二章 栗色の髪の彼

 だいたい一日おきの頻度でやってくるづきの指導は、なかなか厳しかった。

「そう、背中は丸めないで。意識して、身体を縮めないようにしてみて」

 彼女の助言に従い、ぴん、と背筋を伸ばす。胸を張るように両肩はやや後ろめに。それを崩さないよう、家の廊下を使って歩き方から練習するのだ。

 は常にうつむきがちで、視線がすぐに下がってしまう。すると自然に身体は丸まり、全体的に陰気に見えてしまうらしい。

「パーティーは交流の場よ。交流するのに、相手に暗い印象を持たれるのは良くないわ。まずはその、自信がなさそうに見える所作から変えないと」

「はい」

 葉月に頼んで姿見を用意してもらい、美世の自室に運び込んだ。

 空いた時間にはその姿見の前で自分の姿勢を見ながら、教えられたように振る舞えているか、常に確認する。

 また、あるときには。

「誰かと話しているとき、自分のわからない話題になってしまったら、とにかく笑顔であいづちよ。おしゃべりな殿方が相手なら特にね。誰でもいいから聞いてほしいだけの方が多いから。……笑うときは口角を上げて、じりは下げて。ちょっと微笑むくらいでいいわ」

「こうですか?」

 指示に従ってやってみると、葉月からすかさず「ぎこちなさすぎよ」とだめ出しが飛んでくる。

「実際に笑うときのことを思い出して。もっと自然に笑わないと、かえって相手の機嫌を損ねてしまうかもしれないわ」

「はい」

 さらに、あるときには。

 いつものちゃぶ台に、洋食用の皿やフォークやナイフ、スプーン、グラスなどが並べられた。

「今度のパーティーでは軽食が振る舞われる予定よ。最低限、道具の扱い方は覚えてね」

 さっそく葉月からひとつひとつ、指示や注意が飛ぶ。

 食器は使うときに音を立てないように。グラスは飲み物の重みでひっくり返さないように用心が必要。

「当日はお酒を飲まないようにね。慣れていないと、失敗のもとだから」

「はい」

 うなずきながら、言われたことは頭に刻み込んだ。

 他にも、美世は葉月からさまざまなことを教わった。

 外国語の簡単なあいさつや、絡まれたときの対処法、自己紹介の仕方や会話をするときの決まりごとなど。それぞれは細かいことでも、すべてを一気に覚えるのはかなり大変だ。

 忘れないように、教えてもらったことは帳面に記していった。それを合間合間に見直し、何度も頭の中で再現しておく。

 時間は限られている。しかし、いくらゆりが来てくれるからといって、家事を放棄するわけにもいかない。

 日中は家事をこなしながら自主学習、葉月が来れば再び厳しい指導。予習や復習は、基本、夜だ。

 必然的に、美世の睡眠時間は悪夢と合わせてますます削られていく。



「……美世ちゃん?」

「……あ、は、はい……?」

 葉月の声で、美世ははっと我に返った。

 八月初旬のこの日、美世と葉月、そしてゆり江の三人は街へ出かけていた。

 葉月が言うには気分転換も兼ねているらしいが、本来の目的は美世が家の外でも習ったことを使えるかという実習のようなものだ。

 自動車での移動中、教えられたことをはんすうしていたつもりが、ぼんやりしてしまっていた。

「大丈夫? 顔色が悪い気がするわ」

「はい、あ、いえ……平気です」

 もやがかかったような思考を回転させ、なんとか返事をする。

 夜の悪夢もひどくなる一方で、それは、美世が勉強に精を出せば出すほど悪化していくようだった。

『お前が今さら何を学ぼうが無駄だ』

『張りぼての淑女が認められるはずがない』

 夢の中で、皆が口々に言う。父や継母、──ときには、ゆり江や葉月、きよまでもが美世に背を向ける。どんなに否定しても、すがりついても、泣きわめいても。

 正直、目覚めたときに残る絶望感はこたえる、などという生易しいものではない。自分のすべてが無意味に感じられて、命を絶ったほうが楽だとさえ思う。

(でも、無駄なんかじゃない……きっと、わたしにだってできるもの……)

 否定されるたび、それを覆さなければと、よりいっそう勉強に打ち込んだ。あとでまた悪夢にさいなまれても、止まることはできない。

「美世ちゃん。私が言うのもおかしいかもしれないけれど、根を詰めるのは良くないわ。焦ってもどうにもならないもの。あなたはちゃんと成長しているわ。だから、頑張りすぎないで」

「……はい」

「ゆり江も心配です。美世さま、近頃はお食事も少ししかおとりになっていませんでしょう。身体に悪うございますよ」

「ごめんなさい」

 二人に次々と注意を受け、美世はうなだれた。

 自分の身体が悲鳴を上げていることも、これほど悪夢に悩まされるのが異常であることも、自覚はある。

 ただ同時に、自分が要領のいい人間でないことも重々承知していた。必死にならなければ、あと一か月半という短い期間で上辺すら取り繕えない。

 夏の帝都は、じりじりと舗装された路面に陽光が照りつけて、うだるような暑さだ。

 道沿いには氷菓子やラムネなど、涼をとれるような商品ののぼりがたくさん並ぶ。白や淡い色の洋服、着物は薄物をまとった人の姿が目立ち、日陰になっている建物の軒下でひと休みする人々も多い。

 自動車は市街地の外れで停車した。外に出ると、むわ、とした熱気がまとわりついてくる。自動車の中は窓を開けていれば風が気持ちよかったけれど、一度降りてしまえばそうはいかない。日傘や扇子が手放せなそうだ。

 三人が下車すると、運転手はあとで迎えに来る旨を告げて走り去る。

「さて、今日は短時間で終わらせて帰りましょうか」

「あの、葉月さん。わたしは平気ですから……」

 美世はせっかくの機会を無駄にしたくない、と暗に伝えたが、間髪れずに却下されてしまった。

「だーめ。そんな顔色で何言っているの。今日は帰ったらしっかり休むこと。いい?」

「……わかりました」

 強く念押しされ、渋々うなずく。

 三人は揃って街をぶらぶらと歩いた。

 ぶらぶら歩く、というとだらしない感じがしてしまうが、実情はまったく違う。美世は一歩一歩を踏み出すのにも神経を集中させ、れいな姿勢を保たなければならない。

 また、たまに道沿いの店に顔を出し、迷惑にならない程度に店員とちょっとした挨拶や質問などの会話を交わす。これは笑顔で他人と話す練習だ。

「うん、かなりいいと思うわ。上出来よ」

 しばらく歩き回ったあと、どこかの店に入って休憩することになった。その道中、葉月から下された評価に、美世はほっとあんの息を漏らす。

「ありがとうございます」

「でも、相当無理をしたのでしょう? さっきも言ったけれど、焦りは禁物よ。肝心のパーティーのときに体調を崩したら、元も子もないんだから」

 葉月の言うことはもっともで、美世も頭ではわかっている。

 暑さのせいだろうか。先ほどから、いつにもまして思考がまとまらず、こんとんとしている。上手うまく言葉が出てこない。

 つつ、とこめかみを汗が流れる。

「……なんだか、やってもやっても自信がなく、て……?」

 何か言わなければ。

 思っていることを口にしたときだった。ふ、と一瞬、目の前が暗くなったような気がした。

「美世ちゃん?」

 不思議そうな葉月の声。聞こえてはいるのに、ひどく遠い。

 どうしてだろう。足元がぐらぐら揺れている感じがして、平衡感覚がない。立っていられない。

(あ……)

 美世は倒れるのを覚悟してぎゅ、と目をつぶった。

「おっと」

 ところが、傾いだ身体は硬い何かにぶつかった。背後から聞こえた声は、若い男性のもの。

 さわやかな香水の香りに包まれ、倒れそうになった自分を誰かが支えてくれたのだと気づき、一気に血の気が引いた。

「も、申し訳ありません!」

 慌てて支えてくれた人物から離れ、顔も見ないまま深々と頭を下げる。

(ぼんやりして、知らない人にまで迷惑を……!)

 心臓がばくばくと鳴る。震えそうになる指先を必死に押さえつけて、美世はもう一度「申し訳ありません」と繰り返した。

「ああ、顔を上げてください」

 焦ったような声音だ。とりあえず、相手を怒らせてはいないことにほっとして、おそるおそる上体を起こした。

 目の前に立っていたのは、声の印象通りの若い男だった。

 背はさほど高くないがすらりとしたそうしん、やや癖のある栗色の髪は綺麗に整えられている。どこかの勤め人であろう、白いシャツにネクタイを締め、ベストを着用した彼は人の良さそうな面差しで、今はそこに困ったような笑みが浮かぶ。

「大丈夫ですよ。それより、怪我はなさそうでよかったです」

「……いえ、こちらの不注意ですから。本当に申し訳ありません」

「私からも」

 美世の隣に葉月が歩み出て、美しい所作で一礼する。

「彼女を助けてくださり、ありがとうございました。あなたが通りかかってくださらなければ、どうなっていたことか」

「いやいや、そんな大げさな。何もなかったのですし、気にしなくていいですから」

 葉月の丁寧な謝辞に動じた様子もなく、青年も負けず劣らずの礼儀正しさだ。

「危ないし、今度こそ怪我をしてはいけませんから、注意してください」

「はい。ありがとうございます」

「では、俺はもう行きますね」

 親切な青年は軽く会釈をすると、去っていった。

 感謝と謝罪の気持ちを込めてその後ろ姿を見送る美世の隣で、葉月がぽつりとつぶやく。

「何者かしら」

「え?」

「いえ、仕立てのいい服を着ていて、立ち居振る舞いが見慣れた感じだったものだから。知り合いではないけれど、どこかの御曹司かしらね? ……って、そんなことより! 美世ちゃん、平気? どこか痛いとか苦しいとかない?」

「い、今はなんとも……」

 いつもながら、優雅で上品な雰囲気のときと、無邪気で子どものようなときの差が激しい葉月である。

 だいぶ慣れたとはいえ、唐突かつ見事な切り替えに圧倒されて、美世はこくこくうなずいた。

「もう、驚いたわ。私のせいよね、美世ちゃんの体調も考えず、こんな暑い中を連れまわしたりしたから……」

「ち、違います! ただ、不注意でつまずいてしまっただけです」

「でも」

 あの状況で躓いた、というのはさすがに無理がある。

 けれど、倒れそうになるほど具合が悪いとは思いたくない。まだまだ、葉月との勉強は途中。ここで長く休んでは時間がもったいない。

 ぜんとした態度で言ったつもりだが、葉月は心配と不審の混ざった目をしている。

 しばし、沈黙が落ちた。

「美世さまも、葉月さまも」

 ざわざわと街のけんそうだけが流れていく中を、聞いたこともない、感情を失ったように冷静なゆり江の声が響いた。

「このゆり江、お二人にはお話ししたいことがございます。もちろん、聞いてくださいますね?」

 平常と何ら変わらない柔らかさを保った口調なのに、隠し切れない怒りが漏れ出ている。

 この瞬間、美世と葉月は揃って説教を覚悟した。



   ◇◇◇



「初めまして、どう少佐。つるあらたと申します」


 清霞のもとにおおかいを経由し、宮内省からひとりの男が派遣された。

 応接室で対面すると、まだ若い彼は毒気のない笑顔で名乗る。清霞はしつけにならない程度にそれを眺めつつ、思案した。

 鶴木新。年齢は二十四。

 鶴木といえば、中規模の貿易会社を経営する一族だ。維新後に設立された貿易会社『鶴木貿易』は、二十年ほど前に一度、業績不振で倒産の危機に直面するも持ち直し、現在では安定している。彼は御曹司で、学歴その他、不審な点はない。

 大海渡から流れてきた基本情報とは別に、清霞も事前に調べさせたものの、彼は宮内省の職員ではないらしく、どういったつながりでここへ派遣されたのかはわからずじまいだった。

 実際に顔を合わせてみると、印象は悪くない。

 優れた容姿に、人の良さそうな笑みは警戒心を抱かせない。癖のある栗色の髪と、質の良いスーツを着こなす姿も調和がとれており、ごく自然だ。

 それなのに、どこかいびつだ、と感じてしまうような、ちぐはぐな雰囲気もある。

「久堂清霞だ。このたいとくしようたいの隊長を任されている」

「存じております。あなたは社交界でも有名ですので。……女性を寄せつけず、まるで凍土のように冷たいとかなんとか」

 清霞はやや礼を失した新の弁口に、無言で目を細める。

 安い挑発か、何かを試しているのか。あるいは含みなどないのかもしれないが、邪気のない笑みからは読み取れなかった。

「世間話はいい。聞きたいのは、オクツキの件だけだ」

「ああ、そうでした。申し訳ありません」

 悪びれもせず謝罪した新は、「では」とさっそく本題を切り出した。

「──オクツキは、今から二週間ほど前の深夜、何者かによりその封印を解かれました。その後、宮内省では現在に至るまで、外に出てしまった霊の回収および犯人の特定を急いでおります。しかし霊の回収率は七割程度、犯人もまだわかっていません」

「……宮内省が急に我々に事情を話す気になったのはなぜだ? さんざん渋っていたはずだろう」

「宮内省に所属する術者はとても少ない。回収率が七割ということからもわかるように、手が足りません。ようやく省内のお偉方にもそれを理解いただけたのですよ」

 なんとも悠長な話だった。

 手が足りなくなることは、最初からわかっていたはずなのだ。なにせ、オクツキには成仏に至らなかった異能者の霊魂がほぼすべて集められ、眠っていた。全部が全部、禁域の外まで出ることはないにしろ、膨大な数になる。

 今に恨みの念を持った霊たちが大挙して人里を襲い、被害が出てもおかしくない。

「宮内省はいよいよ内密な処理をあきらめ、我々にも協力を要請すると?」

「はい。そう受け取ってもらって結構です」

 なるほど、とあいづちを打ち、清霞は気になっていた疑問を新にぶつけた。

「話はわかった。人命にかかわる事案だ、協力はさせてもらう。ただ、失礼かもしれないが、君はどういう経緯でここへ来た? 宮内省の職員というわけでもないはずだ」

 軍の関係者でももちろんなく、鶴木家が異能の家だとも、新本人が異能者だとも聞いていない。

 そこだけがずっと清霞の中で引っかかっていた。

 身元は一応わかっているが、どういう立場の人間なのかを確認できないと、信用もできない。

 ぶつけられた問いに、新は「かれると思いました」と苦笑する。

「まあ、よほどのほうでなければ当然気になるでしょうね。……自分はいわゆる、交渉人をしておりまして。いつもは実家の貿易会社での交渉に携わっていますが、たまに知り合いに頼まれ、こうして仕事を引き受けているのです。もっぱら、皆の言いにくいことを代弁する役ですよ」

「にしては、オクツキや異能者にも詳しそうだな」

「そこは交渉術ですよ。たとえ、はったりだろうと知ったかぶりだろうと、事情に精通していると思わせるのが肝要なのです。無知だと侮られたら終わりですので」

「なるほど」

 うなずく清霞を見て、新はにこりと笑う。

「相手を調べるのは基本中の基本です。久堂少佐のことも少しならわかりますよ。例えば最近、婚約されたとか。もっとも、これについては調べるまでもなく噂になっていますが」

「だろうな」

 パーティーなどにあまり参加しない清霞でも、さすがに想像がつく。

「まったくうらやましいことです。自分も早くいい相手を見つけて身を固めたいとは考えていても、これがなかなか。……結婚とは難しいものですね」

 ほんの一瞬、新の視線が鋭くなった。

 当たり障りない会話のはずだが、どこかとげを感じる口調。敵意、にも満たない……反抗心のようなものが向けられた気がしたが、次の瞬間には元の毒気のない表情に戻っていた。

 不可解さを覚えながらも、彼我の情報量の差で不利を悟り、清霞はあえて指摘せずに流す。

「ともかく、このたびの件、正式に依頼されたからには我々も対処に加わる。霊魂の回収方法について、宮内省から指定は?」

「回収には専用の術具を使います。ただ、どうも攻撃的なおんねんを持った霊も多くさまよっているとかで、状況に応じ、異能による戦闘、滅却も許すそうです。むしろ、宮内省やみかどのほうは後者を推奨したいようですね。厄介なものを残しておいても、今回のように大事につながるだけ、とのことで。……詳細は、こちらの書面をご確認ください。命令書もこちらに。大海渡少将を通して軍からの正式な命令になっています」

 新が傍らに置いていたかばんから、数通の書類を取り出す。

 相手が異能者の霊であるからには、当然、清霞たちの先祖に当たる者も含まれている。とはいえ、いつまでも現世にとどまる死者など、厄介なだけだ。帝がこれを滅せよと命じても、不思議はない。

 あくまで重んじられるべきは、死者ではなく生きている人間である。

「了解した」

 清霞はテーブルに並べられたそれにざっと目を通し、丁寧に受け取った。

「それと、これから自分が連絡係として使われる予定なので、ちょくちょく顔を出しますが、よろしくお願いします」

「ああ、わかった。こちらこそ、よろしく頼む」

 その後、二、三のやりとりをし、新は帰路についた。

 終始、何の問題もなく和やかな空気だったが、帰り際に彼の放った、

「健闘を祈ります、久堂少佐。──ではまた」

 という言葉だけは、やはり少しだけ険を含んでいた。


 応接室から執務室に戻れば、机上にぎっしりと積まれた書類が清霞を待ち受けていた。

(さすがに、きついな)

 通常の業務に加え、オクツキの件で、毎晩交代で隊員たちには見回りや聞き込みをさせている。

 皆に任せきりというわけにもいかず、清霞もできうる限り自分で動いており、その負担は大きい。

 それに。

うす家のこともある)

 毎晩毎晩、悪夢にうなされる美世を見るのは、つらい。清霞も精神的に参ってくる。

 なんとかしてやりたい──そう思っても、清霞にはさっぱり対処法がわからない。さらに彼女自身も何も言わないので、お手上げ状態だった。

 ただ、日に日に弱っていく美世を目にするたび、今にも消えてしまうのではないかと焦りだけが募る。

 清霞は机上に積んでいた、ある資料を手にとった。情報屋に個人的に依頼していた、薄刃家関連の調査の途中経過だ。

 今の清霞の目的は薄刃家との接触。知りたいのは薄刃家の居所。

 聞き込みや公式の記録等では確認できないため、人間関係から地道に追うしかない。結果、情報屋には美世の母、薄刃の経歴を探ってもらうことになった。

『ちょいと時間をいただきますよ』

 依頼したとき、情報屋は渋い顔で言った。

 薄刃、という名字では隠されている情報が多すぎて、どうにもならないのだ。仕方がないので『澄美』という名前の女性を、まずは女学校の名簿を頼りに調べてもらった。

 該当者は二十名と少し。

 手順としては、薄刃澄美が女学校に通っていたであろう時期に期間を区切り、とりあえずは帝都内の学校に絞って『澄美』という女性の身元をひと通り洗ったようだ。資料には、その一覧が掲載されていた。

 残念ながら、結果は芳しくない。

 身体的な特徴はあまりあてにならなかった。黒髪で、整ったようぼうというだけでは当てはまる人物が多すぎる。そもそも薄刃澄美が帝都に住んでいた確証もなく、女学校に通っていたかもわからないというありさまでは、特定は不可能だ。

 そこでふと、清霞の脳裏によぎったのは、先ほど顔を合わせたばかりの青年だった。

(『鶴木』──? 待て、確か……)

 清霞はあることに気づき、一覧をめくっていく。目的の頁を見つけて、目を凝らした。

(やはりか……)

 これは偶然か、あるいは仕組まれたものか。

 どちらかは不明だが、妙なつながりを確かめてみる価値はありそうだ。



   ◇◇◇



 あの、街中で美世が倒れそうになった日から、また数日が経った。

 相変わらず外はひどい暑さで、悪夢も美世の睡眠を奪っていく一方だ。

(あれから、勉強の時間も少し減らされてしまったし……)

 あの日帰ってから、ゆり江に身体を大事にするよう、美世も葉月もこっぴどく叱られた。結果、葉月の指導は以前よりやや緩くなった。

 けれども悪夢で眠れない夜が続き、蓄積していく疲労によって美世の体調の下り坂は止まらない。ここのところは意識がもうろうとしたり、ぼんやりすることも増えてしまった。

(だめだわ。これからお昼ご飯を作らなくちゃいけないんだから)

 美世は小さくかぶりを振ると、手元に集中した。

 昼食は、美世とゆり江、葉月の女ばかり三人で食卓を囲む。

 暑さで皆、食欲も落ちがちなため、作るのは簡単な茶漬けだ。

 朝食の残りの冷や飯を人数分のちやわんに盛り、その上からほぐした焼き鮭を載せて、ごまをふる。しようと塩で薄く味をつけた熱いだし汁をかけ、ちぎった海苔のりをちらしたら出来上がり。あとはゆり江手製の梅干しをつけて、食卓に並べた。

「わあ~! 美味おいしそう!」

「簡単で、ごめんなさい」

「まったく構わないわ。ありがとう、美世ちゃん」

 明らかに手抜き料理だが、葉月はうれしそうにきらきらと目を輝かせる。

「美世さまは本当にお料理がお上手なのですよ」

「そんなことは……」

 ゆり江の過剰なほめ言葉にいたたまれなくなりながら、美世は首を横に振る。しかし葉月は「そんなことあるわよ」とまじまじと茶碗の中身を眺めている。

「すごいわ。恥ずかしながら、私はあまり料理ができないの」

 いただきます、と手を合わせて、三人は各々、さじを手にとった。

 ご飯をよくだし汁に浸し、ほぐし鮭と一緒にすくって口に運べば、ほどよい温かさと塩味が身体に染みわたる。そこへ梅干しを加えると酸味でまた味が変わって、あまり食欲の湧かない夏でも飽きずにさらさら食べられる。

「ん~。やっぱり思った通りの美味だわ」

「お口に合ってよかったです」

「美世さまが料理上手で、ゆり江も鼻が高うございます」

「お、おおです……」

 ご飯にだし汁をかけただけの料理には、あまりにすぎた称賛だ。

 逆に何か裏があるのでは、と疑いたくなってしまう。葉月やゆり江が、そんな意地の悪いことを考えるとはまったく考えられないけれど。

 葉月が、茶漬けをゆっくり味わいながらぼやく。

「私、料理は本当にだめなの。美世ちゃんにとってはこのお茶漬けも簡単かもしれないけれど、私には到底真似できそうにないわ」

「そうなのですか?」

「ええ。女学校でも、料理の成績がからっきしなせいで、大きく他の科目の足を引っ張っていたくらいで」

 そういえば、そんなこともおありでしたね、とゆり江も苦笑いでうなずいている。

「焼けば焦がすし、煮たりでたりすればぐずぐずになるし、混ぜるだけでもどろどろになるし。包丁を持っただけで、知らないうちに指が切れているのよ」

 信じられる? とため息を吐く葉月。

 あまりの失敗談に、美世は返す言葉もない。

 葉月が言うには、女学校の授業では家庭科目がかなりの割合を占めるが、中でも重視されるのは裁縫なのだという。だから、裁縫が下手な生徒は皆無ではないけれど、あまりいない。

 一方で料理などは生徒によってかなり腕前に差があるのだとか。

 女学校の生徒は総じて金銭的余裕のある家の娘が多いが、それでも使用人を雇うほどの家はあまりない。使用人がいる家の娘は、せっかく習った家事の技術も使う機会がないので、なかなか身につかない。しかし使用人がいない家の娘なら、日常的に家事をするので、自然と身につくというわけだ。

 そして久堂家の娘である葉月は、完全に前者だったらしい。

「まあ、例外ももちろんあるけれどね。とっても高貴なおうちの、とあるお姫さまの趣味が料理だって話も聞いたことがあるわ」

「へえ……すごいんですね」

「ええ。でも、家事ができるに越したことはないわよ。私も、もっと真面目に練習しておけばよかったって、何度も後悔したもの」

「後悔?」

「……聞きたい?」

 首を傾げる美世に、葉月はいたずらっぽく、にやり、と笑った。

 きっと、葉月が失敗してしまったという結婚の話だろう。離婚するなんてよほどのことだし、する前もしてからも大変な苦労があったに違いない。

 興味本位で聞いてはいけないことかもしれない。でも、せっかく先輩が目の前にいるのだから、話を聞いてみたい。

「聞いても、いいですか?」

「もちろん。構わないわ」

 こうして、思いがけず葉月のちょっとした過去の体験談が語られることになった。



「私が結婚したのは、十七のときだったわ」

 久堂葉月にとって、多くの良家の娘がそうであるように、結婚は義務であった。して当たり前、親の選んだ相手が誰であろうと文句もない。

 昔からおしゃべりだとか、行動的だとか評されてきた葉月だったが、学業の成績はすこぶる良く、習い事も何でも上手うまくできて、器量もけちのつけどころがない。唯一、家事はあまり得意でなくて、特に料理は壊滅的な腕前だったが、さほど危機感はなかったらしい。

 だからまさか、失敗するとは誰も、夢にも思わなかったのだ。

「ゆり江も、想像もしておりませんでしたよ。葉月お嬢さまは使用人皆にとっても、自慢のお嬢さまでしたから」

 昔を思い出すように頰に手を当てて言うゆり江に、葉月がくすりと笑う。

「まあ、ゆり江ったら。本当?」

「本当ですとも」

 妙に自信満々なゆり江がおかしくて、ついつい美世も顔が緩んだ。

「そうね、でも、あの結婚は政略的な意味が強かったし、相手の家も最初は私を大歓迎してくれたのよ」

 美世はこれまであまり人と関わってこなかったため、どうしてそれで上手くいかなくなってしまうのかわからない。

 葉月の相手は、十以上年の離れた、軍に勤める男性だったという。

 異能者の家と軍関係者との結びつきを、より強めるための政略結婚。拒否はできなかったが、彼女はそれでもよかったと語る。

「夫はね、美男子ではなかったけれど、とっても優しくて誠実ないい人だったの。私は幸運だと思ったわ。ひどい相手に当たってしまった女の子の話も、たくさん聞いたことがあったから」

 幸せだった、とつぶやく葉月の表情にどこか哀愁が漂う。

「相手の方との仲は良かったのですか?」

 思わず美世が尋ねると、「そりゃあもう」という答えが返ってきた。

「私、あの人のこと好きだったもの。あの人も、私を嫌ってはいなかったんじゃないかしら。けんもしたことがなかったの」

「それは、素敵ですね」

「ありがとう」

 相手の家では、葉月と彼女の夫、そしてその家族で暮らした。はじめは順調かと思われた結婚生活だが、徐々にほころびができてしまったようだ。

「夫の家族はね、私の考え方とか、家事が得意じゃないところがだんだん目につくようになったみたい。細かいことを、かなりいろいろと言われてしまったわ」

「そんな……」

「料理ができないなんて、とか、やかましいってよく言われてね。私、そんなふうになるなんて思ってもみなかったから、これ以上ないくらいへこんで。もうだめって思ったの」

 嫁としゆうとめの確執はよくあることらしいが、葉月もそうだった。

 葉月の夫の家族は、おそらく葉月に大きな期待を寄せていたのだろう。けれど、さすがの彼女にも欠点はある。完全無欠の嫁を期待していた分だけ、欠点がより大きく見えてしまった。

 葉月は結婚して二年後に息子を産んだ。夫の家族は跡取りの誕生に沸き、熱が冷めないうちは彼女にも平穏が訪れたが、それも落ち着いてくればまた元通り。慣れない子育ての重圧と、夫の両親や親類からの当たりの厳しさに耐えられなくなってしまった。

「毎晩、わけもなく涙が出てきたわ。夫は慰めてくれたけれど、結局、状況は何も変わらないまま。それである日、夫が言ったのよ」

 淡々と語っていた葉月はいったん言葉を切ると、少し笑う。

「何て言ったと思う? 『離婚する』よ。しよう、ではなくて、するって。それを聞いたら私、どうして勝手に決めるのって、腹が立って。売り言葉に買い言葉で、最後の最後にもう大喧嘩。勢いあまって、気づいたら本当に離婚が成立していて驚いたわ」

「ええ……」

 こんな若々しい葉月が一児の母だというのにも驚きだが、あっという間の離婚劇も衝撃だ。

 しかしこれまでの彼女の言動を考えると、妙に説得力がある。

「でも、実家に戻って頭が冷えたら、ものすごく後悔したの。自分の夫や子どもを放り出して、全部言われるままで。もっと頑張ればよかった。料理だって、練習すればできるようになったかもしれないのに」

「…………」

「だからね、私は美世ちゃんのことを尊敬しているわ。結婚する前にちゃんと自分の欠点を見逃さないで、克服しようとしている。すごいことよ」

 美世は何と答えていいかわからず、うつむいた。

 話を聞いていたら、葉月となど比べられないほど欠点だらけの自分に、ますます自信がなくなってきたのだ。

「美世ちゃん」

「……はい」

 呼ばれて顔を上げる。するとそこには、優しくて温かい微笑みがあった。

「私は、そのとき自分にできる限りのことを精一杯やること、それから、自分の気持ちを大事にすることが大切だと思うの。美世ちゃんはきっといつでも一生懸命だから、前者は言うまでもないでしょう。だから、後者を少し考えてみて。あなたはこれからどうしたい? どんなふうに生きたい?」

 前向きな彼女の表情も、言葉のひとつひとつも、すべてがまぶしい。

 こんなふうになれたら。もっと清霞の隣に相応ふさわしい女性に近づけるのかもしれない。けれど今の美世は至らないことだらけで、迷う。

 だって、葉月の話を聞くうちに気づいてしまったのだ。

(わたし……)

 欠点を埋めることは確かに重要だ。間違いなく。でもそうではなくて、美世には欠けているものがあった。

(わたしには、そもそも家族がわからない)

 美世に家族らしい家族がいたことはない。もしこの先、結婚して、清霞の両親やしんせきに会うことになったら? 子どもが生まれたら?

 血のつながった相手とすら上手くいかなかった自分に、何ができるのか。

 葉月は前に、家族になるのだから頼れと言った。けれど。

(どうやって?)

 家族がどう在るべきかなんて、知らない。

 理想の妻、良妻賢母という言葉にぴんとこなくて当たり前だ。美世の中の『家族』には実体がない。外側だけ、想像だけの空虚な単語にすぎないのだから。

 悪夢を見ているわけでもないのに、目の前が真っ黒に塗りつぶされた気がした。

「美世ちゃん?」

 不思議そうにこちらをうかがう葉月へ、美世はなんとか笑みを返す。

「わたし……は、何も、考えたことがありませんでした。でも、ひとつだけは決まっています」

「それは?」

「ここにいたいのです。だんさまのそばに」

 黒い心に負けないように。意識して、はっきりと言い切る。

 これだけは絶対に揺らがないはずだ。そのために、なんでもしたいと願ってきた。今はまだ何もない自分でも、あきらめたくなくて。

「いいわね。あなたにこんなに想われるあの子は、本当に幸せ者だわ」

 葉月は穏やかな大人の女性の顔で微笑む。

「さて、お勉強を再開しましょ。つい話し込んでしまったわ」

「はい」

 美世は勉強の準備をするべく、腰を上げた。



 夏の夜は涼しく、過ごしやすい。

 で一日の汗を流した美世は、部屋に戻る途中、縁側に人影を見つけた。さわやかな浴衣ゆかた姿で、珍しく長い髪を結わずに垂らしたままの清霞だ。

(やっぱり、お疲れなのかしら)

 どこか上の空で遠くを見つめる彼は、元気がない。

 以前から夜勤はあったが、近頃は夜に出かけることが増え、もともと少なかった口数がさらに減った。ため息も多く、疲れ切った表情の清霞を見ていると、なんとなく悪夢について相談する気も起きないまま、ずるずると先延ばしにしてしまう。

(しっかりしなきゃ)

 明らかに疲れている人につらい、苦しいと伝えることなど、できはしない。

 美世は思い立って、台所で手早く準備を済ませると、少しだけ欠けた月を眺める清霞のもとにそろりと近寄った。

「旦那さま、お隣よろしいですか?」

「ああ」

 許可をもらえたことになんとなくあんして、持っていた盆を置き、自分も腰を下ろす。

 そこで、ようやく清霞が美世のほうを振り返った。

「……それは?」

「ええと、お茶とお漬物、です……?」

 清霞が盆を見てくので、美世は首を傾げながら答える。

 疲れている彼に何かしたくて用意したものの、余計だったか──と後悔しかけたけれど、そうではなかったらしい。

「……もらう」

「あ、はい」

 月の明かりを頼りにしつつ、二つ並んだのみに、きゆうから熱い茶を注ぐ。麦の香ばしいにおいが辺りに漂った。

 急須の中身を、いつもの緑茶から変えてみた。

「麦茶か」

「そうなんです。せっかくですから、夏らしいものをと。このお漬物のきゅうりとなすも、とてもいいもので……あの、食べてみてくださいませんか」

 どうやら今年は豊作だったらしく、どっさりと野菜が手に入った。その一部を、日持ちするように、勉強の合間にゆり江とせっせと漬物にしたのだ。

 そろそろ漬かった頃なので、明日の朝食から少しずつ出そうと思っていたところである。

 清霞がきゅうりの漬物をひと切れ口に運ぶと、むたびにこりこりと音がした。

美味うまいな」

「……よかったです」

 しばらく無言のまま、ゆったりした時間が流れた。

 先に沈黙を破ったのは、清霞だった。ずいぶんと迷っている様子で、言いにくそうにしている。

「美世、……その」

「はい」

「忙しくしていてすまない。仕事が立て込んでいて」

「いえ……」

 清霞は隊長という立派な立場で働いている。責任のある役目だ、きっとその分忙しい。美世がこの家に来てからあまりなかったことなので、つい忘れていたけれど。

 心細くない、と言えば噓になる。悪夢にさいなまれる日々はとてもつらく、真っ暗な中を手探りで進むのは苦しい。ひとりは、寂しい。

 ひどく冷たい指先を握り込む。ずきずきと、鈍い頭痛がしていた。

「お仕事、頑張ってください。わたしはひとりでも大丈夫ですから」

「──本当か?」

「え?」

「困っていることはないのか? 相談があるなら、聞く」

 清霞の細めたまなざしに、かれた気がした。

(ここで、相談してしまう?……いいえ)

 一瞬、傾きかけた気持ちを、なんとか立て直す。

 言ったら、きっと清霞はなんとかしてくれようとするだろう。けれど、ただでさえ大変な思いをしている人に、そんなことをさせるべきではない。

 ただ、美世が我慢していればいい話だ。もう少し、清霞が忙しくなくなるときまで。

「平気、です。何もありません」

「……そうか」

 ふい、と清霞は視線をそらして、湯吞を傾けた。

 かい見えた彼のひとみに失望の色が浮かんでいた気がして、どくり、と心臓が嫌な音を立てる。

「あ、あの、旦那さま。わたし、今日、葉月さんにお話を聞いたんです」

 美世は怖くなって、早口で話題を変えた。

 ふ、と息を吐いた清霞は、そのまま話題に乗ってくる。

「姉の? もしかして、あの離婚の話か」

「はい。それで、あの、お訊きしたいことがあって。旦那さまにとって、葉月さんはどんな人ですか?」

 これはその場しのぎではなく、真に聞いてみたかったことだった。

 血の繫がった姉弟。美世はついに異母妹の香耶とわかりあえなかった。でも、清霞はどうなのだろう。あの話を聞いたときから、ずっと気になっていた。

「どんな、か。そういえば、あまり話していなかったな」

 清霞は残り少なくなった麦茶の入った湯吞を盆に戻す。

 急須から麦茶を足すと、またふわりと麦の香りが広がった。

「私は姉とは、昔から仲は悪くなかった。まあ、あの通りの少々やかましい人だから、幼い頃は世話を焼かれたり、からかわれたりしてたまにうつとうしくなるときもあったが」

「それは、少し想像がつきます」

 小さな清霞と葉月がじゃれあう姿が目に浮かぶようだ。きっと、とても可愛らしかったに違いない。

「好きとか嫌いとか、そういう感情では成り立っていないのだろうな。同じ環境で生まれ育ちお互いに考えていることがわかるから、遠慮も気遣いもあまりいらない。性格はさほど合わないが、あれはあれで良い人間だとは思っている。……これで、答えになっているか?」

「……はい」

 うらやましい。心から、そう思う。

 誰かをそんなふうに言える清霞が、単純に、うらやましかった。

(わたしは、すごく頭が悪いわ……)

 こんな話を聞いたら、もっと寂しい気持ちになるに決まっているのに。

 急に湧き上がった強い孤独感の、やり場がない。自分はこのまま、両親や兄弟や──心のりどころになる家族というものを知らずに、淡い関係にすがって一生過ごすのだろうか。

 いや、世の中には家族を持たない者もたくさんいる。美世だけが例外なわけではない。

(わかっているけれど。この家で、居場所があることの温かさを知ってしまった)

 以前、実家のさいもり家で継母や香耶とたいしたときは、婚約者として、ゆくゆくは妻として、ずっと清霞の隣にいられればいいと思った。

 それが今はどうだ。欲はとどまるところを知らない。居場所だけでなく、心まで欲しくなってしまった。縁談や婚約などとは関係なく、本当の家族になれたらと。

「美世。もう少しこちらに寄れ」

「? はい」

 言われた通り、二人の間に置いてあった盆をけ、近くに寄る。

 すると清霞は、浴衣のそでからのぞく美世の手首をつかんだ。

「だ、だんさま?」

「……寂しいなら寂しいと、つらいならつらいと言ってくれ」

「!」

「言ってくれなければ、わからない」

 言葉が、見つからない。

 打ち明けたい。美世だって、そう思っている。でも、今の状況がそれを許さない。

 美世は清霞に余計な負担をかけたくないし、無駄に悩ませたいわけでも、苦しめたいわけでもない。面倒なやつだと、嫌われるのも嫌だった。

「わ、わたしは、寂しいなんて……」

「そうか? 私は寂しいが」

「!?」

 まさか。聞き間違いだろうか。

(旦那さまが寂しい? わたしと会えなくて? ありえないわ)

 全力で否定しても、頭のどこかで聞き間違いではないと声がする。

 急激に恥ずかしさが膨れ上がり、真っ直ぐ、真剣な面持ちでこちらを見る婚約者とまともに目を合わせられない。

「お前は寂しくないのか?」

「さ……」

「さ?」

 ああ、もう無理だ。

 畳みかける清霞に、美世は根負けした。

「寂しいです……」

 とうとう、本音のほんのひと欠片かけらをこぼしてしまった。そして、らしていた視線をほんの少しだけ上に戻して──もう、言い逃れできないほど頰が熱くなった。

 想像以上に近くにあった清霞の表情が美しくほころんでいたからだ。

 ばくばくと、鼓動が高鳴った。

 青白い月光に照らされた彼の微笑は、この世にこれ以上美しいものはないのではないかと思うほどれいで。

「初めから、そう言っておけ」

「……ごめんなさい」

 つい謝ると、清霞はのどを鳴らして笑った。

「まだまだ、すぐに謝るのは治らないな。……しかし、いつからだ?」

「え?」

「謝るとき『申し訳ありません』と言っていたのが、『ごめんなさい』になっている」

「あ……」

 はっと、口元に手を当てる。

 まったくの無意識だった。いつの間に変わっていたのだろう。『ごめんなさい』だなんて、ずっと口にしていなかったはずだけれど。

「ど、どうしましょう」

「いや、いいんじゃないか。そのままで」

「子どもっぽくありませんか? 少し変な感じがします」

「言葉が砕けたのは、この家に慣れたからだろう。家の中なら問題ない」

 もっと力を抜いていいくらいだ。

 言いながら、清霞は美世の肩を引き寄せた。

「私に寄りかかればいい、美世。もっと、本心を言え。わがままになれ。そうしたら全部、受け止めてやれる」

 美世は何も答えられなかった。

 ただ、うずくような頭痛だけがその存在を主張していた。



   ◇◇◇



 ごめんください、と玄関から声がしたのは、葉月との勉強がひと段落つき、そろそろ休憩しようかと話していたときのことだった。

「あら、どなたかしらね?」

「わたし、出てきます」

「美世さま、ここはゆり江が」

「大丈夫です。行きますね」

 居間を出て行こうとするゆり江を制止し、美世は玄関に急ぐ。

「お待たせいたしました──……」

 戸を開け、くらりとするような熱気に顔をしかめつつ視線を上げて、目をみはった。

 立っていたのは、たいそう見目のいい青年だった。癖のある栗色の髪に、さわやかなシャツとベストで身を包んだ、そうしんの美丈夫。

 その人懐っこそうな笑みを、美世はすでに知っていた。

「あなたは……」

「あ、あれ? ここは久堂清霞氏のご自宅で間違いないですよね?」

「は、はい」

 驚いて、ろくな応対ができない。

 こんな偶然があるだろうか。街で、美世が倒れそうになったところを助けてくれた恩人と、こうして再会するなんて。

 青年も困惑したようにまゆをハの字にし、小さく首を傾げた。

「久堂少佐はご在宅ですか?」

「いえ、今日はもう出勤していますが……」

「えっ! おかしいですね、今日は非番でここにいると思ったんですが」

 後頭部に手をやって、うーんとうなる青年。

 そういえば、と美世は口を開いた。

「もともとは非番だったのが、忙しいらしく、急に出勤することにしたのだと聞きました」

「ああ、そうでしたか。すみません。確認不足でした」

 どうやら、青年は清霞の仕事関係で訪ねてきたらしい。最近の清霞は休みなく働いているので、行き違いになってしまったのだろう。

「では、少佐は屯所ですね。……ふう」

 この暑さの中、がっくりと肩を落とす青年が哀れに思えて、美世は声をかけた。

「もしよかったら、中で少し休んでいかれませんか?」


 居間に上がり、葉月とゆり江に物珍しそうな目を向けられながら、青年は渡した水を一気に飲み干した。

「ありがとうございます。助かりました」

「い、いえ。こちらこそ、あのときは助けていただきましたから」

 水の一杯くらいは、礼として安いものだ。

 美世が言うと、青年ははっとして居住まいを正した。

「俺、鶴木新といいます。よろしく」

「わたしは、斎森美世です」

 青年──新から差し出された手を、おそるおそる握る。握り返された手のひらは、温かくて優しかった。

 けれど、かすかに「……細い」という声が聞こえたのは、気のせいだろうか。

「美世さんですか。あなたが例の久堂少佐の婚約者だったんですね」

「例の……?」

「ああ、社交界では一時期、けっこうな噂になっていたので。そういう女性がいるというのは知っていたんです」

 そうなんですか、と美世は少しうつむいた。

 自分の知らないところで自分のことを噂されているのは、なんだかおかしな感じがして、気恥ずかしい。

「でも」

「?」

「……久堂少佐にはがっかりしました」

 急に低い声でつぶやく新。耳を疑って、美世はつい勢いよく顔を上げる。

「ど、どうしてですか」

「そうですよ。そちらこそ、失礼じゃありません?」

 さすがに葉月もけんにしわを寄せて、口を挟んだ。

 しかし新はまったく動じず、鋭く品定めするように目を細める。

「美世さん、あなたは自分が今どんな顔色をしているか、わかっていますか?」

「それは」

 そうだ、彼は知っている。美世が倒れそうになったときの様子を。あれからさらに、体調は悪くなる一方。顔色だって、彼が言うように良くはないだろう。

 これでは一緒に暮らしている婚約者の清霞に不信感を抱かれても、仕方ない。

「……旦那さまは悪くありません。わたしがいけないんです」

「美世ちゃん……」

 葉月が心配そうに名を呼んだ。

 それにあきれたように、ふん、と新は鼻を鳴らした。

「出過ぎたことを言いました。ですが、俺は自分が間違ったことを言ったとは思っていません」

 揃いも揃って、と彼はちらりと、部屋の隅に積まれた教本と帳面を見て、言葉を続ける。

「こんなになるまで頑張らせるなんて、どうかしていますよ」

「…………」

「くだらない。美世さんには美世さんの、できることだってあるでしょう。そんなに急いで、できないことをできるようにする必要性を感じません」

 まるで、何もかも知っているかのような言い草だった。

 美世の中で、ぷつり、と何か切れる音がした。

「やめてください!」

「何をですか?」

「これは、わたしが望んでやっていることで、旦那さまや葉月さんは協力してくださっているだけです。悪く言わないでください」

 そうだ。これは、美世のわがままでしかない。皆は付き合ってくれているだけで、美世の具合が悪くなろうがなんだろうが、それは美世自身の責任だ。

 それを、あたかも具合の悪い美世に無理やり教育しているかのように言われるのは、許せなかった。

 大声を出したら、また頭に痛みが走る。

 けれども、幸いそこで新は深く息を吐き、引き下がった。

「すみません。空気を悪くしてしまいましたね。厚意で休ませていただいた身でありながら、申し訳ないことをしました。……もう行きます」

 す、と立ち上がった新は、そのまますたすたと玄関へ歩いていく。

「もう、なんなのかしら。あの男は。言いたい放題言って。……って、美世ちゃん?」

 葉月の文句を聞きながら、美世も立ち上がった。

「お見送り、してきます」

「え!? いいわよ、あんな男。見送らなくても」

「そういうわけにはいきません」

 力なくふらつく足で、新を追いかける。美世が玄関に出たときには、彼はまだ靴を履き終えたばかりだった。

「美世さん?」

「申し訳ありません。さっきは、つい、かっとなってしまいました」

「いえ、失礼な態度だったのは俺のほうなので。気にしないでください」

 新は美世と正面から向き合うと、そのままぬっと美世の耳元に顔を近づけた。

「──でも、俺はあなたに、あなただけの役割をあげられます。興味があれば、いつでも連絡してください」

 美世があつにとられ、反応できないでいるうちに新はそれだけささやき、あっという間に出て行ってしまった。

(わたしだけの、役割……?)

 不可解な言葉に気をとられていた美世は、気づかなかった。

 自分のそでぐちに忍ばされた、もうひとつの置きみやげの存在に。


 その後、葉月やゆり江も心なしか口数が少なくなり、美世もなかなか勉強に身が入らず、早めにお開きとなった。

 夕食の用意を手伝うというゆり江の申し出を丁重に断って彼女を家に帰し、美世はひとりで台所に立っていた。

(役割……わたしだけの。やっぱり、よくわからないわ)

 今の美世の頭の中は、鈍痛と新の言葉で占められていた。

 新は、言っていた。美世には美世のできることがあると。

 てっきり、それは無理に淑女たる振る舞いを身につけるのではなく、美世ができる家事などをちゃんとやったほうがいい、という意味だと思ったが、よく考えたら彼がそんなことを知っているのはおかしい。

 そもそも、突然やってきて、まだ二度会っただけの美世にあのような助言や誘いを口にするのも不自然だ。──あんな、さも自分のほうが清霞より、美世と上手うまくやっていけるとでもいうような。

「……──よ」

 前に会っていた? いや、そんなはずはない。美世の交友関係などたかが知れているので、会ったことがあれば覚えている。

「……美世」

 けれど、新になんと言われようと、美世は絶対に勉強をやめるわけにはいかない。皆にできることを、美世だけができないままでいいわけがない。

 大切な人たちの重荷にはなりたくない。お前がいてよかったと、そう言われる人間でありたい。その願いが、間違っているとは思いたくなかった。

「美世」

「っ!」

 背後から呼ばれ、美世は危うく飛び上がりかける。

 振り向けば、台所の戸口に、険しい表情の婚約者が寄りかかって立っていた。




▼新作『宵を待つ月の物語 一』はこちら

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