐の婚約者のさんに会いました」

 軽い調子で告げられた内容に、ぴくり、と反応してしまう。

 新はおかしそうに、意地の悪い目をして口端を上げた。

「丁寧にもてなしてくれましたよ。さすが、とてもいい女性ひとを婚約者にしていらっしゃる」

「嫌みか?」

「いいえ? ただの事実です。……に、しても。大きなお世話を承知で言わせてもらえば、そんないい女性をあんなふうに扱うのは感心しません」

「は?」

 新の言っている意味がよくわからない。清霞はまゆをひそめた。

「前にも──といっても、つい最近のことですが。会ったことがあったのですよ、美世さんと」

「それで?」

「そのとき彼女、今にも倒れそうになっていて。ひどい顔色でした」

「…………」

「実際、倒れかけていまして。それを俺が道端で助けました。あのときでも十分、具合が悪そうでしたが、今日はもっとひどくなっていた」

 美世が新と以前に会っていたというのも初耳だし、婚約者のことをこんな顔見知り程度の男に語られるのは不愉快だった。

 けれども、新に指摘されて初めて、清霞は昨夜の美世の顔色がどうだったかも記憶にないことに気づいた。

(あの、月夜の晩はどうだった? いや、その前は?)

 悪夢を見て美世はひどく弱っていた。具合が悪そうで今にも消えてしまいそうだった。けれど、それを早くなんとかしようと薄刃家を探っていたものの進展はなく、仕事に追われて最近は帰宅することもままならない。

 焦りで、冷や汗がにじむ。

「婚約者なら、仕事が忙しかろうが気にかけてあげるべきでは? せめて話を聞くべきでしょう。……俺だったら、婚約者をあんなふうにはしない」

 普段なら、大きなお世話だ、と怒鳴りつけているところだ。他人に口を出されることでもない。

 しかしついぞ、清霞の口からその言葉が発されることはなかった。



 清霞は新との打ち合わせを終えてから、ほとんど回らない思考で仕事をし、情報屋から新たに決定的な情報を得て帰路についた。

 昼間、新に言われたこと。あれもずっと心に引っかかっていたが、さらにその後、情報屋から都合よくもたらされた事実ですべては決まった。

 追いついていないのは、ただ、清霞の心だけ。

 そして帰宅すると、いつも出迎えてくれる美世の姿が玄関になぜか、ない。ただ、家の中ですぐに見つけることはできた。

「美世」

 台所でせっせと働く己の婚約者の背に声をかける。心ここに在らずといった様子の美世は、それに気づかない。

「美世」

「…………」

「美世」

 合計で三度呼んでやっと手を止め振り向いた彼女は、ひどく驚いた顔をする。

「だ、だんさま?」

 彼女の表情を見れば、清霞が帰宅したことに気づいていなかったのだとわかる。それほど、作業に集中していたのだろうか──否。

「……ただいま」

「お、おかえりなさいませ。ごめんなさい、出迎えもせず……!」

「別に構わない」

 ぱたぱたと駆け寄ってくる美世を、清霞は正面から見つめる。

 かえでの散る、淡い青緑の着物に身を包む美世は、すっかり淑女らしい。今の彼女を見れば、誰もがしとやかでれんだと評価するだろう。決して、婚約者の贔屓ひいきではないはずだ。

 家にあまりいなかった間、姉のづきとともに勉強に励んでいた彼女は、立ち姿だけでも格段に見違える。

 それなのに。

「──美世、なぜ」

 続く言葉を上手うまく紡げない。

 思い出すのは、数か月前のこと。

 この家に来たばかりのとき、美世は本当にひどい有様だった。

 身体は不健康にせ細り、骨と皮ばかり。髪も肌もぼろぼろで、いつでも顔色が悪い。

 けれどそれは、改善されたはずだった。ここで人並みの生活を送り、もうあのような、哀れな姿でいることはないのだと。

 けれどこれでは、また逆戻りだ。

 血色がなく、目の下にはうっすらくまがある。頰や手首など、せっかくついた肉ががれているのは気のせいではないはず。この間の、月夜の晩よりも、もっと。

(結局、あの男の言う通りか)

 ふつり、ふつり。清霞の中で何かが存在を主張し始める。

「あの……?」

「姉との勉強は、さぞ厳しいのだろうな」

 とげだらけの口調で問えば、美世は首を横に振る。

「いえ、あの、葉月さんは、わたしをいつも気遣って──」

「ならば、なぜなんだ?」

 いらって、食い気味に詰問してしまう。

 自分がどうしてこれほど苛立つのかわからない。気づけば美世の腕をつかんでいた。

「旦那さま、わたしは」

「なぜ、こんなにも瘦せる? なぜ、私が帰ってきても気づかないほど、うわの空だった?」

「それは、その……」

 おろおろと目を泳がせる姿に、ますます不満が募る。

「私は、お前がつる新と会ったことがあると、聞いていない」

「あ、あの……旦那さま」

「それだけではない。お前が夜な夜なうなされているのを、私が知らないと思うのか?」

 今度こそ、美世は目を見開いて硬直した。

(違う、こんなふうに話したかったわけでは)

 清霞の胸中では複雑な思いが渦巻く。

 決して責めるつもりはなかった。新のことも、悪夢のことも。美世を大事にしたくて、傷つけたくなくて、もっと違う切り出し方をしようと考えていた。

 けれど、少しずつ少しずつ降り積もり続けた思いが、一度口をついて出たら止まらない。

「私は、言ったはずだな? 何でも話せと。もっと頼れと。甘えろと。だがお前はいつまで経っても打ち明けてはくれなかったな」

「…………」

「私が信用ならないか? だから、お前は自分から私に何も言ってくれないのか?」

「違います……っ」

 美世の声はひどく震え、こちらを見上げたひとみには大粒の涙がまっている。

「旦那さまの手を、煩わせたくなかったのです。ただでさえお忙しくて、疲れていらっしゃるみたいなのに、さらにわたしのことで困らせたくなくて」

「私は疲れてなどいない。決めつけるな」

「っ!」

 疲れていないとは噓もいいところだ。実際、あのどうにすら指摘され、今夜はもう屯所に戻ってくるなと言われてしまうほどには疲れていた。

 ましてや美世の不調を見逃し、あまつさえ責め立てるなど、疲れで判断力が落ち、たがが外れていたとしか考えられない。

 けれどその勢いのまま、ついに清霞は口にしてしまった。

「こんなことになるなら、お前に勉強の機会を与えるのではなかった」

「────」

 ぼうぜんとした美世の目から涙がこぼれ落ちて、ようやく清霞は自分の失言を悟る。

 美世が自分からやりたいと言ったこと。あの、葉月から借りた教本を眺めるときの生き生きした瞳。葉月といる彼女は、いつでも楽しそうだった。

 それを今、すべて否定してしまった。

「──旦那さまは、ひどいです」

 あとからあとから涙が流れ、床をらす。

 清霞は大いに後悔した。自分でもわけがわからないまま動揺し、言葉が出てこない。

「わたしは、ただ……っ」

 不自然に声が途切れて、はっとする。

 ぐらり、と美世の身体が揺れ、咄嗟に伸ばした清霞の腕の中へ倒れ込んだ。その重さがではなく羽のように軽くて、ぞく、と背筋が凍った。

(ああ、私はだめだ──)

 美世を、傷つけた。

 そんなつもりはなかった、感情的になって口走っただけだなんて言い訳は、何の意味もない。これほど弱りきり、人より何倍も傷ついてきた彼女に。

 一番してはいけないことをした。

 これでは、あのさいもり家の人々と同じではないか。

 意識を失っている美世を抱え上げる。

 自責の念にかられながら彼女の部屋に連れて行こうとしたが、ふと、下げた視線の先に見慣れない紙片が落ちているのを見つけた。

「これは……」

 そこに書かれていたのは、完全に清霞の推測を裏付けるもの。

 決断には、まったく悩まなかった。美世に償うには、彼女を救うには、これだけがひとつの道だ──。



   ◇◇◇



 わずかにれぼったいまぶたを上げると、自室の天井が見えた。

(もう、朝……?)

 室内はもううっすら明るい。外からは鳥のさえずりも聞こえる。

 でも昨夜、自分で布団に入って眠った覚えが美世にはない。

 どうしたことだろう、と思い返して──そうはくになった。

(そうだった。わたし、旦那さまになんてことを)

 清霞にひどい、だなんて暴言を吐いた挙句、気を失ってここまで運ばせてしまったらしい。

 新に言われたことの意味を、つい考え込んでしまっていた。いつもは彼の自動車のエンジン音を聞き逃したりしないのだが、考えごとと体調不良とで、今までにないくらいにぼうっとしていたのだ。

 清霞があれほどいらついているのを初めて見た。

 はじめは出迎えできなかったことに怒っていたのかと思ったけれど、違う。彼は今にも泣き出しそうに、寂しげに顔をゆがめていて。

(……旦那さまは、わたしから言うのを待っていたんだわ)

 自分は、馬鹿だ。

 やはり、美世が悪夢にうなされているのもわかっていて、清霞に頼るのを待っていた。どうしようもないくらい困っていたくせに、何も相談せず抱え込む美世の姿は、誰も、清霞すらも信じていないように見えていたのだ。

 そのくらい、少し考えればわかることなのに。まったく気づかず、自分のことしか見えていなかった。

 きっとあの晩が、最後の好機だった。それをふいにして。

 清霞は優しい。だからこそ、美世の愚かな行動が、彼をあそこまで思い悩ませてしまった。

(どうしよう……)

 謝罪すれば許されるのか。このまま、愛想を尽かされても文句など言えない。

 美世の悪い想像は、現実になった。

 謝るきっかけすら与えないかのように、清霞は朝からいっさい口をきかなかった。

 自分が悪いのは重々承知ながら、まるで初めの頃に戻ってしまったかのような彼の態度に、美世はじくじくと胸を痛める。しかも優しい清霞ならば美世のことを許してくれるはずだ、と無意識に期待していた自分にも腹が立つ。

 いつもはゆりが場を和ませてくれるが、あいにく今日は休み。

 二人きりで永遠にも感じられるほど重苦しい朝食を終え、美世が片付けを始めると清霞は「出かける準備をしろ」と言ってきた。

 話しかけられて安心する以上に、不安が襲ってくる。

(もう、だめかもしれないわ)

 あのとき、新の言うことになど、気をとられている場合ではなかった。

 二人の関係は、たんしてしまうのかもしれない。ほかならぬ、美世自身の手ですべてをぶち壊しにして。

 清霞の隣にいたくて、努力を重ねたはずだった。けれど、美世の愚かな行為が原因で清霞を苦しめてしまうなら? お前はいらないと言われてしまったら? そんなものは、努力だなんだという以前の問題だ。

 とりあえず清霞の指示に従い、美世は着替えて身なりを整え、出かける準備をした。

 移動中も清霞は無言のまま。あまりの険悪な雰囲気に美世からも話しかけられず、連れられていった先は。

(ここは……)

 何かの会社だろうか。帝都の一画、二階建てのレンガ造りの建物で、大きな倉庫が併設されている。ぴかぴかに磨かれたガラスのまる観音開きの玄関口、その上には大きく『鶴木貿易』の文字があった。

 清霞は、ただ黙っていることしかできない美世をちらりと見て、素っ気なく「入るぞ」と促す。

 建物に足を踏み入れると、すっきり美しく整えられたロビーが眼前に広がった。

 清霞は真っ直ぐに正面の受付にいる若い男性社員に近づく。

「何か、御用でしょうか」

「突然申し訳ない。こちらに勤めている鶴木新と面会したいのだが」

 彼の口にした鶴木新、という名に息をむ。

 まさか、ここに彼がいるのだろうか。だとしたら、どんな顔をして会えばいい。

「失礼ですが、どちらさまでしょう?」

たいとくしようたいの久堂が来たと伝えてもらえばいい。約束はしていない」

「確認しますので、少々お待ちください」

 奥の部屋に引っ込んだ男性社員はほんのわずかな時間で、焦ったように出てきた。

「鶴木がすぐに会わせていただきます。こちらへどうぞ」

 案内されたのは、建物の二階。働く社員たちのせわしない気配が感じられた一階とは打って変わり、ひどく静かで落ち着いた空気が流れる。

 目的地は二階の奥、『交渉担当』の札がかかった部屋だ。

「こちらです。お入りください」

 一礼した男性社員にうなずき、清霞は扉をたたいた。すると、即座に「どうぞ」という返事がある。

 室内では、さわやかな好青年がゆったりと椅子に座って待っていた。

「ようこそ、久堂少佐。昨日はどうも」

「……ああ」

 人のせいにするのはよくない。そんなことは重々承知しているが、それでもやはり、恨みがましい目で新を見てしまう。

 新は清霞から美世に目線を移し、にこりと微笑んだ。

「美世さんも、昨日ぶりですね」

「はい……」

 いったいどういうつもりなのかと、美世は清霞と新、双方に詰め寄りたかった。

「積もる話もありますし。場所を移動しましょうか。会社で私的な話をするのは避けたいので」

「ああ。私も、いろいろと聞きたいことがある」

 眼光鋭く新を見る清霞。美世はわけがわからないまま、複雑な思いを抱えて奥歯をみしめていた。



 三人は会社を出て、徒歩数分のごく近い距離にある邸宅へ移動した。

 木造の、白塗りの壁が美しいモダンな一軒家だ。表札には『鶴木』とあり、聞けば、新の実家らしい。

「君に会いたがっている人がいるんですよ、美世さん。ああ、心配しなくても悪いようにはしないので安心してください」

 外観はモダンだが、家の中に入ると見慣れた畳敷きの部屋が多いようで、上手うまく和洋が溶け合っている。人の気配はなく、音は外のけんそうがわずかに入ってくるだけ。

 相変わらず美世と清霞は会話がないまま、揃って新についていく。十畳ほどの座敷で待っているように言われ、しばらくすると新が戻ってきた。

 彼の後ろには、ぴんと背筋の伸びた見知らぬろうがいる。

「ああ、によく似ている……」

「……澄美?」

 懐かしそうに老爺がつぶやいた母の名。ますます美世は混乱した。隣の婚約者は目を閉じて沈黙を保っており、何を考えているのか読めない。

「これで役者は揃いました。──ようやく、ここまでこられた」

 新は笑った。しかし彼の相手に警戒心を抱かせない笑みも、今はもう薄っぺらい偽りのものにしか見えず、余計に不安があおられる。

「久堂少佐、あなたはもうわかっているのでしょう? 俺たちが、誰なのか」

「……さんざん探させたが、まさか、こんなふうにたどり着く羽目になるとは思わなかった」

「そう簡単には見つけさせませんよ。我々は、表に出ることを許されていない。こうしてあなたと今向かい合っていることも、おきて破りに等しい行為ですので」

 清霞と新の間で交わされるやりとりは、理解できそうにない。

(それとも、これから昨日の話につながるのかしら……)

 疑問は胸の内にしまい、ただ口をつぐんで様子を見守る。

 もし仕事の話なのだとしたら、なぜ清霞だけでなく自分までここにいるのだろう。そう考え始めたとき、真実はあっさりと目の前に放り出された。

「では、あらためまして。二人ともようこそ、我が薄刃家へ」

「うす、ば……?」

(それは、お母さまの……)

 美世の脳内の、すべての思考が吹き飛んだ。

 間違えるわけがない。美世の母、斎森澄美が生まれ育った家。まさかそれが、ここだというのか。

 絶句する美世を、新は目を細めて眺める。

 居心地の悪い静寂に包まれる中、まず口を開いたのは今までじっと動かなかった老爺だった。

「そうだ、ここは薄刃家。わしは先代薄刃家当主、薄刃よしろうという。美世、お前の祖父だ」

「俺は、薄刃新、が本当の名前です。美世さん、君の従兄いとこに当たる。……『鶴木』はうちが表で使っている名前で、いつもはそちらを名乗っていますが」

「そんな……」

 ──祖父。従兄。

 思わず口元を押さえてうつむく。

 美世は、自分の親族にほとんど会ったことがない。

 斎森の祖父母は物心つく頃にはすでになく、叔父おじ叔母おば従兄弟いとこたちは異能を持たないため、それぞれ遠方で慎ましく暮らしているそうで、会う機会はなかった。継母の両親や兄弟はよく斎森家に顔を出しており、はよく懐いていたけれど、美世にとっては血の繫がりもないただの他人に過ぎない。

 薄刃家に至っては、存在は教えられていたが、それ以外には何もわからないまま。

「久堂少佐。あなたがここへ来たのは、美世さんの悪夢を止めるため、ですね?」

「ああ。美世は、長く異能を持たないと言われていた。しかしそうではないはずだ。だからこうして接触してきたのだろう? わざわざオクツキの件の交渉を引き受け、美世の前に姿を現し、こうなるように仕向けた」

 清霞はポケットから紙片を取り出して見せた。

 書いてあるのは、おそらくこの『鶴木貿易』の住所、鶴木新の名前。そして、紙片の裏には『薄刃』の文字。

「家に落ちていた。昨日、家に来たときに美世に仕込んだものだろう。以前、情報屋に調べさせた『澄美』という名の女学生の中にも『鶴木澄美』の名があった。さらに鶴木家について詳しく調べさせれば、約二十年前に斎森家から金を受け取った記録が見つかった。ただし、この記録はこうして私たちをおびき寄せるために、わざとつかませたものだな?」

「というと?」

 とぼけた態度をとる新に対し、清霞は淡々と語った。

「今までの調査で、鶴木家の『澄美』という娘が、鶴木が傾いたのとほぼ同時期に病没したことになっているのはわかっていた。一家の危機だった当時の鶴木家が娘に治療を施せず、死なせてしまったとすれば医療機関で記録が見つからなくとも不思議ではなく、不審な点は一切見つからない。そのせいで一時は調査が完全に行き詰っていた。……だが、昨日になって突然、情報屋が新たな情報を掴んだといって、資金援助の記録を持ってきた。どう考えても都合がよすぎる。そして、鶴木貿易の経営悪化、『鶴木澄美』の病没、斎森家から鶴木家への援助、『薄刃澄美』の斎森家への嫁入り。ほとんど間を置かず一連の出来事が起こったことさえわかれば、推測するのは容易たやすい。さらに、この紙片がだめ押しになった」

「はは、さすがですね。ちゃんとたどり着いてもらえてうれしいです。こちらとしても、そう悠長に構えてはいられないので。その紙をあなたが見るかは確かではありませんから、本当は、あと何度か小隊にお邪魔しようと思っていたのですが」

 まあ、助かりましたよ、と新は軽く息を吐く。

 そんな彼を清霞がにらみつけ、場の空気は凍りついた。

「怖い顔をしないでください。……あなたの言う通り、美世さんには異能がある。それも、とびきり厄介で、強力で──貴重な異能が」

 あまりの衝撃に、美世は気が遠くなるようだった。

 自分に異能がある? 違う、そんなはずはない。なぜなら、けんの才がない。見鬼の才がない者は異能にかくせいすることもない。だからこそ、美世は斎森家でずっと軽んじられてきた。誰にも、己すら気づかぬまま異能に目覚めているなど、ありえない話だ。

 けれど、もし、本当に異能があるとしたら。だとしたら、自分の今までの人生は──。

 自失する美世をよそに、新の目くばせを受け、腕を組んで義浪が言葉を引き継ぐ。

「こちらの目的はひとつだ」

 義浪はしわだらけの面に厳しさを浮かべ、告げる。

「久堂清霞。君には、美世をこちらに引き渡してもらう」

 美世はゆっくり目を見開いた。

(どうして)

 ……せいてんへきれきとは、まさにこのことであろう。

 青い空に急に雷鳴が響いたような驚き。それが、何度も。

 自分の意思に反し、しかし確かに自分自身にかかわる事柄が、次々と暴かれ、動き、断定されていく。本人の驚きは、どんどん置き去りにして。

 美世は、今にも叫びだしたい衝動を抑えるのに必死だった。

『……それを聞いたら私、どうして勝手に決めるのって、腹が立って──』

 ああ、離婚を勝手に決められたときの葉月は、こんな気持ちだったのかもしれない。

 とっくの昔に頭は真っ白で、理解も追いつかない。

 昨日からただただ、言葉にほんろうされている。

 さらには、なんの前触れもなしにここに連れてこられ、母の実家だと言われ、なんの根拠も示されないまま、美世に異能があることが前提で話が進む。挙句の果てには、物のようにやりとりされるらしい。

 憤慨するべきか、悲嘆にくれるべきか。それすらわからず、ぜんとするほかない。

 しかも、婚約者には全部、わかっていたようだ。

「そう言うだろうと思っていた。美世の異能に、人の精神に作用するという薄刃の特徴があるのは間違いないからな。だが、だからといって簡単にうなずくとでも?」

「確かに、君は易々とうなずく人間ではなかろうな。権力や金での懐柔も意味がない」

「ならば」

「美世の異能は、我々にとって特別なもの。こちらが譲歩することはない」

 義浪の口調は有無を言わせない、きっぱりとしたものだった。

 彼、ひいては薄刃家の意思は固く、絶対に揺るがないのだと相手をひるませる。

「美世が持つのは、夢見の力。人の眠りの中において、万能の力だ。薄刃の異能の中でも別格の強力さを誇る」

 夢見の力、はよくわからないが、「夢」という単語は、美世の悩みである悪夢と繫がる。

「夢見は薄刃の長い歴史の中で女性の異能者にのみ、発現した例の見られる異能だ。自分を含めたあらゆる人間の眠りの中に入り込み、夢を操る。まったく眠らぬ人間がいない以上、夢見の力さえあればどんな強者が相手であれ、精神を操作し、洗脳すら可能になる。さらに実力次第では、夢の中で過去・現在・未来のすべてを見通すこともでき、つまりみかどの天啓すらりようしうる……これを最強と言わずして、何とする」

 義浪の語る内容は、どこか遠い場所の話にしか感じられなかった。それこそ夢物語のようで、現実味のない。

 万能だの、最強だの。

 そんなふうに言われる何かが自分の中にあるとは、到底思えない。

 他人の語る、他人事。実際がどうであろうとも、美世の理解などこの程度だ。

 ただ、清霞にとっては違ったようだった。

「あるのか、そこまでの異能が?」

 ぼうぜんと呟く清霞の顔色が、心なしか青白い気がする。

「無論、ある。だからこそ、我々は表舞台には立てぬ。堂々と振るえば脅威にしかならず、強すぎる力は混乱や争いを生む」

「だから、美世を自分たちで管理したいと?」

「考えてもみよ。婚約者が己の異能を制御できず、悪夢にさいなまれているというのに、それを解決できぬ君のような男のそばにいて、美世が幸せになれるのか? 事情を知り、異能の知識もあるこの家で暮らすほうが良いのは明らかだ。それに」

「…………」

「我が薄刃家は、その異能の血を他家へ渡すことをよしとしない」

 清霞はどんな結論を出すのだろう。

(わたしは)

 つい先日までなら、きっと、薄刃家にいく意思はないと声を上げていた。美世は清霞のそばを離れるつもりは毛頭なく、彼もそれを許してくれるから。

 けれど、今は。彼が拒絶するなら、甘んじて受け入れねばならない立場だ。美世の愚かさゆえに清霞の思いを踏みにじった。彼が美世を薄刃家へ引き渡すと決めたならば、従う以外に誠意を見せる方法はないように思われた。

「……きたいことがある」

「なんだ」

 清霞は深く考え込みながら、言葉を探しているようだ。

「美世の異能が、今の今まで発現しなかった理由はなんだ?」

「おそらく、発現しなかったわけではない。澄美が、生まれてすぐに美世の力を封じたのだろう。そうせねばならない動機にも心当たりがある」

 義浪の説明はこうだった。

 歴代の夢見の異能者の記録を見ると、彼女たちは何十年かおきにひとりずつ生まれる。決して連続した世代に生まれることがない。また、彼女たちの母親は必ずとある異能を持っていた。

精神感応テレパシーだ」

 精神感応は、人の心と心をつなぐ異能。

 頭や心で考えた内容を、言語や身体を使わずに伝えることができる。

 理由はわからないが、夢見の異能者の母親は、強弱の違いこそあれ、この異能を必ず持っていた。それは、澄美も。

「夢見の異能者は長い間生まれていなかった。もとより、異能者の生まれる数すらも年々減り続け、精神感応の力を持つ娘も滅多におらぬ。そんなときに、条件を満たした澄美が生まれ、我が一族は大いに沸いた」

 弱いながらも精神感応を持っていた澄美は、夢見の異能者を生むことを期待された。面と向かって言う者はいなかったが、重圧の絶えない暮らしだったという。

 義浪自身、彼女と一族の遠縁にあたる異能者とを結婚させ、夢見の異能者が生まれる確率を少しでも上げようとしたそうだ。

「だが、上手うまくいかなんだ。『鶴木貿易』の経営が傾き、我々は食うや食わずの生活になり、結婚などと言っている場合ではなくなってしまった」

 そして一家全員、路頭に迷うことを覚悟した矢先、どこで聞きつけたのか──斎森家の先代当主が資金援助と引き換えの縁談を持ちかけてきた。

「正直、あの頃すでに斎森家が衰勢に向かうことは見えていた。資金援助の金も、どこから出たものかもわからぬ。そんな家に大事な娘を渡したくはなかった……が、斎森はしつこく、かたくなに澄美を欲しがった」

 生活に苦しむ家族、澄美以外ではだめだと譲らない斎森家。

 結局、澄美は家族を救うために、反対する義浪を押し切って嫁に行ったらしい。

 当時を思い出したのか、厳しくしかめられていた義浪の顔が悲しげにゆがむ。

「あれだけ澄美を欲しがったのだ、先代の斎森家当主はおそらく夢見の力のことを知っていたのだろう。そこへ本当に夢見の力を持つ娘が生まれれば、徹底的に利用され、人並みに幸福な人生など望めない。自分自身、幼い頃から過度の期待をかけられた澄美にはそれがよくわかっていた」

 ──だから美世の異能を封じ、異能がないように装った。

 祖父の話を聞き、美世には言うべき言葉が何も見つからない。

(わたしはずっとひとりだった)

 母の思いは、なんとなくだけれどわかる。清霞のもとへ引っ越してすぐの頃に見た母の夢、あの過去の記憶ともはない。

 しかしその行動が、母亡きあと美世の存在価値を大きく落とし、どうしようもなくつらく苦しい経験につながったことはやはり、許しがたく感じる。

 美世に本当に異能があるのだとして、母が封じたりしなければ愛されたのではないか。香耶に劣等感を抱くこともなく、継母や父とも上手く関係を築けたのではないか。……家族らしく、いられたのではないか。

 今さらどうしようもなくとも、存在したかもしれない幸せな人生を想像してしまう。

 こんなに愚かな自分ではなく、例えば、葉月のような素敵な女性になれたかもしれない、そんな可能性を考えてしまう。

 もやもやと、ずっと降り積もり続けていた、暗くて醜い感情が噴き出してくる。

「……おそらく、封印のかぎとなるものが斎森家の敷地内にあったはずだ。封印自体が術者の死と経年によって劣化し、さらに斎森家から離れたために封印は徐々に弱まり、消失した」

「なるほど。ようは、美世に夢見の力があるかもしれないと知りながら、とうに死者となった斎森澄美の封印に惑わされ、斎森家から助けることができなかったというわけか?」

 容赦なく薄刃家の落ち度を突く清霞に、義浪は悔しさをにじませながら「そうだ」と答えた。

「斎森美世は異能を持たない、何度調べても結論はこれだった。わしらは心の底からあんした。夢見の力を他家に渡さずに済んだと。こうして隠れて生活しなければならない以上、薄刃家として外部と接触することは避ける必要がある。美世は斎森家に任せ、我々は手を引いた」

「そして今になって、美世の意思を無視し、彼女を渡せなどというのか。冗談ではない!」

「──でも、久堂少佐。あなたはどうなんです?」

 新は笑みを消して、静かに口を挟む。

 ひとみに強い光を宿す彼の、いつもの人畜無害そうな仮面は、すでにがれかかっていた。

「あなたは美世さんを守れるというのですか? 斎森家との騒動では美世さんをみすみすさらわれ、怪我を負わせたばかりか、今も異能の暴走による悪夢を止められず、いたずらに苦しめて。それで、守れていると言えるのですか?」

「…………」

「美世さんは、どう思いますか?」

 急に問われても、返答に困る。

 美世が清霞のそばにいたいのは変わらない。けれど、それを清霞が嫌がるのであれば、引かざるをえない。そう思わせてしまったのは、美世だから。

 清霞は美世を薄刃家には渡すまいとしてくれている。ただし、それと清霞が美世をどう思うかは別問題だ。

「……わたしは、だんさまのおっしゃることに従います」

「君自身の気持ちは?」

(ここでそばに居たい、なんて言ったら、旦那さまはわたしを捨てられなくなる)

 余計な主張は、邪魔になってしまう。ならば。

「わたしは……どちらでも構いません」

 真っ直ぐ新の目を見て、美世は自分の思いを殺した答えを返した。──隣にいる清霞がどうもくし、息をんだことに気づかずに。

「そういうことなら、久堂少佐。話し合いでは平行線でしょうし、ここはひとつ、公平に勝負して勝ったほうが美世さんを手に入れる、というのはどうですか?」

 新はすがすがしい笑みで、提案した。

「いいだろう」

 淡々と、新の非常識な申し出を受け入れる清霞のほうを、見ることができない。

(どうして、なんて、わたしに言う権利はない……)

 ひざの上で、手のひらに血がにじみそうなほど強く、こぶしを握った。

「ありがとうございます。では、男らしく素直にどちらが強いか。比べてみましょうか?」

 妙に軽快な新の声が、耳を素通りしていく。義浪は静観を決め込んでいるのか、口を出さない。

 立ち上がり、外へ出て行く清霞の背は、どんどん離れていく。もう、あんなに遠い。

「旦那さま」

 振り向いてほしいのか、引き止めたいのか……ぐちゃぐちゃの気持ちで、清霞を呼んだ。けれど、彼は振り返ることも立ち止まることもない。

 無視されて湧き上がったのは、絶望ではなかった。

(……愚かで、鈍くて、どうしようもないわたし)

 もう、なんの価値もないのかもしれない──。



 庭へ降りると、そこは家の大きさと比べて案外広かった。足元に一面砂利が敷き詰められ、庭木が少ない。戦うためにあるような、殺風景な庭。

 美世の隣では、義浪が腕を組んでじっと二人を眺めていた。

「武器と異能の使用は可としましょう。ただし、家が壊れたり燃えたりする強い異能を広範囲に使うのは禁止です」

「わかった」

 二人の会話は、美世のところまでかすかに聞こえてくる。

 清霞はいつも帯刀している軍用のサーベルを、今は持っていない。しかし、彼は隠し持っていたらしい脇差を取り出し、新を驚かせていた。

「うわあ、常にそんな物騒なものを持ち歩いているのですか」

「……護身用だ」

「安心しました。手加減はいらなそうですね」

 新が手にしたのはリボルバー式のけんじゆう

 どちらが不利なのか、素人の美世にもわかった。

 清霞が抜刀し、構える。新のほうは銃を持ったきりどうするでもなく、相変わらず口元に笑みをたたえている。

「万全でないとはいえ、あの対異特務小隊の隊長と手合わせできるのはうれしいですね。さあ、いつでもどうぞ。久堂少佐」

「そうさせてもらう」

 素直に誘いに乗った清霞は、地面をり、まずはいつせんを放つ。新はこれを危なげなくひらりと回避した。

 そこからのすさまじいまでのやりとりは、美世にはまったくわからなかった。

 次々に斬撃を繰り出している清霞が押しているように思えるけれども、新もそれらをことごとくけている。むしろ、なぜか清霞の斬撃が新に一切届いていないようにも見えた。

(……え?)

 突然、新が二人に増えた。

 分身した、としか思えない二人の新が、ばらばらに動いている。

 そして、次の瞬間。ばん、という大きな音とほぼ同時に、清霞の右の二の腕が裂けて血が散った。

「ひ……っ」

 頭が、真っ白になる。

(旦那さまが、旦那さまが)

 撃たれた。撃たれて、血を流している。

 すう、と血の気が引き、気が遠くなる。だって、これは誰のせい? 誰のせいで、今こんな状況になっている?

(全部、わたしが……)

 ぼうぜんとしたまま、無意識に駆け寄ろうとした美世の腕を、義浪がつかんで止めた。

 新の声が聞こえてきた。

「おっと、はずしてしまいましたか。刀のつかを狙ったのですが」

「…………」

 そして清霞が傷を負った隙を狙い、新はもう一度発砲する。だが、そちらは結界で防いだようだ。

「くそっ」

「どうです? 自分の視覚が信じられなくなってきたのではないですか」

 二人が普通に会話しているのが、美世には信じられなかった。

 いつしか、あふれてくる涙で視界はぼやけ、ただただ後悔と恐怖だけに満たされる。

(旦那さま、ごめんなさい……)

 清霞は脇差を構えたまま、その刀身に異能の電流をまとわせた。

「雷の異能ですか。そうこなくては」

 うれしそうに、好戦的に笑う新に向かい、清霞は接近して電流を帯びた刀を振り下ろす。

 再び分身したような──幻覚でできた新の姿は斬られ、霧散したものの、同時に清霞が刀身から周囲に放電すると、光る筋が幾本も空中を走った。

「あつっ」

 筋の一本がわずかに新をとらえた。ちりり、と電気の粒がはじけるのが、美世にも見えた。

 新はもろに電流を食らったわけではなさそうだが、無傷ともいかなかったようだ。顔をゆがめる彼の腕には、赤い火傷やけどがある。

 脇差の刀身の表面を、ぴりぴりと光がっていた。

「まったく、幻覚にここまで早く対応する人はいないですよ」

 涙目になりながら新がぼやく。

「……鍛え方が足りないのだろう。このくらい、うちの小隊なら何人もできる者はいる」

「どうやらそのようですね」

「降参するか?」

「いえ、まさか。もう少し粘らせてもらいます」

 額の汗を軽くぬぐい、清霞が再び脇差を構えた。

「はっ」

 かけ声とともに、幻で何人もの新が現れた。今度は数が多く、ざっと、二十人ほどもいるように思えた。

 遠目からでも、いくつもの同じ顔が寸分たがわぬ笑みを浮かべて立っている様子は、気分が悪くなりそうなくらい不気味だ。

「さて、どれが本物の俺でしょう」

「くだらん!」

 清霞はまるで竜のようにとぐろを巻く炎の渦を生み出し、同じ顔の集団に放つ。けれども、ひとり、またひとりと幻が消えていくばかり。

 ふいに清霞の背後へ、ひとりの新が回り込んだ。それに気づいた清霞は、異能で火球を発生させ、己の後ろにすぐさま投じようとして──。

(……え?)

 新は、美世になっていた。

 ずきずき、ずきずきと頭痛が激しくなる。すっかり混乱してしまい、美世には何が何やらわけがわからない。

 あそこに清霞とたいしているのは、紛れもなく、自分。顔も、体格も、清涼感のある薄青の着物を着ているところも、寸分違わない。

(まぼ、ろし?)

 ──ばん!

 三度目の、銃声。

 弾丸が正確に脇差の柄を捉え、清霞の手から弾き飛ばした。飛ばされた脇差は清霞の手の届かない距離に落下し、彼自身は衝撃と手の痛みにうめく。

(もう、やめて)

 悪かったのは、美世だ。だから。

 頰を生温かいものが、絶え間なく流れ落ちる。

「俺の勝ちです」

 新の銃口が、ぴたりと清霞の頭部に狙いを定めた。

(だめ、だんさまを……)

 撃たないで。殺さないで。

「意外でした。あなたにあんな安っぽい揺さぶりが通じるとは」

 ややあざけりを含んだ新の顔から、清霞は目をらす。その傷ついた右腕からは、ずっと血が流れていた。

「ただまあ、俺に負けたからと恥じる必要はないですよ。はじめから結果はわかっていたのですから。薄刃の人間が異能者と戦って負けることは、あってはならない。つまり、この結果はただの予定調和です」

「…………」

「あなたは強い。ですが、美世さんを守るのは俺の役目だ」

 うつむいた清霞は、今にも泣き出しそうに顔を歪める。

 苦しくて、つらくて、心配で。もう、限界だった。

「旦那さま!」

 掴まれていた義浪の手を振りほどき、美世は清霞の許へ駆け出した。ふと、伸ばされた血でれた清霞の手に、美世もまた手を伸ばし──。

 けれども届くことはなく、新に肩を引かれたたらを踏む。

「そんな顔をしないでください、美世さん。決まりは決まりなので、あなたは我が薄刃家が保護します。……久堂少佐、あなたはもうお帰りください。それから、今後おそらく対異特務小隊のお仕事が忙しくなります。がんばってくださいね」

 涙が、止まらない。全部、全部、美世が悪いのに。清霞を信じられなかった自分が、彼をこんなにも傷つけた自分が、許せない。

 涙のせいか、清霞の姿がにじむ。

「美世……!」

 名を呼ばれた気がしたけれど、すべては歪んでいく空間の中へ吸い込まれて、消えた。



   ◇◇◇



 薄刃家の結界内から弾かれるようにして、強制的に追い出された清霞は、ほとんど放心状態で帰宅し──何をするでもなく夜が明けた。

(人の気配のない家は、これほど冷たかっただろうか)

 何度も、何度も、新に負けたときの光景が脳裏に浮かぶ。あのときああしていれば、こうしていればと考えて、途中で意味がないことに気づいた。

 今でも、自分の主張が間違っていたとは思わない。薄刃家の二人の言うことはとても身勝手で、結局、美世の異能が目当てなのは斎森家と変わらない。彼女を保護すると言いながら、自分たちの気持ちを優先している。

 だからこそ、なおさら清霞は負けてはいけなかったのだ。

 食事もとらず、ただ吐きそうなほどの後悔に身を任せる。静かにめいもくすると、まぶたの裏に必ず美世の泣き顔が映った。

 しばらくして、勉強のためにやってきた葉月の、悲鳴のような叫びを聞いた。

「清霞!? ちょっと、あなたそれ、どうしたの……!?」

 目を丸くして詰問してきた姉に、重たい口で事情を話す。淡々と、自分の心情は加えずに、ただ事実だけを。

 話し終わると、勢いよく平手打ちが飛んできた。

 葉月は怒りに震え、まなじりり上げている。

「それで負けたまま、すごすご帰ってきたというの? 信じられない!」

「…………」

「何か言えないのかしら? 姉として、情けなくて涙が出そうよ」

 葉月はやや乱暴な手つきで清霞のシャツのそでをまくり、二の腕の傷をにらみつけた。

 すでに血は乾いているが、手当されなかった傷は熱を持ち真っ赤だ。

「こんな怪我までして。あなた一応、強いって評判だったわよね?」

「……っ」

 傷の近くをぎゅ、と掴まれ、痛みが襲ってくる。傷自体は浅くても、火傷、擦傷、切傷の組み合わせでひどい有様なのだ。

 葉月は傷口の上に手をかざすと、目を閉じた。

 すると、彼女の手のひらから淡い光の粒のようなものがふわふわと現れ、傷口にするりと溶け込む。そして瞬く間に傷がえていた。

 彼女が持つのは治癒の異能。

 あらゆる怪我を一瞬で治す能力だが、病気や毒などには効かない。これは久堂家というよりも、葉月と清霞の母方の一族に多い異能だった。

「……すまない」

「違うわよ、この愚弟。誰が謝れと言ったの。すぐに美世ちゃんを迎えに行きなさい」

 傷を治したのはそのためよ、と葉月は鬼のような形相で治ったばかりの腕をたたく。

「迎えになど、行けるはずがない」

「どうして」

「……勝負に負けた。私には美世を連れ帰る資格がない」

 あれは正々堂々とした勝負。その結果決まったことにあとから文句をつけるなど、あってはならない。

 何より、清霞には美世と会う勇気がなかった。

 自分で思う以上に、美世に選んでもらえなかったことが深く心をえぐったらしい。彼女に詰め寄り、責めたのは自分なのに。

 力なくうなだれるしかない清霞の頭に、葉月はげんこつを落とした。

「い……っ」

「お馬鹿。あのね、あなたのようなだめ男の気持ちとかどうでもいいの。このままじゃ、美世ちゃんがかわいそうでしょう」

「……美世が言ったんだ。私でも薄刃家でもどちらでもいいと」

「お馬鹿!」

 再び落とされる拳骨。さほど威力はないはずだが、じんじんと痛む。

「よく考えてごらんなさい。あの子が、あなたに責められたからと怒ってそんなことを言うと思うの? そもそもあなたに怒ったりするかしら?」

「それは……」

「美世ちゃんなら、どう考えても自分を責めるでしょうね。あなたの気持ちを察することができなかった自分が悪いって」

 泣きそうになりながら、必要以上に自責の念にかられている美世の姿は容易に想像がついた。

「あの子は自信がないのよ。わかるでしょう? あなたのそばにいたいとどんなに願っていても、あなたにそっぽを向かれたら終わりだって思っている。だからあなたに必要としてもらえるように、自分を磨きたかったのよ」

「…………」

「あなたに相談できないのだって、当たり前でしょう。ましてや私やゆり江になんて、もつての外。今まで誰も、頼れる人がいなかったのだから」

 返す言葉もない。全部、その通りだった。

 この家に来て、美世はようやく自分の気持ちを出すことや、他者から思われることを知った。誰からも顧みられず、己すら信じられなかった彼女は、誰かに頼るという選択肢をそもそも持っていない。

 清霞にできるのは初めから、美世をひたすらに思い、その心を温め続けることだけだったのだ。そんなこと、わかっていたはずではないか。

「やはり私は間違ってしまったんだな……」

「ぼうっとしている暇はないわ。余計な考えごとはあと! 美世ちゃんのところへ──」

 葉月は急に口をつぐむ。

 この家の結界の中に何かが入ってきた気配を感じたためだ。もちろん、清霞もすぐに察知している。

 ひらり、と窓から舞い込んだのは、人のような形をした一枚の紙切れ。胴体の部分に押された印は対異特務小隊のもの。五道の放ったらしき式だった。

 式が身をよじって震える。すると、いつものへらへらとした調子ではなく、切羽詰まった様子の五道の声が室内に響いた。

『隊長、これを聞いたらすぐに屯所に来てください! 緊急事態です!』

 一方的な連絡はそこで途切れる。

 どうやら通信をしている余裕もなかったらしい。彼がこれほどいているならば、よほどのことだ。

(こんなときに)

 美世を迎えに行きたい、行かねばならない、そう思った矢先に。

 どちらを優先するか。清霞の中で、考えるまでもなく答えが出ていることについ苦笑いが漏れた。

「私はやはり、冷たいのかもしれない」

 薄情で、冷酷。言われても仕方ない決断を今しようとしている。

 この機会を逃したら、美世を失ってしまうだろう。今すぐ迎えに行かなければ、彼女はきっと薄刃家に完全に奪われてしまう。それでも。

ほうなことを言っていないで、仕事に行くなら早く行って、早く帰ってきなさい」

「……姉さん」

「何かしら? 私は美世ちゃんの味方だもの。優しい励ましなんて期待しないでちょうだい」

 つん、とすまして言う姉にため息を吐き、清霞は自室で汚れたシャツを脱ぐ。

 着慣れた軍服に袖を通せば、頭は仕事のほうへ切り替わった。

 美世をあきらめるわけではない。彼女より仕事をとるわけでもない。

 ただ、ここで役目を放り出したら本当に何もかも、失ってしまう気がするから。

「気をつけなさい。怪我なら私が治してあげるけれど、あなたに何かあれば美世ちゃんが悲しむのだから」

「わかっている」

「まったく、可愛くない弟だわ!」

 不満そうに鼻を鳴らしながらも、葉月は玄関先まで清霞を見送りに来た。

 そうだ、まだ間に合わなくなると決まったわけではない。

 必ずすべての厄介ごとを片付けて、何の憂いもなく彼女をまたここに連れ帰る。

 彼女が待ってくれていることがどれだけ安らぎとなっていたか、わかっていなかった。美世がいないと、もうこの家は清霞の帰るべき場所ではないのだ。

「絶対に、取り戻してみせる」

 すべてを。



   ◇◇◇



 薄刃家での日々は、ごく普通の人ならば快適と言ったに違いないものだったが、美世にとってはそうではなかった。

 与えられた部屋は二階の洋室。紺色の品の良いじゆうたんに、やや黄味がかった明るすぎない白の壁。家具はほぼすべて木製だが、その精密な意匠は西洋のものに見える。ぴかぴかに磨かれたガラス製のランプが室内を照らし、ゆったりとした空気が流れる。

 薄刃家の一階は畳の部屋が多かったのに対し、二階は洋風でまとめられていた。椅子に座り、寝台で眠る生活は、美世にはみがない。

 この家で何か役目があるのかといえば、そうでもないらしい。むしろ「何もしなくていい」と言われてしまう。家事は雇われた手伝いの者が一、二人いて、すべてかんぺきにこなすから、美世の出る幕はない。

 何もできない、じっとしているだけの生活はとてもゆううつだ。

 朝起きて、着替えて、部屋でひとり、食事をとる。手伝いの者が持ってくる食事は、だいたい洋食だった。

 朝食はパンに、った卵やくんせい肉、チーズなどのおかずと、野菜のたっぷり入ったスープ、そして果物がつく。昼食や夕食では、牛乳を使った洋風がゆや、焼いたり煮込んだりした肉類が出た。匂いや舌触りで美味おいしいものなのだろうとは感じるのに、あまりのどを通らず、味もよくわからない。

 ただ流れるように食事の時間が過ぎ、ぼうっとして。それを何度か繰り返すと一日が終わる。

 この家では不思議と悪夢も見ないので、睡眠さえ、ただ通り過ぎていく時の流れの一部として完全に溶け込んでしまう。


「落ち着かなそうですね、美世」

 新は、いつの間にか美世を呼び捨てにするようになった。

 美世が手持ちでぼんやりしている間、もっぱら話し相手になる彼に特に思うところはないけれど、なんとなく違和感はある。

 テーブルを挟んだ向こう側に座る新は、いつもにこにことしていて見目もいい。きっと多くの女性が放っておかないだろう。だから、こうして美世のそばにずっとついて世話を焼く意味がよくわからない。

 美世が夢見の力を持っていて、それが薄刃家にとって大切だから?

 だとしたら、なんと冷たい関係だろう。

「まだ、怒っているんですか? 俺のこと」

 美世は首を横に振った。

 新のせいにしても、どうしようもない。あれはただのきっかけにすぎず、どちらにしろたんは迫っていた。美世が何もわかっていなかったばかりに。

「そうでないなら……もしかして、部屋が気に入らない?」

「……いえ」

「では、食事が嫌ですか?」

「違います」

「ああそうか、服が不満だったのですね」

「あの、わたしの着物は……」

「あれは返せませんよ」

 新は優雅に紅茶を口にする。態度こそ穏やかだが、返答は取りつく島もない。

 彼に敗北した清霞が強制的に追い出されたあと、美世はそのまま薄刃家に迎え入れられた。

 当時のことは、傷ついた清霞の姿が目に焼きつき心配と不安で涙が止まらず、あまりよく覚えていない。気づいたら夜になっていて、部屋でぼんやりとしていた。渡された着替えは巫女みこが着るような白衣にばかまで、脱いだ着物は回収されたまま返ってこない。

 なぜ巫女装束なのかといえば、夢見の異能者は昔、夢見の巫女と呼ばれていたから、らしい。その名残で、今でも夢見の異能者に巫女の格好をさせる習慣があるのだとか。

『もちろん、本人が拒否すれば強制はしません。ただ、美世の好みがわからなかったので』

 申し訳なさそうに言う新を見れば文句をつける気も起きなかったが、それよりも清霞が買ってくれた着物を身につけられないなら何を着ても同じに思えた。

「困りました。どうしたら君は満足するのでしょう」

「…………」

 美世は黙ったまま、テーブルの木目を見ていた。

 満足する、しないの問題ではないのだ。

 清霞が戦い、傷つく姿を見ていたときからずっと後悔している。自分の気持ちに噓を吐き、何も選ばなかったことを。

 思えば清霞は美世をずっと、受け入れてくれていた。

 数か月前、縁談を理由にやってきた美世を家に置いてくれて。広い世界を見せてくれて。たくさんのものを与えてくれて。斎森家に無理やり連れていかれたときは、助けに来てくれた。そして、美世のために傷つきながら戦ってくれた。

 どうして、そんな彼を信じられなかったのだろう。

(わたしは、本当に愚かでどうしようもないのね)

 今さら気づいても、きっともう遅い。でも。

「……もう一度、だんさまと話したいです」

「なぜ?」

「わたしが、何もかも間違っていたと思うから、です。だから、ちゃんと謝って、それで──」

「それで? ここを出ていきたい、ですか?」

 新のひとみが冷たく光った。

 ごくり、と美世は先の言葉をみ込む。

「許しませんよ。我々が、いや俺が、どれだけ君を待っていたか。今、どれだけ幸福を感じているか。君は知らない」

「あの、どうして……そこまで」

「俺は君を守りたい。一緒にこの家の、薄刃の役目を担っていきたいのです」

「薄刃の、役目?」

 静かでいて、激しい熱のこもった言葉とまなしが心に刺さる。それが何より、彼の思いの強さを表しているようだった。

「薄刃家の異能が、人心に影響するという共通の特徴を持っていることは知っていますか?」

「……いえ」

「薄刃家に生まれる異能者が持つ異能は、すべて、人の精神や脳に作用します。君の夢見の力もそうですし、俺の幻を操る力もそう。他にも人の意識を奪ったり、記憶をいじったり……いろいろありますが。これは我が薄刃家の異能者だけに現れる特徴です」

「なんとなく、わかります」

 信じがたいが、異能は普通にはありえないことを現実にするものだ。毎晩悪夢を見るという異常な経験をし、幻にほんろうされる清霞を見たあとでは信じるしかない。

「では、なぜ薄刃家にだけそんな力が受け継がれているか、見当はつきますか?」

「……まったく」

 残念ながら、美世の乏しい思考力と知識量ではさっぱりわからない。

 小さく首を振ると、新は苦笑した。

「通常の異能は異形を倒すためのものです。戦争に使われることもありますが、基本は鬼や霊や──人に害をなす異形のものたちを退治するためにある。一方で、薄刃の異能は人を対象とした力。異形ではなく、人間を相手に使うための異能です。そしてこれは、異能者が相手でも変わらず効果があります」

 多くの異能者は、人に悪さする異形を滅する役目を負う。それは、異形を倒すには異能だけが有効で、絶対に必要だから。

 ならば、薄刃家の役目とはなんだろう。

 人を思うままに操ることすら容易な彼らが負う役目は?

「人に、異能で何かするのでしょうか」

「惜しい。人に、ではなく異能者に、です」

 異能者に異能を使う。すぐには上手うまく吞み込めない。

「我々の役目は、いざというときに異能者たちを止めること。強大な力でもって、何もかもを滅ぼすことさえ可能な異能者に対する、抑止力」

「抑止力……」

「そう。つまり、薄刃の異能は異能者を倒すための異能なのです」

 ようやく、美世の中で情報と情報がつながってきた。

 新は話を続ける。

「例えば、火の異能を持つ異能者が何らかの恨みを持って、とある街を焼き払いたいと思ったとしましょう。それを事前に察知し、水の異能者を送り込む。しかし火の異能者のほうが水の異能者よりも強かったら? 火を消すことができず、街が燃やされるのを黙って見るしかなくなる。ゆえに暴走する異能者を止めることに特化した、専門の存在が必要になるわけです」

「異能者を止めるため……」

つじつまは合うでしょう? あなたは見鬼の才を持っていないそうですね。でも、我が薄刃家では見鬼の才を持たない異能者が生まれることは、普通にあります」

 はっとして、美世は新の顔を見た。

「薄刃家の異能者は、異形を見る必要がないから……?」

「そういうことですね。ただ、抑止力とはいっても、我々が力を持てばより強大な力を持つ我々を止めるための力がさらに必要になって、きりがない。そこで、厳しいおきてが薄刃家にはあります。掟を固く守り続け、破った者への処罰は非常に重い」

 名を隠し、息をひそめて暮らすのも、不自由さで己を縛ることではんを持たないという意思表示。決して表舞台に立たず、みかどと役目に絶対服従すると示すための。

 とはいえ、薄刃以外の異能者たちの、帝や国に対する忠誠心は基本的に強い。帝によるがなければ、異能者は国を守る英雄から一転して、異端者となりかねないからだ。それは、科学の発達によって異形や異能者が否定されるようになった現在、ますますされている。

 ゆえに、薄刃家が役目を言いつけられることはめっきり減った。

「俺たちは先祖が決めた掟を忠実に守ってきました。……本当の名字を名乗ってはいけない。外で異能を使ってはいけない。結婚相手は親族の中でしか認められない。特に親しい友人、恋人を作ってはいけない。許可なく高額なものを買ってはいけない。家の外で酒を飲むのも禁止。これはほんの一部で、まだまだたくさんの掟があります」

「そんなに……」

「ええ。ですが、俺が一人前とみなされるようになってから、薄刃家の人間として仕事を命じられたことは一度もありません。ほとんど、対異特務小隊や久堂家のような強い家の力で解決できてしまい、こちらまで出番は回ってきませんでした。どれだけ掟に忠実に、慎ましく暮らしても意味がないのですよ」

「…………」

「──俺は、役目が欲しい。俺の、俺だけの」

 ぐ、と何かをこらえるように低い声で言う従兄いとこは、きっといろいろなことを吞み込んで生きてきたのだろうと思う。

 あれだけ清霞と戦えたのは、新が厳しい修行をし、努力を重ねた結果。しかしその努力がまったく使われず、必要とされず、ただ不便を強いられるだけだとしたらどれだけ悔しいか。

 美世には想像しかできない。それでも、彼がとてもがゆい思いをして今まで生きてきたのはわかる。

「薄刃家の掟の中に、もし夢見の異能者が現れたなら彼女を一族全員で守り、支えるべしというものもあります。実際に代々、一族の中から選ばれた異能者がつきっきりで彼女たちの世話をし、命を懸けて守る役を担った」

「!」

「今なら、それは俺の仕事になるでしょう。……おそらく、君のはんりよを兼ねて」

 思いがけない衝撃に、身体がこわった。

 新が、結婚の相手。その可能性は考えていなかった。

 胸に何かがつかえるような苦しさを覚える。

(けれど、当然だわ……)

 異能者であるとわかった以上、美世が結婚しないという選択肢は認められないだろう。清霞が相手でなくなれば、他の相手が現れる。ごく当たり前のこと。

「薄刃家にも、もう異能者はかなり少なくなりました。遠縁の親族まですべて含めても、ちらほらとしかいません。俺の父も異能がなく、俺は異能の使いかたを学ぶために、幼い頃からこうして祖父と暮らすしかなかった。祖父は俺と君を結婚させる気でいると思います」

「……そうですか」

「君が悪夢に苦しんでいたのは、無意識の異能の暴走が原因です。それはこの家にいる限り、特別な結界の力で抑えられる。──お願いします、美世。このまま、ここにいてください。俺は、喜んで君を守る。それが、俺だけの使命だから。絶対に誰にも譲りたくない。君の気持ちが追いつかなくても構いません。俺に支えさせてください。守らせてください。君を」

「わたしを……」

 熱を帯びながら、透き通った真っ直ぐな瞳に、美世の心は揺れる。

 もう、どうしようもないのだろうか。

 清霞ともう一度だけ会いたかった。会って、謝って、やり直す機会がほしいと懇願したい。自分が愚かだったと。

 でもそれはできない。「どちらでも構わない」なんて答えたばかりに、清霞は美世の気持ちをどっちつかずだと思っただろう。今さら機会をくれと願ったところで、疑われて終わりだ。

(完全に、自業自得ね)

 美世は内心でちようした。



   ◇◇◇



 新は、熱くなった頭を冷やすように、美世の部屋をあとにした。

(なんで、あんな……)

 役目が欲しい。それはまぎれもなく新の本心だ。

 ずっと、願っていた。薄刃の異能者としての役目を果たしたいと。異能者と戦う、その仕事が必要ないというなら、せめて夢見の力を持つ娘がいたらと。

 そうでなければ、新は自分の存在価値を見つけられないから。いつまでも、一人前になれない気がするから。

 けれど、その本音を口に出したことはなかった。祖父はきっと気づいているだろうが、別に新が自ら明かしたわけではない。

(舞い上がっているのか)

 ぐ、とこぶしを握りしめた。

 やっと現れた、薄刃の悲願。夢見の力を持った女性。……それを守るという、もうひとつの新の役目。

 早足で廊下を進み、階段を下りる。

 飾り気のない家の中は、見るに堪えないがらんどうだ。人もいない、物もない。外観はそこそこ立派だが、一歩踏み込めば、この家が空っぽなのはいちもくりようぜんだった。

 新はまだ小さくて、家が傾いたときのことすら覚えていない。けれど、昔はもっと人がいて、物もちゃんとあったことを知っている。……全部、時代とともにゆっくりと失われていき、二十年前にとどめを刺された。

 この家はまるで自分自身のようだと、新は己に課せられた役割を知ったとき、そう思った。

(外側だけ取り繕っても、中身はない。価値も、ない)

 貿易会社を営む鶴木家という外側は立派だが、薄刃家という中身は空虚であって。薄刃家の異能者であるという外側は一丁前だが、何ひとつ仕事を与えられないその実態はただのむなしい人間だ。

 ゆえに、その空虚さを悟られたくなくて、新は最大限に外側を取り繕ってきた。

 人に好かれる外見、印象、性格。すべては単なる見せかけの虚勢。自分にだって、他人から必要とされる何かがあるのだと、ちっぽけで貧相な誇りが作り出した、幻。

 そして外側が立派になればなるほど、虚しさは増した。

(でも、その虚しさを埋めることができるとしたら──)

 やはり、すがってしまうのだ。

 斎森美世という従妹いとこのことを初めて見たときは、陰気だという印象を受けた。正直、冗談じゃない、勘弁してくれとさえ思った。

 期待していたから、ひどくがっかりして。こんな空っぽの家には、血のつながった家族に虐げられ『自分』を失った、同じように空っぽで、どんよりと薄暗い娘がお似合いなのかと。……それは絶望にも似ていた気がする。

 しかし、あのとき。

『やめてください!』

 ──衝撃だった。

 久堂家の面々を非難した新に対し、彼女は正面から反抗してみせた。

 あれほどやつれた身体で、それでも、はっきりと。

(俺に、あそこまで必死になって守りたいものがあるか?)

 考えたとき、ない、と結論は簡単に出る。自分のような空虚な人間には、守りたいものも守るべきものも、ありはしない。

 一方で、美世はどうだ。

 調べた限り、彼女もまた、誰からもその存在を認められず、新と同じように空っぽな人間だったはずだ。何もかもを否定されて生きてきた、寂しい娘。

 けれど彼女は、もう空っぽではない。新と同類だなどと、とんでもない勘違いだ。

 それを理解して心底、彼女がうらやましかった。

(やっぱり、欲しくて、欲しくて……今は絶対に逃したくなくて、たまらないんだ、俺は)

 自分を満たすもの。役目と、役目を果たさせてくれる女性ひと

 その女性が美世だったことを今は少し、感謝している。空っぽでなくなった彼女となら、傷のめ合いではなく、満たされた未来を想像できる気がするから。


 すぐにうわつきそうになる心を落ち着け、新は会社へ行くために、がらんどうの家をあとにした。



   ◇◇◇



 少しいいか、と美世の部屋に顔を出したのは祖父、義浪だった。

 美世がここへ来て、すでに四日目。

 相変わらず、何をするでもなくただ食べて、寝て、新と会話するだけの日々は、ますます心を空虚にしていく。流れる時間はゆっくりのような、あっという間のような、ひどくあいまいでぼんやりとした感覚だ。

 義浪の声でふと我に返り、もう昼前で驚く。ついさっき、朝食をとったばかりの気がするのに。

 美世が静かにうなずくと、義浪は「失礼」と丁寧に断りを入れ、いつも新が座っている美世の向かいの席に座った。

「来るのが遅くなって、すまなんだ。もっと早く話すべきだったな」

「……いえ」

 初めてこの家に来たときの義浪は厳格な印象が強かったが、今はごく普通のろうだ。威圧感も何もない。申し訳なさそうにする様子はどこか頼りない気配すらある。

「ここで、何か不便を感じることはないか?」

「特にありません」

「そうか。何かあれば新に言うといい。あれは、役目のため──君のためにすべてをささげることもいとわん男だ」

「それはあまり、うれしくはない、ですが……」

 あのような立派な男性に尽くされて、居心地が悪いことこの上ない。むしろ今まで尽くす側だった美世には荷が重い。

 視線を落とし、ひざに置いた自分の手を見ながらあいづちを打つ。

わしが君に話してやれることはほとんどない。必要なことは新が大方話してしまっただろう。話せるとすれば、澄美のことくらいか」

 母のこと、と美世は口の中でつぶやいた。

 己の母親に、興味がないはずはない。ただ、母が美世の異能を封じた張本人だと知ってから複雑な心境に陥っている。

「母のことではなく、おきしたいことは、あります」

「なんだ?」

「あの、やはり、だんさまと会いたい……という要望はかなわないのでしょうか」

 だめ元でも言わないよりはまし。そんな考えで口にすると、義浪は案の定、渋い面持ちでうなる。

 鶴木という表向きの名の事情もあり、薄刃家の当主は新の父が務めているというが、実際に取り仕切っているのは義浪だ。つまり、美世の処遇がどうなるか、決めるのは義浪ということになる。もちろん、美世と清霞を会わせるか否か、判断を下すのも彼。

 あまり期待していなくとも、美世は空気を察して落ち込んだ。

「儂としては叶えてやってもよいと思うが、とある方面から念を押されてな。できんことになっている。それに、たとえ会いに行ったとしてもおそらく会えぬ」

「え? それは、どういう……」

みかどの天啓で、対異特務小隊が面倒な任務を請け負うことになるのはわかっておった。ちょうど今が真っただ中だろうよ」

 そういえば、新も清霞に面と向かってこれから忙しくなると言っていた。このことだったらしい。

 やはり清霞は忙しくしているのだろうか。家はゆり江がいるから大丈夫だし、美世の手など必要ないかもしれないが、肝心なときにそばで支えられないのはもどかしい。

「泣くほど、あの若造に会いたいか」

 はっとして頰を触ると、温かいしずくれていた。

「こ、これは、違います……っ」

「何が違う」

「……わたしはいつも無力だと思ったら、情けなくて……」

 義浪はただ、そうか、とうなずいただけだった。

 涙と一緒に本当の気持ちがぽろぽろと流れ落ちる。

「大事なときにいつも力不足なのです。わたしは、必要なときに必要なものを持っていません……」

 異能も、淑女としての技能も。足りなくて、もし自分にそれらが備わっていたらと手を伸ばす。けれど遅いのだ、そのときにはもう。手遅れになってから得たとして、何の意味がある。

 幼い頃から、あれだけ欲しかった異能。今さら持っているとわかっても、ちっともうれしくない。清霞は異能などなくていいと言ってくれた。使う場面もない。この薄刃家でも、あてにされるわけでもない。貴重らしい異能が、これでは無用の長物だ。

「なるほど、君は新と少し似ている」

「え?」

「自分自身を持て余しているのだな。環境と能力とがみ合っておらんのだろう。そうさせているのは儂ら、周りの人間だが」

「でも、あの」

「苦労をかけた。もっと早く、斎森家で君がどんな扱いを受けているか調べていれば、そのように悩ませることもなかった」

 深々と頭を下げる義浪。

 あらたまって謝罪されると思っていなかった美世は、右往左往してしまう。

 けれど、あとに続いた言葉に身体は自然と動きを止めた。

「突然この家にやってきて、すぐにはめないかもしれん。しかし儂らは本来、血の繫がった家族。これからは遠慮せず、頼ってほしい」

 頼ってほしい。家族だから。

 葉月に同じことを言われたのを思い出した。清霞も、もっと頼れ、甘えろと言ってくれた。

 じわり、ともやが暗く心に垂れ込めて、うつむく。

「……いきなり家族と言われても、困ります」

「ああ。そうだろうとも」

「父と継母と妹を見て、ずっとあこがれていました。わたしにもいつかあんなふうに、ともに過ごせる人が現れるだろうかと」

「…………」

「でも、現れませんでした。そのままあきらめて……いざ、皆に家族と思って頼れ、と言われても、どうしたらいいかわからないんです」

 葉月や清霞には打ち明けられなかった思いを、義浪相手に口にできるのは、きっともうどうにでもなれと心のどこかで自棄やけになっているからだ。自分の手に負えない思考を、どこかに吐き出したいのだ。

「昔、母代わりの使用人がいましたが、きっと家族とは違います。結婚すれば、妻になれば、母になれば、わかるのでしょうか。家族とは、何なのですか?」

「…………」

「こんなこともわからないわたしに、皆、あきれてしまうでしょう。旦那さまのことも、怒らせてしまいました」

「そうか」

「あの、申し訳ありません。こんな、どうしようもない話をしてしまって」

 いきなり相手を困らせるようなことを一方的に語ってしまった。美世はいたたまれなくなり、恐縮する。

 しかしちらりと義浪の顔色をうかがうと、彼は優しく微笑んでいた。

「いや、いい。君の本音を聞けてよかった」

「え……」

「少し、君のじいさんらしいことを言わせてもらうとな」

「……はい」

「今のように、自分では抱えきれなくなったものを分け合えるのが、家族ではないか?」

(分け合う……?)

 よく理解できずに首を傾げる。

「君はもう、ひとりでは自分の気持ちをみ込めなくなった。だから吐き出した」

「は、はい……」

「つまりはそういうことだ。頼るというのは、他人に丸投げするという意味ではない。ひとりで持つには重すぎる荷物を、いくらか持ってもらうことだと儂は思う。そうして荷物を持つ苦しみをねぎらいあい、運び終わったときの喜びをともに味わう。それを何の気兼ねもなくできるのが、家族だろう。呆れさせても、怒らせてもいい。よほどでなければ、家族のきずなは壊れたりせん」

「……母がこの家を出ていったときも?」

 皆の期待を一身に背負っていた母。彼女が半ば強引に斎森家に嫁いだとき、きっと薄刃家一同は彼女に相当腹を立てたはずだ。

 義浪はあごに手を当て、少し考える。

「確かに、我を忘れるほど怒ったな、あのときは。大事に育ててきた娘を斎森なんぞにとられて、はらわたが煮えくり返ったわ。あの親不孝者の娘は絶対に許さんと誓った」

「母を、嫌いにならなかったのですか……?」

「嫌いにはならんな。許さんと思う以上に、澄美のことが大事だった。無論、子を勘当し、完全に縁を絶つ親もおる。だがもし我が子が傷つき、苦しむのであれば力になりたいと思うし、幸福に暮らしているとわかれば、儂なら幸福な気持ちになれるだろうよ」

 ああ、そういうことなのか、と美世は納得する。

 美世には今まで、同じ目線に立って、同じ感情を共有してくれる存在はいなかった。いつでもひとりぼっちで、感情とは己の中で消化するものだった。

 清霞も言っていた。彼にとって、葉月は互いに考えていることがわかる存在だと。

「美世。儂は、君のことも同じように思っているよ」

「わたし……?」

「そう。あのとき澄美が嫁にいったから、儂らは生き永らえ、君が生まれた。こうして出会えて本当に幸せだ」

「……っ」

 義浪のじりに光るものを見つけたとき、美世は彼が本心からそう言っているのだと悟った。

 夢見の異能は貴重で大事だから、という理由もあるだろう。でも、たぶんそれ以上に、彼らは美世を初めから家族の一員に加えてくれていて、心の底から会いたいと願ってくれていた。

「ありがとう、ございます」

「いいや。感謝をするのはこちらのほうだ、美世。君と話せてよかった」

「はい、わたしも。……あの、でも」

 話しているうちに気づいた。やはり美世はここにいるべきではない。

 家族になりたいと、望む相手がいる。互いの荷物を背負いあい、支え支えられて、ともに生きていきたい人が。

 まだ間に合うと思いたい。


 美世が思わず腰を上げたときだった。


 扉がやぶられるように勢いよく開き、新が厳しい表情で入ってきた。

「どうした、新」

 何かあったことを察した義浪が、まゆをひそめて問う。

「たった今、つかんだ情報なのですが……」

 新はいったん言葉を切り、微妙な面持ちで美世のほうをちらりと見た。

 漂う空気が重く沈む。

「ちょっと」

 何か察した義浪は、新と二人で部屋を出ていく。

 いい知らせではなさそうで、胸中に漠然と嫌な予感が広がる。美世は少しためらったものの、意を決し、やや間をおいてから二人のあとを追った。

 足音を立てないように注意しながら廊下を進むと、階段のそばで二人が声を潜めて話しているのを見つけた。

「──……た?」

「久堂……が、──に……れたらし……す」

 彼は今、何と言った?

 遠くてよく聞き取れなかったのに何か不吉な内容だった気がして、さらに注意深く聞き耳を立てる。

「それは本当か?」

「ええ。確かな筋からの情報です」

「……詳しい状況は?」

「事前に聞いていたのと、あまり変わりません。オクツキの霊たちが農村の近くまで押し寄せ、通りがかった者が犠牲となったため、対異特務小隊が討伐作戦を決行しました。その戦闘中に……」

 対異特務小隊、という単語を聞いた瞬間、美世は凍りつき、動けなくなる。痛いほどのどうが耳の奥で響いている。

「対異特務小隊では、他に怪我人はいないようですね。ただ、隊長の久堂清霞だけが──」

 これ以上ないほど全神経が研ぎ澄まされ、呼吸すら忘れ。

 そうして新の次の言葉が発された途端、美世の身体は勝手に飛び出していた。

「だ、だんさまが、どう、なったと……?」

「美世……!?」

 まさか、美世が聞いているとは思わなかったのだろう、新と義浪はぎょっと目を丸くする。

「もう一度……もう一度、言ってください。旦那さまは……」

 声を発しているのは確かに自分のはずなのに、ひどく現実味がない。がくがくと脚が震える。──聞くのが怖い。だけど、確かめずにはいられない。

 震えながら、けれども決して視線をそらさない美世を前に、新はひるんだように息を吞んだ。

「美世、部屋に戻ってください」

 戻れない。こんな状態で、戻れるわけがない。

 美世は首を横に振る。

「戻ってください」

「できません」

「戻れ!」

「…………」

 どんなに怒鳴られようと、美世が引くことはない。

 その意思を示すために、まばたきもせず新をじっとにらむ。

 しばらく黙って睨みあい、やがて、らしくもなく荒っぽい仕草で新は自分の前髪をかき混ぜた。

「……久堂清霞は、敵にやられて倒れました」

 あらためて告げられた言葉は、美世の中にあった「聞き間違い」という可能性を、れいに打ち消す。

 でも、それでもまだ信じがたく、吞み込めずにただ言葉をはんすうする。

「やられた……? 倒れた……?」

「そうです。久堂清霞は敵との戦闘で倒れました」

 開き直ったのか、新は無表情で淡々と言い、隣の義浪は沈黙したまま腕を組む。

 あまりにも落ち着いた二人に対し、美世は本人も無自覚なまま恐慌状態に陥り始めていた。

「……っ! どういうことですか……!?」

 とつに、口から叫ぶような声が飛び出す。

(やられた? やられたって何?)

 頭は真っ白で、思考は空転を繰り返すばかり。けれど心臓はどくどくと痛いくらいに鳴り、息が苦しい。

 指先すら動かせず、ぼうぜんと新を見る。

「何があったか、という意味なら、詳しくはわかりません。任務中、敵の攻撃を受けて負傷したのか……倒れて意識が戻らないようです」

「そんな。噓」

 やはり、何かの間違いではないのか。信じられない。信じたくない。

「噓ではありません。確定的な情報です」

 新は無情にも、美世のつぶやきをばっさりと否定する。

 ──もう一度、清霞に会う。許してもらえるまで謝って、彼と今度こそ一緒に生きていくのだと……そう、思ったばかりなのに。

 また、失うのか。大事な人も、大事なものも。

 失って、失って、空っぽになるまで終わらないのか。この悲しみは。

 美世は嫌な想像を打ち消そうと、まぶたをぎゅ、と閉じ、両手で耳をふさいだ。

 これは悪夢。きっと、そうに違いない。ずっと悪夢を見ているだけ。

(このまま目が覚めるのを待つの。そうしたら、また──)

 あの、温かい家に戻っているはずだから。

「美世」

 呼ばれて、現実に引き戻される。瞼を上げると、目の前に義浪の心配そうな顔があった。

 彼は薄刃の人間。ここは薄刃の家。

 美世の望む日常の風景は、永遠に失われようとしている。

「旦那さまがやられるわけ、ないんです……」

 あの人は強い。

 戦っているところを見たのはあの新との戦い一度きり。しかも新に傷を負わされた姿も目にしたのに、彼の存在感は圧倒的でいつも輝いていて、それが消えてしまうなどまったく想像ができないのだ。

 彼の存在は美世の世界において、いわば太陽や月のようなもの。決して消えてなくなったりしない。それがない世界は、考えられない。

 美世は、はた、と顔を上げた。

(……まだ決まったわけではないわ)

 新は、清霞が死んだとは言っていない。

 何がなんでもしがみつくと決めたはず。清霞からまだ決定的なことを何も聞いていない。嘆くだけでは、今あきらめては、昔と同じだ。

 夢中だった。気づけば、美世は駆け出していた。

「美世!」

 新や義浪が呼ぶ声は聞こえていたけれど、動き出した足は止まらない。

 階段を転がるように下り、着の身着のまま外へ出ようとする。

「美世! 待ってください!」

 玄関扉に手をかけたところで、後ろから追いかけてきた新に肩を掴まれた。

 はっと息をむ。ゆっくり振り返ると、泣きそうな新が目に飛び込んできた。

「新さん……」

「行かないでください。ここにいて」

 無我夢中で身体を突き動かした熱は、徐々に温度を下げていった。けれど、冷えて固まりはしない。少し、冷静になる。

 懇願され、心が揺れないわけではない。彼のもどかしさ、悔しさは十分に伝わってくるから。力がありながら何もできない彼は、ここで美世がいなくなったらまた、己の気持ちを押し殺して生きていくのだろう。

 それでも、美世にも譲れないものがある。

「それは、できません」

「なぜですか」

「わたしは、旦那さまといたい。あきらめたくないんです」

「絶対にあの人でないといけないのですか? 俺じゃ、力不足ですか?」

 置き去りにされる子どものように、新は美世にすがる。そんなことをする必要はまったくないのに。

 美世は一度、深く息をした。ここで折れたら、確実に清霞のもとへはたどり着けない。

「新さんが力不足なんて、ありえません。あなたはとても魅力的な男性だと思います」

「なら、俺でもいいでしょう?」

「……いいえ。わたしは、旦那さまがいいんです。他の人ではだめだと、ここにいてわかりました」

 求めていた家族は、ここでも手に入る。義浪も新も、喜んで美世を受け入れてくれる。

 前はただただ斎森家から逃れたくて、居場所を求めていた。平穏に暮らせるなら結婚相手はどうでもよく、優しい人なら最上の幸せだと。だからそのときに薄刃家へ迎え入れられたなら、喜んでここにいただろう。

 でも今は、この家にいると違和感だけがずっと居座り続ける。

 ──朝早く起きて朝食の用意をして。清霞を見送り、洗濯をして、掃除をして。着物の糸がほつれたら繕い、時間が空いたら勉強をする。夜になったら、帰ってきた清霞を出迎え、夕食を一緒にとり。おのあとに、ゆっくりと二人でお茶をするのも好きだ。

 それが、美世の望む幸せ。手放したくない日常。

 この家にいる限り、比べてしまう。比べるたび、絶え間なく心の奥で叫びが聞こえるのだ。

 これは違うと。自分のいるべき場所ではない、いたい場所ではないと。

「勝負で決まったことを勝手ににしてしまい、申し訳ありません。お願いします。行かせてください」

 深く、深く、こうべを垂れる。

 視界の隅で、新が強くこぶしを握りしめたのが見えた。

「俺は……。いえ、無理です。やはり、このまま君を行かせるわけにはいきません」

 かぶりを振る新に、焦燥を感じた。

 一刻も早く、清霞のもとへ行かなければならないのだ。行ったところで美世にできることなど何もないかもしれないが、自分が知らないうちに大切な人を失ってしまうのだけは嫌だった。

 早く、早くと気持ちだけがく。

「またここへ戻ります。少しだけでいいんです。どうか、行かせてください」

「本当に、だめなのですよ……。あなたを引き留めたいのは俺の意思ですが、あなたをこの家の中に留め置くように望んでいるのは俺ではありませんから」

 そういえば、義浪も言っていた。美世と清霞を会わせないように念を押されたと。つまり、誰かが美世を閉じ込めておきたがっている……のだろうか。

 こんなことをしても、得があるとは思えないけれど。

「わたしはどうなっても構いません。旦那さまのところへ行けるなら」

「しかし、いや……この際、白状しましょう。俺はある人物と取引をしました」

「取引?」

 ええ、と答える彼は、迷っているようだった。

 美世は真っ直ぐに新と向き合い、彼の打ち明ける内容を聞いた。

「……取引の相手は、みかどです」

「な……っ」

 あまりの衝撃に絶句した。

(噓でしょう? 帝って……)

 国の頂点に立つ、貴き方。

 対等に取引をするなど恐れ多すぎる相手である。そもそも面識を持つこと自体がありえない存在だというのに、この従兄いとこは想像よりかなりすさまじい。

「どんな、取引ですか?」

「……俺は、君をこの家に招きたかった。けれども久堂家の守りは万全で、物理的にも立場的にも手が出せません。そこへ、陛下が声をかけてくださった」

 新によれば、帝にも何か思惑があるらしかった。

 利害が一致した二人は、各々、目的を達成するために手を組んだ。

「あの方は対異特務小隊にとって非常に厄介な事件が起こることも、天啓によって予知していました。俺はそれを聞いて利用し、久堂清霞に接触した」

「……では、わたしを行かせるなと言ったのは」

「陛下です。薄刃家に招き入れたら、を出すまで久堂清霞と会わせるなと」

「なぜ、そんなこと」

「わかりません。陛下が何をしようとしているのか、俺も知らないのです。ただあの方は、君を薄刃家の一員として迎え入れたいと言った俺に力を貸してくださっただけなので」

 新はまゆをひそめ、ですが、と続けた。

「陛下は厳しい方です。命に背けば、君は罰を受けるかもしれない」

「……薄刃家も、ですよね」

 帝に逆らうこと。それがたとえ公の命令でなかったとしても、許されない大罪だろう。どれほどの罰が下されるか。

「わたし……」

 自分だけが不利益を被るなら、迷う必要さえない。しかし薄刃家をも巻き込むのは──。

「美世。俺は夢見の異能者に、君に付き従う。そうしたいと望んでいます。君の巻き添えになるなら本望だ」

「でも」

 揺れていた新のひとみが、はっきりと定まった。

「君は行きたいのでしょう? 久堂清霞のもとに。──俺も、腹を決めました」

「え……」

「行ってください。その代わり、俺も一緒に行きます」

「!」

 美世は予想外の従兄の言葉に、目を見開いてしまう。

 ただ、彼が一緒に来るというのはつまり……。

「……いいんですか? あの、おきては平気ですか?」

 新は困ったように苦笑した。

「まったく平気ではないですね、おそらく。薄刃家の人間だとばれてしまう可能性もありますし。ですが、君が久堂清霞をあきらめられないように、俺も君をあきらめられません」

「そ、そうですか……」

「ええ。それに、君をひとりで放り出すわけにはいきませんから」

 美世は恥ずかしくなり、うつむいた。

 よく考えれば、ひとりではどこへどう行けばいいのかもわからない。飛び出していって、途方に暮れるところだった。

「……いいですよね、おじいさんも」

 新が振り向いた先には、義浪がいた。難しい表情をしていた彼は、ふう、と息を吐く。

「仕方あるまい。お前も美世も、わしの大事な孫。お前たちを応援するのも、祖父の役目だ」

「ありがとう」

「ありがとうございます……っ」

 美世は新と駆け出し、薄刃家をあとにした。




▼新作『宵を待つ月の物語 一』はこちら

https://kakuyomu.jp/works/16818093085173211186

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